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その10

 紫乃に連れられて、巧は稲荷木駅から二時間ほど電車に揺られていた。二度、乗り換えをした。どこに行くつもりなのかは、あえて聞かなかった。 「あ、次で降りるよ」 「わかりました」  返事をして、荷物を担ぐ。  明るい駅に着いたのは、昼前だった。黄色い日溜まりがいくつもできた駅前に降り立つ。晩夏の太陽が真上に昇って、地表を照らしている。住宅街に沿った街路樹から、ツクツクボウシとヒグラシの声が降り注ぐように聞こえた。 「すぐそこに花屋さんがあるから、ちょっと寄ってもいい?」 「あ、はい」  了解して、紫乃についていく。見知った土地なのか、紫乃の足取りに迷いはない。小さな花屋で季節の花を揃えてもらう。白、黄、桃が彩る花束ができる。礼を言って、店を出る。 「ここから十分くらい歩くけど、大丈夫?」 「はい」 「じゃあ、行こうか」  さりげなく手を差し出すと、察して花束を持たせてくれた。萎れてしまわないように、花弁を下に向けて抱える。強すぎない甘い香りがした。  不意に、空いているほうの手をとられた。心臓が跳ねて、思わず彼の顔を見る。紫乃の横顔に、今度は言葉が喉に詰まった。 (……へんなかお)  彼がこんな顔をしているのを、初めて見た。かなしそうな、さみしそうな、頼りない顔。そのくせ、目元は細められて、唇の端が微かに上がっているようにも見えた。 「宮司さん」  一文字一文字を確かめるように名前を呼んだ。  へんな顔のまま、紫乃が振り向く。繋がった手に、力を籠めた。  大丈夫、おれはここだよ。  なにも言わずに、その手を握り続けた。重なる視線に、紫乃の張り詰めた表情が溶けていく気がした。 「……ありがとう、巧くん。行こう」 「はい」  頷く。これから行く場所がどこなのか、ようやく察した。宮司紫乃にこんな顔をさせられる人間は、一人しかいない。  その場所は、高台の上にある。  公園が併設されているのか、階段の上方にブランコの柱が見えた。そこを目指して、階段を上りはじめる。階段を囲むように立つ木々が太陽の光を浴びて、青色に輝く。さわさわと揺れながら、進む階段にやさしい木陰を作ってくれる。  潮の香りが鼻先を掠める。海が近いのかもしれない。  階段を上りきった途端、ぱっと視界が拓けた。  足が止まる。  覚悟していたはずだった。紫乃の前では、自分が気丈に振る舞うのだと決めていた。それなのに、足が動かない。  紫乃が振り向く。巧は、自分がどんな顔をしているのかわからなくなった。 「巧くん」 「宮司さん、おれ……」  言葉が、出てこない。こんなとき、どんなことを言ったらいいのかがわからなかった。自分の十九年の、すべての時間を必死に探し歩いても、見つけられない。唇を噛む。世界で一番大切な人に、今、伝えたい言葉が見つからないのが、くやしかった。 「紹介するよ、巧くん」 「宮司さん……」 「君に、会ってほしいんだ」 (……きれいだ)  どうしてこの人は、こんなに綺麗に笑えるのだろう。どうしてこの人がいる世界は、こんなに美しいのだろう。  あの出会いが、巧の世界を変えた。そうして今、自分はここに立って、紫乃と手を繋いでいる。ーーその人が、笑うんだ。だったら、おれがするべき顔なんて、ここに来る前から、決まっている。 「お願いします。おれも、ずっと、会ってみたかったんです、――功一さんに」  水を用意して、墓地を縫うように歩く。目を凝らせば、丘の下、遠く住宅街の向こうに、小さな青碧色が見えた。  一つの墓石の前で、紫乃は立ち止まった。互いに口をきかないまま、繋ぐ手を解いた。  紫乃がバッグから線香を取り出して、準備をするので、巧は鋏を借りて花束の長さを揃えた。