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その9-2

 * 「こらっ、飛び出したら危ないだろ!」 「ごめんなさあい……っ」  コンクリートを背に横たわったまま、堰を切ったように泣きだした温もりを、巧は腕いっぱいに抱き締めた。びっくりしたのだろう、いっぱいの力で、胸の上から抱き締め返してくる。縋る仕草に胸が詰まって、やさしく小さい背中を擦る。震えているのも、無事だった証拠だ。  ばかだなあ、今さら震えたって遅いんだぞ。命を失くしてから気づいたって、取り返せないんだから。言っても仕方がないから、代わりに掌に収まってしまうほどの頭を撫でた。 「ショウちゃん!」  女性の高い声が聞こえて、男の子を抱きかかえるようにして上半身を起こした。  若い女性が、買い物袋を駐車場に放って、駆け寄ってくる。トラックの運転手も慌てて降りてきた。 「大丈夫かっ?」 「はい、無事です」 「ごめんなさい、うちの子が……っ」 「大丈夫ですよ。な?」  顔を上げた男の子の頭を、もう一回、しっかり撫でてやる。丸い目がこくりと頷いた。手を離すと、女性を振り返って「ママ」とその腰に抱きついていた。女性はぼろぼろと涙を零して、何度も礼を言った。  トラックの運転手に手を貸され、立ち上がる。転がって衝撃が吸収されたのか、痛いところはない。ただし、着ていたTシャツが見事に真っ黒になっていた。  すぐに救急車を呼ぼうと言われたが、固辞した。代わりに運転手の名刺を受け取る。 「悪かった。病院行って、検査しろよ。費用は出すから、ここに連絡してくれ」  素直に首を縦に振る。あとから身体が痛むこともあると聞いたことがあるので、検査には行こうと思う。でも、接触があったわけでもないし、おおごとにする必要もないだろう。  女性には住所と連絡先を聞かれたので、みやじ食堂の場所を伝えておいた。断ったのだが、どうしても礼と服の詫びがしたいそうだった。 「おにいちゃん、ありがとう」 「うん。気をつけろよ。もうお母さんを泣かしちゃだめだからな」 「うん!」 「よし。じゃあね」  線路に挟まったボールを渡して、もう一回、男の子の頭を撫でる。さっきまでの泣き顔が嘘みたいに、もう笑顔でいっぱいの表情に微笑み返して、手を振った。  間に合ってよかった。  この場所で、功一を亡くしたと聞いた。だから、もう二度と、紫乃に同じ思いをさせたくなかった。目の前で、だれかがいなくならなくて、ほんとうによかった。  簡単に膝を払いながら、紫乃の元に戻る。  ――紫乃は、さっきと同じ、ベンチの傍らに立ち尽くしたままだった。 「すみません、宮司さん、びっくりさせちゃって。……うわあ、はは、服真っ黒」  小走りで近づいて、わざとおどけた仕草で自分の身体を見せた。コンクリートを転がったせいで思っていた以上に黒くなった服を、笑い飛ばしてほしかった。同意を求めて、顔を向ける。 「……宮司さん?」  紫乃は、笑わなかった。ただただ、じっと巧の顔を見つめてくる。瞬きもしないで、目を見開いて、巧を見ていた。 「あの、宮司さん? どうしたんですか?」  両肩を掴んで、顔を覗き込む。すると、ずっと見開かれていた瞳に、どんどん、どんどん、涙が溢れてきた。そのあまりの綺麗さに、不謹慎にもどきりとする。 「……かった」 「え?」 「よかった……、君が、無事で……よかった」 「宮司さん」 「君が死んじゃったら、どうしようかと思った」  ぽろ、ぽろ。表情はそのままに、小さな滴が落ちていく。地面に吸い取られてしまうのが勿体なくて、思わず抱き寄せた。口が肩にぶつかったのか、ふぐ、なんて声が洩れてきたけれど、でも、それどころではなかった。  紫乃を、泣かせてしまった。もう、ぜったいに泣かせたりしたくないと、再びみやじ食堂の一員にしてもらったあの雨の日に思ったはずなのに。