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その8-2
そういえば、と神永が手を打った。そして、「紫乃、さっき変な顔してたけど、どうかしたのか?」と投げかけた。
「変な顔って、言い方がひどいな……」
「言い方なんてどうだっていいだろ、訊いてやってんだから」
「なに、紫乃くん、なんかあったの?」
神永といっしょだと、イジワル魔人なはずの昂也がやさしく思える。
とにかく、あの一人決意表明を見られていたらしい。照れ臭くて頭を掻きながら、柏崎との一件を説明すると、神永は手を叩いて爆笑し、昂也は顔を真っ青にした。
「あはははっ、紫乃最高」
「お前……なにやってんの」
「あー、つい……」
「つい?」
「思わず……」
神永が仰け反るそばで、言い訳をして頭を掻くと、昂也から呆れたようなわざとらしい溜め息をいただいた。
「なんでそういう無茶をするかな……」
「それ、巧くんにも言われそうだなあ」
「お前、ぜんぜん反省してないだろう」
もう一つ、盛大な嘆息を受けたが、たぶん、何回だって同じことをすると思う。
反省していないわけじゃない。麻紀にも昂也にも心配をかけて、たぶん言ったら巧にも心配をさせて、申し訳ないと思う。だけどそれ以上に、客をばかにする柏崎が許せなくて、そんな人と麻紀との関係を絶ちたいと思った。
考え方は、人それぞれだ。それでも、紫乃は、目の前にいるたった一人のお客さんのために料理を作る、というみやじ食堂の柱を、譲るわけにはいかない。
「言われそうってことは、巧くんにはまだ言ってないのか?」
「はい……、なんかタイミングが」
葉月祭が終わり、夏休みに入って数日が経つが、巧は毎日食堂を手伝ってくれる。だから伝えるタイミングはいくらもあったのだが、巧のあの純粋な表情を見たら、なんだか口を開けなくなってしまって、他愛ない話で茶を濁した。彼に不安そうな顔は似合わないし、できれば、いつも笑っていてほしい。
(……なんかおれ、お父さんみたい)
失笑しそうになったところに、神永が「巧くんって、噂の居候くん?」と首を傾げた。
「はい。前に言いましたっけ?」
「ああ。それはそれは子煩悩なオジサンみたいな勢いで、『しっかりした、ほんとにいい子で~』って言ってた。顔に似合わず」
「……大きなお世話です」
そんな風に話していたのか、と耳が熱くなった。神永にも親のようだと指摘され、頬を掻く。……けれど、それもなんだか、違う気がした。
親でもなく、兄弟でもなく、友人でもない。巧との間にある関係を、上手く言い表せられる言葉が見当たらない。どういう仲なのか、明確に答えられない。そう思っているのは、たぶん、巧も同じなのだろう。
自分にとったら、巧はどのような存在なのだろう。巧にとって、紫乃は、なんなのだろう。すきだと言ってくれた気持ちは、変わらずそこにあって、まだひたむきに傾け続けてくれている。だとすれば、巧の望む関係は、今のこれではないのだろう。いずれ、答えを出さなくてはならない。いつまでもこんな、宙ぶらりんでいいわけがないのだ。
紫乃の顔色の曇りを感じてか、気遣うような昂也の声が届く。そんな空気を微塵も読まず、神永がポンと掌と拳を合わせた。典型的な「思いついたポーズ」だ。
「紫乃。柏崎って、下の名前、正午(まひる)じゃないか?」
「……知りませんけど」
苦い声が縄で引き摺られるようにして出てきた。あの人が、そんな洒落た名前かなど紫乃は知らないし、これ以上お近づきになりたくもない。かつ、神永の態度からは、嫌な予感しかしない。
しかし残念ながら、この世界では、嫌な予感ほどよく当たる。
「大学の後輩にさ、柏崎正午っていたんだよな。紫乃と入れ違いでサークルやめたんだけど」
「……じゃあ、きっと人違いです」
こんな勝負を持ちかけてきた時点で料理の腕があることはわかっていたけれど、柏崎が、大学のサークルで、料理人を志してキッチンに向かっている姿を想像するのは困難だ。百歩譲って当人だったとしても、料理に真摯な功一や神永とは、馬が合わなかったんじゃないだろうか。
怪訝な顔をしていたらしい、神永は笑みを浮かべて、「おれの知る正午は、料理がすきですきで堪らないってやつだったけどな」と頭を掻いた。
「あの人はそんな感じ、ぜんぜんしない。別人でしょう」
「メールに名前とかなかったのか?」