その墓前には、もう花が活けられていた。小柄な向日葵の邪魔をしないように、少しずつ分けて花を挿す。  線香を受け取って、二人で手を合わせた。目を閉じる。  巧の隣で、紫乃は今、なにを思うのだろう。なにを語りかけるのだろう。  紫乃が、すきになった人。名字を重ねて、人生を共にしていくはずだった人。  紫乃の中にある思い出を、巧は分けてもらった。馴染みの客から、桃子からもらった思い出も、たくさんある。昂也にその面影を探す。柏崎に聞いた彼の姿。宮司功一がどんな人なのか、いろいろな人の瞳を通して、知ってきたのだ。  そうしておれは、今、彼が一番愛した人の隣にいる。  宮司紫乃の隣で、自分は今、なにを思うのだろう。宮司功一に伝えたいことは、なんだろう――。 「……ろう」  声が洩れた。  紫乃が振り向いたのを気配で察したが、巧は目を閉じて手を合わせたまま、肺いっぱいに空気を詰め込んだ。  今まで、出したことのないくらい、大きな声で。どこにいるのかも知れないあなたに、おれは伝えたい。 「功一さんの、ばっかやろーっ! あんた、宮司さんを一番幸せにすんだろ、なのに、一番かなしませてんじゃねえよ! ばーかっ!」  肺の空気をぜんぶ出し切ったら、息が切れた。掌を離す。パッと目を開けたら、ぽかんとした紫乃が、手を合わせたままで巧を見ていた。目が合って、一秒、二秒、三秒。 「ふっ、あっはははは!」  破顔した紫乃が、「巧くんサイコー!」と肩を叩く。どう返そうか迷っているうちに、「おれもやろうかな」なんて声がした。 「え、宮司さん?」 「おれだって、コウ先輩に言いたいことなんか、山のようにあるんだ。でも、ちゃんと一言で済ませてやるんだから、感謝してほしいくらいだ」 「アハハ……ぜひどうぞ」 「へへ、どうも」  若干功一に同情しつつ、舞台を譲る。にこにこ笑う紫乃は、きょう見た顔の中で、一番かわいかった。  すうっと息を吸う音がした。目を閉じて、耳を傾ける。紫乃の声を聞く人は、ちゃんとここに二人いる。 「コウ先輩の、ばっかやろーっ! 勝手に先に往きやがって、おれがどんなにさみしい思いしたと思ってんだ! ばーかっ!」  空に木霊するように、通った声が墓地に響いた。すっきりしたみたいに紫乃が息を吐き出す。それを見守っていたら、急に手をとられた。 「でも、もう大丈夫。おれは、さみしくない」 「宮司さん」 「コウ先輩と同じくらい、すきだと思える人を見つけたよ。だからおれのことは、もう心配しなくて、大丈夫だよ。それが言いたくて、きょうここに来た」  それは、ずっと欲しくて、堪らなかった言葉だった。  掌を握り返す。確かな温もりが返ってくる。顔を上げたら、眩しい景色が広がっていた。思わず目を細めて、手を伸ばした。ひんやりと、石に触れた手が感じる。両手に今、感じている。 「功一さん」  呼びかける。  葉擦れの音が、返事をくれる。 「おれは、あなたの代わりにはなれません。宮司さんの先輩にはなれないし、料理で宮司さんを助けてあげることも、みやじ食堂の柱になることも、できない。だって、それは、おれじゃなくて、功一さんだったからできたことなんだ。だからおれは、川辺巧のまま、この人のそばにいたいと思うんです」  紫乃のために、自分ができることは、功一と比べたらずっと少ないかもしれない。食堂を切り盛りすることも、いっしょに料理を研究することも、迷ったときにアドバイスをすることも、大人みたいに穏やかに包み込むこともできない。  それでも、食堂を回す手伝いはできる。紫乃の料理を、「おいしい」と認めてあげることはできる。気の利いたことが言えなくても、この声で、この手で、この腕で、励ますことはできる。そばにいることはできる。  自分のできることを、全身全霊で、みっともなくても格好悪くても情けなくても、やってやる。