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その8-1

 人を思うことは貴いと教えられた。  心から思う人を見つけられたら、その人を大切にしなさいと、そして、相手に大切にされる人になりなさいと、柔和に微笑んで、手を握られた。幼い巧は、それが真理だと信じ、素直に頷いた。  人を思うことの、その痛みも知らないまま、十九年間生きてきた。それを知ると同時に、思うことも難しさを、その喜びを、知った。 「昂也さん、それ、は……」 「兄ちゃんじゃなくて、今度は、おれが名前をやるから……、だから、紫乃くん」 「ちょ、ちょっと待ってください!」 「むぐっ」  不意にカエルが潰れるような声を聞いて、驚いて台所を覗く。紫乃の手が昂也の口元を押さえているのが見えて、二度目のキスを拒んだのだと察する。赤い舌がちろりと動き、白い指に触れた。バシン! という音が響いて、見ているこちらの身が縮む。 「なっ、なにしてくれてんですか!」 「いってえ……」 「あ、ちょっと、えっ、昂也さん? 寝るんですか?」 「うん……」 (……おいおいおい、ほんとうに寝ちゃうのかよ)  まさかと思いつつ、実際に寝息が聞こえてきて、込み上げた溜め息を呼吸ごと飲み下した。唾液が微かに喉を潤して、少し落ち着く。  息を吐き出して、気合いを入れる。なにも知らない容貌を作って、台所に顔を出す。 「宮司さん、お風呂空きましたよー」 「巧くん……」 「あれ、昂也さん、寝ちゃったんですか?」 「うん。困ったな」 「おれ、布団敷いてきますよ。連れて来られますか?」 「ああ、ありがとう」  おれは、上手く話せていただろうか。……少なくとも、宮司さんの笑顔は、下手くそだった。  巧がふだん使っている布団を引っ張り出して、寝室に敷く。背負うように紫乃が昂也を連れてきて、その上に横たえた。当人は間抜けた面で寝たままだ。 「巧くんの寝るところがなくなっちゃったな」 「じゃあ、宮司さんの布団でいっしょに……」 「却下。まあ、この季節なら、風邪もひかないだろ」 「畳で寝ろってことっ?」 「あはは、嘘だよ」  押し入れを開けたついでに、布団をもう一組出しながら、「巧くんがおれの使いな」と、ぽんぽん叩く。 「それはそれで、おれがちょっと」 「でも、あしたも葉月祭あるんだろ。疲れが残ったら勿体ないって」 「いや、でも、その」  巧がどもる意味がわからないのか、紫乃は小首を一つ傾げて、そのまま「早く寝ろよ」と言い残して、風呂場に行ってしまった。  綺麗に敷かれた紫乃の布団を黙って見下ろす。おもむろに枕を手に取る。そっと嗅いでみると、紫乃の柔らかい髪の匂いがした。同じシャンプーを使っているはずなのに、巧とは違う。こんなので寝たら、間違いなくヤバイ夢を見る自信がある。 「ああ、もう……」  頭を抱える。この枕の香りに包まれて目を閉じたら、最高に幸せな気持ちで最上の夢を見られること請け合いだ。しかし、翌朝昂也がいるのに暴走するわけにはいかないじゃないか。  シャワーの音はまだ聞こえてこない。たぶんまだ間に合う。ほんの数秒の葛藤の末、枕を置いて、急いで脱衣所に向かう。 「宮司さん、ちょっともう一回、ちゃんと話し合いましょう……!」 「わっ、びっくりした」 「ご、ごめんなさい!」  半裸の紫乃とうっかり出くわして、慌てて脱衣所の外の壁へと引き返す。紫乃も巧がそんな反応をしたせいか、そろそろと脱衣所の引き戸を閉めた。 「た、巧くん、どうしたの」 「いや、その、やっぱり、おれが畳で寝るので、宮司さんは自分の布団使ってください」 「え? いや、でも……」 「察してくださいよ……、宮司さんのにぶちん」 「な……」  扉の向こうで、紫乃が頬を膨らませているのが目に見えるみたいだ。紫乃は功一のことを鈍い鈍いと言うけれど、自分に向けられた好意に対する鈍さなら、紫乃もいい勝負だろう。こちらはずっとすきだと言っているのだから、そろそろ意識してくれてもいいだろうに。  宮司さん、おれは、あんたが思っている以上に、あんたのことがすきなんだよ。 「……巧くん、昂也さんに自分の布団使わせたのも、もしかしなくてもわざとだな?」 「よくできました。今さらですが」 「一言多いよ、大学生」  苦笑する。自分の失態に、笑うしかなかった。 「聞いてたんだな」と言われて、見えるはずがないのに、こくりと頷いた。我ながら、幼子のような仕草だった。 「……宮司さんは、なんて答えるつもりだったんですか」 「酔っ払いの言うことを、いちいち真に受けるんじゃないよ」 「誤魔化さないでよ」  いつも、紫乃のことになると、余裕がなくなる。思考が鈍くなって、感情が先に走り出して、敬語すら、上手く使えないんだ。 「……ねえ」  扉に向き合う。擦りガラスに掌を合わせる。ひんやりとした感覚が滲む。 「ちゃんと、答えて」――突然引き戸が開いた。紫乃が顔を出して、巧を見上げた。あ、なんて間の抜けた声を漏らして、安堵したように吐息を零す。 「ごめん、泣いてるように聞こえたんだ」  そんな声に聞こえたのかと、顔が熱くなる。そんな情けない声で、縋るように、問うたのかと。  紫乃の腕を掴む。生肌の温もりとしっとりとした感触が、あまりにも久しくて、思わず生唾を飲み込んだ。 「巧くん」  名前を呼ばれて、我に帰る。できるだけ熱っぽさを込めないように、紫乃と視線を重ねた。 「結局、澪那ちゃんとは、どうなったの?」 「え、ああ……」  思っていたのとまったく違うことを言われて、肩を落としそうになった。てっきり、答えてくれると思ったのだ。はっきりと、「断ったと思うよ」と。ただの、自分勝手な願望だった。 「言い出せなかった?」 「いえ、ちゃんと……、別れてきました」  去り際の嗚咽が、鼓膜に貼りついて離れない。振り向いてはいけないと、もうやさしくしてはだめなのだとわかっていたから、そのまま帰ってきた。