昂也のもっともな疑問に、携帯電話の麻紀からの転送メールを確認する。嫌な予感は見事に的中していた。完膚なきまでにしっかりと、神永の口にする洒落た名前が、本文の最後に会社名と共に添えられていた。正午、と書くだなんて、ますますお洒落だ。
「まじか……」
思わず顔を歪めたが、神永の次の言葉に、ますます頭が痛くなった。
「これで、みやじ食堂に拘る理由がわかったな」
「……どういうことです?」
「正午は大学時代、功一に憧れていたんだよ」
(嫌な符号がここまで続くと、いっそ清々しいな……)
肩の力が抜かれて、いっそ開き直った気になる。大学時代の知り合いならば、功一のことを知っていたのも道理だ。
しかし、どうしてサークルをやめてしまったのだろう。功一に憧れていたのなら、なおさら、そばでいっしょに料理人を目指したいとは思わなかったのだろうか。あの不器用そうな指が魔法みたいに作る料理に一度は魅せられて、それでいて、目を逸らすことは容易ではないはずだ。
「なんでやめたかは知らないけど、葬儀にはちゃんと来てた。ちゃんと、目え腫らして泣いてたよ」
「……そう、ですか」
想像は、難しい。ただ、功一の存在の大きさを、再確認する。彼はきっと、柏崎の心に生きている。だから、柏崎はみやじ食堂に、名を継ぐ紫乃に、纏わりついてくるのか。
(……理由はどうあれ、負けるわけにはいかない、か)
みやじ食堂は、功一の形見だ。ここは、功一の夢の続きだ。それを、託されたのだ。それに。
顔を上げる。神永の顔、昂也の顔、今ここにはいないけれど、確かに、触れられそうなほど鮮やかに浮かぶ、みんなの顔。おいしそうに料理を口に運ぶ客の顔。いつも眩しい、大学生の顔。ここには、大切な人達が集まる。そんな場所だから、守りたいと思う。
柏崎の事情なんて知らない。おれは、ここを譲らないだけだ。
「まあ、気負わずにがんばれよ。お前なら大丈夫だろ」
「あっ、ちょっとー、神永さん、そういうのはおれが言いたかったのに」
「ポイント稼ぎ?」
「……わかっているなら、邪魔しないでください」
「あはは」
年上二人のやりとりに、声を出して笑う。
また来るからな、と挨拶を置いて、二人は帰って行った。ポチも居眠りしていて一人きりになったけれど、でも不思議と、ぜんぜんさみしくなかった。
巧をみやじ食堂から追い出した日は、もう三か月も前の過去になった。そのとき初めて、ここががらんどうに思えた。
功一がいない。巧がいない。自分だけが、とうに通り過ぎたものを追いかけ、彷徨っていた。一人ぼっちの現実に向き合い、今の自分に気がついた。
すきな人に手を放されたら、つらいよな。
痛みを知って初めて、人は他者にやさしくなれる。自分の身に降りかからなければ、他者に負わせた傷に気づかない。功一が巧が麻紀がやさしい理由は、きっとそういうことだ。
知らないままの自分でなくて、よかった。
遅くなったけれど、紫乃は気づいた。だからこれからは、自分がもらったやさしさを、だれかに手渡していきたくなった。そうしたら、ここは、空っぽではなくなった。
一人きりでも、目に見えない引力が、自分と繋がる人を教えてくれていることがわかったからだ。
「ただいまー!」
この、笑顔いっぱいの挨拶をくれる人が、ここに帰ってきてくれるから。
「あ、きょうはクマジロウTシャツですね。確か、色違いで持ってませんでした?」
「青いのがクマジロウで、赤いほうはクマサブロウだよ」
「ぶはっ、兄弟なんですか? 長男いないし!」
ひとしきり笑って、巧はバッグを奥に置いて、すぐに食堂に戻ってきた。カウンターを勧めて、冷やしてあったソーダ水を用意してあげる。シロップを混ぜれば、氷を伝い、美しい曲線が透明の水中を滑る。小さなガラスの世界が、一瞬で夏色に変わる。
「ありがとう、宮司さん。超きれい」
「ゆっくり混ぜなよ、炭酸抜けちゃうから」
「はーい」
こくりと頷いて、渡したマドラーでほんとうにゆっくりと混ぜる様子がかわいくて、つい笑みが零れる。
「あ、そうだ、来週の土曜日は、用事ができちゃったから臨時休業するね」
「用事?」
「うん、……大切な勝負なんだ」
きょとん、と巧の目が丸くなる。いつまでも引き摺っても仕方がないし、詳細を説明すると、みるみるその顔色は青くなった。昂也と似た表情に、「あ~、これは怒られるパターンだな」と察する。
「なにやってんですか、あんたは……!」
「あはは、当たった」
予想が当たってつい笑い声を立てたら、キッとなかなかに冷たい視線がカウンターで返ってきた。頬を掻いて、今度は眉を下げる。それでもやっぱり、目が細まる。
「宮司さん……、反省してないでしょう」