それが、己が紫乃の隣にいるためにできる、一番のことだと思うのだ。 「大変なことも、挫けそうになることも、つらいことも苦しいことも、これからいっぱいあると思う。おれだけじゃ、抱えきれないこともあるかもしれない。だから、功一さん」  この手が、離れそうになったとき。この足が揺らいでしまいそうになったとき。この目が、真っ直ぐに向き合えなくなりそうになったとき。そこに、あなたがいてほしいと思う。 「これからもずっと、おれ達といて、見守っていてください」  隣から、手が伸びた。巧の掌のすぐ横に、もう一つ、掌が重なる。 「コウ先輩。また、顔見せに来るよ。巧くんといっしょに」  視線だけで隣を振り向く。歯を見せて笑う紫乃は、すごくきらきらして見えた。夏の陽光のせいだけじゃない。  ここに、今、三人で約束した未来があるから、輝けるのだ。自分も、紫乃を思って、そんな顔をできたらいい。  それから、紫乃といっしょに、功一に思い出話を聞かせながら墓石を洗った。  出会ったときのこと。些細な喧嘩。新しいメニュー。拾ってきたねこのこと。秋名の話。柳瀬の話。小戸森の話。桃子の話。昂也や、柏崎の話。客の笑顔。巧のこと。  紡いだ言葉の分だけ、思い出が鮮やかに蘇って、自然と胸の奥が温かくなった。紫乃がどんなことも笑って話すから、思い出達が堪らなく愛しくなった。 「よし、完了。あとは太陽の光ですぐ乾くだろ」 「はい。おれ、お腹空きました」 「おれも~。近くでどっか、お店探そうか」 「そうですね」  最後にもう一度、墓石の頭から水を流して、手を合わせた。  荷物を持って、「じゃあ、また来ます」と、挨拶をする。磨いた墓石が光って、手を振った。 「さてと、このへんお店あるかな?」 「スマホで探してみましょうか? 現在地からすぐ調べられるんで」 「さすが、文明の利器を使いこなしてんなあ」  木陰の階段を半分ほど下ったところで、反対側から壮年の女性が上ってきた。擦れ違えるように隅に避けると、女性は小さく会釈をして通り過ぎ――ようとした。 「あ……」  紫乃の細い呟き。  女性も驚いた表情で、紫乃を見つめていた。  知り合いかと思い、様子を見守る。 「お義母さん……」 (……え?)  紫乃の呼び方に改まった響きが混じっていたから、すぐにわかった。 (この人は、功一さんと昂也さんの……)  このまま立ち去ることだってできた。会釈をして去ることだって、選べたはずだ。それでも紫乃は、そうしない。 「お義母……、佳代子(かよこ)さん、ご無沙汰しております」 「あなた、紫乃さんね」  紫乃が頷く。彼女の瞳の色は、葉が落とす影のせいで、上手く読めなかった。  尋ねたことはない。――でも、少なくとも、この一年半で一度も食堂を訪れて来ないことから、宮司家と懇意にはしていないことは、巧にもわかった。それを苦く思うのと同時に、そうだろうと納得する自分がいて、自然と唇を噛んでいた。  もしも、自分が功一の親だったら、どんな気持ちになるのか。大切に育ててきた息子が、いつか綺麗な嫁と、かわいらしい孫の顔を見せに来るのを、たのしみに思っていたのではないのか。若くして失われた命を、だれかのせいにしたくなるのではのか。――そこに浮かんできてしまうのは、それを息子が望んだのだと理解していても、息子を連れて去った、同性の恋人になるのではないか。  紫乃を守ってあげたい。今いっしょにいるのが自分である以上、それが自分の役目だと思う。 (でも――、今は、違う。ここは、おれが入っていくべき場所じゃない)  一歩、身を引く。紫乃の背中を見つめる。美しい背骨だった。大丈夫だと、思った。 「佳代子さんも、お墓参りですか」 「ええ。いいお天気だったから」 「そうですね」 「あなた、命日に昂也と来たそうね」  責める響きではなかった。