人の気持ちを絶つことの重さを知る。 「でも、葉月祭で……」 「澪那ちゃんの、最後のお願いだったんです。葉月祭が終わるまで、カノジョでいさせてほしいって」 「そうか……」  紫乃が目を伏せる。その瞳がなにを考えているのか、図りかねる。ぎゅ、と掴む手に力を込めた。繋がる体温で、相手の思っていることが、わかればいいのに。自分の気持ちが、伝わればいいのに。  伝わればいい。この胸の痛みとか、渇きひりつくような熱さとか、大切にしたいと思う柔らかな感情とか、言葉にできないものを、そのまま伝えたい。でも、それができてしまったら、きっと自分は、澪那の手を離せなかった。撥ねつけ切れなかった。そんな思いを、紫乃にさせたいとは、どうしても思えない。  おれの声で、不自由な言葉でしか、伝えられない。  小さく、だれかの溜め息みたいな笑声が零れた。聞きつけた紫乃が、首を傾げる。 「巧くん?」 「すみません。……もっと、簡単なものだと思っていたから」 「……ああ」  なんのことかは、あえて口にしなかった。それでも、紫乃はわかってくれると、確信のように思った。  自分のすきな人が、自分を思ってくれる。それだけのことが、こんなに難しい。今まで人を真剣に思ってこなかったから、今さらになって、その難しさに躓くのだ。 (……でも、そんなおれだから、諦めちゃいけないんだって、思うんだ)  今まで思いを寄せてくれた女の子たちの気持ちもすべて背負って、おれは、今すきな人に、自分のぜんぶでぶつかりたい。 「……おれ、さ、さっき葉月祭のとき、急にすごく、胸が痛くなったんだ」  いきなりそんなことを言われて、どきりとした。最悪のことを考えて、頭が内側から揺れた気すらした。渇ききった咽喉をなんとか震わせる。 「え、びょ、病気とか……」 「あはは、違うよ。君も知っての通りの、めったに風邪すらひかない健康体だ」 「なんだ……」  とりあえず、病気ではなくてよかった。  腕から平たい胸へと、巧の手を導く。また別の意味で頭がくらりとしたが、紫乃がもう笑っていなかったから、巧も顔面の緩みを引き締めた。 「迷子の子がいてね、その子が三歳だって言うんだ。ご両親は三十路なんだよって。ああ、おれの子どもでもおかしくないんだなあって考えたら、そのときにね、君のことも、思ったんだ。そしたら、痛くて……堪らなくなった」 「なんて、思ったんです……?」 「うん……。おれは、本心から思ったと、思っていたんだ」  紫乃の手が離れる。それと同時に、巧も手を離した。かわいそうなくらい、掌の下の心臓が速かったから――。 「巧くん、呆れないで聞いてくれる?」 「はい」 「あと、怒らないでほしいんだけど」 「それは内容によります」 「はは、やさしいんだか厳しいんだか」  紫乃は困ったように頭を掻いた。黙って次の言葉を待つ。紫乃は唇を嘗めてから、視線を上げた。  真っ直ぐに見つめられると、改めて、胸の奥が疼く。ああ、この人に、思われたい。この人の、心も身体も、一番近くにいられる人間になりたい。 「君には、素敵な奥さんと結婚して、子どもと幸せな家庭を築いて、それでふと思い出したときに、みやじ食堂に元気な顔を見せてほしい。……そう思った」 (なんだよ、それ……) 「……そしたら、胸が痛くて、息が詰まって、でも、おれ、嘘じゃない、ほんとうにそう思ってたはずなのに……っ」  紫乃の肩を掴む。強引に唇を合わせ、分かれた口唇に舌を押し込む。息を吸おうと開いた歯列を割ると、苦しそうな声が脱衣所に響いた。  胸板を押し返され、唇を離す。顎に伝った唾液を拭ってあげると、潤んだ目に睨まれた。 「いきなり……、なにするんだよ」 「宮司さんが悪いんです」 「なにが」 「おれの気持ち知っていながら、そんなこと言うんだから、狡い」 「狡いって……」  顔が熱い。心臓が鼓膜のすぐそばで鳴っているみたいだ。高鳴りすぎて、口から出てきてしまいそうだ。 「狡いです。それとも、ここで、おれとセックスしたことも忘れちゃったんですか」 「なっ、なんでそんな話になるんだよ。それに、あれは君が……」 「あんなことしてしまうくらい、あんたのことがすきなんです。なのに、そんなこと言って……」  訳もなく、目が熱かった。怒っているわけではなかった。ただ、気持ちがいっぱいいっぱいで、上手く整理できない。そのくせ、中身のない言葉が、ぽろぽろと溢れてしまう。止められない。  紫乃が不可解そうな顔をしている。わかっている。巧だって、自分がなにを言いたいのか、よくわからない。  紫乃を脱衣所に一歩押し込む。その鼻先で引き戸を閉めた。「ちょっと……」なんて、抗議の声が聞こえたけれど、無視をした。 「巧くん」 「……宮司さん」  これは、自意識過剰じゃないでしょう。あんたが、自分で言ったんだ――。 「宮司さん、あんた、自分やおれが思ってるよりずっと、おれのことすきだったんですね」  喉の渇きを思い出して、台所に寄ると、流しの前で昂也がうろうろしているのを発見した。もう酔いは醒めたのか、足取りはしっかりしている。 「昂也さん。どうかしたんですか?」 「ああ、居候くん。悪いんだけど、水かなんか貰える? 喉渇いちゃって」 「麦茶でよかったら」 「助かる」  冷蔵庫から二本のペットボトルを取り出して、一本をグラスと共に渡した。巧は五百ミリリットルを一気に飲み干して、ペットボトルを濯いだ。すぐに昂也も飲みきり、グラスとペットボトルを洗ってくれる。 「昂也さん」  呼びかけると、鼻歌でも奏でそうな顔でグラスを拭きながら、彼は返事をした。その横顔に、気になっていたことを尋ねた。 「いつから寝てたんです?」 「変な質問だな」 「惚けないでください。おれは宮司さんみたいに、ぼんやりしてないですよ」  誤魔化されたくなくて、語尾を強くした。察した昂也は、小さく息を吐く。 「そうみたいだな」 「酔っ払ってたのも、演技でしょう。