「ちゃんとしてるよ。巧くんも怒らせちゃったし」
「……怒っては、ないけど」
口をへの字に曲げて、「ただ、宮司さんがくやしい思いをしたんだろうなって思ったら、おれもくやしくなって」と、氷を揺らした。無意識に、生唾を飲み下していた。
「心配はしてないよ。宮司さんの料理が、負けるわけないですから」
「……うん、そこは信じていいよ」
「自信家」
「みんなが甘やかすから」
そんな風に言い返しながら、肩がすっと軽くなるのを感じていた。そうか、麻紀にも昂也達にも、「大丈夫だ」と言ったけれど、強がったけれど、心のどこかが不安を引き摺っていたのか。でも、今、巧が信じてくれると言った。それが、こんなにも、この心を軽くする。この手を、自由にしてくれる。
「――巧くん」
「はい?」
改まった声が出た。巧も、ちょっと不思議そうな顔をしている。でも、今必要なのは、これだと思った。
巧の目を見る。透き通った、息をつくほど綺麗な瞳だと思った。君の目には、このソーダ水はこんな風に見えたのかな。
「君に、見に来てほしい。おれが料理するところを、見ていてくれ」
返事は、わかっていた。
だって、君がずっと伝え続けてくれたことだったから。
「はい。もちろんです」
「……ありがと」
礼を言ったら、当然でしょうと言う代わりみたいに白い歯を見せつけられた。そうだったな、巧には、紫乃の考えていることなんて、お見通しなのだった。いつだってやさしく、わかったって顔で、微笑むんだ。
そうだったな、わかったよ。
ここを守る理由は、いつの間にか変わっていた。それを、うれしいと思った。だから、見届けてほしいと、感じたのだ。
「……って言っても、なにを作ろうかなあ」
キッチンに顎を着けて、視線を宙に泳がせる。視界いっぱいにコンロや鍋、水場なんかが大きく映る。小人にでもなって、厨房を探検している気分だ。遠くのほうで水の流れる音が聞こえる。巧が先に風呂に入っていた。あんまり悩んでいる顔を見せたくなくて、今のうちにと、柏崎との勝負に出す料理を考えているのだが、なかなかいい案が浮かばない。
柏崎は、素人ではない。大学で料理について学んできて、料理人にはならなかったけれど、それでも自信がなくては、こんな勝負を挑んでは来ないだろう。並みな料理じゃ、勝てない。
「……わっ」
いきなり、首の後ろに冷たい感触が触れて、変な声が出た。反射で振り向くと、視界が透明な壁でいっぱいになる。二、三度瞬きをして、目の前にグラスが掲げられていることを、ようやく理解する。
「難しい顔、してましたよ」
「巧くん……」
はい、と透明な液体の入ったグラスを渡された。両手で受け取り、一口含む。
昼間のソーダ水の残りだ。じんわりと炭酸が舌に浸みて、渇いていたことに今さら気がつく。先にガムシロップを入れてくれてあったようで、甘さが追ってくる。悩むにしても、頭の栄養は必要だ。ありがたい。
「間接キス」
「な……っ、……ばか」
悪戯っ子みたいに、自分の手のグラスを見えるように振る大学生に、小さなパンチを食らわせる。風呂上がりに自分が飲むついでに、紫乃の分も用意してくれたのだろう。変なところが子どものようで、もっと年下だったら頭を撫で回していた。
一気に中身を飲み干してグラスを空にし、押し返す。込み上げる炭酸をぐぅと飲み下して見せると、今度は大人みたいに唇に微笑を載せて、それを受け取った。
「根を詰めすぎないでくださいね」
「うん」
「一生懸命なところもだけど、おれは、宮司さんの笑っている顔が、一番すきなんですから」
「……うん」
にこっと目尻を伸ばして、ついでに「お風呂空きましたから」と、紫乃の髪を掻き混ぜて、巧が奥へと引き返していく。
――思いついた。
そうしたら、もうこれしかないと思った。レシピが頭の中を巡って、形になっていく。
「……そうだ、お風呂」
追い炊き機能がついているから、早く入らないと勿体ない。思考を中断して、自分も奥へ戻ろうと、立ち上がる。
足が止まる。
はじめたときからほとんど変わらないみやじ食堂の風景が、瞳に映る。夜闇の中、静かに呼吸する風景に、ぽつり、ぽつり、と明かりが灯るように色が宿る。瞬きするほど、鮮やかに見えていく。
立ち竦む。
ーーそれは、まるで、恋をしたみたいに。
「紫乃」
初めて降りる駅の改札のそばで待っていた彼は、すぐに紫乃の姿を認めて、手を振った。切符を改札に通して駆け寄る。
「コウ先輩、おはようございます」
「うん、おはよう。迷わなかった?」
