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その9-1
ほんとうに、本気で人をすきになったら、どんな気持ちなのだろう。
「あ~、美帆ちゃんほんとすきだ……」
「告白しないの?」
「美帆ちゃん、彼氏いるから。前、駅前でいっしょに歩いてんの見た」
「はあ? じゃあなんですきなの?」
揃いの制服を着て、ファストフード店で並んでシェイクを啜る友人の言うことが、巧にはまるで理解できなかった。叶わないと知っているのなら、なぜいつまでも引き摺っているのだろう、早く次の子を探せばいいだろう、と、不思議で不思議で、堪らなかったのだ。
溜め息を吐く友人の横顔は、ひどく大人びて見えた。
「なんでとか、そういうんじゃなくてさ……、そりゃあおれが付き合えたら一番いいんだけどさ、なんか、美帆ちゃんが幸せなら、おれが彼氏じゃなくてもいいかなって思うんだよね。美帆ちゃんが幸せそうで、それでまあ、そばにいられるんだったら、友達でいいかなって。わかる、おれのこの繊細な気持ち?」
「まったくわかんねえ。結局、オカズにするんだろ」
「だーっ! もーこれだからイケメンは!」
「なんだよ、それ」
わかる。
わかるよ。今なら、わからない気持ちを誤魔化さないで、「そっか」って、ちゃんと頷いてやれるよ。
あのときの自分は、友人の言葉が外国の言葉みたいに聞こえて、その気持ちをぜんぜん汲んでやることができなかった。「そばにいられるだけで」なんて、綺麗事だとか、負け惜しみだと思っていた。
でも、今ならわかる。わかったから言える。ほんとうは、そんな気持ちを知っている友人が、少し羨ましかったのだ。
ほんとうに、本気で人をすきになったら、どんな気持ちなのだろう。
その、だれに問うたらいいのかもわからない答えを巧に教えたのは、だれかのためにうれしそうに料理を作る人だった。
潤みそうになった目を慌てて伏せて、巧はスプーンを手にとった。鼻腔を巡る香りを、いっぱいに吸い込む。濃厚で、それでいて纏わりついてこないさっぱりとした香りだ。
「いただきます」
手を合わせる。どんな料理にも、その食材と、作ってくれた人に、最大の感謝を。
スプーンでルウを掬うと、中から野菜が宝石箱を開けたみたいに、次々と見つかった。ニンジン、トマト、タマネギ、ニンニク、肉も小さめに切ってあるのは、きっと、客の中に子どもや年配者もいたことを、気づいていたからだ。
口に入れた途端、ふわりとフルーティーな甘酸っぱさが広がった。トマトも塊が適度に残っていて、この甘さの正体が熟れた天然のトマトにあると知る。そういえば、ご飯も普段の白米とは少し違う。
「麦ごはんだ」
「リゾットか」
隣で食べていた小戸森と声が重なって、互いに「え?」と顔を見合わせた。
「小戸森さんと、ご飯の種類が違うんですか?」
「君のは麦ごはんなのか」
「人によって食べたい気分って違うから、変えたらおもしろいかなって、思ったんだ」
例えば、食べ盛りの子どもや若者には腹に溜まって、かつ香ばしい食欲をそそるものを。夏の暑さに食欲が減っている人には柔らかく口触りのよい、消化にもよいものを。紫乃がほかにどんな種類を用意しているのかわからないけれど、ちゃんとこの季節のことや、食べる相手のことを思いやれるこの人の料理が、やっぱりすきだと思った。
それを今、口にするのは憚られて、もう一口、ハヤシライスを頬張る。さっきよりも、ずっと、やさしい味。
「食材じゃ勝てないから、知恵を絞ってきたってことですか。ご苦労さまです」
針で刺すような嫌味に、思わず鋭い視線を向ける。目が合うと、柏崎は嘲るように鼻を鳴らした。
「僕は、食材でも勝負していますから」
「高い食材を使えばいいってもんじゃない」
「それはどうかな」
確かに、高いものにはそれだけ手がかかっていて、品質という安心感もある。高い理由は納得できる。それでも、安価でもきちんと手がかかっていて、人の目が行き届いている、作った人の善意で成り立っているものだってある。紫乃は、そういうものを見つけてくるのが上手な人だと思う。
柏崎の料理が、小戸森の前に出される。香り高いうどんだった。小戸森が箸に手を伸ばしたのと同時に、柏崎が軽く炒めた肉をさっと麺に載せる。
「スタミナ肉うどんです。七味や具はおこのみでどうぞ」
(……うまそう)
適度な焼き目から、かりっとした食感が想像できる。重くならないよう、薄く切ってある。このみで量を調整するのだろう。
透き通ったほんのりきつね色の汁に、付け合わせのホウレンソウやネギやかまぼこなんかを自由に加えられるよう、小皿が用意される。小戸森は、少量の七味と野菜を盛って、一気に啜る。食欲を煽る音だ。
「……いい肉ですね」