紫乃の掌が、すっと丸められる。緩く握られた拳は、なにを思うのだろう。 「はい。……佳代子さん、おれ、ずっとお墓参り、来られなかったんです。昂也さんに連れられて、ようやく来られました」  功一の母親ーー佳代子は、黙ったままだった。ぎゅ、と拳が固められるのが見えた。がんばれ、と心の中で呟く。紫乃の声が続く。 「おれはずっと、功一さんの死から逃げて、みやじ食堂に縋って、思い出ばかりを追いかけて生きてきました。それくらい、功一さんの存在は、おれにとって、大きかったんです。でも、気づかせてもらったんです。おれはずっと、功一さんのやさしさに甘えて、自分の足で立つ意味を知らなかった。いなくなって初めて、彼の強さを知ったんです」  紫乃が顔を上げる。目の前の女性から、彼は目を逸らさない。そんな強さを、手に入れたのだ。 (がんばれ、宮司さん) 「功一さんのことを、愛しています。それは、今も同じです。認めてもらえなくても、おれの気持ちはおれのものです。だから、これからも、きっとずっと変わらない。でも、もう振り返ってばかりいるのはやめたんです。もう一度、いっしょに生きていきたい人が、できたんです」  それが、楽な道ではなかったとしても、また、つらくかなしい思いをしても、それでも、これが功一さんに誓った、おれ達の答えだ。  風が凪いだ。  潮の匂いが遠ざかって、代わりに青々と繁る樹木の葉の香りがした。晩夏の太陽に照らされた緑が影を落とし、足元にきらきらと光の粒を降らせる。  小さな、吐息が聞こえた。佳代子からだった。目を見張る。彼女は――微笑んでいた。 「佳代子さん……」 「紫乃さん、こんなに強くなったのね」  二人の距離が近づく。歩み寄ったのは、佳代子のほうだった。彼女の手が、紫乃の手をとる。握った拳を、音もなく解く。薄い肩が小さく揺れる仕草から、巧は目を瞑った。 「功一が亡くなったときの、病院でのあなたの顔が忘れられなかった。だから、あなたを、通夜にも葬式にも呼ばなかった」 「え……」 「あの子の葬式なんて来たら、あなたの心が、壊れてしまうと思ったの」  でも、杞憂だったかしらね。そう、笑いかけられ、紫乃はゆっくり首を横に振った。  佳代子の言うことは、当たっていたのだろう。歩き出した今だからこそ、功一の死を受け留め、ここにだって来られるようになったのだ。当時の紫乃に、それができたとは思えない。彼女の判断がなかったら、もしかしたら、巧の出会った宮司紫乃はいなかったかもしれない。 「佳代子さん……、おれのことを、恨んでいますか」  それは、ずっとずっと、喉の奥に張りついて訊きたくて、でも、こわくてこわくて、どうしても聞けなかったことだったのかもしれない。  手と手は、繋がったままだ。紫乃は、彼女の瞳を見つめていたから、気づかなかったかもしれないけれど、巧には、それがもう、答えだと思えた。 「――今は、恨んでいないわ。昔はね、どうしようもなくて、功一を連れて行ってしまったあなたが憎らしいと思ったこともあった。でも、あの子が選んだ人が、悪い人なわけがないってことも、わかっていたの」  手が離れる。その手には、きっと大切な体温が、滲んでいる。 「それに、あなたを恨んでいたりしたら、私が功一に怒られちゃうわ」  あはは、と彼女は笑った。夏の日差しのような、からっとした笑顔だった。つられて、頬が緩む。ぽん、と小さな手が紫乃の腕を叩く。 「お参り、ありがとう。あなたは、私の息子なんだから、またいつでもいらっしゃい。そちらの子も」 「あ、はい」  反射的に返事をしたら、彼女は満足そうに頷いた。どうやら、巧のこともお見通しらしい。さすが、大人の女性は違う。  それから、「ついでに、たまには昂也を連れてきてちょうだい。