いっぱい、いっぱいに抱き締める。確かな弾力と温かさが返ってくる。 「泣かせてごめんなさい。おれ、あんたより、ぜったい長生きするから、死なないよ。約束する」 「……っ」  息を飲む振動が、肩口から伝わってきた。それから、呻き声が、はじめは微かに、だんだんと子どもみたいな大泣きに変わる。  子どもの頃は、大人は泣かないものだと思っていた。少なくとも、両親は巧の前では毅然としていた。でも、それは、子どもを安心させるためだ。こう生きるのだと、教えるためだ。両親のお陰で、自分なりに、子どものままの大人にならずにいたいと思っている。それでも、大人だって、いや、大人だからこそ、それまでの時間の積み重ねから、堪えられないほどのかなしみが溢れてしまうことがある。紫乃の心を思えば、抱き締めることしか、今の自分にはできない。  大声で泣きじゃくる大人を、今はおれが、この手で守ろう。だれの視線も気にする必要なんてない。宮司さんが満足するまで、おれの胸で泣いてくれたら、それがいい。そのために、おれは戻ってきた。 「たくみくん……っ」 「はい」 「うっ、うう……き、だ」 「え……?」 (……ちょっと待って。今……)  心臓がうるさくて、息が止まりそうだった。ドッドッドッと、断片的に聞こえた台詞に、鼓動が奮える。  今、聞くはずのない言葉を、聞かなかったか?  紫乃が鼻を啜る。嗄れかけた声で、涙が混ざる声で、 「君がすきだ……」  ――と、確かに、聞いた。  腕の中でわんわん泣いて、いっぱいにその細い腕で身体を寄せ合わせる彼は、届かないはずの、世界で一番すきな人。確かに聞いた、震える声。  どうしよう、少しも、遠くならない……。  紫乃の肩に、顔を埋める。彼の匂いを吸い込む。細い肩を、腰を、抱き締める。確かに、ここにいる。確かに、確かに、この腕で抱き締めている。 「……て」 「う、ん?」 「もう一回、言って……」  嘘じゃない、夢じゃないって、その声で。  泣き声を拭って、子どもみたいに、花咲くみたいに、太陽みたいに、紫乃が笑う。 「君がすきだ、巧くん」 「……わっ、ちょっと、泣くなよ、十九歳にもなって」と、揶揄い混じりに言われて、「さっきまで大泣きしていた自称二十七歳に言われたくないです」と言い返したら、「自称は余分な」なんて、頭にゲンコツをもらった。痛かったから、これは夢ではないとわかった。  それから、ひとしきり笑って、手を繋いで、緑ばかりの桜並木を歩いて帰った。みやじ食堂まで、徒歩七分。  紫乃が鍵を開けて、それに続いて赤い暖簾を潜る。声を揃えて「ただいま」と言うと、奥のほうから足音が聞こえた。 「ポチー、ただいまー」  おかえりと、絶妙なタイミングで鳴いて、おまんじゅうがのっしのっしとカウンターの角を曲がってやって来た。一直線に紫乃に向かって、足に擦り寄る。巧と同じように、この人に拾ってもらったから、ポチも紫乃のことが大すきなのだろう。  紫乃が丸い腹の下に手を入れて、ポチを抱き上げる。片手を腕の下、もう一方をおしりの下が、ポチ専用の抱っこの形だ。残念なことに、腕だけ引っ張ると、身体がずり落ちてしまうのだから仕方ない。 「よいしょ」 「なあ」 「なに、腹減った? お前、そろそろダイエットに乗り出したほうがいいと思うよ?」 「宮司さんのご飯がおいしいせいだから、仕方ないよなー」 「なあ」 「な」 「ちょっと、ポチまで?」  なあなあ鳴くふわっふわの耳を撫でて、ポチを受け取る。痩せっぽっちだった面影がもうないのが、こんなにもうれしい。  と、いきなりポチが腕の中で暴れた。あわあわしているうちに、巧の腕を踏み台に背伸びをして、肩に両手をかけた。そこでようやく、服が汚れていたことを思い出す。この油の匂いが気に入らなかったようだ。 「そうだった。服……」 「とりあえず、風呂入ってきな。