「ふふ、わかりますよねえ。お肉は国産のA5肉、付け合わせも、国産の一級品を集めました」
満足そうに笑むと、柏崎は白米と出汁巻き卵の皿を並べた。端のほうに大根が擦ってあって、出汁巻き卵とでもうどんとでも、合わせたらおいしいんだろうな、と口の中に唾液が沸いた。
「付き添いの君も、お客さんになって食べてきたらいいんじゃないかな。そのほうが、冷静に比べられるでしょ」
見透かしたように、そのくせ、こちらを見もせずに言われて、カチンときたが、それもそうだと納得する。本来料理は比べるものではないと思うが、巧は、紫乃のハヤシライスには思い入れがありすぎる。
「……そうします」
立ち上がって、顔を上げる。真正面から、柏崎の視線を受ける。宮司さんのことをとやかく言うのならば、ちゃんとおれと、目くらい合わせなければ許さない。
一瞬、バチリという架空の音がしたかと思うくらいの眼差しだった。一拍置いて、目を離す。踵を返して、キッチンを出る。
「巧くん」と、戸惑うように呼びかけられた。
もう、ばかだなあ。なにそんな声出してんの。なにに不安になってるんですか。あんなに、自信満々にしてたの、だれですか。
「大丈夫です、宮司さん」
振り返る。大丈夫だよ。
「信じてるから」
紫乃を、信じている。だから、行くのだ。
おれが、みやじ食堂の従業員として、直接お客さんのよろこんでくれる顔、見てくるよ。あんたの料理にうれしそうに笑うところ、ちゃんと見てくるよ。
紫乃が表情を和らげる。巧の言いたいことが、言葉にしていないのに、伝わったみたいだった。
(肝心なことは、言わないと気づかないくせに)
と、ちょっとおかしくなって、笑みが零れた。
それでいい。ほんとうに伝えたいことは、この声に載せて届けたい。言葉にしなくても伝わったら、楽だし、理想だし、そうなればいいのにと、心底願った日もあった。けれど、わかったのだ。
一番伝えたいことは、この声で伝える。擦れ違っても、伝わるように努力する。理解し合うことを諦めなければ、いつか手を取り合える。それを、紫乃から教わった。
あの日、紫乃にすきだと言った。初めて、口にした。
たくさん傷ついたけれど、たくさんたくさん傷つけたけれど、今、共にいられる。あの日よりももっと、あんたをすきだと、胸を張れる。
声にして、その確かさを抱き締める。人だけにできる、美しい行為だ。
「よろしくね、巧くん」
「はい」
中でも、紫乃が、一番美しいと思うのだ。
勝負のルールとして、料理を作った本人は、客の前に顔を出さないことが約束された。柏崎が、「顔見たら、みんな若い子を応援したくなっちゃうでしょ?」と、紫乃の童顔を揶揄したせいだった。
(……うわ、すごい人)
思っていた以上の集客に、HEMPの人気を改めて実感する。みんな、話に花を咲かせて、料理を待っている。ぽかん、と一人で突っ立ていたら、すぐそばのテーブルの老齢の女性に声をかけられた。
「座るところがないの?」
「え、あ、はい」
「それなら、ここに座りなさいな」
「すみません、ありがとうございます」
親切な老婦人は、顔をくしゃっとさせた。たぶん、笑ったのだろう。会釈をして、ありがたく相席させてもらう。向かい側には、旦那だろう、柔和な笑みを浮かべる老夫がおしぼりを渡して、迎え入れてくれた。
「なにが食べられるか、今からたのしみだのう」
「はい。お爺ちゃん達は、ここにはよく来るんですか?」
「家が近いからなあ。広告をもらったんだよ」
「そうなんだ」
そうか、HEMPには、こういうお客さんが来るんだ。小戸森の、不器用なやさしさの欠片が、確かに伝わってくる。
周りは、期待に満ちた顔でいっぱいだった。こういうところを見ると、たぶん、都会ではできなかった勝負だと思う。少し離れた、この街だったから、小戸森の仕事を信頼して、期待して、近所の人が集まってくれたのだ。そういう人達に、きっと紫乃の料理は伝わる。
ざわりと空気が変わって、振り向いたら小戸森がちょうどキッチンに繋がるドアから現れたところだった。客の視線を受けながら、小戸森が背筋を伸ばす。凛とした、大人の顔だ。
「本日は当店にお越しいただき、誠にありがとうございます。店長の小戸森と申します。この度は、先日お知らせいたしました通り、二人のシェフによる趣向を凝らした料理を提供させていただきます。どなたさまもどうぞ、お食事をおたのしみくださいませ」
挨拶に暖かい拍手が送られる。小戸森が礼を返すのを皮切りに、ふわりと豊かな香りが漂ってきた。料理がぞくぞくと運び込まれてくる。
ルールは簡単だ。紫乃と柏崎、二人の料理がテーブルに運ばれ、よかったと思うほうに入口で配られた花を添える。贈られた花が多いほうが、この勝負の勝者だ。
各テーブルに、メインの皿が配膳される。巧達のテーブルにも届いた二つの料理に、老夫婦は「まあ」と感嘆の声を上げた。