「平気でした」
「そっか、よかった」
春の日差しのように柔らかに微笑んで功一が頷くので、不覚にもきゅんとした。似合いすぎだ。今さらだけれど、功一のこういうおっとり感がすきだった。自分まで、やさしくなれる気がする。
無人駅には人影もまばらで、だれもがゆったりとした時間を生きているみたいだ。功一みたいな街に、つい目を細める。
「行こう、紫乃。ここから徒歩七分」
「けっこう近いんですね」
うん、と頷く功一が両の手にスーパーのビニール袋を提げていたので、先に食材の買い出しをしていたのだと知る。黙って手を近づけたら、「ありがとう」と、牛乳などが入っていない、軽いほうの袋を渡された。そのまま、並んで歩き出す。
桃色と緑色が混じり合う桜並木を仰ぎ、道なりに歩いて七分。
「ここ」
「……はい」
傍から見たら、それは小さな場所にしか見えなかったのかもしれない。しかし、紫乃には、眩しくて、気を抜いたら泣いてしまうんじゃないかと思うくらい、すごく、すごく大きく見えた。
見上げた赤い暖簾に、白抜きで映える名を、宝物のように口にする。一度だけじゃ、なんだか砂糖菓子みたいに溶けてしまいそうで、口の中でもう一度呼んでみた。甘い味がした。
「捻りがなくて、ちょっとダサイかもだけど」
功一が困ったような笑顔で、肩を竦めた。紫乃の反応を、呆れたものだと勘違いしたのだろうか。案外、照れ隠しだったのかもしれないけれど、紫乃は黙って、そばにあった功一の足を踏んづけた。
「痛い! なに、紫乃っ?」
「いい名前だって言ってんですよ、先輩のばか」
「ばかって……」
ふん、と鼻を鳴らすと、ちょっと涙目になりながら、功一が「……そっか」なんて、改めて頷くから、胸がいっぱいになった。
「いい名前、かな」
「……何回も言わせないでください」
「うん、そうだね」
ありがとう。
なんて、大すきな陽だまりのような笑顔で言われたら、うれしくならずにいられるわけがないのだ。功一の夢の形が、瞳に映る。ここがスタートなのだと、美しい瞳が語る。隣にいられる自分を、誇りに思う。
きっかけは、「宮司先輩」に引っ張られただけだった。でも、いつしかそれは、自分の夢に変わっていた。功一が、じゃない。紫乃自身が、一番にこうなることを夢見ていたのだ。功一の、紫乃の夢が、ここにある。仰いでいられる。
導かれて、店内に上がる。
カウンターに備えつけられたテーブルは木目が綺麗で、心を穏やかにしてくれる深い色調だった。まだ、それだけしかない。もう店の形をしているものだと思っていたから、疑問に思って功一の顔を振り返る。
「テーブルとかイスとかはまだなんですか?」
「うん。そういうのは、ちゃんと紫乃と選びたかったから、まだ頼んでないんだ」
「……おれが落ちたら、どうするつもりなんですか」
「あはは、それは困るかも」
夏に、調理師の国家試験を控えていた。そこで合格できなければ、もうしばらく功一を待たせることになってしまう。
功一は、大学四年生で資格を取得し、単位も無事に修め、卒業した。それから二年、教授からの紹介でいろいろな現場で修業を積んで、貯めたお金でここ――みやじ食堂を建てた。
紫乃の卒業を待ってくれたのかと思ったが、彼の料理の腕を見て、違うということはすぐにわかった。そんなに甘い考えは、功一の中にはなかった。
知らない技法、鮮やかな手捌き、きらきらとした瞳。ふだんのぼんやりとした性格からは想像できない、指先から生まれる彩りは、まさに魔法だった。これを手に入れるために、彼は二年間、心の中に夢の粒子を貯めていたのだ。
「おまちどおさま。ご注文のオムライスです」
「ありがとうございます」
食堂はまだ使えないからと、台所で出してもらったオムライスに、手を合わせる。せっかくなので、カウンター席に台所のイスといっしょに持って行って、二人で並んで腰かけた。
「いただきます」
声が重なって、照れ臭くなって、鼻を鳴らしてスプーンを取った。デミグラスソースの華やかな香りが満ちて、唾液が喉を滑る。
「……おいしい……」
功一のオムライスは、幾度となく食べてきたはずだった。それでも、いつもとはぜんぜん違った。今までで、一番おいしく思える。もちろん今までもおいしかったから、単にこれは、紫乃の舌のこのみなのだろう。それでも、この味に、嫉妬してしまいそうだ。トマトの風味が濃厚で、チキンライスと絡んで味が一体になる。そこに半熟の卵が加われば、ありきたりな表現だけれど、それこそ頬っぺたが落ちそうだ。