あの子ったら、忙しいとかなんとか言って、なかなか帰ってこようとしないんだから。正月くらい帰省しなって、言っておいて」――なんて、女性らしく一気に話を括って、もう一度、しっかり紫乃の手を握って、佳代子は階段を上っていった。  彼は今、どんな表情をしているのだろう。彼を許したその人は、どんな表情をしているのだろう。  巧は、当事者ではない。まして、功一の顔すら知らない。だから、ほんとうの意味で、二人の気持ちを図り知ることはできない。それでも、一年と半分、いっしょにいた。功一と関わった人達に会った。功一の料理の残滓を、確かに見た。  だれも、当人にはなれない。でも、人には、相手を思いやる心がある。だから、こんなに、人をすきになれる。 「宮司さん」 「……」 「よかったね」 「……ん」  よかったね、あんたはちゃんと、宮司功一の伴侶になれたんだね。ちゃんと、家族になれたんだね。  紫乃の返事は、少しだけ、潤んでいた。青い空を見上げている。その視線を追って、巧も空を仰いだ。  宮司さんがすきだ。  だから、宮司さんがうれしそうで、おれもすごく、うれしいよ。 「ただいま、宮司さん!」 「おかえり。……って、はは、まーた息切らして」 「一秒でも長く、宮司さんといっしょにいたくて」 「なに恥ずかしいこと言ってんだよ。ほら、手洗っておいで」 「あ。あと、すみません、大学で捕まりました」 「おっじゃましまーす!」  小学生のごとく柳瀬が赤い暖簾を潜ってきた。なんとか撒こうと走ってもみたが、無駄な抵抗に終わった。元運動部の執念、らしい。 「おっ、きょうはさかなちゃんTシャツですね、パステルカラーかわいい!」なんてちゃらいことを言うので、すかさず洗面所に連行する。  紫乃が二人分の麦茶を用意してくれながら、擦れ違いざまに巧に声をかけた。 「そうだ、ちょうどよかった。二人に新メニューの試食、お願いしてもいい?」 「はい、もちろ……」 「新メニュー? やった、宮司さん大すきー! ほら、早く手洗って来ようぜ、巧」  立場が逆転して、柳瀬にせっせと洗面所に引っ張られる。紫乃も、グラスを片手にくすくす笑っていた。  柳瀬には、紫乃と上手くいったことを話した。彼は一番に巧を心配して、一番に気遣って、一番に理解してくれていたから、一番に伝えたかった。 「宮司さんと、付き合うことになった」 「ちゃんとすきだって、言ってもらったか?」 「……うん」 「じゃ、よかった」  嫌な顔をするでもなく、必要以上に騒ぎ立てるのでもなく、ただただ、くしゃっと笑って、肩を叩いてくれた。よかったな、と、掌に触れられると、その体温に、鼻の奥がつんとした。  巧が傷つく前に、諦めさせようとしてくれたこと。食堂を出たとき、躊躇うことなく迎え入れてくれたこと。迷わず背中を押してくれたこと。変わらない態度で、ずっと味方でいてくれたこと。柳瀬がいなかったら、もっと手前で、だめになっていた。  傷ついて諦めて、大袈裟かもしれないけれど、たぶんもうだれのことも本気ですきになれないまま、一生を送っていた。だから、彼には、感謝しても、し切れない。  ……なので、別に、ヤナが宮司さんに「大すき」と軽口を言っても、グラスといっしょにうっかり宮司さんの手を握っても、口説き文句に宮司さんがちょっとばかり照れていても、おれは……ヤキモチを焼くわけが……ありますけどね! 「ヤナ、いつまで宮司さんの手握ってんの。宮司さん、なに照れちゃってんの!」 「だって、巧揶揄うのおもしろいんだもん」  悪びれる素振りもなく、柳瀬はあっさり手を離して、けらけらと肩を揺らす。まったく、油断も隙もない。  カウンターに並んでかけて、新メニューをワクワクして待つ。 「宮司さん、新メニューってなんですか?」 「秋だからー、秋刀魚をちょっと洋風にしてみた」 「秋刀魚! いいですね~。