「おうどんだねえ。お肉もおいしそう」
「こっちはハヤシライスかね。……ん? ご飯が変わってるかあ?」
二人とも、興味津々に料理を見ている。柏崎のうどんは付け合わせがビュッフェ形式の別盛りだったため、夫婦に欲しいものを聞いて皿に持ってきた。紫乃の星空ゼリーは食後らしい。
テーブルに戻ると、老婦人が料理を小皿に三等分してくれようとしていた。
「あ、お婆ちゃん、おれはうどんだけでいいですよ」
「そうなの?」
「うん。ハヤシライスのほうは、もう食べたんです」
少しでも多く、たくさんの人に、紫乃の料理を味わってほしい。それが、巧の一番の願いだ。
伸びてしまうからと、老婦人は先にうどんを取り分けた。そこで柏崎の戦略に気がついて、歯噛みする。暖かい料理は、基本的に暖かいうちに食べてもらうのが一番おいしい。それをわかっていて、柏崎はあえて麺類にして、先に手に取ってもらえるように仕向けたのだ。くやしいが、考えられている。
それぞれ、エビの天ぷら、油揚げや釜揚げ、ホウレンソウ、卵などでうどんを飾る。かりかりの肉の上に卵の黄身が絡んで、一気に喉が鳴った。
「……いただきます」
どうしようかと、思った。おいしい。
巧は、心のどこかで柏崎を侮っていた。大したことないだろうと、勝手に決めつけていた。それは間違いなく、巧の落ち度だ。柏崎の態度はよくない。しかし、目の前のこれは、間違いなく一人の料理人の料理だ。
肉の風味を殺さないよう、薄味の汁に、具といっしょに口に含みやすいための細めの麺。揚げ物との相性もいい。蓮華で汁を啜れば、釜揚げのタマネギの風味と混ざって、また違う味がたのしめる。汁に沁み出した柏崎自慢の肉の脂はしつこくなく、後味に甘みが残る。それが加えた薬味と複雑に絡んで、止まらなくなる。
「おいしいねえ。身体の芯がぽかぽかする」
「ホウレンソウが合う合う」
「あら、お肉も付け合わせもぜんぶ国産なのね」
アナウンスによる料理説明を片耳に、ずるずるとうどんを啜って、老夫婦が頷いている。店内は強めに空調が効いているから、汁の熱さもちょうどいいらしい。付け合わせの白米にも、みんな手を伸ばしている。
……勝負しているのが、紫乃じゃなかったら、不安で押しつぶされそうになっていただろう。でも、今は、ぜんぜん不安にならない。むしろ、紫乃の料理を食べてくれるのを、こんなにたのしみにしている。おかしいな、宮司さんが伝染ったのだろうか。
うどんを食べ終えて、老夫婦が品よく箸を並べた。ほう、と息を吐いて、婦人が口元を拭う。
「じゃあ、こちらも取り分けますね」と、取り皿に手を伸ばそうとした、そのときだった。
「お腹膨れちゃったねえ」
「うん、おいしかったし、こちらのほうは、申し訳ないけど、下げてもらおうか」
――そう、目を離されたのは、紫乃の皿。
(……え、まって)
周りを見回す。どのテーブルも、柏崎のうどんの皿は空だった。しかし、ハヤシライスの皿は、まだ空いていない。
もう一つの柏崎の戦略が、黒煙となって足元から立ち上る。ビュッフェ形式を選んだ狙いは、これだったのか。
(まてよ、それは)
「すみませーん、これ」
宮司さんの気持ちが、いっぱいいっぱい詰まった料理なんだ。一口食べたら、伝わるはずなんだよ。
「下げてもらっていいですか?」
ちょっと待ってよ。
ぽつり、ぽつりと、同様に挙がりはじめる手に、血液が沸騰する。食べ物を粗末にするなとか、そんな綺麗事を言うつもりはない。そんな他人事じゃ、おれは動けない。でも、ほかでもない宮司さんの料理が食べてもらえないなんて、許せない。そんな、宮司さんがかなしむこと、ぜったいに見逃せない。
(……なんでだよ)
戸惑いながら、従業員達が目配せをしている。
(なんで、おれの声、出ないんだよ、馬鹿野郎……っ)
無理して食べ過ぎるよりも、いいに決まっている。料理は、客のために出されたものだ。決定権は、作った側にはない。だから、紫乃は間違いなく「仕方ないよ」って笑う。ぜったい、笑う。
でも、そんなのは、おれが堪えられないんだ。ぎゅっと拳を握る。力の入りすぎで手の甲が白くなっているのが、視界の端に映った。
「――待」
「このカレーおいしいー!」
それは、鶴の一声だった。
店中に響き渡った無邪気な声に、思わず言葉を引っ込めた。
「おかあさん、このカレー、さっきとあじがちがうよ」
「これはね、カレーじゃなくて、ハヤシライスっていうのよ」
「なにがちがうの?」
「ええ~?」
小さな女の子と若い母親の、たのしそうな会話が、響いてくる。たくさんの声がある中で、そこだけ、花が咲くように眩しく思えた。
「……あら、ほんとうだ。すごいねえ、さっきよりコクがあるみたい」
「コク?」
「おいしいってことよ」
「うん、おいしい!」
(……味が、変わってる?)
