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その1-4
「……また、すごい顔してんなあ……」
「……わかってる」
ああ、ああ、わざわざ言われなくても十分自覚している。朝から友人にドン引きされ、挨拶してくれる女の子にもからかわれるレベルで、きょうの自分はひどい顔をしている。寝起きの比ではない。それもこれも、小戸森さんのせいだ、ちくしょう。
柳瀬が呆れた顔で眠気覚ましのタブレットをくれる。ありがたく頂戴し、口の中に放り込めば、舌の上にミントの辛さが沁みた。
寝不足だった。布団に入ってもまったく眠れなくて、隣ですやすやと寝息を立てる紫乃を見ていたら余計に目が冴えた。眠り方を忘れて、ずっとカーテンの裾間の青い月明かりを眺める羽目になり、ようやく意識を手放せたのは、おそらく午前四時を回ったくらいだったと思う。お陰で、昼になっても頭がぼんやりしてこのざまだ。
小戸森が変なことを言うから。自分の知らない紫乃がいるから。
「……訊いてすらないことわかってて訊くけど」
「うん?」
「家、行っていいって?」
ああー、と声だか息だかわからないものが零れる。その返事で察した柳瀬が、「しっかりしろー」と巧の肩を揺する。
「ごめん、まあ、その、いろいろあって」
「じゃあ、いろいろあっても忘れねーように、手に書いておいてやる。おれってやさしい」
「え、あ、ちょっと、くすぐったい……!」
右手の甲にペン先が押しつけられて、皮膚につっかかって動く。手を引っ込めようとすれば、しっかり手首を押さえつけられ、みるみる文字ができあがっていく。
「できた」
「恥ずかしい……」
ぜんぶひらがなで、「みやじさんにいえいっていいかきく」と書かれてしまった。大学生にもなって、かなりでかでかと。
しかも、おい、よく見たら、ちょっと待て、それ……。
「ヤナ、おまっ、油性で書いたな!」
「忘れないだろ?」
「ばっかじゃないの……!」
しばらく消えないぞ。ボールペンの油性なら、まだちょっとは許してあげられたけれど、それいわゆる「お名前ペン」だろ、マジックだろう。
得意そうにペンを指で回すばかにデコピンを食らわせて、これはさすがにごまかせそうにないなあと、額を掻いた。
手の前衛的な模様に溜め息を吐きつつ、弁当を広げる。二限の講義を終えて、ふだんなら五人前後のメンバーで昼休憩を過ごすところを、きょうはみんな講義がばらばらで、三限が同じ柳瀬とだけラウンジで合流した。二年生になって、それぞれが選んだコースで必要な講義を履修する。柳瀬とは同じコースだ。
「……で?」
「うん?」
「いろいろあって、って話、聞かせてよ」
「ああ……、うん」
柳瀬はいつも、巧が悩んでいるときに話を聞いてくれる。言いにくいことも、気づいて尋ねて、口に出しやすくしてくれる。姉二人の愚痴をえんえん聞かされていたら慣れた、なんて本人は話していたが、その気遣いに、何度も助けられてきたと思う。
促されて、きのう帰ってからのことを思い返す。これまでも話を聞いてもらっているから、柳瀬は小戸森のことも名前だけは知っている。
「……それで、『そういう相手を求めない』っていう意味が気になって眠れなくて、イケメン台無しってことか」
「……うん」
「うんって、ツッコミも不在かい」
ぼんやりとした相槌に短い笑い声を立てたあと、「ふうん」と呟いて、柳瀬はラウンジの窓に視線を転じた。つられて、巧も窓の外を見る。嫌味なくらいの青空だった。
部外者二人で顔を突き合わせたって、解決することはなにもない。ただ、それでも、話して楽になった気がする。人に話を聞いてもらうことは、心を軽くするのだ。
だれにだって、愚痴を言いたくなるときはある。いらいらして、人の悪口を言いたくなるときだってある。そういうのを聞くほうは、あまりいい気持ちがしないことも知っている。でも、それでも、人はやっぱり我慢するのが苦手な生き物だから、聞いてくれる相手を求めてしまう。黙って相槌を打ってくれる人に、寄りかかりたくなってしまう。