「……変な味しない? 大丈夫?」
「……変な味って、まさかコウ先輩、またなんか入れたんですか?」
へへ、と鼻の頭を掻く功一に嫌な予感がして、もう一口オムライスを食べて、隠し味を探る。でも、やっぱりおいしくて、どうやら失敗ではないみたいだった。
「先輩、なに入れたんですか?」
「チキンライスに擦り林檎と、卵に豆乳」
「それなら、合格です」
ご飯と林檎は相性がいいと聞くし、卵は確かにまろやかになっている気がする。
学生時代から基本の調理だけでは飽き足らず、大学ノートいっぱいにアレンジレシピを書き貯めていた人だ。隙あれば色んなトンデモレシピを試したがる功一だったが、ちゃんと成功するときもあるから、どんどんおいしい料理が生まれていくのだ。だから、たまになら実験台になってあげなくもないと思う。あくまで、たまに、だけれど。
「よかった~、これはおいしいって確信してたから」と、胸を撫で下ろす功一に苦笑する。
店を開く前に、一つでも多く、お客さんに出せるメニューを増やしたいんだ、と語る功一は幸せそうで、ここではじまる美しい日々がはっきりとその目に映っているのだと感じて、胸がとくりと鳴った。
「……ねえ先輩、イスとか、きょう揃えに行きましょう」
「え?」
顔を上げて、目線を重ねる。丸い瞳が揺れる。
「行きましょう」
もう一度、確かめるように言うと、紫乃の考えを読み取ったのか、こくんと頷いてくれる。
「うん、そうだね」
思わず、頬が緩んだ。うれしい。あなたが、わかってくれて、うれしい。
功一の瞳に映るのが、己と同じ未来ならば、それを叶えるために努力をする。どんなことだって、してみせる。
先輩の夢は、おれの夢だ。
確かな意志でついていく。だから、誓いの形として、ここに二人で選んだものを置きたいんだ。
そう思うことを、功一が大すきな笑顔で許してくれたこの日を、紫乃はいつまでもいつまでも、大切に記憶に刻んで、忘れない。
新品の艶が擦り減り、木の素材と相まって、カウンターは早くもいい塩梅が出てきた。静かに並ぶイスの背を撫でる。改めて見ると、意外に角がなくなっていた。足には、ポチの爪痕が申し訳程度に残っていて、あいつなりに気を遣ったのかな、なんて思ったら、おかしくて、つい笑ってしまった。
戻れないことを嘆く心がないと言えば、嘘になる。けれど、自分達は、二度と来ない眼前の一瞬一瞬を、折り重ね、その先へと生きていく。
住居スペースのほうから、足音が響いてくる。遠く、「じゃあポチ、お留守番頼んだぞ」とねこに話しかける声がする。それを追って、整った顔の青年が、食堂に姿を見せる。
「宮司さん、すみません、お待たせしました」
「うん、いいよ。じゃあ、いこっか」
「はい」
スニーカーの紐を結ぶため、一度荷物を下ろして巧が俯く。その頬が、微かに強張っているのを見つけて、瞬きする。
「なに、もしかして巧くん、緊張してるの?」
「当り前でしょう、こんな大事な勝負……」
「やるのはおれだよ」
「宮司さんがぜんぜん緊張してないから、おれが代わりにしてあげてるんですよ」
「ふふ、それはそれは、どうもありがとう」
「もー、ほんとう、マイペースなんですから……」
(……お、笑った)
思いっきり苦笑いだったけれど、巧が笑ってくれて、ほっとする。にやけていたのか、靴紐を結び終えて立ち上がった巧に、頬を摘ままれた。「いひゃい」と言うと、わざと撥ねるように指を離されて、ついつい自由になった頬を撫でる。なぜだか、熱い気がしたんだ。
「ごめんなさい、強く引っ張りすぎましたか?」
「あ、いや、そうじゃないよ。夏だから、かな」
「ふうん?」
巧は首を傾げたけれど、構わず急かした。電車の時間が迫っている。
食堂を出て、鍵をかける。
また、ちゃんとここに帰ってこられるように。変わらぬ気持ちで、ここに戻ってこられるように。祈るように、鍵につけたキーホルダーを撫でる。小さく揺れる姿が、「大丈夫だよ」と、微笑みかけてくれているみたいだ。
稲荷木駅まで、徒歩七分。
他愛ない会話をしていると、あっという間に到着する。ICカードを通して、無人の改札を通る。
真夏の日差しが降り注ぐホームにも、人影はなかった。巧が先に行って、光の中に溶けていく。その背中を見たら、息が詰まった。一拍置いて、ようやく名前が呼べた。
振り向く頬が、眩しい光を纏う。紫乃に向けられる表情に笑顔が多いことに、改めて気がついたのは、最近のことだった。
「なんですか、宮司さん?」
(……ああ、やっぱり、そう、なんだな)