宮司さんが困った顔をしたから、冗談にしたんだ」 「そういう君は、いつから見てた?」 「……『宮司紫乃をやり直そう』のあたりから」 「嘘つけ。キスしたの、見てただろ」  図星を突かれて、喉が変な音を立てた。  見ていた。口を閉ざしたまま、成り行きをただ見ていた。昂也の告白だって、止めようとすれば止められたはずだ。  おれは、宮司さんを試したかったのか。 「居候くんさ、紫乃くんのことすきなの」 「はい」  この人からは、逃げるわけにはいかない。逃げたら――一瞬で連れ去られてしまう気がする。どう思われても構わない。譲りたくないから、隠さなかった。 「じゃあ、澪那ちゃんは? 『宮司さんの代わり』ってこと?」 「そうじゃない」  澪那を紫乃の代わりにしようと思ったことなんて、一瞬だってない。ただ、自分を見ているようで苦しかった。澪那といることで、自分の恋心を救いたかった。そんなことができるはずないのに、浅はかで、思慮が足らない、ほんとうに子どものようだ。 「おれは……、澪那ちゃんには、おれみたいな思いをしてほしくなくて……」 「じゃあ、ほんとうに澪那ちゃんは、傷ついてないのか?」 (……いや、むしろ、だれより傷つけてしまったのかもしれない)  歪んだ笑顔が、絞り出すような嗚咽が、瞼の裏から、鼓膜の内側から、今なお離れない。きっと、ずっと、忘れずに傷として残っていくものだ。そうあるべきだと、思う。巧自身が、背負うべきものだろう。  紫乃は、巧とは違う傷を背負い続けている。では、紫乃にとって功一を思い出させる昂也の存在は、反対にその傷を抉るものなのではないのか。 「……じゃあ、あなたはどうなんですか」 「あ? なんのこと?」 「今さら宮司さんの前に現れて、やさしくして、告白なんかして……。やっと宮司さんは、前を向こうとしてたのに、あなたがまた、功一さんを突きつけるから、宮司さんは戸惑ってる。もう……、宮司さんを離してくださいよ!」  八つ当たりだと、わかっていた。それでも、紫乃が困る顔をもう見たくないのも、これ以上功一の影を見せつけられたくないのも、事実だった。  そんな、あなたにしかできないような言葉で、告白しないでくれよ。ようやく宮司さんが、おれを見てくれるかもしれないと思ったんだ。それなのに、また、宮司さんを連れて行くのか。また、手の届かない場所に隔てられてしまうのか。そんなの、もう堪えられない。 「厳しいなあ、居候くん」  そう苦笑する顔も、似ているのだろうか。紫乃は、やっぱりまだ功一のことを思って、こんな昂也の表情を見る度に、うれしくなっていたりするのだろうか。わからない。巧は、写真ですら、会ったことがない。  昂也が拭き終えたグラスを静かに置いた。音もない仕草に、胸の奥のざわめきが沈黙する。 (……ほら、おれには、こんな大人な間の置き方、できない……)  無言の動作に、「落ち着け」と言われているのがわかった。それすら感じさせない、自然な間だった。 「おれだって、紫乃くんを困らせたいわけじゃないんだ」  穏やかな横顔が、遠くを見つめる。 「ただ……、なんだろうなあ、放っておけなくなっちゃったんだよなあ。兄ちゃんの恋人とかは、もうぜんぜん別でさ……。紫乃くんのかなしそうな顔は、見飽きるんだよ」  どうしよう。困る。これ以上面倒なことにならないでほしいのに。こんな人が相手じゃ、おれなんて、敵わなくなってしまう。今よりも、ずっと、声が届かなくなる。 「おれは紫乃くんがすきだ。すきになっちまったんだよ。だから悪いけど、君――巧くんには、負けたくない」  認められたように、初めて呼ばれた名前に、息が苦しくなった。この人は、人の心を動かす言葉の使い方を知っている。  こんな大人に、おれはなにをすれば勝てるのだろう。 「……巧くん、いつの間にそんなに昂也さんと仲よくなったの?」  朝目が醒めて一番に、紫乃に笑われて身体を起こした。  結局あれから、ぶつくさ文句を言いながらも、平等に、昂也といっしょに巧の布団で眠ったのだった。腹に乗る男の足は、腹立たしいほど重かった。  *  いつもより早い時間に巧を送り出した。出店をしている友人の手伝いに行くそうだ。  紫乃は店の仕込みを終えて、寝室に戻った。そこでは未だに、昂也がスヤスヤ寝息を立てている。巧が起きるタイミングでいっしょに声をかけたのだが、なかなか図太い性質らしい。こんなところで寝ていて、仕事のほうは大丈夫なのだろうか。疑問だ。  心配になって、さすがにもう起こそうと手を伸ばした。肩を叩きかけて、手を引っ込める。 「……昂也さん、起きてください。時間いいんですか?」  肩を揺らす手がワンテンポ遅れたのは、昨晩のことが思い出されたからだ。昂也の反応が、少しだけこわかった。  相変わらず寝ぼけた声しか返ってこない人に、息を吐く。なんだか、こんなに気にしている自分が、ばからしくなる。 「ちょっと昂也さん! ご飯片しちゃいますよ!」 「……やだ」  もぞり、と寝返りを打って、細い目が紫乃を見上げる。「……紫乃くんだ」なんて溶けた滑舌で言われて、つい眉尻が下がる。ほら、とタオルケットを引っぺがすと、彼は「渋々」を体現するような仕草で目を擦って上半身を起こした。 「……なんで紫乃くんがうちにいるんだ?」 「逆ですよ。昂也さんが、おれんちにいるんです」 「……そうなの?」  盛大に寝ぼけている昂也を布団から引っ張って、洗面所に連れていく。いつまでも布団いるからいけないのだ。顔を洗わせる間に、台所で味噌汁を暖め直す。 「おー、ちゃんとした朝ご飯」  顔を洗って目が醒めたらしい昂也が、数十秒前とは打って変わった快活な表情で台所に顔を見せた。席を勧めて、熱い茶と味噌汁を出す。テーブルにはすでに、先に起きた巧に合わせて作った出汁巻き卵となすの味噌炒め、焼きしゃけと白米が並べてある。 「いただきまーす!」  この人も、ちゃんと手を合わせてから、ご飯を食べてくれる。