老夫婦に一言置いて、手をつけていないハヤシライスを自分の小皿に取り分けた。まだ、ほんのり暖かい。
ほんとうは、一番あったかいときに、食べてほしかったな。
そんな気持ちが零れ出てきてしまいそうな口を小さく開いて、ハヤシライスを食べる。
「……ほんとうだ……」
紫乃がどんな魔法を使ったのか、巧にはわからない。でも、違う。
最初のさっぱりした一口ももちろんおいしかったけれど、また違う味が、今口の中に広がる。滑らかに舌を撫でる甘味が深くなっている気がした。しかし決してくどくなく、果物みたいな爽やかさはそのままだ。午後の日差しの中、昼寝をする肩にかけられたタオルケットのような、安堵感のある風味。
陶器と金属の触れる音が聞こえた。
顔を上げる。
目の前にいる来客達の目が、夜空の星々みたいに見えた。
(ああ、すごいなあ……)
宮司さん、見えていますか。おれが代わりにいるこの場所の景色が、あんたにも届いていますか。
きらきら、きらきらと、色が灯っていく。静寂に沈む町に、人の手の小さな明かりが現れるように、ぽつり、ぽつりと、確かに、増えていく。
「ばあさんや、取り分けてくれるか」
「ええ、ええ」
目を細めて、老夫婦がもう一度、皿に手を伸ばしてくれた。
ああ、どうしよう。なんだか、胸がいっぱいだ……。
最初に声を上げてくれた親子に、目線だけで振り向いた。母親も、女の子も、笑っている。口の端にルウをつけている女の子の顔を、母親が拭ってあげている。――気づけば、周りの人達も、みんな笑っている。
(ほら、見て。宮司さん)
見て。あんたのあったかい料理は、あったかい心の人達へと、伝わっていくんだ。あんたの料理を受け取って、みんながあったかい気持ちになっていくんだ。それが、どんどん次の人へ、隣の人へ、そばにいる人へ、届けたい人へ、伝わっていくんだよ。ね、すごいでしょう。おれは、知っていたよ。
宮司さん。
宮司さんの料理は、人を幸せにするんだって、おれは、ずうっと前から、知っていましたよ。
「皆様、料理が少々冷めてしまったようなので、ご希望のお客様にはルウを追加させていただきます。スタッフが近くに参りましたら、お声かけください」
小戸森のアナウンスに、あちこちから手が挙がる。
(ああ、宮司さんには、見えていたのかな)
こんな風に、料理が繋ぐ景色が、わかっていたのだろうか。
(――いや。どうせあんた、今だって、デザートにもう一工夫できないかとか、そんなこと考えているんでしょ)
自信満々に見えて、内心は自信がなくて、目の前の一人一人の客のために、もっともっとって、よりよい方法を考える。それを周りにはひた隠しにして、たった一言、「おいしい」という言葉に目を細くして、「だろ?」なんて笑うのだ。
そんな宮司紫乃を、すきになった。だから、変わらないでいてほしいと願う。あんたは、あんたでいて。
代わりに、おれが目に焼きつけよう。宮司さんが繋いだものを、おれが伝えるよ。
ぽつぽつと皿が空きはじめたところで、デザートが運ばれてくる。受け取ったテーブルから、「きれい!」と声が上がって、うれしくなった。
間もなく巧達のテーブルにも、三つのゼリーが配られて、ほら、やっぱりな、なんて笑いそうになった。目の前に置かれた「元」星空ゼリーは、やっぱり一加えがなされていた。
「綺麗だねえ」
「お前のは星か」
「あら、あなたのはかわいらしいお花ですね」
「兄ちゃんのは……ははは、魚が泳いでるみてえだな」
「……はい」
色とりどりのゼリーの中に浮かんだ寒天は、たくさんの形で溢れていた。一体何種類あるのだろう。それぞれ、わざわざ色を変えて、テーマごとに形が混ざらないように準備して。なんて面倒なことをするんだと、思われるかもしれない。でも、これを作った人は、それすらたのしそうにやってしまう人なのだ。
目の前のたった一人の笑顔を、一番に考える。
それが、きっと、宮司功一から、紫乃が受け取ったものなのだろう。
客がいなくなった店内は、笑顔の余韻に包まれていた。だれもが満足した顔で、思い思いの投票をしてくれた。
ほんのわずかの差で、紫乃が勝った。
意外だったのは、双方同じだったらしい。柏崎は自分の勝利を確信していたし、巧は、紫乃が大差で勝つと、はじめは思っていた。
「……まあ、見た目で家族票を取られた結果ですかね。やっぱり、ばかな客ばかりだ」
勝負が終わって、ふう、とわざとらしく溜め息を吐く柏崎に、思わず殴りかかりそうになる。でも、だめだ。そんなことでは、解決にはならない。自分よりくやしいはずの当人が堪えているのなら、堪えるべきだ。けれど、ただ黙っていることはできない。
「柏崎さん」
「なんです?」
「そこ、座って、ちょっと待っててください」
