22 / 28

その7-3

「……えい」 「あっ」  火の落ちた線香花火で隣の火花を突いた途端、赤い球が地面に落ちて、黒く変わった。ぱかっと口と目をいっしょに開いた顔がおかしくて、くすりと笑う。 「はい、残念」 「紫乃ひどい……」 「つい、手が滑っちゃって」  舌を出したら、小さく肩を小突かれた。まさに渋々といった仕草で、功一は新しい線香花火を束から抜き出した。ちなみにさっきから、功一は線香花火しかやっていない。  近くにあったライターを差し出す。「ありがとう」と言う顔が、仄かな明かりに照らされて、ぽっと色づく。 「先輩、線香花火がすきなんですか?」 「うん」 「小さくてかわいいから」と、女の子みたいなことを言うから、今度は吹き出してしまった。 「あ、笑ったな」 「スミマセン、でも、ふふ……、先輩がそんなかわいいこと言うとは思わなくて」 「かわいくなくて結構」 「拗ねないでくださいよ」  唇を尖らせて、手元の星屑みたいな灯火に視線を落としてしまう。紫乃も目を伏せて、細かい花弁を咲かせはじめる火球を見つめる。パチパチと微かな音を立てながら、橙色が舞う。確かに、かわいいかもしれない。 「綺麗ですね」 「……うん、花火の中で、一番綺麗だと思う」  そう、功一が言った瞬間、ぽたりと球が滴り、地面に消えた。思わず「あ……」と呟いた。それがあまりにも、静かな終わりだったから。 「……だから、こんなに短いのかな」  返事ができなかったのは、いつもの艶っぽい声が、花火をするには、さみしそうに聞こえたからだ。もう一本を差し出したのは、先輩にそんな顔は似合わないと思ったからだ。おれといるときは、先輩に笑っていてほしかったから。 「らしくないなあ、先輩」 「ね。紫乃といると、ついつい甘えたくなっちゃう」  そう言って頭を掻く隣に寄り添う。触れた腕が、生肌の体温を一つにしてくれる。 「そんなこと言われると、甘やかしたくなるでしょう」 「うん。ありがとね」  こてん、と肩に頭が乗る。細い花火を一本抜き出して、火を灯す。  パチ、パチ。パチパチ。  夏の匂いと、夜の空気と、遠くの喧騒、アルタイル、線香花火、功一のやさしい顔。  ぽたり。  光に目が眩んでいる内に、また世界は呼吸を取り戻し、静かに夜を刻んでいく。二人で見つめた花火の明かりは、永遠のように思えた。  昂也が抜き出したのは、花火の中でも一番細くて短い、線香花火だった。花火用の線香から火を灯すと、静かに赤い球が先に膨らんだ。 「……兄ちゃんさ」 「はい」 「線香花火がすきだったって、知ってた?」 「……はい」  雫の形をした光が、昂也の指先と共に小さく呼吸している。 「……そっか」  隣に、巧がしゃがみこんだ。知らない顔をして、ぴとりと、体温が重なる。その気遣いに、そっと身体を預けることで応えた。 (……カノジョの前だぞ、ばか)  そんな悪態も、心の中ですら上手くつけない。巧のやさしさが、ほんとうは、言葉にできないくらい、うれしかった。  それからは、時間を忘れて花火をたのしんだ。巧も澪那も昂也も笑っていたから、紫乃も笑った。こんな時間が、今度こそは、ずっとずっと続いていけばいいと思った。  花火の束がなくなった頃には、周りの人々も散りはじめていた。後夜祭は二日目のあしたらしい。きょうは多くの人がこれでお開きなのだそうだ。 「じゃあおれ、澪那ちゃんを家まで送ってくるので、先に帰っていてください」 「うん、わかった」  国中駅で違うホームに向かう二人と別れて、紫乃は昂也と電車に乗った。昂也の自動車がみやじ食堂に置いてあるからだ。 「帰り、コンビニ寄って行こう。お酒買ってさ、食堂で三人で飲まねえ?」 「あした、仕事はいいんですか?」 「きょう夜勤明けだったから、きょうあす休みなんだよ」 「へえ。いいですね、飲みましょう。でも、巧くんは未成年ですから」 「げっ、まじかよ。