軽くなった心が、柳瀬につまらない思いをさせてしまった自己嫌悪で灰色になる。それでも、結局思うのは、柳瀬が聞いてくれてよかったという身勝手な気持ちで、自分の女々しさに呆れたくなった。そのくせ、そんな自分の友人は、すごくいい奴だ。弁当の卵焼きを突きながら、「巧には、ちょっと障害物が多いよなあ」と天気の話でもするかのように言う。
「はは、そうかも」
「せいぜいがんばりたまえ」
「上司か」
ほら、こんな風に、さばさばと割り切ってくれる。上辺だけの共感なんていらないから、軽く受け留めてくれる彼が、巧には丁度いい。
と、急に柳瀬がぽん、と手を打った。それから、「あした、行っていいか訊いてみて」と言われて、手の模様のことだと思い至る。
「あした? 急すぎないか」
「いいから」
バイトの予定でも詰まっているのだろうか。曖昧に頷く。柳瀬にはお世話になりすぎているから、邪険にするわけにもいかない。きょう、きちんと紫乃に言わないと。……さすがに、忘れないだろうが。
手の甲の文字と柳瀬の企み顔を見て、巧はまた一つ、苦笑を洩らした。
いつもの四十六分発の電車に、乗れなかった。
普段は全力で走って、意地でも乗っていた電車を諦めて、歩いて駅まで行った。帰り道にのんびり歩くなんて久しぶりだ。
稲荷木駅からも歩いて、帰路を辿る。いくらゆっくり歩いても、周りの景色を眺めても、通り過ぎていくだけで頭には残らない。
「ただいま」
戸を開けると、紫乃の声に重なって、秋名の声も聞こえた。鈴の音を聞きつけて、うれしそうに皿を持って、こちらに向かってくる。盛られているのは、綺麗なオレンジ色のチキンライスだ。
「川辺くん、ほら見てくれ」
「秋名さん、チキンライスできるようになったんですね。食べてみてもいいですか?」
「ああ、お願いするよ!」
やはり、家で特訓をしてきたみたいだ。カウンターに腰かけて、目の前に置かれたチキンライスを食べれば、紫乃が作るものと近い味がした。
(……む、これは……)
巧が眉を上げたのに気がついた秋名は、「どうだい……?」と首を竦める。
「秋名さん、野菜ジュース使いました?」
「えっ、わかるのかい」
やっぱり、という一言を我慢する。
チキンライスを作るとき、水と混ぜて米を炊くと、深みのある味になるらしい。店に出すものは鶏の煮汁を使って炊くそうだが、簡単に作りたいときにいいのだと、紫乃が以前言っていた。今までの秋名は、まだ材料を炒めるだけでいっぱいいっぱいだったから、こうして綺麗に作れるようになって、紫乃が教えたのだろう。ほんとうに、お人よしだ。
「おいしいです、秋名さん」
笑いかけると、秋名はほっとしたように「ふううっ」と息を吐いた。紫乃がキッチンで、微笑んでいる。
(……そうだ)
その容貌が、胸を熱くする。もっと、そういう顔を見ていたい。
(宮司さんは、こういう人なんだ)
人のうれしい気持ちを読み取って、同じ気持ちになってくれる。人の幸せを、心からよろこんでくれる。
ああ、どうしよう。キスしたい。抱き締めたい。この気持ちをぜんぶ言葉にして、あんたに伝えたら、あんたは、そうやって笑ってくれますか。笑って、「そっか、ありがとう」なんて、おれの頭を撫でてくれますか。
身体の横で、拳を握り締めた。爪が刺さって痛いくらいに、強く強く握った。じんじんと掌が疼いて、代わりに脳が冷静さを取り戻す。二人に聞こえないように、細く、ゆっくりと、息を吐き出す。一つ、二つ。猛った身体の中の空気を入れ替えるように、呼吸を重ねる。落ち着けと、言い聞かせ、念じる。直情的になったところで、いいことなんてなにもない。
――紫乃は、もう二度と、そういう相手を求めないと思うから。
繰り返される声。思いすら告げないその人。
宮司さんが思う相手が、おれじゃなくても構わない。そんなことは、まだ到底言えそうにない。あの人のようにはなれない。