厨房の隅のイスを指すと、怪訝そうに柏崎は腰を下ろした。それを見届けて、巧はコンロに近づいた。火をかけようとして、「巧くん?」と紫乃に呼び止められる。
「どうしたの?」
「宮司さんの料理が見た目だけじゃないって、教えたいんです」
「……うん、そっか。ありがとう。煮え過ぎないように、火を弱めて」
「はい」
(……あ、照れた顔)
紫乃の手は、器用だ。少し目を離している間に、おいしい料理をぽんぽん作る。瞬きするのが勿体ないくらい、華麗で、美しい。でも、それ以外は思わず微笑みたくなるくらい、不器用だ。かわいい。
お玉を紫乃に渡して、巧はゼリーを用意する。冷蔵庫にいくつか残っていたカラフルなゼリーに、苦笑した。デザートに、どれだけ凝ってるんだよあんた。
「お待たせしました」
暖め直したハヤシライスを、柏崎の前に出す。渋々といった仕草で、柏崎がスプーンを取った。
「……いただきます」
「……え」
「なんです」
「あ、いえ……」
びっくりした。柏崎のようなタイプの人間が、ちゃんと手を合わせるなんて、思っていなかった。
(そうか……、お客さんは、柏崎さんを知らない。だから、料理で感じ取るしかなくて、僅差だったんだ。この人の根本は、きっと、そういうこと、なんだ)
静かに、柏崎がハヤシライスを口に運ぶ。味わうように、ゆっくり咀嚼する。
「……おいしい。先輩の料理みたいだ」
零れ落ちた言葉に、嘘はなかった。ぽろりと、無意識に転がったみたいだった。確かに、確かに、おいしいと。
はっとしたように、柏崎が口を塞ぐ。それでも、紫乃の不思議そうな視線に諦念したのか、小さく一つ、息を吐き出した。
「柏崎さん……」
「……あの人みたいな、食べる相手のことばかり考えた味だ」
わざと、感情を削ぎ落としたように淡々と声にして、それから、一の字に唇を結んで、目を伏せた。紫乃が、そっとゼリーを差し出す。
「柏崎さん」
「……はい?」
「コウ先輩の話、もっといっぱい、教えてください。聞きたい」
「子どもみたいだなあ」
(あ……)
くしゃり、と柏崎が笑う。
(この人、こんな顔して、笑うんだ)
紫乃と同じ人に憧れたこの人は、おそらく、どこかで無理をしてきたのだろう。なにがあったのか、なにがきっかけだったのか、わからないけれど、これだけは言える。この人も、宮司功一からなにかを受け取った人なのだ。
功一に会ってみたかった。
巧は功一にはなれないし、紫乃もそんなことを望んでいないことは、もうわかっている。ただ、ただ、今の紫乃を作った彼に、礼を言いたかった。一度でいいから、言葉を交わしたかった。たくさんの人に影響を与えた彼に会えば、自分もきっと、いろいろなことを知ることができたのではないだろうか。
叶わないことをいくら並べても、仕方がない。宮司功一は、もういない。それでも、人は人と関わり、繋がっていくのだ。
功一と関わった紫乃から、自分はそのバトンをもらおう。柏崎から、欠片を受け取ろう。
料理をすべて食べ終えて、手を合わせてから、柏崎は語りはじめた。後輩に見せる、宮司功一の姿を。
*
「ちょっと! コウ先輩、なんですかこれ!」
「おー、紫乃、おかえり」
「た、ただいま……、ではなく!」
赤い暖簾を潜った途端に、食堂のキッチンから異様な匂いが漂ってきて、慌てて功一の手元を覗きこんだ。
(これは……ひどい)
功一には驚かされるような料理を数々見せられてきたが、これは一等、やばい。
「なにをどうしたのか、お伺いしてもよろしいでしょうか。……あんまり聞きたくないですけど」
「市販の塩ラーメンに、マヨネーズと濃口ソースとブルーベリーソースを合わせてみた」
「なにがかなしくてそんなことを……!」
だから、表面がこんなにも紫色なのか。なんともかわいそうな感じだ。
紫乃が憐れんだ目で紫色のラーメンを見つめると、功一は「食べてみる?」と世間話を振るように箸を差し出した。
「……見るからに失敗作を食べさせようとしないでください」
「紫乃、誤解してる。これ、おいしいんだよ」
「嘘でしょ」
「いや、ほんとう」
「騙されたと思って」と、箸を握らされて、ぐうと呻きたくなる。思って、ではなくほんとうに騙されているに違いない。
そもそも、なんでラーメンにブルーベリーソースを合わせようと思うのかが、理解できない。あれか、肉にベリーソースをかける感じだろうか。……いや無理があるだろう。
「……紫乃?」
「あー、ハイハイ、わかりました!」
功一の澄んだ目に見つめられたら、もう引っ込みようがない。もう、料理人を信じるのみだ。一気にラーメンを啜る。
「……おいしい」
「すごくない?」
「えー、すごい……」