そっと水面に漂う波に重なる花のように、現れては、ちらちらと捉えどころのない気持ちが、ようやくこの手に、帰ってきた。
「きょうの勝負が、無事に終わったらさ」
「はい」
「そうしたら、君に、伝えたいことがあるんだ」
そんな気持ちを、君に伝えたいと、思った。
ぱちくりと、一つ、目をしばたたかせる彼は、それでも真摯に、「はい」と頷いてくれた。そういうところが、ずっと前から、いいと思っていた。一年と半年前、そんな君に出会えてよかった。君がこの町に来て、自分のことをほっぽって目の前のだれかを助けてしまうようなお人よしで、よかった。
もうすぐ、伝えるよ。
アナウンスがかかって、少しして赤い電車がやって来た。国中駅で乗り換えて、豊羽市へ向かう。こんな引き締まった気持ちでHEMPに行くことになるとは思っていなくて、なんだか変な感じだ。
開店時間前なのに、HEMPの前にはちらほらとそれらしき人達が見受けられた。自分達の勝負のチラシを見たのか、HEMPのモーニングを食べにきた客なのかはわからないけれど、その顔は、やっぱりきらきらしている。
店に来る人達は、その店の雰囲気に合った人が多いと思う。功一が作った食堂に来るのが、穏やかでやさしい人が多いように、ここには、麻紀みたいに少し都会的で、輝いた表情をしている人が集まるみたいだ。
裏口に回って、重い銀色の扉を押して入る。表の華やかな明るさとは別の、清潔感漂う廊下に繋がっていた。順路に従って事務室を覗くが、そこにはだれにもいなくて、拍子抜けする。ただ、すぐに思い直して、速足でキッチンを目指す。巧が黙って後ろをついてきてくれる。あの親友のことだ、こんな日に、大人しく事務所で机になんて向かっているわけがない。
「麻紀」
「紫乃。早いな。おはよう」
「おはよ。昔っから、じっとしていられない性質でさ」
「知ってる」
鍋の様子を見る親友が苦笑を浮かべる。ほんとうに「仕方のないやつだ」と言われているみたいで、おかしかった。なにを隠そう、国家試験会場に、開場前に着いてしまうくらいなのだ。
麻紀は、いつも通りだった。がんばれも、負けるなよも、お前なら大丈夫だも、もういらない。親友が、ここにいてくれるということだけで、紫乃はこんなに強くなれる。
促されて、キッチンの確認をする。器材や調味料の場所などを覚えている間に、巧が持ち込んだ器具や食材をセッティングしてくれた。目の前に並べられた配置に、やっぱり、敵わないなあ、と思わされる。
持ち込み器材は、紫乃が使いやすいように、みやじ食堂のキッチンと同じ位置に並べられていた。広い厨房だが、HEMPにはほかの従業員もいる。その人達に迷惑にならないようにコンパクトに抑えられるあたり、ほんとうに器用だ。料理を習ったら、きっとすぐに、抜かされちゃうような気がする。
確認を終えて、巧に礼を言う。
「おれにはきょう、これくらいしか宮司さんのためにしてあげられることがないから」
そう、申し訳なさそうに言われて、なんとも言えない気持ちになる。
信じられている。必ず帰れると、確信している。だから、今、どうしようもなく緊張しそうなのは、きっと、巧に自分の料理をする姿を、格好よく見せたいと思うからだ。
巧の腕を叩く。胸を張って、高い位置にある整った顔を見つめる。切れ長の瞳の中心に、紫乃が映っている。自然と、口角が上がった。
「あとは、かっこいいおれの姿、ちゃんと見とけ」
「――はい。見守ってます、お父さんの心境で」
「そこまで幼くないから!」
(ああ、早く、料理がしたいな)
腹を抱えて笑って、「君はほんとうに一言多いんだから」と、大学生の腕をもう一度叩いたら、「すみません、反抗期で」と返されて、君のほうが子どもじゃないかと思って、余計におかしくなった。
「勝負の前に、賑やかですね」
水を差すような声に、はっと振り返る。キッチンの入口に、先日と変わらぬスーツ姿の柏崎が立っていた。ちょうど、今到着したところらしい。
「柏崎さん、おはようございます」
「おはようございます。余裕ですね」
「いいえ、まさか。ただ、たのしみなんです」
「たのしみ?」
「はい」
あなたと勝負できるのが。
きょうのおれは、いつになく強気だ。後ろ盾がいてくれるからなのか、自信があるからなのか、自分でもわからないけれど、ただただ、たのしみだという気持ちに偽りはない。
功一に憧れた人が、どんな料理を作るのか。そんな人と手合わせして、自分はなにを思うのか。――きょう感じるすべてで、どれだけ、また成長できるのか。たのしみなのだ。
