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おわりに
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みやじ食堂は、稲荷木駅から歩いて七分のところにある。
(もう九月だっていうのに、てんで暑さが抜けねーなあ……)
電車から降りた途端に、熱気を帯びた風に体当たりされて、一瞬で車内の冷房が恋しくなった。そもそも、すきでここに来ているわけではないから、帰りたくなって当然だ。
「あーもー、あっちいー……」
もうこうなれば、目的地が冷房の効いた快適な空間であることを祈るのみだ。
善は急げと言わんばかりに、無人の自動改札にICカードをタッチして、金谷町に降り立つ。与えられた地図を思い出して、左手のスーパーとは逆、まだまだ緑の濃い桜並木の舗道を、さっさと歩きはじめる。
ことの発端は、きのうの午後三時頃に遡る。
「君の料理には、温度がない」
(は……?)
目の前で腕を組み、こちらをじっと見つめるオーナーの口から発せられた言葉の意味が、よくわからなかった。幻聴かと思ったが、真正面から注がれる眼差しに、その可能性は潰えた。
HEMPに入社して、半年。入社したときから本店勤務で、厨房に入っていた。調理学校時代から、実技も筆記も主席だった。
周りから持て囃されて、きょうとて、半年に一度行なわれる若手社員技術チェックのあとにオーナーに一人呼び出されたときには、「神谷(かみや)なら、班長任せたいとかそういうのじゃないの?」とか、「賞与プラスだろー、いいなー」と持ち上げられ、「入社半年で、そんなはずないだろ」なんてクールに答えつつ、それなりに期待を持って事務室に赴いて――、言われた科白が、コレ。
技術チェックは同期入社の六人同時に行ない、試食のタイミングもほぼ同じだった。まだ暖かいうちに食べてもらえたはずだ。わけがわからない。
「おっしゃっている意味がわかりません」
「ああ、すまない」
(腰ひっく……)
素直に謝る小戸森に呆れる。よくこんな感じで、チェーン店のレストランのオーナー兼総料理長なんてやっていられるな、と思う。
HEMPには、自分の意志で入社した。学生のときから慣れ親しんだ店だったからだ。そして、どこの店舗でも、いつ食べても、同じクオリティで振る舞われる料理に感動した。これだけ教育がしっかりした場所なら、下積みにぴったりだと思った。
そう、下積みだ。いずれは、自分の店を持つために、ここで先達の技術を身につけ、昇華させるのだ。それなのに。
「おれにも上手く言えないんだが……、君の料理は、正確すぎる、と思う」
材料の分量、切り方の均一さ、火を通す時間、盛りつけた一皿、そのすべてを、見本通りに正確にできる自信があったし、技術チェックでもそれを完璧にやってのけたはずだ。チェーン店であるがゆえの統一だ。それのなにがよくないのかが、やはりわからない。
「おれはもう少し、君の味があってもいいと思う」
「そんなみんなが自由に、個人の感覚に頼って作ったら、HEMPの味がなくなりますよ」
「そう思うか」
「思います」
歯に衣着せぬ口振りで言い返した。生意気
なのは、生まれつきだ。たいていの年上は、そこで眉を顰める。しかし、なぜか小戸森は、柔らかく微笑んだ。
珍しい表情に、呆気にとられる。
それから、小戸森は思いついたように紙とペンを持ち出した。さらさらとなにかを書いて、渡される。
「地図?」
「あした、そこに出向で行ってくれ。交通費も出すから。そうしたら、おれの言いたかったことが、わかるかもしれない」
「はあ……」
気のない返事をして、軽く世間話なんかをしたのち、釈然としないまま事務室を出た。
(よくわかんねー人だなあ、小戸森さんって)
こんな店を構えている人だから、厳つい感じの、頭の切れる口の上手いオジサンを想像していた。だからなのか、半年経っても、あの若さにも言葉の少なさにも、なにを考えているのか読めない横顔にも、いまいち馴染めないでいる。
厨房に戻って同僚にあれこれ聞かれたけれど、結局「あした一日出向」とだけ答えて、持ち場に戻った。
行き先には、「みやじ食堂」と書かれていた。