シャツは……たぶん落ちないから、雑巾行き」 「はあい」  ポチを床に下ろして、いっしょに風呂場に向かう。夜も入るだろうし、今はシャワーだけにしておこう。  シャワーを浴び終え、のんびりしている間に夕飯の時間になって、いつも通りにおいしいご飯を腹いっぱいにいただいた。紫乃は、拾ってくれた日から、ずっと巧との約束を守ってくれている。 「あ、片づけはおれがやっておくので、宮司さんはあしたの仕込み、してきてください」 「うん、じゃあそうする。ありがと」 「へへ、はい」  紫乃の分の食器を受け取って、流し台に置く。台拭きを濯ぐ水であらかじめ茶碗を濡らしておくと、米がふやけて取りやすくなる。  紫乃が食堂に消えるのを見届けて、テーブルを拭く。ふと、心の中で苦笑が沸き上がってきた。 (ハハ……、笑っちゃうくらい、変わらないんですけど……)  駅前でのあれは、やはり夢だったのだろうか。そんな風に訝しみたくなる程度に、紫乃の態度は変わらなくて、少し拍子抜けしている。  確かに、「すきだ」と、言われた。  告白なのだということは、考えなくてもわかった。ああ、おれは、一生叶わないと思っていた、この人の隣に立てるのだと、堪らなくなった。……それが、見破られていたのだろうか。恋人らしいことを期待した巧を嘲笑うかのように、紫乃はそれはそれは「ふつうに」接した。 (宮司さん、わかってんのかなあ……。おれは、四六時中あんたのことを思っては、そういうことも、考えたりしちゃってるのに)  皿を洗う手が止まりそうになるのを振り切って、素早く洗い上げを終わらせる。食堂のことはわからないけれど、なにか手伝えることがあればいいと思い、爪先を向けた。 「宮司さーん、皿洗い終わったんですけど、なにか手伝いますかー?」 「んー、ありがとう……うっ」 「宮司さん?」  なんだか変な声が聞こえて、食堂に顔を覗かせる。紫乃がいっぱいに背伸びをして、洗い台の上の棚から、なにかを引き出そうとしていた。引き摺られて、上に重なる鍋が揺れている。 「宮司さん、危ない」 「へ?」  慌てて突っかけで近寄って、上の鍋を手で押さえる。驚いたのか、その拍子に取っ手を持つ紫乃の手に力が加わり、篩が引き抜かれた。 「あ、ありがとう……」 「篩?」 「あ、うん。使ってたの、目が不揃いで、このへんにあったのを思い出して……」 「そうですか」  うん、と篩を抱え直す姿に、違和感を覚える。 (目が、合わない……)  試しにちょっと顔を寄せて、俯く横顔を覗き込むと、びっくりしたように紫乃が身を引いた。その表情を見て、今度は巧がびっくりする。 「え、宮司さん……、耳まで真っ赤なんですけど」 「うっ、うるさい」  熱でもあるのだろうか。でも、さっきまであんなに元気だった。まさか、とは思うけれど。 「あの、宮司さん。聞いてもいいですか?」 「嫌だ」 「もしかして、おれのせいですか?」 「嫌だって言ってんだろ」  赤い顔、俯く瞳、ちょっと震えた指先。おれ、こんなに鈍感だったのか。 「ねえ、宮司さん、聞きたいです、おれ」と言うと、ようやく躊躇いがちに丸い瞳が上がって、巧の顔を睨んだ。 「……すきな人に、いきなり近づかれたら、びっくりするだろ」 (……うわ……っ)  すきな人。  その口で、その声で、自分に向けられて、聞けると思っていなかった。ずっとずっと、ずっと、思っていなかったのに。ああ、どうしよう。 「宮司さん」 「……なに」 「キスしたい」 「えっ」 「でも、手離したら上が崩れちゃうから……、こっち、来て」  空いているほうの手を差し出す。戸惑う紫乃の手をとる。こちらから引き寄せて、無理矢理することもできたけれど、それでは、もう満足できない。「おねがい」と囁くと、一歩、一歩と、小さく近づいて、鼻先で目が合った。出会った日と変わらない、きらきらした、星空みたいに澄んだ目だ。  