じゃあ紫乃くん、家で飲んだりしないの?」 「はい。もともとお酒は得意じゃないし、数年振りです」  電車に揺られながら、何気ない会話をする。こんな時間も、数年振りだった。みやじ食堂で世界が完結していたら、きっとずっとなかった。  車窓に映る街明かりが、横に流れて瞬いている。流れ星みたいだ。 「昂也さん」 「うん、なに?」 「なんであのとき、先輩の話なんてしたんですか」  線香花火を手にしたとき、功一を思い出した。昂也もそうだったのだろう。でも、「忘れていい」と、そう口にした昂也が、功一との思い出を掘り起こさせようとしたのが、意外だった。 「……鋭いなあ、紫乃くん」  窓ガラスに映った昂也は、頭を掻いていた。見てはいけないものを見たようで、目を伏せた。 「ごめん、おれ、嘘ついた」  いたって明るい声音だった。でも、なんとなく、無理をしているのだと感じた。昂也と知り合って間もないけれど、それくらいは、わかる自分でいたい。 「ほんとは、紫乃くんが兄ちゃんのこと覚えててくれたの、うれしかったんだ。兄ちゃんのこと引き摺ってくれてて、安心した。忘れてほしいなんて、嘘」  やなやつで、ごめんな。  耳朶に触れるその声は、もうちゃんと、宮司昂也の声に聞こえる。似ているけれど、違う。意地悪なことばかり言うくせに、息を飲むほど柔らかい、昂也の声だ。  電車が止まる。稲荷木駅に着いていた。立ち上がる昂也の腕を掴む。いきなりで驚いたのか、背の高い背中がふらついた。紫乃たちの横を、乗客がぱらぱらと降りていく。  元より人が少なかったのが、車両内は二人きりになった。扉が閉まる。 「紫乃くん」 「コンビニ、次の駅の近くにしかないんです」 「……そう、なんだ」  ほら、これは、ちょっとほっとした声。ぎゅ、と掴む手に力を込める。発車の振動と共に、昂也の身動ぎが伝わってきた。 「……思わない」 「え……?」 「やなやつだなんて、思わないです」  顔を上げる。  見開かれた茶色い瞳と、視線が絡む。吸い込まれそうなほど、澄んでいる。 「誤魔化されるより、ずっといい。昂也さんの本音が聞けて、うれしかったです」  昂也は、最初から紫乃を認めてくれていたから、最初から受け入れてくれたから、不安だった。責められたほうが、嫌われていたほうが、楽だと思った。でも、今聞いた昂也の本音に、安堵した。曇りのない言葉に、呼吸が楽になった。  いつか、功一以上に愛しいと思う人が、できるかもしれない。いつか、記憶の中の姿が、薄れてしまうかもしれない。いつか、指の隙間から、功一の表情が抜け落ちてしまうかもしれない。いつか、激しい気持ちに、功一を忘れてしまう瞬間が来るかもしれない。  ずっとずっと、そんな日が訪れるのを、おそろしいと思っていた。でも、今は、それだけじゃない。  今ならきっと、笑って報告できる。  前を向かせてくれた人、認めてくれた人、自分がそこまで思える人。そんな人達に出会えたことを、功一に自慢できる。あなたに愛されて、おれは今、こんなに素敵な人達といっしょにいられるのだと、胸を張って言える。 「――先輩をすきだったおれは、いなくなったりしませんから」  忘れてほしくない。忘れたくない。  その人を思う分だけ、そう考えてしまう気持ちが、紫乃にもわかる。だから自分は忘れないと、確信できるのだ。  駅が近づいてきたので、手を解いた。  昂也が冗談っぽく「あーあ、残念、もう駅か」なんて言うから、紫乃も「なに言ってんですか」とその腕を軽く叩いた。電車が止まる。扉が開く。何事もなかったように降車して、改札にタッチした。  駅前のコンビニに寄って、わいわい言いながら酒の缶を五本とつまみを選んで、レジに向かう。目に留まったソフトクリームもついでに頼んで、先んじて会計をしようとしたら、案の定店員に年齢確認できるものの提示を求められて、昂也に爆笑された。