信じられない。功一特製ブソマーソラーメン(混ぜ合わせたものの頭文字をとったらしい)は、なぜだかすごくおいしかった。その理由が気になって、ずるずるとラーメンを啜り続けるけれど、どうにも、理屈ではないような気がした。
「あ、紫乃、おれの分も残して?」
「え? また作ればいいでしょう?」
「適当に混ぜたから、それぞれの量とかわからなくなっちゃった」
「なにやってんですか」
笑ってしまう。仕方ないな、ちょっとだけ、分けてあげようかな。
おいしいものは、一人で食べるよりも、だれかといっしょに分け合ったほうが、おいしくなる。料理人の仕事は、料理を作るだけで終わりだと思っている人は大勢いるけれど、そうではないと思う。どこで、だれと、なにを思って食べるのかで、料理人の手を離れてもなお、料理はどんどん味を変えるのだ。だから、食べる空間を与えるのも、料理人の大切な仕事だと思う。
だれもが一番おいしいと感じられる場所に、ここをしたかった。
「うん、おいしい」
「すっかり幻のレシピになっちゃいましたけど」
「また、もっとおいしいものを、作ればいいだけだから」
「……はい、そうですね」
へら、と笑う顔は、やっぱりいつ見ても抜けているなあ、と思うのに、功一が言うだけで、「もっとおいしいもの」が簡単にできてしまう気がするから、不思議だ。そして実際に、この人は、ほんとうに作ってしまうのだろう。それから、またきっと、「食べてみる?」と、紫乃に差し出すのだ。
功一の魔法の手に、これからきっとたくさんの人が、たくさんの調理されていくものが、幸せにされていくのだ。
「ぼくはね、教科書人間なんですよ。言われたことは、人より上手にこなせる。でも、自分で考えるのは苦手だった。ずっと昔っから。それでも不自由はなかったし、上手くやれてきたから、それでいいと思ってた。……そこに、ヘンテコな料理を作る人が現れたんです」
ああ、そうか、この人も、そうなんだ。変わらない日常に突然顔を出した魔法使いに、魅せられてしまったのだ。
柏崎の告白に、紫乃はじっと耳を傾けた。
胸の奥が、むず痒くなる。だれに対しても変わらず、マイペースで、ちょっとおかしくて、抜けていて、温かい人だった彼の姿が思い出される。
「ぼくの思いもよらないような料理を作って、おいしいものもおいしくないものもあったけれど、あの人と作る料理は、すごくたのしかったんです、……あの頃まで」
柏崎が指すのが、紫乃と出会うまで、という意味だということは、その視線でわかった。紫乃と出会って、柏崎の中の宮司功一は、変わってしまったのだ。
「……すみません」
「わかっているんですよ、ぼくだって。紫乃さんを責めるのは、お門違いだってことくらい。それでも、だれか一人のために料理をするあのときの宮司先輩に、裏切られた気持ちになった。『お客さんのため』なんて、結局絵空事だったんだ、ってね。料理人は、料理人である前に、一人の人間だ。社会に出れば、社会の歯車。あの人だけが違うと思っていたぼくが幻想を抱いていただけだったのに」
柏崎の笑みは、これまでとは違って見えた。皮肉そうな表情の影に、こんな顔を隠していたのかと、唇を噛む。
過去は、どうしようもない。出会いは突然で、だれにもなににも、変えることはできない。今の柏崎を作ったのは、紛れもなく、功一と紫乃だ。知らないところで、彼に、こんなさみしい顔をさせていたのだ。
だれかとだれかが結ばれるということは、その人たちを思うだれかが、傷つくことだ。それは恋愛とは関係のない繋がりでも同じで、本人たいの知らないところで、見えないところで、涙を飲む人がいる。さみしい顔をする人がいる。かなしむ人がいる。幸福ばかりが、世界に溢れているわけでは決してない。本人たちが、目隠しをされて気づかないだけだ。
不意に、巧の表情が過った。
ああ、おれは、おれの知らないところでもっと、もっともっと、つらい顔を、君にさせていたのかな。
もしそうならば、もう、いい。もう、ぜんぶ見せていい。おれがぜんぶ、受け留める。そう、伝えるつもりで作ったのが、きょうの君への一皿だよ。
柏崎の気持ちは、わかる。
お客さんのため、はときとして、建前になってしまう。おいしい料理が出せなければ、店は廃れてしまう。だから、目の前の客を差し置いて、経営を考えた料理を作る。高い食材や、ブランド、広報、有名なシェフ、立地を効果的に利用して、人を集めようとする。単純においしい料理でいいのなら、それでもいい。そういう客もたくさんいるだろう。
「うまい?」
「……はい。……最高に」
それでも、それでも、思い出すのは、あの、ほんとうに、心から溢れたようなあの言葉で、ああ、おれはこの一言がもらえるなら、また何回でも、いや何万回だって、同じように料理を作りたいと思えるのだ。