「いい勝負にしましょうね、……宮司紫乃さん」
「はい。よろしくお願いします」
トクトクと、心地よい鼓動に突き動かされる。さあ、たのしい料理の時間だ。
*
(……がんばってるかお)
額に汗を浮かべながら食材を仕込む横顔は、キッチンに立ったときの顔だ。巧は、いつも少しだけ、遠くなったように感じてしまう。でも、カウンターを見上げた瞬間の、あの子どもみたいな無邪気な笑顔を知っているから、見守っていられる。一瞬で、いつもの紫乃に帰ってきてくれる。だから、すきだと思う。
足手纏いだと思ったから、手伝いには立たなかった。ただ、キッチンの隅で見守ることしかできない自分が歯痒い。でも、目は逸らさない。
見ておけ、と言われた。だから、瞬きすら惜しく思う。一瞬一瞬を、調味料を摘まむ指先すら、小さな汗の滴すら、瞬きの一つすら、見逃したくない。
隣にいっしょに立てなくても、あんたが望んだことくらい、ちゃんと叶えてあげたい。それが今のおれにできる、精一杯だ。
開場間近になり、紫乃の勝負ははじまった。チラシを手にした客が、期待に満ちた表情で店内に続々と入ってくるのが、キッチンから覗き見える。紫乃が緊張するんじゃないかと不安になって視線を移したが、それも杞憂だったらしい。
(……笑ってる。そうか……、そうだったな)
思わず、こちらも頬が緩んでしまう。そうだ、宮司紫乃という人は、そういう人だった。
いっしょに越えた季節は、まだ手で数えられてしまうほどだ。それでも、毎日あんたを見ていたから、顔を突き合わせていなくても、わかるのだ。
「宮司さん」
名前を呼ぶ。ほら、子どもみたいな顔が振り向く。
その顔が微笑む度に、あんたのすべてが誇らしくなる。
「顔、にやけてますよ」
「なっ、見んな、ばか」
「あはは、はーい」
見てろって言ったり、見るなって言ったり、忙しい人だ。これ以上いじるのもかわいそうだったので、素知らぬ顔をしてあたりを見回す。ふと、紫乃の勝負の相手――柏崎に目が留まった。
(……宮司さんとは、なんというか、逆……)
静かに、表情を浮かべない、凪いだ木立のような雰囲気だった。紫乃の話を聞く限り、嫌味ばかり言う、いけすかない男だと勝手に思っていたが、それだけではないみたいだ。
柏崎は、功一に憧れていたと聞いた。もしかしたら、これが、功一の料理をするときの一面だったのかもしれない。
宮司さんは、重なる一片に気づいているだろうか。
(……なんて、宮司さんが気づいていないわけないか)
それでいて、目の前の料理に集中している。その強かさを、彼は手に入れたのだ。
今ならわかる。今なら言える。
大切な人を亡くしてできた傷も、強がった理由も、今その顔を見れば、わかるから。
出会ったばかりとは、違う顔。だからかな、こんなに、もっともっと、あんたのことを知りたくなった。もっともっと、そばにいたくなった。こんなに、もっと、きっと、ずっと、あんたをすきになった。
「宮司さん」
呼ぶ。あんたを呼ぶ。
振り向いた幼い顔に、もう一度。丸い瞳が、きらきらと輝いて見えた。
おれにとってのあんたの名前は、これだ。だから、ねえ、胸を張って。ねえ、宮司さん。
「見てますから、ちゃんと」
見ているから。あんたのこと、ずっと見ているから。
小さく微笑みを返す横顔は、今までで一番、鮮やかで、一番、大人っぽかった。
ある程度の客数が集まったところで、本格的に調理がはじまる。二人が手際よく、仕込んでおいた食材を捌きはじめる。
柏崎は薬味を用意しているようだった。ネギやワサビ、それから色んな種類の唐辛子を刻んでいる。紫乃は、見慣れたニンジンやトマト、タマネギなどを手頃な大きさに切っている。二人の手つきに、迷いはない。作る料理に、誇りと自信を持っているからだ。
巧は料理には明るくないので、この段階では、二人がなにを作っているのかわからない。なにを作るのか、紫乃には聞かなかった。なにを作ったとしても、紫乃の料理は負けないと思った。
(……あ、あれ)
野菜を切り終えた紫乃の手元に、小さなカップが並んでいるのに気がつく。見れば、星の形をした型抜きが用意してある。冷蔵庫から出される宝石箱がちらりと見えて、胸が高鳴った。
(そっか……、あれを作ったんですね)
頬が綻ぶ。思い出が重なったようで、うれしかった。
紫乃と出会ってから、いくつもの料理を味わってきた。いつも目の前には、満足そうに笑う紫乃がいた。
きょうの朝食は、フレンチトーストだった。きのうの夜は、サバの味噌煮。一週間前の夜は、エビとチーズがいっぱいのグラタンだった。忘れていない。