(道向かいに小さな医院が目印、これか。左折してすぐ)
すすけた白い建物に、赤い暖簾。「みやじ食堂」の看板。営業中。ここだ。
じつは、ここの店主については、ほんの少しだけ知っている。
去年のちょうどこれくらいの時分に、HEMPの現外部経営コンサルタントである柏崎が、本店で催していたイベントを見に行ったのだ。そのときの相手が、ここの店主だったと記憶している。
食感を変え、見た目でたのしませ、一皿一皿が違う表情を見せる。器用なもんだとは思ったが、内定が決まっていた当時、HEMPには合いそうにないなと、感じた。
そんな人の料理を見せて、オーナーはなにを伝えたいのだろう。
(……まあ、食べればわかるか)
手動の扉を押して、店内に踏み入れる。追って柔らかな鈴の音、そして快活な二つの声が重なって、来店を迎えた。
「いらっしゃいませ!」
明るい声に、ぱっと顔を上げる。カウンター越しのキッチンに、少年と、もう少し年上の、それでも学生らしい青年が立っていた。爽やかな笑顔を向けられて、つい会釈をする。チェーン店ではまずない距離感で、ちょっと驚いたせいだ。――驚いたと言えば、少年のTシャツのセンスもなかなかだった。どこで売ってるんだ、その謎のにやけたタヌキの台詞に「おれが店長」って。
「どうぞ」
「あ、うん」
少年に掌でカウンターを促す。イスを引いてかけたところで、青年がお冷やとおしぼりを出してくれる。
「なににしますか?」
「あー、えっと、おれ……」
バッグに仕舞っていた封筒を取り出す。小戸森が紹介状だ、と持たせてくれたものだ。中身は見ていないが、これを出しておけば間違いはないだろう。
不思議そうな顔をして、少年が受け取る。そして、遠慮なくバリバリと封筒の口を破った。
(しまったー、店長さんにって言うの忘れた)
後悔しても後の祭だった。持ち前の好奇心なのか、少年は手紙を取り出して勝手に読みはじめてしまう。特に問題はないのだろうが、仕事関係の手紙を易々と本人以外に見せてしまうのは、あまりよくないように思われた。せめて、こっちのお兄さんのほうに渡せばよかった。
「……ふっ」
不意に、少年が含み笑いを零した。彼がなにに笑ったのか掴みかねて、首を傾げる。すると、キッチンに戻った青年が、「なにか、おもしろいことでも書いてあったんですか?」と、心の声を代弁してくれた。
(……ん? 敬語?)
「うん。久し振りに麻紀の決まり文句を聞いたなと思ったら、注釈ついてた、ははっ」
「あはは、ほんとだ、『うちに来たくなったら、いつでも来い。(要事前連絡)』って、なにそれ」
「麻紀のやつ、去年のぜったい根に持ってる」
(オーナーを、呼び捨て?)
この少年は、何者なのだろう。ここの店主の宮司紫乃は、小戸森の大学時代の友人だと聞いている。だから、歳は二十八とか、それくらいのはずだ。こんなに大きい子どもがいるのはおかしいし、本人でもないだろう。親戚の子で、よく顔を出す、とかなのだろうか。
手紙をカーゴパンツのケツポケットに突っ込んで、短く「名前は?」と訊かれる。
「神谷です」
「神谷くん。よろしくね。オーダーは麻紀から承ったから、ちょっと待ってて」
「はあ……」
曖昧に頷いて、とりあえず息を吐く。
「――ぎゃっ」
と、不意になにかふわっとしたものが触れた気がして、反射的に足を上げる。びっくりしておそるおそるテーブルの下を覗いたら、なんだか大きなまんじゅうみたいなものが、イスの足のあたりでもぞもぞと動いていた。「あー、ポチ」なんて間の抜けた声で、青年が近づいてくる。
「な、なに、犬?」
「いえ、ねこです」
「はあ……」
(飲食店に、動物……)
この店は、少々自分の常識とは外れたところにあるらしい。
顔に出ていたのか、青年がねこを庇うように、「お食事の邪魔はぜったいにしない子ですから。調理のときも奥に行ってるくらい、賢いんです」と微笑んで、ねこを抱き上げた。丸いまんじゅうだったものがベロンと縦に伸びて、ようやくねこらしさを見いだせた。そのまま、青年が奥へ連れて行って、ほっと胸を撫で下ろす。
ふと熱気が頬に触れた。ようやく宮司紫乃が来たのかと思って顔を上げて、口をあんぐりしてしまう。
(いや、なんで君が料理しちゃってんのっ?)