目を閉じて、そっと唇を合わせられた。伝わってくる震えが、鼓動が、温もりが、愛しくて堪らない。  ああ、どうしよう。  うれしくて、死ぬかもしれない。 「……巧くん、上がったよ」  布団を敷いて、部屋の隅っこで本を読んで、精神統一をしていたところに、声をかけられた。  なにも意識せずに顔を上げたのがまずかった。寝巻に着替えた紫乃なんて、毎日のように見ていたはずだったのに、赤く火照った首筋や頬に、絶息しそうになる。頭の中が空っぽになって、さっきまで目の前で繰り広げられていたはずの明智探偵の推理も、少年探偵団の活躍も、二十面相の逃走劇もどこかにいってしまった。  慌てて目を逸らして、手元に視線を縛りつける。今の自分には、ちょっと刺激が強すぎる。  ――と、紫乃の気配が近づいてきた。ぽりぽりと頭を掻きながら、肩がくっつくくらい近くに腰を下ろす。思わず、息を詰める。紫乃の小さな手が、顎が、肩に載っかってくる。くすっと、大人みたいに笑われた。 「なに読んでるの?」 「江戸川乱歩……」 「おもしろい?」 「はい、なんか……変な話ばっかりで」 「それおもしろいの?」 (うわ……、笑う度に、振動が伝わってくる) 「読み終わったら、貸してくれる?」と耳元で言われて、なんだか頭がくらくらしてくる。 「巧くん」 「は……、はい?」  声が上擦って、恥ずかしかった。でも、だけど、ちょっといろいろ、心臓に悪すぎるんだ。 「こっち向いてよ」  本を閉じて、目を伏せたまま、ゆっくりと、首を動かす。瞳を上げたら、鼻先がぶつかりそうなほど近くで、目が合った。茶色く丸く、濁りのない綺麗な瞳だ。 「宮司さん……」 「うん?」 「すきです……」 「うん。おれもだよ」  少し、首を傾けただけで、唇が重なった。ふわりと、歯磨き粉の香りがした。触れるだけのキスは、息が苦しくなるより早く過ぎて、そっと瞼を上げた。  布団に、紫乃の身体を組み敷く。熱を孕んだ視線が、呼吸の度に上下する胸が、桃色に染まった指先が、巧を見上げてくる。腕を伸ばして、慈しむように髪を混ぜられた。  夢みたいだ。ずっと片思いをして、ずっと叶わないと思っていた。  口づけを落とす。応えてくれる。柔い唇が、いっぱいに受け留めてくれる。 「宮司さん……」 「うん?」 「おれ……、キスがこんなにうれしいものなんて、知らなかった。こんな、こんな、胸がいっぱいになるなんて、しらなかったんです……」 「そっか」  だめだ。止まらない。  こんなこと、言うつもりなかったのに。もっと格好よく、リードするはずだったのに。気持ちが溢れて、止められない。 「おれ、自分が、こんなに人をすきになれるなんてしらなくて」 「うん」 「もしかしたらおれは、適当にだれかをすきになって、適当に付き合って、適当に結婚とかするんじゃないかって……」 「うん」 「でも、違った」  違ったよ。おれは、おれの人生の中で、ちゃんとあんたを見つけられたよ。それが、こんなにこんなに、うれしいんだよ。  まあるい掌が、髪を撫でる。  情けない声を飲み込んで抱き締めた身体は、確かに、温かかった。  額に、瞼に、頬に、ぽつりぽつりと口づけを渡すと、紫乃は擽ったそうに目を細めた。ああ、なんでこの人は、こんなにかわいいんだろう。どうしてこんなに、格好いいんだろう。きっと、何年、いや何十年見ていたって、飽きない。  十分慣らした場所に、そっと熱を宛がう。柔らかくなった入口に先が入る。少しずつ腰を進めると、苦しそうな声がした。布団を握る右手に手を重ねると、痛いくらいに指を絡められた。同じくらいの力で、握り返す。  ――ふと、弛んだ、安心したような表情に、心臓が変な音を立てる。 「みやじ、さん……っ」 「んん……っ、はあ……」 「ごめん、力、抜いて」  首筋に舌を這わせる。宥めるように耳の裏を嘗めれば、砕けた吐息が耳朶に届いた。  