自分が思うのと同じくらいに思いを返してほしいし、自分のことだけを見てほしい。紫乃の笑顔を見る度に、そう思わずにはいられなくなってしまう。頭に血が上って、冷静でいられなくなりそうになる。
けれど、今、紫乃といっしょにいるのは、小戸森でも、桃子でも、知らないだれかでもなく、巧だ。だからもう、わけのわからない言葉を引き摺って、ぐだぐだ考えるのはやめよう。
聞きたいことは、知りたいことは、真っ直ぐ本人に訊けばいい。
おれは、おれが見て、おれが聞いたものを信じたい。それでいい。それが、いい。
「あれ? ……ぷっ、巧くん、なにそれ」
不意に紫乃に指を差され、きょとんとする。その先を見れば、……うわあ、そうだった。丸めた手の甲に、ダイナミックに書かれた文字に恥ずかしくなって、心の中で柳瀬を恨む。見つかってしまった以上、訊かないわけにはいかない。
「あの、宮司さん」
「うん?」
「あした、友人を呼んでもいいですか?」
うちに? と聞き返されて頷くと、彼はあっさり承諾した。
「迷惑じゃないですか……?」
「そんなこと気にしてたのか? いいよ、ここは巧くんの家なんだから、変な遠慮とかしなくって。それに、巧くんの友達なら、おれも会ってみたいしさ」
巧くんの家なんだから。その一言が、泣きたくなるくらい、うれしかった。そうか、おれはここにいていいんだ、ここに帰ってきていいんだなあ、と、胸が温かくなったのだ。
ほらね、こんなに簡単におれをこんな気持ちにできるのなんて、世界中どこを探したって宮司さんしかいない。だから、他のだれかの言うことなんて、掃いて捨てちゃえばいいんだ。
秋名のチキンライスを食べ終えて、すぐに柳瀬に連絡を入れておいた。紫乃は、秋名に次の段階、「卵で包む」を実演して見せていた。秋名のつるっとした額に、皺が寄っている。
あしたからは、朝ご飯がオムライス握りになりそうだな、と思わず口元が緩んだ。
「いや~念願のみやじ食堂」
柳瀬がしみじみと看板を仰ぐ。そんな彼の頭を小突いて、さっさと店に入ることにした。紫乃の声を、一秒でも早く聞きたい。
「ただいま」
「お邪魔しまーす!」
鈴の音と共に言えば、卵の甘い匂いと、いつも通りの声が出迎えてくれる。キッチンに、汗だくの紫乃と秋名の姿があった。
あ、きょうは「料理漢」Tシャツだ。さすが宮司さん、完璧に着こなしている。
「おかえり、巧くん」
「えっと、友達、連れてきました」
「柳瀬あきらです。巧にはいつもお世話になっています」
借りてきたねこか、と言いたくなるような似合わない敬語に、吹き出しそうになる。ポチがカウンターのイスでにやにやしている。
「柳瀬くんな。店主の宮司紫乃です。巧くんがいつもお世話になって」
「ははは、宮司さん、お母さんみたいっすね」
「こう見えて、歳は結構とってるつもりだからね」
うっ、と柳瀬が息を喉に詰まらせる。どうせ、「うわー、ほんとに超童顔だ、スゲー!」とか思っていたのだろう。紫乃のウインクが、やけに大人に見えた。
カウンター席を勧められて、ポチの隣に腰かける。近くに人が来てうれしかったのか、ポチが目を細めて「ふにゃ」と鳴く。まんじゅうフォルムを撫でていると、柳瀬は思いついたように手を叩いた。
「おれ、腹が減りました。宮司さんのご飯が食べたいな~」
「ばか、おま……!」
ただでさえ秋名の指導で紫乃は大変なのに、なんてことを言うんだ。申し訳なくて、「すみません、外でなにか食べてくるので」と頭を下げると、紫乃は首を傾げた。
「どうして? いいよ、すきなもん言ってみな。作るから」
「わーい!」
「宮司さん!」
なんでこの人は、こんなに甘ちゃんなのだ。単純に、自分の料理が食べたいと言ってもらえて、うれしかったのだろうか。
(……いや、おれも人のこと言えないか)
紫乃の料理は、おいしい。それが一人でも多くの人に伝わったら、うれしい。