信じられない。なぜだか、少年がフライパンを火にかけていた。ぽんぽんと材料を入れて、一丁前に火加減を見ている。
おれは、あの小戸森オーナーや柏崎さんが一目置くという「宮司紫乃」の料理を食べに来たはずなのに、なんでこんな子どもにもてなされなければならないのだ。
さすがに、ここに来た意味を失うわけにはいかないので、「ちょっと」と、強めな語尾で声をかけた。丸い瞳が火から上がる。
「うん、どうかした?」
「おれは、宮司紫乃さんの料理を見に来たんだけど」
「うん、知ってるよ。麻紀の手紙にも書いてあったし」
「だったら、なんで君が……」
「ああーっ、それ以上言わないほうがいいです!」
「ああ?」
ねこを置いてきた青年の大声に驚くと、こそっと目配せされた。青年は、ふにゃ、と少年に曖昧な笑みを渡しつつ、カウンターに屈んで顔を寄せた。反射的に神谷も顔を突き出して、声を潜める。
「なんなんだよ?」
「あの人の年齢は、見た目プラス十歳だと思ってください」
「は……、はあっ?」
「そういうことです」
オーナーからの手紙。青年の敬語。呼び捨て。見た目プラス十歳。――間抜けたTシャツタヌキの台詞。
(……嘘だろ)
唖然とすると同時に、今口にしようとしていた台詞が出て来なくてよかったと心底思う。止めてくれた青年に感謝だ。あまり細かいことに頓着しない性格なのか、「宮司紫乃」は、ご機嫌な様子でフライパンを操っている。
一年前の、あのハヤシライスは、この人の、あの掌から生まれたのだ。顔は幼くても。いろいろな時間を知っている、そんな手だった。
しばらくして、目の前に差し出された一皿は、ハヤシライスだった。あの日と同じ品に、この人のスペシャリテなのだと悟る。
オーダーは手紙に書いてあったそうだから、オーナーが伝えたいことはここに詰まっている、ということだろう。
「さあ、召し上がれ」
「いただきます」
手を合わせる。思わず出た仕草だった。こんな風に、改まって手を合わせるなんて、久方振りかもしれないと気がつく。
スプーンでルウとご飯を掬う。今回は、ふつうの白米のようだ。
(あ……、違う)
もう一口、口に運ぶ。咀嚼し、嚥下する。味を、感触を、温度を確かめる。あの日とは、違う味。
(おいしい……)
味付けは、少し薄めだ。ご飯には軽くバターと青海苔が絡めてある程度、ルウにも余計な辛さがない。その代わりに、秋先の野菜の濃厚な香りが口内を包む。タマネギのさっぱりとした香り、ニンジンの甘い香り、トマトの鮮やかな香り。スパイスがそれを補って、より際立たせている。この季節は、旬の野菜がおいしい。その風味を最大限に生かせるように、ほかのバランスを調整しているのだ。
スプーンでルウを掻き分けて見ると、柔らかくなりやすい野菜は割とざっくり切ってあった。逆に火の通りにくいものは均一の大きさになるように揃えられ、口に入れてもすんなり馴染む。
「すごく……おいしいです」
「そっか。それはよかった」
「これって、秋限定メニューとかなんですか?」
「え? ううん、ふつうのハヤシライス」
「は? だって……」
あの日のハヤシライスとはぜんぜん違うじゃないか。出かかった言葉を、寸でのところで飲み込む。食べさせてもらっている立場で、文句を言うべきではない。
だが、同じメニューで、まったく違うものが出てくるなんて、困るだろう。――そこで、気づく。
チェーン店ではできない、みやじ食堂の味。機械ではできない、微妙な味と技術の調節。目の前のたった一人の客との間を繋ぐ料理。彼の皿は、今自分が作っている皿とは、真逆だ。
小戸森オーナーは、おれにこの人のような料理を作れと言いたいのだろうか。それでは、HEMPではやっていけないというのに?