紫乃の左手が、首の後ろに回る。やさしく抱くように、引き寄せられる。驚いたせいで、一気に腰が進んでしまった。くぐもった声のあと、くしゃりと巧の髪を掻き混ぜて、紫乃が笑う。 「入った?」 「う……はい」  顔が熱い。紫乃の中も、それ以上に熱くて、額から汗が落ちる。  どうしよう。言葉にできない。堪らない気持ちで、心が熱い。頭なんかじゃない、胸の、心臓のもっと奥が、いっぱいになるんだ。おれの心は、確かに、ここにある。世界で一番美しいものを抱き締める。  腰を揺らして、紫乃の感じるところを探す。耳に響く甘い声音に、ぞくぞくする。下唇を噛み締めていないと、堪え切れずに達してしまいそうだ。互いの身体を寄せて、高め合う。限界が近い。  不意に、桃色の指が、巧の唇を撫でた。視線を上げると、今まで見たことがないくらい、綺麗な微笑みがあった。 「くち……、切れちゃうよ。眉間もすげー皺」 「……宮司さんこそ、無理して大人ぶってる」 「うるさいよ」 (――うそだよ)  こつん、と額をぶたれて、笑ってしまう。ほんとうは、夢で見たみたいじゃないんだ。ほんとうはね、いつもの幼い顔からはちょっと考えられないくらい、今艶やかに笑う顔に、息が止まってしまいそうなんだ。  唇を重ねる。うれしくて、幸せで、どうしようもなく、鼻の奥がつんとした。「みやじさん」と情けない声が出た。  宮司さん。  宮司紫乃さん。  あの日、おれを拾ってくれた、お人よしでやさしい人。子どもみたいに無邪気に笑って、魔法の手で料理を作る、不思議な人。一度、あんたを裏切ってしまったおれを許して、迎え入れてくれた、ちょっと甘い人。つらい過去に向き合い、手探りでも自分の明かりを見つけた、強い人。  ここに――宮司さんの大切なこの場所に、再び戻って来られた日、ただただ、あんたのそばにいようと思った。宮司功一に勝てなくても、一番になれなくても、ただそばにいて、ほんの少しでも、宮司さんの助けになれればそれでいい、そう思った。許してほしかったわけじゃない。そのときのおれは、それが正しくて、そうあるべきだと信じ込んでいた。でも、違った。  例えば、もし、紫乃に新しいすきな人ができたら。功一の次にすきな人が、ここに来るようになったら。紫乃と一番多く笑うのが、自分ではなくなったら。紫乃が人生の続きを共に歩みたいと思う人が、現れたら。  ーーそれでいいなんて、ほんとうにおれは、頷いていた?  紫乃と続きを歩く人が、ほかのだれかでいいなんて、心から思えたことなんかない。ほんとうは、ないんだよ。  どんなにいい子の顔をしていたって、物わかりのいい振りをしていたって、諦めた顔をしていたって、ここに鼓動する心が、必死で首を横に振っていることに、もう、気づいてしまったから。 「宮司さん」  呼ぶ。名前を呼ぶ。  櫻井紫乃ではない。おれがすきなのは、今のあなただ。  やさしくて、子どもみたいで、不思議で、人に甘くて、強くて、たくさんの過去をぜんぶ受け留めて、大切に背負っていく。そんな人だ。 「おれ、しらないことばっかりなんです。宮司さんといたら、いっぱいそういうの、しれると思うんです」  そういう重荷を、分けてほしいとは、言わない。自分自身で、乗り越えるべきものだ。そんな紫乃から、自分なりにいろいろなものを、教えてほしいと思うのだ。  功一と歩いていけばいいなんて、諦められなくなった。そんな自分の醜い気持ちも、紫乃と過ごした時間が重なった今だから、知ることができた。  でも、もう、嫌だって、おれがいいって、ちゃんと言うよ。――だって。 「巧くん」 「……はい」 「だったら、これからも、いろんなことを、知っていこうよ。おれといっしょに」  それを、もう、ほかのだれでもない、紫乃が許してくれたから。  これからも、そばにいてくれる人が、宮司紫乃で、うれしい。  