「おれんちのと同じ味噌汁の味」なんて、白い歯を見せられれば、照れ臭くて、それと同じくらい、うれしくなる。 「やっぱり、朝からちゃんとしたご飯が食べられるっていいよなあ」 「食べてないんですか?」 「生活が不規則なんだよ。夜勤もあるし、日勤の日も面倒くさくて、コンビニで買ったもんで済ませる。そもそも、おれ料理できないし」 「覚えましょうよ」  功一の弟とは思えない台詞が飛び出して、苦笑する。 「毎日紫乃くんが作ってくれたらいいんだけどな」  そんなこと言うなら、ぜひ食堂に、と茶化そうとして――、息を飲んだ。  昂也の目は、笑っていなかった。誤魔化すなと叱咤するように、紫乃の目を、真っ直ぐに見つめる。 「紫乃くん」  困る。そんな風に呼ばれたら、どんな顔をしたらいいか、まだわからない。 「おれは、本気で言ってる」 「きのう……、酔っ払ってたんじゃないんですか」 「あれは嘘だよ。おれは、兄ちゃんみたいに酒には弱くないんだ」 「じゃあ、なんで……」  なんで一度、なかったことにしてくれたのに、またそんなことを言うんだ。  不意に、鼻の奥がつんとした。堪えるように唇を噛んだら、昂也は味噌汁を飲み干したその器で、軽く紫乃の額を小突いた。 「そういう顔、きのうもしてたから。ごめん、黙っておけばよかった」 「そんな……」 (なんで、昂也さんが謝るんだよ……)  昂也も、巧も、悪くない。悪いのは、自分だ。曖昧な態度をとって、そのくせ大切なことは言葉を濁して、一人も選ばないまま過去に逃げ込んで、安心している。こんなことを、もう続けるわけにはいかないと、わかったはずじゃないのか。 「いいよ、なんにも言わなくて。皿はここで洗えばいいのか?」 「あ、それは食堂のほうのお皿なので、おれがやっておきます……」 「そうか、ありがとう。じゃあ、おれ帰るわ。ご馳走さま、すっげーおいしかった」 「あの……っ」  思わず呼び留めたけれど、なにを言ったらいいのか、わからないままだった。また、誤魔化すのか。また、中身のない言葉を、こんな真摯な人に向けるのか。これ以上、自分を嫌いになりたいのか。  言葉を紡げないまま、俯いた。情けないと思うのに、なにか言わなくちゃいけないと思うのに、なにを言っても、昂也に向き合えない気がしてしまう。  紫乃、と名前を呼ばれた。どきりとして、反射的に顔を上げた。  昂也は、笑っていた。 「また今度、聞かせろよ」 「……はい」  どうして、この人はこんなにやさしいのだろう。どうして、やさしくしてくれるのだろう。  ひらりと手を振って、昂也が帰っていく。次の約束すら、こちらからじゃ取りつけられない。鈴の音で一人になって、一つ、息を吐き出した。 「ああ、もう……、なにやってんだろ、おれ……」  動揺している。答えを出せない。冷静になれそうにない。きのうの、巧の言葉にも、なにも返せなかった。……そうだ、おれは、きのうも誤魔化したんだった。  巧に「答えてよ」と言われて、言われた自分のほうが切なくなって、心配する振りをして、話を逸らした。――それでも、だからこそ、気づいたこともあった。  うー、と声が聞こえて、自分の呻きかと思ったら、台所の入口のところでポチが顔を歪めていた。そういえば、ポチに朝ご飯をあげるのを忘れていた。 「あーごめんごめん、うっかりしてた」  急いでねこまんまを用意して、お詫びに鰹節をいっぱいにかけてやったら、ポチは満足そうに紫乃の足におでこを擦りつけた。 「お前もゲンキンだなあ。はい、いただきます」  合図と共に、ばくばくという擬音語ぴったりにご飯を一粒残らず平らげて、ポチは丸い腹を揺らして店のほうへ向かって行った。ふかふかの尻が角に消えるのを見届けて、洗い物をする。  食器をすべて洗い終え、乾燥機のスイッチを入れたところで、ちょうど鈴の音とポチの出迎える声がした。急ぎ足で食堂に顔を出す。 「宮司さん、おはよう」 「おはようございます。なに食べますか?」 「じゃあ、たまごサンドとコンソメスープ」 「はい、すぐに用意しますね」  うん、という客の笑顔で、がんじがらめだった心が解けた。悩んでいても、迷っていても、それだけは変わらない。  だからきょうも、がんばりたいって、おいしいご飯を作りたいって、思うのだ。 「おまちどおさまです」 「いただきます」 (……そうだ)  ふと、こんな気持ちを共有できる彼に会いたくなった。 (きょうは、おれが会いに行ってみよう)  びっくりするかな。迷惑、かな。でも、おれ、お前に聞いてほしいことが、たくさんあるみたいなんだ。  まとまりも取りとめもない、下手くそな話を、それでも柔らかく相槌を打って聞いてくれる親友の顔が目に浮かぶ。  今、すごく、麻紀に会いたい。  自動ドアを潜ると、かわいらしい制服の従業員に出迎えられた。ちなみに、こんなかわいい制服を考えたのは麻紀ではなく、デザイナーと投票をした女性従業員の方々だ。みやじ食堂で「制服なんて考えるとは思わなかった……」と、ぼやくのを聞いたことがある。 「お一人様ですか?」 「いえ、小戸森店長をお願いします。『みやじ食堂の者』だと言ってもらえれば」 「か、かしこまりました」  従業員が店の奥に駆けていく。そちらが厨房になっているのだろう。  しばらくして、麻紀が現れた。その姿に、小さく吹き出す。帽子を被っていたのだろうくしゃくしゃの髪に、汗の滲んだ額、煩わしそうに熱気を払う仕草も、見慣れてきたきまったスーツ姿とは違いすぎて、おかしい。 「川辺くん、あのな、その呼び出しの仕方はやめ……」 「よう、麻紀」 「……って、紫乃?」  目を丸くして、慌てて髪を整える仕草にまた笑ったら、珍しく拗ねた顔で「……笑うな」と唇を尖らされた。そのまま、事務室に案内される。  ちょっと待ってろ、と言われてしばらくしたら、髪もきっちりまとめて、制汗剤の爽やかな匂いをさせた麻紀が茶を持って再登場した。 