なんかトマトの匂いもしますけど」 「柳瀬くん、ご名答」 「うえーい」  おれだってわかってたし……、なんて大人げない感想は飲み込みつつ、席を立って、ボートのような形の皿を用意する。ちらっと上がった紫乃の視線が、なんとも言えなくて、ついついにやけそうになるのを我慢してカウンターに戻る。柳瀬に肘で脇腹を突っつかれて、浜に打ち上げられた魚みたいな声が出た。 「こんにちはー!」  不意に明るい声が響いて、鈴の音が鳴った。こんなに明るくて張りのある声で挨拶できる高校生もなかなか貴重だろう。 「桃子ちゃん、いらっしゃい」 「宮司さん、こんにちは! きょうもすきです!」 「ハハ……、ありがとう」 「ついでに、川辺くんもこんにちは」 「あはは、ついででいいよ」 「おっ、いつかの桃子ちゃん! 前に会ったよね、柳瀬あきらです! 元気だった?」 「会いましたっけ? 覚えてなあい」 「TKO……」  ガクッと肩を落とす友人を軽く慰めて、ついでに「芸人?」と聞くと、「とってもかわいそうなおれ……」と弱々しく返ってきて、つい吹き出してしまった。  桃子が巧の隣に座ると、奥にいたはずの看板ねこがのそのそとやって来て、桃子のこれまた隣のイスに飛び載った。 「ポチもこんにちは。まん丸できょうもかわいいね。あれ、宮司さん、トマトの匂い?」 「ああ、秋刀魚のトマトソース和えを作ってたんだけど、桃子ちゃんはスイーツのほうがいい?」 「ううん、それがいい。トマトすき」 「了解」  ポチと手を繋いで遊ぶ桃子に、紫乃が微笑みかける。柔らかい笑みに、こちらの心もほどける。  巧が用意した皿に、紫乃が秋刀魚を盛りつける。察した通りの、ごろっと果肉の入ったトマトソースを秋刀魚にかけて、最後にチーズを粗めに削って、青海苔をまぶせば出来上がりだ。  いい匂いが鼻腔を擽る。うっとりと吐息が零れそうになったところで、また鈴の音が響いた。「こんにちは~」なんて、呑気な声が続く。 「秋名さん、いらっしゃい」 「宮司さん、巧くん、お邪魔します」 「静さんも澪那ちゃんも、いらっしゃいませ」  次に暖簾を揺らしたのは、秋名一家だった。カウンターに近いテーブル席を案内する。たぶんこの調子だと、あの人達も来そうだと思ったから、少なくともカウンターを空けておいてあげるのがやさしさだろう。  澪那とは、別れてからも年の離れた友人として、連絡を取り合っている。学校であったことや、勉強のこと、些細な、眩しい日常の話を聞いていると、こちらまでたのしい気分になれた。なんでも、最近はクラスの男子に告白されて、ちょっと気になっているそうだ。ちなみに、これは秋名には内緒。 「トマトのいい匂いがしますね」 「試作メニューが出来上がったところなんです。皆さんもいかがですか? って、おれが作ったわけじゃないですけど」  お冷やとおしぼりを秋名一家に配って、ついでに試食に誘ってみれば、案の定すごくうれしそうに頷いてくれた。その料理を作る人が、こういう人の顔を見るのが一番すきな人なのだ。おいしくならないわけがない。  振り向いてカウンターに目配せすれば、仕方ないなあ、と言った感じで紫乃が肩を竦めていた。よかった、十分足りるらしい。  この際だから、キッチンに入って、盛りつけの手伝いをする。  ここいらでスイーツが来たりするとありがたいんだけど、と思っていたところで登場できるあたり、この人も持ってるな、と苦笑する。 「よっ、繁盛してるか~?」 「昂也さん」 「元気にしてたか、高校生?」 「だれのことですか」 「さあな。なんだ、すげえ人集まってんじゃん。巧くんも澪那ちゃんも久し振り。足りるかな」  差し入れ、と昂也がクイーンズホテルのロゴの入った紙袋を掲げた瞬間に、桃子の黄色い歓声が響いた。昂也も目をパチクリさせている。 