滴が溢れた。愛しい指が、拭ってくれる。 「宮司さん……」 「うん……?」 「すきになってくれて、ありがとう」  こちらこそ、と笑われる。  宮司さんが同じ気持ちでいてくれるのが、うれしい。 「おはようございます……」 「おはよう。はは、眠そうだなあ。顔洗っておいで」 「ふあい……」 (夢……?)  ぼけっとしながら、洗面所に顔を洗いに行く。うがいをして、髭を剃って、台所に戻る。  紫乃は朝食の目玉焼きを焼いていた。弱火でじっくり熱し、白身はカリカリ、黄身はとろとろが宮司家の目玉焼きだ。隣の鍋では、味噌汁がいい匂いをさせている。もちろん、紫乃は沸騰させるなんてへまはしない。いつもと同じ、朝の風景。 「……た、巧くん?」 「……あ」  無意識に、その背中に触れていた。驚いたように、紫乃が振り返る。それでも卵焼きをスクランブルにしないあたりはさすがだ。一度触れてしまったせいで、引っ込みがつかなくて、そのまま話す。 「えっと……、夢じゃなかったのかなって」 「夢? まだ寝ぼけてる? 君のお陰で、おれの腰はいい感じにバッキバキだけど?」 「う……」  まさか紫乃からそんな発言をされる日が来るとは思わなくて、かっと頬が熱くなる。それを見てか、いたずらっ子みたいに白い歯を見せられる。 「だから、責任とってよ。日曜日だろ、大学生」 「……よろこんで」 (夢じゃ、なかった……)  触れる掌を離すと、鮮やかに温かさが滲んでいた。目の前にある笑う顔が、夢であるはずがなかった。  なんだか照れ臭くて、「九月真ん中まで夏休みなので、扱き使ってください」と笑い返したら、「心強いな」と、腕を叩かれた。  出来上がった熱々の朝食をテーブルに運ぶ。夏であろうと、ご飯は暖かいに限ると思う。  ご飯の気配を察して、どこからともなくポチもやって来た。もうすでに、喉をぐるぐる鳴らしている。おはよう、と話しかけると、にやにや顔で巧の足を一周した。ポチには、浮かれた心がばれているようだった。 「いただきまーす」 「いただきます」 「目玉焼きうまーい」  ほくほくと湯気を上げるご飯は、やっぱりおいしい。紫乃が作るものが、自分の血に、肉になっていく。巧の足元で、ポチがおかかを口いっぱいにつけてご満悦だ。 「ん、そうか。夏休みってことは、巧くん時間ある?」  思いついたように箸を止めて、紫乃が尋ねた。ちょうど白米を噛み締めていたので、こくこく頷く。海苔の佃煮の味と合わさって、おいしい。しっかり佃煮の甘みを味わってから、改めて返事をする。 「はい。食堂を手伝う以外は暇です」  毎日、一分一秒でも長く、紫乃を手伝いたくて、飲み会もバーベキューもプールもぜんぶ断った。そんなおかしな自信を勘づかれて、「たまには遊びに行けよな」と苦笑される。 「夏休みなんてあっという間なんだから、暑いうちにできるたのしいこと、いっぱいしておきな」 「ここでの手伝いが一番たのしいんですけど……」 「うちの手伝いはいつでもできるだろう」  その何気ない台詞に、巧がとんでもなくうれしくなっていることを、この人はわかってるのだろうか。「いつでも」というたった四文字に、ずっとここにいてもいいと言われているみたいだと思うのは、自意識過剰だろうか。食事中でなかったら、ポチと仲よく床を転げ回ったかもしれない。 「なにモゴモゴしてるの?」と箸を持つ手を突かれる。が、やっぱりにやけるのを止められそうになかったので、慌てて味噌汁を啜った。  豆腐を一つ残らず飲み込んだところで、もう一度、紫乃の指先が、巧の手の甲を突いた。 「巧くん。おれと行ってほしいところがあるんだ」 「へ? はい」  結局どこに行くのか知らされないまま、笑顔の紫乃と数日後の約束をした。

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