いつかのケーキの返礼をするつもりだったのに、まったく格好がつかない。深夜の映画館やカラオケ店で免許証を見せるのも、実は慣れっこだなんて、口が裂けても言えない。  みやじ食堂までは、徒歩十六分。少し長くなった道のりを、昂也と話して歩く。空はすでに紺一色だ。 「おれ、コンビニで年齢確認される人、初めて見たんですけど~」 「おれ的にはいつものことですけど~」 「ぶはっ、さすが紫乃くん」  腹を抱えられて、さすがにくやしくなる。意趣返しに持っていたコンビニの袋を腿にぶつけたら、「いてっ」と悲鳴を上げたあと、するりと袋を引き取られた。代わりに持ってくれるらしく、紫乃はいとも簡単にいい気分になる。 「ふふ、ありがとうございます、昂也さん」 「紫乃くんの機嫌を損ねると、おれは食堂に入れてもらえなくなるからな。ね、ソフトクリーム一口ちょうだい」 「言ってるそばから……」  おかしい。笑えてしまう。  ソフトクリームを差し出すと、昂也は紫乃の手ごと掴んで、口に運んだ。赤い舌がクリームを上手に掬って、離れていく。  歩く速さに従って、瞬く星が空を泳ぐ。雲一つない宵空だった。  みやじ食堂に着いたときには、八時を少し回っていた。葉月祭の屋台でいろいろ食べたので、夕飯は軽いものにする。コンビニで買ったものは、酒を開けたときのおたのしみだ。  しばらくして、巧も帰宅して、早速夕飯のテーブルにつく。 「おかえり、巧くん」 「ただいま。わあ、オムそば~! 葉月祭じゃ売ってなかったんですよね。いただきます!」  並んだ小皿にオムそばを適当によそって、ぱくぱくと口に運んでは「うまーい」と目を細める巧に微笑む。紫乃の隣で、昂也が吹き出す。 「食べるのはっや。これは、紫乃くんが住まわせる意味がわかる気がするわ」 「褒めてます?」  紫乃と巧が同時に突っ込んで、うんうんと笑いながら昂也は頷いたけれど、どうにも説得力に欠ける。思わず巧と顔を見合わせて、同じことを考えていたらしいことを察し、もう一度破顔した。 「じゃあ、おれ、お先にお風呂いただいてきます」  夕飯を済ませ、しばらく三人で盛り上がって、時計が九時半を指した頃、巧が席を立った。あすも葉月祭は続くから、早めに寝るのだろう。頷いて返す。ちなみに、もうすでに紫乃も昂也も、チューハイを二缶ずつ空けて、ふわふわしている。 「居候くん、お酒は残しておく?」 「おれは未成年ですよ。お二人でどうぞ」 「了解」  い、の音と同時にカシュッと缶が開けられる。「はい、紫乃くん」と缶を傾けられ、グラスを出す。透明なグラスにピンク色と小さな泡粒が半分ほど溜まってくる。いつの間にかシャワーの流れる音が聞こえていた。こんな風に、だれかと飲み交わしながら生活の音を聞いたのなんて、ほんとうに久し振りだ。  ふと、視線を感じてグラスから顔を上げる。昂也の裸の瞳と目が合った。アルコールが回った心臓が、どくりと変な音を立てる。 「昂也さん?」  首を傾げる。なんだか上手く笑えていない気がして、顔を俯けた。その頬に、指が触れた。 「あっ」  慌てて顔を上げたら、昂也がなおもチューハイの缶を傾けていたせいで、グラスから零れていた。 「ちょっと昂也さん! 零れてますって!」  ――息を飲んだのは、昂也の顔が、とても近かったから。  それはスローモーションみたいだった。アーモンド型の目がすうっと細められる。顔の角度が僅かに傾ぐ。唇を舐めて、音もなく、迫った口唇が合わさっていた。 「昂也、さん……」 「紫乃くん」  チューハイの缶は、もうテーブルの上に収められていた。ひんやりと手を濡らした液体の感覚だけが、ぼやけた脳に現実を押しつける。  兄弟揃ってキス魔なんですね、なんて冗談を言える状況ではないことくらいは、酔っ払っていても、わかった。 「紫乃くん。