メニューも、見た目も、その味も、忘れたりしない。一ヶ月後、半年後、一年後、それはこの記憶の中からは消えてしまうかもしれない。大すきな人の手が作り出すものを、ずっとずっと、一生覚えていられたら、と願ってしまう。脳のキャパシティを、ぜんぶそれに使えたらって、紫乃のことばかりを考えていられたらって、思う。
でも、きっと紫乃のことだから、忘れてしまっても、何度だって、同じように料理を作って笑ってくれる。そんな人だから、安心できた。だから、そんな人と、これまでも、そしてこれからも、思い出を重ねていきたいと、思うのだ。
くすくす、と小さな含み笑いが聞こえた。鍋の火を見ながら、柏崎が肩を揺らしていた。
「宮司さんは、この暑い中、それを作られるんですねえ。箸は進むのかな」
「ご心配ありがとうございます。でも、ちゃんと考えてますから」
「なら、いいですけど」
柏崎には、紫乃がなにを作るつもりなのかわかったらしい。ここからでは詳しい調理の様子は窺い知れないから、要の食材もわからず、予想も上手く立てられない。ただ、暖かいものを出そうとしているということだけは、会話から読み取れた。
それでいいと思う。それが、いいと思う。宮司さんのあったかさが、伝わるものがいいよ。今、そう、手を重ねて言ってあげられたら、どんなにいいだろう。
不意に、紫乃が顔を上げた。それから、こっちを振り返って、小さく舌を出した。子どもみたいな仕草に、ついつい吹き出してしまう。
(……そういうこと)
余計な心配が、ばれていたらしい。
(そうだな。この人が子どもみたいなのは、見た目だけだった)
大丈夫だ。厨房に立つ紫乃は、無敵だ。
だって、きっとそこには、いっしょに隣で料理をする彼が、手を取っているのだから。
厨房から、むわっとした熱気が漏れ出てくる。二人とも火を使いはじめたようだ。すぐに、食欲をそそる匂いが漂った。思わず、腹が鳴りそうになる。香ばしい肉と調味料の混ざった香りが鼻腔を擽る。
柏崎が、慣れた手つきでフライパンを操っている。それに対して、紫乃は静かに大鍋を用意する。刻んだ野菜を入れて、木べらで炒めはじめる。
写真に収めるみたいに、その仕草一つ一つを、この目に映す。忘れたくない。ずっと見ていたい。
きょうという日だけじゃない。これからも、あんたの隣で、あんたといたい。
重い、と思われるだろうか。鬱陶しいだろうか。単なる居候の大学生にこんな風に言い寄られたら、やっぱり、困るのだろう。わかっている。わかっているのに。
火加減を覗く瞳、鍋の中へ伏せた瞼。完成を想像して、唇の端が上がっちゃうところ。ほんとうにうれしそうに目を細めるところ。そんな姿を見る度に、堪らなくなる。きょうも、あしたも、あさっても、その先も、もっと先も、ずっと先もって、告げたくなってしまうのだ。
(……すき、すき、すきだ、宮司さんが、どうしようもなく、すきだ)
気持ちは、重ならない。
巧と紫乃が結ばれる未来は、たぶん来ない。けれど、このままでは思いが溢れてしまうから、飲み込むために、今はシャッターを押す。
ほどなくして、二人の料理が完成した。
客に出す前に、店長である小戸森に振る舞われる。巧の前にも、紫乃が皿を置いてくれる。目を丸くして彼を見た。
「いいんですか……?」
「うん。君に食べてほしい」
銀のスプーンを差し出され、不意に泣きそうになった。
出会ってから、まだ一年と半分しか経っていない。なのに、みやじ食堂で過ごした時間は、密度が濃くて、毎日毎日を、こんなにも鮮やかに覚えている。
たくさんのおいしいご飯を食べた。いっしょに作った。客の相手をして、下らない話でいっぱい笑った。擦れ違ったときもあった。ぶつかったこともあった。一度は、食堂を出て行った。こんなに苦しい恋なんて、本気で捨ててやろうと思った。つらい思い出を語ってくれた。儚く微笑む、さみしい横顔を、守りたいと思った。それまでは、いつか叶う恋だって、いつか紫乃も振り向いてくれると、思っていた。いつからだっけ、こんなに、こんなに、思っていた。ねえ、こっち向いて笑って。って。
「ハヤシライス……」
わかっていた。
あの日、あのとき、あの瞬間。
宮司さんに、初めて会って、初めて食べた、宮司さんの料理。
涙が零れそうなくらい、おれが一番すきなメニューだった。
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