目の前の、たった一人の「おいしい」を聞くために、レシピを見直して、アレンジに頭を捻って、失敗してまずいものになっても、火傷しても、がんばれる。それが、みやじ食堂の味だと、信じているから。
それが間違っていないと教えてくれたのは、お人よしの居候と、きょうここに来てくれた客全員だ。
「……柏崎さん」
「なんです?」
「でも、おれはやっぱり、目の前のだれかのための料理を、作りたいです」
それが、お客さんでも、大切な人でも。
そこに、自分の料理を食べてくれる人がいる幸せを、忘れたくない。だれになんと言われようと、自分の気持ちを偽れない。
紫乃の視線を受けて、柏崎はもう一つ吐息を漏らした。それから、小さく笑う。苦笑みたいだった。
「ほんとうは、小戸森さんも紫乃さんと同じサークルに来たって聞いてたから、小戸森さんのお店に勝って、宮司先輩に勝ったつもりになりたいだけだったんです。そこに本人が現れたもんだから、びっくりです」
「……でも、違いました」と言い置いて、柏崎は立ち上がった。荷物を掴んで、出口へ顔を向ける。
「ぼくは、『宮司先輩』と、もう一度だけ、いっしょに料理ができた気がした。たのしかったです」
「柏崎さん」
「突っかかって申し訳ございませんでした。ぼくももう一度、しっかりお客様と向き合います」
その言葉は、約束通り、客を「ばか」呼ばわりしたことを取り消してくれていた。ああ、こんな己の手でも、人の心を、動かすことができた。
「ご馳走さま、宮司紫乃さん。じゃあ、また」
「ありがとうございました!」
去っていく背中に、精一杯頭を下げる。彼も、席に着いたときから、みやじ食堂の大切なお客さまだ。
夢が詰まったあの場所を、守れた。
「一時は、どうなることかと思いましたよ」
「はは、ほんとにな」
「笑いごとじゃないです」
「終わりよければすべてよし、だよ」
「高校生みたいな顔して、そんなジジ臭いこと言われても」
「なんだって?」
「イテッ、宮司さんが抓ったー!」
電車に揺られながら、なんてことのない会話を交わす。今巧とこうしていられるのも、勝負に勝ったお陰だ。実は内心、相当ほっとしている。
負けないとは、思っていた。必ず帰れると信じていた。それでも、柏崎の本心を知って、彼の料理を知って、一人じゃ勝てなかったかもしれないと思う。
車窓に目を移すと、日が傾きはじめていた。夕方になる前の、柔らかな光が、ガラスに反射する。稲荷木駅まで、あと二駅。
「……巧くん」
「なんですか?」
「おれを信じてくれて、ありがとう」
ガラス越しに、巧と目が合う。透明な壁を通して交錯する視線の心が読めなくて、見つめ返す。そっと座席の上で、掌が重ねられた。鈍行列車の車内の人影はまばらで、そのままにした。
「お礼を言われるようなこと、してないですよ、おれ。当たり前のことを、当たり前に思っていただけだから」
「……恋は盲目?」
茶化したら、手に力を加えて、「あんただけじゃなくて、あんたの料理が、おれは大すきなんだよ」と言われて、顔が熱くなった。慌てて、重なる手を引っ込める。
(ああ、くそ、笑ってる……、くやしいなあ)
仕返しのように、少し高い位置にある頭を掻き混ぜた。「ありがとうよ!」とヤケクソみたいに言ったら、今度は巧の顔が赤くなっていて、おかしくて、二人で吹き出した。
一人じゃ、勝てなかった。
信じてくれる強い掌が、道標だった。
あの瞬間、心に浮かんだ。それこそ、当たり前のように、君のための一皿にしようと思った。あの一言が聞けた料理なら、お客さんに届くと思ったのだ。
おいしいと、言ってもらえますように。
きょうここで食事をしてよかったと、思ってもらえますように。
会いたいだれかを、思い出しますように。
この温かさを、分けてあげられますように。少しだけ、やさしさを生む手伝いができますように。
――思えば、一年半の間に、いろいろなことがあった。
功一を亡くして、色のない時間を過ごしていた。みやじ食堂を、功一の味を、自分が守らなくてはと、必死だった。客の顔を見れば、功一との時間が帰ってきたみたいで、まだまだがんばらないと、と思えた。
駅前のベンチに、やたらと下を向いている青年を見つけた。整った顔の青年は、口調こそ生意気だったけれど、話を聞けばとんでもないお人よしで、ああ、おれが助けてあげたいと思った。功一が亡くなってから初めて、目の前の一人のために、料理を作った気がした。たった一言、彼の言葉が、この世界に最初の色を取り戻してくれた。
スーパーからの帰り道、桜の木の下でねこに絡まれた。なーなーと足に鼻を擦りつける身体は、あまりにも細っこくて、気づけば抱き上げて連れて帰っていた。「……おれの次はねこですか?」と居候に呆れられたが、彼は家主以上に、新しい家族をかわいがってくれた。ポチと名づけられた痩せねこは、一年でまんじゅうボディを手に入れ、この世界はまた一つ、色をもらった。