おれともう一度、宮司紫乃をやり直そう」  * (そういえば、おれ、女の子を振ったのって、初めてじゃないか……)  湯船に顎まで浸かって、ぼんやりと思った。 「別れよう」と、口にした刹那、彼女の瞳が色を失うのが、はっきり見えた気がした。ああ、おれは今、この言葉で、この子を傷つけたのだと、実感した。  紫乃に出会うまで、巧はどの子にも執着がなくて、どの子がいなくなっても、大して変わらないと思っていた。平気な顔して彼女たちを受け入れては、別れをただの音声としてしか感じられなかった。  紫乃に出会ってから、巧はようやく、彼女たちの気持ちを知った。息が詰まるほど重くのしかかる、実体はなくても確かに存在する、胸の奥に黒く沈むこの感触を、教えられた。  ああ、こんな重荷を、今までおれは、おれなんかをすきだと言ってくれた子たちに、背負わせていたんだ。  澪那の最後のお願いは、「葉月祭が終わるまで、カノジョでいさせてほしい」だった。  健気に、一途に、巧のことを思ってくれた。澪那といる時間はたのしかったし、彼女が笑えば、よかったと思えた。でも、ふと見せつけられる恋慕の欠片に息苦しくなるのも事実だった。  澪那を選べば、楽になれる。ふつうに、たのしい毎日が過ごせる。そんなことはわかっていた。でも、巧は紫乃がよかった。そこに満たされないなにかがあることを、感じ取っていた。  選ばれる保証はない。思われる確証もない。恋は、傷つくばっかりだ。  紫乃の、小戸森の、桃子の、澪那の姿に知った。功一の遺した言葉が、巧に思い知らせた。そして、それを知って気がついたのは、今まで自分は、無傷のままで人を愛そうとしていたという愚かな真実だった。  湯船から上がる。もう一度シャワーを浴びて、風呂場から出る。ふわふわの白いタオルで頭と身体を拭いて、スウェットに着替える。  ふと、視線を落とした。数か月前、自ら傷ついた場所だった。紫乃を傷つけた場所だった。  あのとき、情けない欲情に負けなければ、あのとき、思いを告げなければ、あのとき、一度手を離さなければ、こんな泣き出しくなるような痛みも、知らないで済んだかもしれない。それでも、知れてよかったと、思う。  喉が渇いたので、台所に直行する。紫乃たちに風呂が空いたことを知らせるついでに、茶をもらおうと思った。  この季節になると、紫乃は麦茶を多めに作っては、ペットボトルに詰め替えて、冷蔵庫に冷やしておいてくれる。そんなところが堪らなくすきだと思えてしまうあたり、巧の頭の中も、春を通り過ぎて夏真っ盛りだと思う。  タオルで髪の雫を取りながら、その静かさに、嫌な予感がしていたのだ。  ああ、なんかデジャヴみたいだな――と。  台所の椅子に並んで座る紫乃と昂也の影が重なっていた。咄嗟に、柱に身を隠した。よく見なくたって、わかる。今、キス、してた……。 「紫乃くん」  声が聞こえた。  どうしよう、このままここにいたら、嫌な言葉を聞く。そんな気がする。  喉がからからだった。麦茶を諦めて寝室に逃げるのは簡単だった。それなのに、スリッパの底が廊下の床に貼りついてしまったみたいだ。自分がどうしたいのか、頭より先に身体がわかっていた。  柳瀬のときのように足を踏み出せなかったのは、紫乃はなんて答えるのか、知りたくて仕方なかったからーー。  愛した人と血の繋がった人相手に、なにも思わないはずがない。それに、尋ねなくても、紫乃の態度を見ていればわかった。昂也は、功一と似ているのだ。顔とか、声とか、仕草とか、そういう部分に、少なからず宮司功一を見つけては、重ねて、胸を高鳴らせていたんじゃないのか。  おれにはない、功一さんの面影を持つ人に告白されたら、宮司さん、あんた、なんて返事するつもりなんです。答えて。 「紫乃くん。おれともう一回、宮司紫乃をやり直そう」  答えて、ねえ、あんたはもう、おれに思われていないほうが、いいのかな。

ともだちにシェアしよう!