「あはは、さっきのままでもワイルドでかっこよかったのに」 「……茶化すなよ」  茶をテーブルに置きながら、麻紀も向かいに腰かけた。頭を掻いて、グラスを口に運んでいる。 「紫乃が客じゃなくうちに来るなんて、初めてじゃないか」 「そうだったかな」 「ああ」  確かに、そうだと思う。功一がいた頃は、食堂にいるのが常だったし、彼が亡くなってからは、外に出る気になんてなれなかった。そのうち、大学生とねこを拾って、前を向かせてくれる人達の存在に気がついて、ようやく来られたのだ。心に、余裕ができたのだと思う。 「なんとなくさ、麻紀の顔が見たくなって」  大学時代から、ずっと親しくしてくれた。そんな友人は、麻紀しかいなかったから、たぶん思ったことを、一番素直に言えると思った。  グラスを置いて、「……びっくりした」なんて改めて呟く麻紀に、今度はこちらがわざと口を尖らせて見せる。 「麻紀のほうが、いつでも来いって言ったくせに」 「う……、まあ……来てくれて、うれしい、けど」 「うん」  素直に頷く。いろいろあったけれど、麻紀の言葉だったから、本心だと信じられた。  さて、なにから話そうか、と茶で喉を潤して考える。麻紀はよく様子を見に来てくれるから、大した積もる話もない。それに、訪れてみたはいいものの、『この話』は、自分をすきだと言ってくれた彼に話していいことなのだろうか。また、傷つけてしまうのではないか。 「……眉間のしわ」 「へ?」 「それ、癖になるらしいぞ」  向かいから指を伸ばして、紫乃の眉間を平らするように押しつけられる。そういえば、巧もよく、ポチの額の弛みを摘まんで遊んでいた気がする。 「悩みごと?」 「……言うほど悩んでもない感じ、かな」 「なんだそれ」  麻紀が相好を崩したので、つられて苦笑を浮かべた。  だって、巧くんも、昂也さんも、気を遣ってばかりで、必ず逃げ道をくれてしまうんだ。だから、おれが向き合おうとしなければ、何事もなかったように過ぎ去られてしまう。そんなこと、ひたむきにおれを見ていてくれた人にしたくない。おれだけが、都合よく逃げるわけにはいかないだろう? 「おれはまた、だれかをすきになってもいいのかなあ」  頬杖をついたら、思わず口から零れ出た。麻紀も驚いたように瞬きを繰り返す。 「あ、えっと、今のは……」 「紫乃、すきな人ができたのか?」 「ち、違う違う」  慌てて両手を振る。顔が熱いのは不可抗力だ。麻紀に相談していいのか迷ったそばからこの有り様なんて、呆れを通り越して恥ずかしい。 「そうじゃないんだけど……」  そうじゃなくて、ただ、ふと、思ったのだ。功一も、許してくれるんじゃないか、と。  思えば、いつも笑った顔を見せてくれる人だった。それが、無理したものではなくて、宮司功一という人の変わらない本質だった。  そっと、拳を固めた。伏せた目を上げたら、麻紀の深い色の瞳と視線が重なった。 「麻紀、おれ」 「うん」 「告白された、かも」 「え……、……かも?」 「返事、できなかったから」  昂也が流そうとしたからじゃない。紫乃自身が、また迷った。また逃げた。もう定まっているはずの気持ちを見極められず、自分のことなのに、知らない振りをしていた。  それじゃ嫌だと、心底、思った。  これまで、たくさんの思いを手渡してくれた人達に、ちゃんとした答えを渡すべきだ。巧にも、昂也にも。それを紫乃は、功一を言い訳にして、長く避け続けていたのだ。 「なんて、言うつもりだったんだ?」 「え?」 「その人に」  麻紀のぶれない瞳に、心が定まる。声がする。自分を叱責する鋭い声だ。この声を道標にすると、自分が決めた。  馬鹿野郎、ここですら言えなくて、お前はだれに、なにを言えるっていうんだ。 「たぶんおれは、そんなのいらないって、答えたんだ」  麻紀の顔を真っ直ぐに見たら、自然と頬が綻んだ。張り詰めていた心の琴が緩んで、ほう、と息を吐いた。  口にした言葉は、思っていたよりも、するりと角がなくて、どこも痛くなくて、ああ、こんなに簡単に言えたんだ、と思った。 「……うん、やっぱり、おれはおれなんだな」  昂也と話すのは、たのしかった。心地よいテンポで交わす会話は飽きなくて、たのしい時間を、これからもたくさん共有したいと思った。それに、痛みを分けて功一の話をできる初めての人だったから、うれしくて、うれしくて、堪らなくうれしかった。  ちょっと前の紫乃にとったら、きっと、昂也はヒーローだった。  宮司功一をこの世に取り戻してくれるヒーロー。昂也はやさしいから、それでもいいなんて、許してくれたのかもしれない。それでも、昂也と出会ったのは、「今の」自分だったから。  巧が、麻紀が、前を見ろと、ここにいろと、現在に繋ぎ留めてくれたのが、今の自分だ。だから、もう、功一の代わりがほしかったわけではないと、はっきり言葉にできる。  宮司紫乃は、今の自分だ。  やり直すものじゃない。功一と過ごした時間、功一を亡くして立ち止まった時間。それでもこの名前を引き継いだ食堂で重ねた時間、ぜんぶ合わせて、宮司紫乃だ。やり直したいなんて、思っていない。  今のこの時間が、幸せだと感じるから、もう功一がいなくても大丈夫だと、あの日手を振ったのだ。  だから、おれが昂也さんに伝えたい言葉は、きっと――。  心の整理がついたことを感じ取ったのか、麻紀はそっと紫乃の手に手を重ねた。「そうか」と言う声は柔らかくて、なんだかとても、ほっとした。  こうやって、一つ一つ、自分の中にある気持ちを繋ぎ合わせて、答えにしていこう。それが、だれかを選ぶための言葉でも、そうじゃなくても、構わない。ただ、それが、自分に向き合ってくれる人にできる恩返しだと、思う。  ――不意に、ホールのほうが騒がしくなった。  麻紀と顔を見合わせて、様子を窺いに、事務室を出る。  