最初、自分以外の人のために紫乃が料理を作るのが、たまらなくくやしく思えたときがあった。でも、ここは洋食屋で、紫乃の料理は独り占めしていいようなものではなかった。こんなにおいしいものを、自分のエゴなんかで閉じ込めたら、だめなのだ。いっそ世界中の人に知ってほしい。
紫乃の料理を食べるたった一人になるのではなくて、紫乃の料理を、いっしょに広めていける人になりたい。そう思えるようになったのは、きっと、彼がそれを望んでくれているからだ。
「なにが食べたい、柳瀬くん?」
「そのオムライス」
「え、これでいいの?」
見本で作ったのだろう、紫乃の手元のオムライスを差して、柳瀬が微笑む。だめだめ、それはおれの晩ご飯になるんだから。
「うん、それがいい」
紫乃が渋るところに、女の子なら一発できゅう~んとしてしまうような甘い笑顔。なんでおまえは、それを宮司さんに使うんだ。思わず手に力が籠もって、ポチの潰れたような声がした気がしたが、構っている場合ではない。
絆された料理ずきが、オムライスを柳瀬の前に置く。それから、鍋を火にかけはじめた。
「宮司さん?」
「ちょっと待っててな。それ冷めちゃってるから、今あっついデミグラスソースかける」
「ほんとに? うわあ、超うれしい。デミグラス大すき」
「ふふ、それはよかった」
……おもしろくない。ここぞとばかりにヤナがはしゃぐのも、宮司さんがうれしそうに頬を赤らめるのも、おもしろくなーい。
自分の子どもっぽさに、ほとほと呆れる。知らず知らずの内に頬を膨らませていたのだろう、秋名に「川辺くん、どうかしたのかい?」と突っ込まれる始末。
「いや、その……」
「なんだか、すごい顔をしていたけど。あ、オムライスが食べたいなら、私のでも……」
大人って、みんなこうなのだろうか。些細な表情の変化を見つけては、さして親しくもない子どもに無条件に手を差し伸べ、さらりとこちらの領域に入ってくる。その気遣いに安心させられて、胸の内を吐露したくなってしまう。
紫乃はデミグラスソースを暖めていて、柳瀬はその手元と話に夢中だから、放っておいてもいいだろう。「秋名さん、ちょっとだけ、いいですか」と、外へ行くよう示すと、首を傾げながらも、彼はエプロンを外した。
「ちょっと、外の空気を吸ってきます」
秋名が言うと、はい、と紫乃と柳瀬の声が重なった。それすら気に入らないあたり、もう末期だ。
秋名が出て行くのを見送って、席を立つ。ポチが離れた温もりを恋しがってか、さみしそうに喉を震わせる。
「あれ、巧も?」
「うん、少し外す」
柳瀬に言い残して、秋名の後を追おうとしたところを、腕を掴んで止められた。
「ヤナ?」
「宮司さんに探り、入れてみてやるから」
こそっと耳元で囁かれて、思わず、力強く頷いた。なるほど、柳瀬が急にみやじ食堂に来る予定を立てたのは、忘れてしまわない内に、紫乃に探りを入れるためだったのだ。わざと慣れ慣れしく接したのもそのためだとしたら、彼はなかなか策士かもしれない。
柳瀬と頷き合ってから店を出る。秋名のいないタイミングを狙ってくれたのも、ありがたかった。――もっと言えば、紫乃の口から話を聞きたいという気持ちに偽りはなかったけれど、それでもまだ、直接聞く勇気はなかったから、席を外せてよかったとも思った。
秋名は店の外で空を仰いでいた。近づくと、「もうずいぶん暖かくなったねえ」なんてのほほんと言うから、釣られて目を細める。
「暖かくっていうか、もうすぐ夏になりますよ」
「はは、そうだね」
秋名は、おっとりした人だ。気長でやさしくて、気は弱いけれど、大人の気遣いができる。
身体だけ大人になってしまった人間は、いくらでもいる。中身は子どものままのどうしようもない人間のほうが、よっぽど多いと思う。でも、秋名は違う。ちゃんと、大人だと感じる。こちらが話し出すのを、待っていてくれる。そんな気配りが、心地よい。
紫乃も、子どもみたいな顔をして、時間を重ねることによって身につけるものを、たくさん持っている。
「……秋名さん」
「うん?」