「そっそれ、クイーンズホテルの! しかも初秋限定パッケージ!」 「おおう、よく知ってるね。あ、もしかして、君がお土産に八人分のケーキを頼んだ『近所の子』?」 「えっ。ちょっと、宮司さあん!」 「あはは、ごめんごめん。この人ね、クイーンズホテルのレストランで働かれてて、この前手伝いに行ったときに、お土産なにがいいか選んでもらったんだよ」 「そうなんですね。ケーキ、どれもかわいくておいしかったです。いいなー、毎日スイーツ見れますね。いいなー」 「そうだな」  初対面でいきなり仲よくなる二人のコミュニケーション能力の高さに、目を瞠る。この二人といい紫乃といい柳瀬といい、なんだか、自分の周りはハイスペックな人が多いと思う。  昂也はポチの隣に座って、女子高生とのスイーツ談議に花を咲かせはじめる。柳瀬が羨ましそうに昂也を見ていたので、静かに肩を叩いておいた。  さて、ここまで人が揃ったら、たぶんきっと、あの人も――なんて思っていた矢先に、入口の鈴が響いた。 「……って、ええっ!」 「……なんです、その反応は」  迷惑でしたら帰りますけど、なんて憎まれ口を叩いて入ってきたのは、柏崎だった。 「迷惑なんかじゃないですよ。ただ、来てくれるなんて思わなくて」 「近くを通りかかっただけです」 (……とか言いつつ、お土産持ってる)  思わず、口が緩んでしまう。素直じゃないところが笑える。きのうの敵はなんとやらだ。  キッチン内がよく見えるように、カウンター席に案内すると、そっぽを向きながら土産の袋を手渡してくれた。「先日のお詫び」なんだそうだ。 「柏崎さん、ちょうどよかった。今新メニュー作ったところだったので、よかったら味見していってもらえませんか?」 「先輩みたいな、ゲテモノ料理じゃないでしょうね」 「……大丈夫ですよ」 「その間がこわいんですが」  なんだかんだ言いながら、紫乃と柏崎の横顔は柔らかい。  すごいなあ。改めて思う。料理には、こんな風に、人と人を繋ぐ力があるのだ。それを作れる人がこんなに近くに、こんなにたくさんいるなんて、すごいなあ。  はじまりは、巧の人生最大のミスだった。それを、一人のお人よしが、人生最大の幸運に変えてくれた。  おもしろい人に、たくさん出会えた。たのしい時間がたくさんあった。うれしい気持ちをうんともらった。かなしさもさみしさも、くやしさも、今まで味わったことがないくらいあって、涙して、すべてどうでもよくなってしまいそうになることもあった。人生で一番つらいと思う瞬間もあった。それでも、おいしいご飯を食べたら、やっぱりここに戻って来られてよかったと思えた。  たくさんの幸福と、料理と、仲間をもらった。ぜんぶぜんぶ、お人よしの気まぐれではじまったのだ。感謝している。 「紫乃、いるか……って、なんだこれ」 「あ、小戸森さん」 「よう、麻紀」  人の多さに驚いているのだろう、目をパチクリさせた恋敵がやってきた。やっぱり揃った、と安堵する。  未だに照れ隠しで唇を尖らせる柏崎の隣に案内してあげる。 「川辺くん、これは一体なにごとなんだ?」 「わかりません。なんか、みんな集まってきちゃって。とりあえず、小戸森さんも、新作メニュー食べますか?」 「あ、ああ」 「宮司さん、足りますか?」 「うん。改良用にたくさん作ってたから、大丈夫」  こちらに向けたウインクに、だれかさんが頬を緩めているのには、気づかない振りをしておいてあげることにした。それでも、その表情が前とは少し違うことに、巧の頬も緩む。前に進んだのは、うちの店主ばかりではないらしい。  だれかと結ばれるということは、だれかが、結ばれないということだ。  小戸森の気持ちを知っていた。それでいて、選ばれたいと思った。  昂也の告白を聞いていた。それでいて、譲りたくないと思った。