世界が変わりはじめていると、薄々気がついていた。それは、ずっとそばにいて、見守ってくれていた人の姿が、見えるようになったから。
大学生のときから、麻紀は一番近くで見ていてくれた。手を差し伸べるだけが友じゃない。功一を失ってから、ただただ見守ってくれていた親友に、そう教えてもらった。
若い女の子の声は、無条件に店内を明るくしてくれた。功一のいたときから、ずっと変わらず通ってくれている桃子には、感謝してもしきれない。彼女のためなら、遥か遠くの菓子屋のスイーツでも買いに行くし、作ったことのない菓子でも、いくらでも作ろう。
秋名には、料理を作るたのしさを、思い出させてもらった。柳瀬には、巧の日常を教えてもらって、うれしかった。神永との再会は、確かに、前に進むための一歩。
昂也のお陰で、自分の足で立てた。ずっと、功一のくれるやさしさに甘えて、知らなかったのだ、自分の足で立つ意味を。
紫乃は、知ったのだ。世界は何度だって、色を取り戻すことを。
ひどく傷つけられた日もあった。すきですきで堪らない人がいたのに、違う人と身体を重ねて、裏切られた気がした。でも、紫乃は自らの意思で、彼を迎えに行った。もう一度、彼に「ただいま」と言ってほしいと思った。
今、自分にとって大事な人は、だれか。今、自分といっしょにいるのは、だれか。ほんとうに支えたいのは、だれか。もういない人のために、そのだれかの手を離すのは、おかしいと思った。
電車が小さなブレーキ音を響かせた。稲荷木駅のすぐそばまで来ていた。巧が立ち上がって、ボディバッグを背負う。
この背、掌に、支えられた。助けたいと思っていたつもりが、自分のほうがずっと、救われていた。
そんな人が、かけがえのない人にならないわけがないだろう。真摯に、真っ直ぐに、ひたむきに、おれをすきだと言う人を、放っておけるはずがないだろう。
「宮司さん、着きますよ」
「うん」
差し出された掌を握る。
温かい。心臓が奮える。
(……巧くんの手が、温かいのかな。それとも、人の手は、みんなこんなに温かいのかな)
功一の氷のように冷えきった手を握ることは、もうない。病室で重ねた体温は、ふとした瞬間に胸の奥で疼くけれど、この手があれば、生きていけると思った。
「あ、そういえば、勝負が終わったら話があるって言ってましたよね。なんでした?」
「うん」
電車が止まる。紫乃が立ち上がるのを見計らって、巧の手がするりと離れた。
電車から降りて、空を仰ぐ。まだ明るい空に、微かな星が瞬きはじめていた。へらりとした笑顔が、柔らかい短髪が、茶色い瞳が、魔法の手が、そこにある。これまでも、これからも、見守ってくれている。
改札にカードを先にタッチする。駅は無人だけれど、すぐそばのスーパーは土曜日だからか賑わっていて、ここまで人声が聞こえてきていた。そこで、功一を亡くした。世界一愛した人は、いなくなってしまった。もう、生きていけないと、思っていた。
駅の駐車場を横切ると、すぐに小さなベンチがある。駅の待ち合い用か、スーパー管理のものかよくわからない微妙な位置だ。そこで、巧に出会った。自分にとっての料理を、思い出した。日常がまた、動き出した。また、息ができた。
この世界が、君をくれた。
「巧くん」
振り向いて、立ち止まる。きょとんとしながら、巧も紫乃に合わせて足を止めた。
向かい合った姿は、日の光に縁取られて、発光して見えた。姿勢がよくて背筋が伸びていて、飾らない真っ直ぐな表情が、とても綺麗だ。なによりその目が、紫乃にはきらきらして見えるのだ。巧の瞳だ。
「君に聞いてほしいんだ」
ずっと、ほんとうはずっと、言いたかったのかもしれない。巧のよろこぶ顔が見たいから、笑う顔が見たいから、理由なんて、それで十分だと思う。
今から、君に伝えるよ。覚悟して聞けよな。
――不意に、巧の目が、自分よりも奥を見ていることに気がついた。
凝視するように、視線が動かない。形のいい口唇が、息を詰めるかのように、薄く開いていくのが見えた。
「巧く……」
「ごめん、ちょっと……」
紫乃が振り向くよりも速く、巧の足が踏み出していた。
紫乃を躱して、駆けて行ってしまう。ああ、あと一瞬でいい、あと一瞬速く、手を伸ばせばよかった。君の手を、掴めなかった。
そこからは、映画のワンシーンを、駒送りに、見ているようだった。
スーパーの前の道。
小さな男の子。
転がるボール。
業者のトラック。
君の、腕。
「危ない!」
「巧くんっ!」
鈍く響く、潰れる音。
――ああ、おれはまた、すきな人を失うのか。
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