「秋名さん、奥さんとは恋愛結婚ですか?」
「えっ、……あ、はは、そっか、そういう相談かあ」
……恥ずかしい。大人とこの類の話をすることがこんなに恥ずかしいだなんて、知らなかった。でも秋名は、今の巧からしたら一番近い、相談できる大人だった。それに、秋名はこうして笑ったって、決して人をばかにしたり、呆れたりしないと知っているから、口に出せることがある。
「うん、そうだよ」
「じゃあ、その……、例えば、どういうときに『もうこういう相手はいい』って、思いますか?」
「それは、もう恋愛は懲り懲りだ、っていう意味の?」
「えっと、それはちょっと、わからないんですけど……」
こんな抽象的な説明では、なにが言いたいのか怪訝に思われても仕方がない。でも、小戸森の言葉の真意がわからない以上、先入観で意味合いを足すべきではない。だからと言って、腹の中に溜めておくには、苦しすぎて、口先から零れ出ていた。
そうだなあ、と秋名は視線を泳がせる。
「少なくとも、今の私はそう思ってるなあ」
「え……?」
「今の家内がいれば、私は幸せだ。だから、もうほかの恋愛はいらないと思う」
秋名の言葉に、一層胸が苦しくなった。
紫乃がもし、秋名と同じ気持ちなら、それは、紫乃にはそういう相手がすでにいる、ということだ。生涯をかけて選んだたった一人が、もういるということだ。
(どうしよう……)
おれじゃない。小戸森さんでも、桃子ちゃんでもない。
おれの知らないだれかが、宮司さんを幸せにしている。もしそうだとしたら、おれはこの苦しさに殺されてしまいそうだ。
(こわい……)
紫乃が、もう恋愛をしたくないと、人を思うのに疲れたのだとしたら、自分が本気にさせればいいと思っていた。どんなに呆れられたって、冷たくされたって、気持ちを真っ直ぐに渡し続ければ、振り向いてくれる可能性はゼロではない。そう、信じていた。でも、もうすでに紫乃の隣は埋まっていて、他人が入り込む余地なんてなかったとしたら。どんなに巧が思っても、どんなに巧が抱き締めても、越えられない相手がもういたとしたら。
――おれは、宮司さんにこの思いを告げることすら叶わない。小戸森さんと、同じだ。
巧の表情の陰りを察して、秋名は気まずそうに頭を掻いた。確かに、手足は重くなった。でも、正直な気持ちを話して聞かせてくれた秋名に非はない。変に気を遣われるより、ずっといい。
「ありがとうございます、秋名さん」
「あの、巧くん、考え方は一つじゃないよ。その、今の私は、そう思っているというだけだから」
「はは、わかっています。ありがとうございます」
考え方は、人の数だけある。秋名と紫乃は、違う人だ。わかっている。それでも、不安な気持ちを捨て去るには、自分はまだ子どもすぎて、縋りたくなる気持ちを拭い切るには、この思いは大きくなりすぎた。
(ああ、もう……、うじうじするのは、いやなんだけどな……)
空を見上げる。春の終わりを告げる風が、青い葉を運んで来ていた。
それから秋名と、家庭の様子とか、オムライスのことを話して、店内に戻ることにした。秋名は、もう少し休憩してから、と、また目を細めて雲を追っていた。
視線を転じて、みやじ食堂の赤い暖簾を振り返る。中では、柳瀬がきっと紫乃に、探りを入れている。今戻ったら、もしかしたら、つらい話を聞くことになるかもしれない。
踏み出す。それでもいい。おれは、宮司さんのことが、知りたいんだ。
手動の戸を開けた瞬間――、巧は後悔した。
「え……?」
柳瀬はイスから立ち上がっていた。
カウンター越しの紫乃は、キッチンから身を乗り出している。
柳瀬の手が、紫乃の頭に触れている。紫乃は、その肩を押し返して――。
なにが起こっているのか、わからなかった。
だって、おれは今、みやじ食堂に入ってきた、ところ、で……。
柳瀬と紫乃が、キスを、していた。
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