(わけわかんねえ……)
小戸森の意図が読めないことにも、宮司紫乃の特別感のまったくないといった顔にも、苛立ちを覚える。それなのに、スプーンを動かす手が止められないのは、なんでだ。
「宮司さーん、おれも食べたくなってきました……」
「えー?」
青年が言うのが早いか、厨房から出てきて、カウンターの隣のイスに腰かけた。仕方ないなあ、と唇を尖らせながら、すぐにもう一皿用意できるあたり、彼が欲しがることもわかっていたのだろう。すぐに青年の前にも、同様のハヤシライスが出される。
「はい、召し上がれ」
「へへ、いただきます。……ん~、やっぱりおいしい」
「いつも食べてるだろ」
「いつも違うでしょ」
「……クレームとか、ないんですか」
気づけば、口をついていて、四つの目に見つめられる。しまった、とは思ったが、零れた言葉はもう返ってこないので、開き直るしかないようだ。どうせ、きょうこの時間だけの付き合いの人達だ。
「だって、いつもと同じ味が食べたい人だっているでしょう。一度目がおいしかったからって言うリピーターは、二度目も同じ味を求めて来店する」
「うん。そういう人もいるね」
「じゃあ、なんで……」
「でも、一度目よりもっとおいしかったら、どうかな」
「……っ、そんなの、理想論だ」
「それでもいいよ」
顔を上げる。目の前の人は、とても穏やかに、微笑んでいた。
理想論だ。そんなこと、百も承知で、彼は毎日試行錯誤を重ね、よりおいしい一皿を、より多くの満足を、笑顔を、目の前の人に渡せるように、足掻くのだ。
それが、ここであればこそできることだと思う。目の前に、触れられるほど近くに客がいるからこそ、そのたった一人のことを考え尽くした料理を出したいと思える。
「これが、ここを作った人の料理だから」
「ご馳走さまでした」
「お粗末さま。またいつでもおいで」
「……はい」
頷きながら、確信していた。おれはまた、間違いなくここを訪れる。そしてきっとまた、同じようにハヤシライスを食べて、きょうの味付けはなんだろうなんて疑問も忘れて、目の前の一皿を完食して、手を合わせるんだ。
店面にかけられた赤い暖簾を仰ぎ、思う。そこに掲げた名前に、どんな覚悟があったのだろう。どんな思いで、この場所を作ったのだろう。
おれの目指すべき道は、彼の轍ではない。
それでもまたここに来たいと思うのは、料理人として負けたくない気持ちが、胸の奥底に眠っていたからなのかもしれない。それと同時に、もっと、もっと、いろいろな料理を見てみたい。一つ、一つ、いろいろな料理に触れてみたい。そう思った。
(ちぇ……、結局、小戸森オーナーの思惑通りになっちゃったのかな)
オーナーの狙いはよくわからなかったけれど、ここに来たことで、自分が井の中の蛙だったと知ることができた。もっと先があることを知ることができた。料理の世界に終わりも限界もないことを、知ることができた。
それだけで、生まれ変われた気がするなんて言うのは、大袈裟だろうか。
「宮司、さん」
「うん、なに?」
「おれもいつか、自分の店を持てるでしょうか」
宮司紫乃みたいな強さを、持ち続けることができるだろうか。自分には、それだけの力があるのだろうか。
神谷の料理を見たこともない彼に尋ねても、仕方がないことだ。それでも、魔法の手を持つこの人に聞いてみたかった。
「神谷くん」
改めて、名前を呼ばれた。顔を上げて見た彼は、静かに暖簾を見上げていた。
「おれはさ、君が思っているようなすごい人なんかじゃないよ。この店だって、おれがはじめたわけじゃない。おれは、乗っかっただけだ」
店内のカウンターの中で、青年――巧がなにか言いたそうに口を開きかけて、やめた。背中越しでも、紫乃の台詞に続きがあると察したからだろう。
「でもね、ここを作った人の思いは、おれが一番近くで見てきたから、おれがこの場所を、あの人の思いを、守らなくちゃいけないって、思った。そうしていたらね」
紫乃が店内を振り返る。不意に目が合って驚いた巧が、ほんのり頬を赤くした。小さな笑声を零して、もう一度、紫乃は神谷と向き合う。
「おれのそばには、たくさんの人がいることに気がついた。おれとこの店は、たくさんの人に支えられていたんだ。みやじ食堂は、おれ達の場所だったんだ」
その言葉は、不思議な感じがした。
自分の店を持つために、努力するのは自分自身だ。でも、店を持つだけで終わりではない。志を共にする人がいて、影で繋がる人がいて、関わるすべての人がいて、客が来てくれて、目の前の人に料理を食べてもらえて。そうして、初めて、料理は完成するのだ。
「だから、神谷くんも、神谷くんたちの場所を作って。過去も今も未来も、ぜんぶちゃんと、繋がっているから」
右手を差し出された。同じ手を出して、その丸い掌を握った。ぎゅっと力を籠められて驚く。それが顔に出たのか、紫乃はイタズラが成功した子どもみたいにニヤッとして、「あんまりぼんやりしてると、麻紀に扱かれるぞ」と歯を見せた。負けじと握り返して、笑ってみせる。
「見ててください。おれは今に、小戸森オーナーもあなたも、追い抜いてみせますから」
「たのしみにしてる」
手が離れて、代わりに「じゃあ、また」とその手を振る。洗い上げを終えて見送りに出てきてくれた巧にも挨拶を渡して、帰路へと足を向ける。
早く料理がしたくて、身体中の血液がそわそわしていた。料理がしたい。おれだけの一皿を。こんな風に思うのは、久し振りな気がする。
「ありがとうございました。またのお越しを、お待ちしております!」
振り向く。自然と、笑みが溢れた。
並んで微笑む二人の頭上を、真昼の星が弧を描いて横切っていく。きっと、その星もおれも、今同じ顔をして笑っている。
足取りは軽い。
さあ。きょうは、なにを作ろうかな。
(了)
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