急ぎ足でホールに向かうと、季節を無視してスーツを着込んだ男たちが数人、従業員に突っかかっているようだった。麻紀が靴音を響かせて、近づいていく。こういうときの彼は凛としていて、ほんとうに頼りになるリーダーだと感じる。 「柏崎(かしわざき)さん、うちの従業員に絡まないでいただけますか」 「ああ、小戸森さん。悪いね。恐がらせるつもりはなかったんだ。ちょっと、君を呼んでもらおうと思っただけなんだけれどね」  わざとらしく肩を竦める三十絡みの男に対して、麻紀が眉を寄せる。紫乃には見せない表情に、この男を歓迎していないことを察する。 (知り合いか……?)  細い目の、印象的な男だった。見たことのない顔だから、大学の知り合いではないだろう。だとすれば、それ以前か、あるいはHEMPの経営上の相手だろうか。 「お話は伺います。事務室へどうぞ」  そう、麻紀が男達を引き連れて、事務室に戻ろうと向かってきた。擦れ違いざま、窺うように麻紀の顔を見つめたら、「ごめんな」と小さく囁かれた。その声が、初めて聞くような細い声音で、思わず、行き過ぎる腕を掴んだ。 「紫乃……?」 「あ、その……」  手を離す。無意識だったから、言葉が上手く浮かんで来なくて、言い淀んだ。麻紀も不思議そうな顔をしていて、無言の数秒が流れる。 「あ、もしかして、あなた、宮司紫乃さん?」  沈黙を破ったのは、演技に聞こえるほど能天気な声を発したスーツの男ーー柏崎だった。  怪訝に思いながら頷く。なぜ紫乃の名前を知っているのか疑問で、忘れているのかと思って彼の顔を確認するが、やはり見覚えはない。柏崎はけらけらと不躾に肩を揺らした。 「あーあー、初めましてですよ。知り合いなのは、功一さんのほう」 「コウ先輩の……?」 「そ。スカウトに行ったことがあるんだけれど、にべもなく断られちゃったんですよねえ。君のことは、功一さんにも小戸森さんにも聞いてますよ。こんなにお若いとは思わなかったけど……あれっ、小戸森さんと同い年じゃなかったっけ」 (……スカウト?)  嫌味を言われているのに気がついてはいたが、それ以前の耳慣れない単語に、思考が停止していた。そんな話、功一から聞いたことはなかった。そもそも、なんのスカウトなのかも、見当がつかない。 「ぼくね、いくつかのチェーン店の経営をしているんです。コンサルタントと言いますかね。当時は人手が足りなくて、人材探しなんかも手伝ったりしてたんです。そこで、すでに現場経験があって、腕も立つ、すぐに支店長を任せられるような人ってことで、功一さんに声をかけたんですよ」 「じゃあ、麻紀も……?」 「ああ、いえ。HEMPに関しては、買収させていただけないかと思って」 「え?」  柏崎の言葉に動揺して、ぱっと冷水をかけられたように心臓が縮こまった。まったく明るくない分野だが、たのしい話題でないことは確かだ。  麻紀の苦い声が、柏崎を呼ぶ。紫乃に、この話を聞かせたくなかったみたいだ。そんな様子をわざと無視したように、柏崎は立ち話を続ける。 「戦略的合併というやつですよ。事業を展開していくには、金がいるでしょう。金を儲けるには、馬鹿な客にご来店いただいて、効率的にお金を落としてもらわなくっちゃ。そのための玄関は、多いに越したことはない。HEMPの既存客も抱え込めるなら、一石二鳥だ。もちろん、小戸森さんには重要なポストも報酬も用意しますし、悪い話じゃない」 「……なんだよ、それ」  感情が、ぽろりと零れた。  事業? 金? この人はそんなもののために料理を振る舞うのか。いや、それ自体は価値観が違うだけだから、いい。けれど、そんなことのために、おれの親友の作り上げた店を、渡すと思うのか。 「紫乃!」――叱るように名前を呼ばれ、自分の手が、柏崎のスーツの胸倉を掴んでいることにはっとした。  麻紀が心配そうな目をしている。堪えろ、と視線で訴えてくる。わかっている。麻紀もくやしい思いをしていて、それでも平静を装って、交渉の席につこうとしているのだということくらい、ちゃんと理解もしているはずだ。  奥歯を噛み締める。ぎりり、と軋んだ音が頭蓋骨に響いた。手を離せ、と脳内で警鐘が鳴り響く。 「……て、なんだよ……」 「うん? なんですって?」  飄々と、笑みを浮かべてさえいる柏崎の顔に、かっとなる。たぶん、頭のどこかが麻痺しているんだと、冷静な部分の自分が判じた。心の中で、麻紀に謝る。  ごめん、麻紀。けど、おれにはこの人を、許せそうにない。 「馬鹿な客ってなんだって言ってるんだ。料理人は、お客さんをよろこばせるものじゃないのかよ!」  若いと、下らないと、嘲笑されたって構わない。  おれには、食事をすることの大切さを、その貴さを、教えてくれた人がいる。だから、これからもずっと、そんな空間である食堂を守りたいって、思えたんだ。それを揶揄されたようで、堪らなくくやしい。 「あっはははは!」  高笑いがホールに響く。さもおかしいと言うみたいに、柏崎は腹を抱えて――、そんな態度とは裏腹に、鋭く、スーツにかかる紫乃の手を払った。  よろける背中を、麻紀が受け留めてくれる。でも、目の前の男から、視線を外せなかった。見つめていればわかる、男の細い目は、ほんの少しも笑っていない。 「はー、おかしい。やっぱり紫乃さんも、『みやじ食堂の人』なんだな」 「それは、どういう……」 「あなたみたいな人には、もう声はかけませんから、安心してくださいって意味です」  唇を噛む。言われなくとも紫乃が食堂を捨てるなんてありえないけれど、この男の言葉は、いちいち意識に引っかかる。わざと挑発しているようだ。 「功一さんもね、面倒な人だったんですよねえ。客は、大事ですよ。彼らの金で、こっちはおまんま食べさせてもらっているんですから。だから、商売ってのは、このみの違う客達から、どれだけ多くの金を、少ない労力で最大限搾り取れるか、それが最重要なんでしょう」 「そんなの、間違ってる」  なにを優先するかは、人それぞれだ。