後日、きちんと断りの返事をしたと聞いたとき、よろこびよりも苦みが胸に迫った。  巧は紫乃の一番になるために、澪那と別れることを選んだし、この場所に帰って来て、その隣を譲らなかった。巧のために傷ついた人は、自らが思うよりも、たぶん多くいる。紫乃は、それだけ周りから慕われる人だ。  ーーでも、思うのだ。 「巧くん、よそうの手伝ってもらえる?」 「はい、よろこんで」  いろんなことがあった。  いろんな気持ちを味わってきた。 「柏崎さん、今はHEMPの経営をサポートしてくださってるんでしたっけ?」 「まあ……、それくらいしか、ぼくにはできませんからね」 「すごく助かってますよ。なかなか手が回らないことが多かったから。けど、きょうはなんでこちらに?」 「たまたま近くを通りかかっただけです」 「うちへの臨店、あしたでしたよね?」 「えっ、う、ぜ、前泊しようと、ぼくの勝手でしょう……!」  いいことばかりじゃなかった。  一片も後悔しなかったなんて言ったら、嘘になる。 「えっ、澪那、気になる人がいるのか」 「ちょっとお母さん! 言っちゃだめって言ったじゃん!」 「あら、そうだったかしら」 「もお~、お父さん顔赤いし。お水お代りもらう?」 「えっああ、いや、大丈夫だよ、ありがとう」  でも。 「へえ、桃子ちゃん、お菓子作るのもすきなんだ」 「はい。だから、いろんなお菓子食べて、勉強したいんです。できれば、パティシエになれたらいいなーって」 「いいね、パティシエ! 似合いそうだ」 「そうですか? えへへ、柳瀬さん、今のうちにウエディングケーキ予約しておいてもいいですよ」 「やった。桃子ちゃんとのかな~?」 「調子乗らないでください。昂也さんなら、柳瀬さんの半額におまけしておきますね」 「アハハ、ありがとう」 「差別ダメゼッタイ! わあーん、巧~、慰めて~!」  今、おれはここにいる。  今、ここにはたくさんの仲間がいる。  今、そんなかけがえのない人達が、みんな笑顔でいる。  今、同じものを食べて、共有するものがある。 「お待たせしましたー、秋刀魚のトマトソース和えです」 「あっついから気をつけてくださいね」 「巧、おれに大きいの」 「はいはい、ヤナは一番小さいのな」 「そうそう……って、お話聞いて!」  柳瀬の一人芝居に、場のみんなが失笑する。黙っていればモテるイケメンな友人は、口を動かしていなければ死んでしまう星の下に生まれたのだから仕方ない。そういう彼だったから、最も助けられてきた。  オーダー通り、柳瀬に一番大きい秋刀魚の載った皿をあげる。調子に乗ったウインクは舌を出して躱しておいた。  順番に料理を運んで、最後にキッチンに戻って、自分と紫乃の分の秋刀魚を盛りつけた。手近の箸を紫乃へ手渡す。 「ありがとう。巧くんの分も、ちゃんと残った?」 「はい、大丈夫です」  図ったように鍋の中は空っぽだ。きょうみたいにからっと晴れた日は、ここにみんなが集まる運命だったのかもしれない。  紫乃が手を合わせる。  ここのルールは、功一がいたときから、少しだって、変わっていない。たった一人で、思い出を泳いでいた。孤独なままで、その人を、この場所を、守っていた。そんな心を受け取って、同じように、彼の心を守りたいと思った人が、ここにはこんなにいる。宮司功一は、宮司紫乃は、もう決して、一人じゃない。  暖かいご飯がある。  すきな人の隣にいる。  これ以上の幸せは、ない。こんなに眩しい時間が、空間が、答えだ。ぜんぶぜんぶ、ぜんぶ、よかったと、思うのだ。  今、おれは、幸せだ。  とても。とても。  とても、 「いただきます!」  紫乃の声が笑っている。  泣きたくなるくらい、幸せだ。

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