なにを大切に扱うかは、人によって変わるものだ。価値観とは、その人がそれまでの人生で獲得した経験や感情によって成り立つものだ。 (でも……、それが、客を「馬鹿」呼ばわりするような人を許す理由にはならない)  功一だったら、あの澄んだ目で、間違いなく、そう言う。  目を逸らさず、柏崎を睨む。麻紀には悪いけれど、ここでこの人を許容したら、ぜったいにだめだと、直感のように思う。本能といってもいい。 「ふうん。頑ななのも、功一さん譲りですか。不愉快だなあ」 「考えを変えろとは言わない。発言を撤回してください」 「どれのこと?」 「お客さんを、馬鹿だと言ったところです」 「事実でしょう。高い食材を使っていると謳えば、だれがどんな風に作ったものかなんて関係なしにおいしいと言う。勝手に有り難がって、金を出す。だれも味なんて、わかっちゃいないんだよ」  否定しきれない部分は、あるかもしれない。紫乃とて、料理を作った人で食べ分けるなんてできない。それでも、来店してくれて、料理を食べて、おいしいと口にしてくれる人達の顔が、お札に見えるようになっては、だめだ。ぜったいに、だめなんだ。  あなたは、間違っている。それだけは、胸を張って言える。 「じゃあ、こうしよう」  紫乃の視線を煩わしいと言いたげに、柏崎は言い放った。 「ぼくと勝負しましょう」 「ごめん、麻紀」 「ほんとうにな」  コチン、と指の節で額を小突かれて思わず呻いた。意外に強い衝撃があったから、紫乃が思う以上に麻紀は怒っているようだ。 「……ごめんなしゃい」 「かわいく言ってもだめだからな」  やり損だった。  ちょっとでも麻紀が機嫌を直してくれたら、という精一杯の誤魔化しも空振りと化したし、どうやら自分の非を認めざるをえないらしい。  はあ、と盛大な溜め息を吐いて、麻紀は事務所の机に突っ伏した。珍しい姿勢のおかげで、旋毛が見える。ここで突いて遊んではいけないことくらいはわかっている。 「ああいう人間に対しては、適当に同調して流しておけばいいのに……」 「おれがそんなに器用に見える?」 「見えないから、さっさと帰そうとしたんだよ」 「そうでした」  柏崎と、勝負することになった。  少年マンガみたいな展開に、当事者以上に麻紀が頭を痛めているのは、麻紀が紫乃を心配してのことだった。  柏崎が提案した勝負のルールは簡単だ。それぞれ「夏」をテーマにした料理を作って、HEMPの来店者に振る舞い、「好ましいほう」に投票をしてもらう。 「『おいしかったほう』じゃないんですか」  そう尋ねると、柏崎は見下すように口を歪めて、「それじゃ、勝負にならないでしょう。客は味なんてわからない。紫乃さんには高級食材なんて仕入れられないんだから、食べる前に口上で勝負がついちゃうよ」と答えられた。  違う、食材だけで料理の出来がすべて決まるのなら、料理人は絶滅している。そこに人の手が、心が加わるから、料理には色が出て、味が出て、おいしくなって、人の心を動かすのだ。すらすらと言い返す言葉が出てこない口が歯がゆい。 「まあ、どの道、あなたに勝ち目はありませんけど」 「そこまで言うなら、約束してください」  むきになって、言い返す。自分が馬鹿にされるのは構わないが、みやじ食堂の名を汚すわけにはいかない。大切な人達を言葉で守れないなら、せめてこの手で作る料理で、守らなければならない。 「おれが勝ったら、さっきの言葉を撤回し、もう二度と、お客さんを悪く言わないと誓ってください。それから」 「まだなにか?」 「――あなたみたいな人に、おれの親友を渡すわけにはいかない。HEMPから、手を引いてください」 「ふうん。……まあ、いいでしょう」  その代わり。  整えられた前髪の間から覗く柏崎の目が、獲物を狙う鷹のように鋭く光った気がして、背筋を寒気が走った。 「ぼくからも一つ、お願いできますか」 「……どうぞ」  そうでなければ、フェアじゃない。ただ、嫌な感じが、止まらなかった。 「ぼくが勝てば、HEMPには交渉を続けるし、それから、みやじ食堂をもらいます」  勝負の詳細が決まり次第、麻紀に連絡を入れるとし、柏崎は去って行った。 「まったく……、うちのことはどんなにしつこく来られてもちゃんと拒み続けるつもりだったし、ちょっと耳を塞いでいればよかっただけなのに……。そもそも、紫乃も柏崎さんもタイミングが悪い。よりにもよって、鉢合わせしに来なくてもいいのに」 「だからごめんて」  麻紀らしくなくぶつぶつと文句を言い続けるのは、きっと紫乃が、自分よりも大切に思う食堂を賭けることになってしまったからだ。  大学生の頃から、麻紀はずっとやさしい。いつも心配して、そばにいて、支えてくれて、おれはここまで来て、今も彼の隣で立っていられる。だから、麻紀がいっしょにいてくれるのなら、今回だって、きっとまた大丈夫だって、思えるんだ。 「大丈夫だよ、負けない」 「うん、知ってる」  へへ、と鼻の頭を掻いたら、「見た目は子ども、料理の腕は大人、だもんな」と余計なことを言われた。「語呂悪い!」と突っ込みながら、ほら、不安なんて、一瞬で消えちゃうんだ。  柏崎から送られてきた勝負の日付は、二週間後の土曜日。HEMPの常連客や近所にチラシを配布し、来店してくれた人達に料理を振る舞い、投票をしてもらうことになった。  チラシ作りも客寄せの宣伝も、食材の調達もすべて柏崎の会社が担ったのは、紫乃に対する当てつけだったのだろうが、実際には助けられてしまった。自分が蒔いた火種なのに、口だけしか、出せなかった。 (……それにしても、どうして柏崎は、ここまでするんだろう)  一介の、小さな洋食屋の店主との口論でここまで拘るのは、なにか理由があってのことではないだろうか。考え過ぎかもしれないが、どうにも気になってしまう。  ぼんやりと、カウンターに頬杖をつく。  ポチが構ってもらえると思ったのか、隣のイスに飛び載る。紫乃は考え事で手いっぱいだったので適当に溜め息を吹きかけてやったら、不満そうに鼻の頭に皺を作って、また店の奥へと姿を消してしまった。 (……スカウトの話なんて、先輩、カケラもしなかったじゃないか)  頬を膨らませたら、「ここがあるのに、受けるわけないからさ。わかってただろ?」と聞こえた気がして、すっと身体のどこかが軽くなった。功一が迷うことなくここを選んだのと同じように、紫乃もまた、何事もなくここに帰って来られると、確信のように思えたから。 「……よし」  気合いを入れて立ち上がったのと同時に、ちりんと入口の鈴が聞こえて、勢いのまま振り向く。 「いらっしゃいませ!」 「よっ、しばらく振り」 「神永先輩!」  片手を挙げて入ってきたのは、ホテルを手伝って以来の神永だった。カウンターを勧めると、彼は「店長おすすめで」なんて冗談を言いながら腰かけた。注文を承り、キッチンに移動してお冷やを出す。 「先日は、ありがとうございました」 「いやいや、こちらこそ。助かったよ」  神永は嫌みのない人だ。態度も喋りも快活で活発で、終始和やかな雰囲気の功一とはまるで逆だと思うのに、いつもほんとうに息が合っていた。 「……で、どうなった?」 「え、なにがですか?」 「ばか、昂也とだよ。上手くいったのか」  ……こういうときは、もう少し功一の奥ゆかしさを学んだほうがよかったと思うけれど。  苦笑しながら、暖かい野菜スープとバゲットをカウンターに出す。一口サイズのロールキャベツと色とりどりの野菜を具にした、夏限定メニューだ。店内は強めに冷房を効かせているので、みやじ食堂では冷製スープよりも人気がある。 「どうもこうも。なにもないですよ」 「はあ? じゃあ、あれ以来会ってないのか?」 「いや、よくご飯は食べに来てくれますし、お墓参りにもいっしょに行きましたけど」 「いい感じに進んでんじゃねえか。で?」 「……で、って?」  神永がニンジンを頬張りながら目をキラッキラさせて見上げてくる。……なんとなく言いたいことはわかるのだが、紫乃はわざと首を窄めてみせた。痺れを切らして、神永が勢いよく熱々のスープを啜る。 「だーかーら! 性格はともかく、あいつといろいろ似てんだろ。思うところがあるんじゃないかって言ってんだよ。なんのために引き合わせたと思ってんだ!」 「あー、神永さん、そういうことだったんだー」  不意に、そんな台詞が聞こえて、入口を見れば噂の昂也が顔を覗かせていた。先客がいると思って、外から様子を窺っていたらしい。相手が神永だとわかって、店内に入ってきて並んで座る。 「紫乃くん、おれも同じの」 「あ、はい」 「ふふん、こうやってよく来るわけだ」 「にやけないでくださーい、神永さんのスケベー」 「なんでだよ!」  紫乃が鍋に目を落としている内に、さぞかしおかしな顔をしたのだろう、神永と昂也のそんな会話が聞こえてくる。功一といたときはしっかりした人に見えた神永も、昂也には振り回されてしまうらしい(いや、功一のマイペースにも盛大に振り回されていたか)。年上相手にも態度がまったく変わらない昂也もすごい。  この空間を取り巻く人達は、決まって素敵な人が多いと思う。功一が、そういう店を作り、紫乃が受け継ぎ、そんな彼らと守っていくのだ。  柏崎に、大切な居場所を譲るもんか。他人なんかに、そんな仲間の一人である麻紀を、渡すもんか。  はい、と野菜スープとバゲットを用意すると、昂也は思わずこちらが目を細めたくなるほど眩しく笑った。……ほんとだ、神永先輩がにやにやしている。 「へえ、へえ、へええ~?」 「……なんです」 「いや~、べっつに~?」 「紫乃くん、この人無視していいから」  しれっとあしらわれ、神永は不服そうな顔をしたけれど、揶揄うのをやめる気はないらしい。カウンターから乗り出して、紫乃の反応を窺ってくる。 「紫乃はどうなの?」 「えっ、あの」 「神永さん」  言い淀むと、昂也が聞いたことがないくらい鋭い声で制止した。その声音に驚いた紫乃達を気にも留めず、昂也はスープを味わいながら続けた。 「すきになったのはおれのほうで、告白したのもおれ。だから、聞くなら紫乃くんじゃなくておれにして」 (庇って、くれたのか……)  火が出そうなくらい恥ずかしかったけれど、昂也の気遣いは単純にうれしかった。なにより、男の人として、かっこいいと思った。 「え、まじ?」 「藪を突いたのは神永さんでしょ」  ぽかんと口を開けて停止した神永より先にスープを食べ終えて、「おいしかった。野菜がころころしてて、見た目もかわいいし。バゲットとも合う。これ、片づけは自分でしていい?」と皿を持って、キッチンに入ってくる。  紫乃が止まる間もなく器を流しに置き、スポンジを手に取ってしまう。 「……予想外だったな……」  なんて、呆然とした、をそのまま音にしたような声が聞こえたのは、昂也が器もスプーンもグラスも拭き終わった頃だった。 「すきになるとしたら、紫乃のほうかと思ったのに……」 「おれが、宮司功一の弟だから? それだけですいてもらえるんだったら、そんなに楽なことってない」  昂也の言葉が、鼓膜から紫乃の脳裏に突き刺さる。おれが今もまだ、一人の世界でコウ先輩の姿を追い続けていたら――。 「でもたぶん、そんな紫乃くんだったら、おれはすきにはならなかったんだよ」と、昂也は独り言のように呟いた。柔らかい声音だった。 「あー、もう。かっこ悪いな。神永さんのせいなんだから、責任とってなんか一発芸して」 「なにその無茶ぶり!」  三人で、腹を抱えて笑う。ほら、こうして、彼の弟や彼の友人と笑えるのは、今の自分だからだろう。  大切な思い出を抱いて、新しい人生を歩む。その輝きを、あなたはここに、残してくれていたんだな。

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