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その7-2
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
カウンターの中から手を振って、巧を見送る。
また眩しい月曜日がはじまった。朝から胸がすっとしていて、気分がいい。巧の笑顔も、先週よりずっと明るかった。
朝の仕込みを終えて、店面の看板を「営業中」にひっくり返しにいく。外に出ると、白い光が視界を淡く包んだ。朝でもずいぶん気温が高くなった。もうすぐ夏本番だ。
「お、おれ一番乗りじゃね?」
軽い調子の声が聞こえたほうを振り向く。昂也が桜並木から歩いてくるところだった。桜も今は青い葉を両手いっぱいに広げて、太陽の力を受けている。
「昂也さん。おはようございます」
「うん、おはよ」
(この人も、眩しい)
茶色い髪の先に、陽だまりができている。でも、それ以上に、笑っている人は眩しい。たくさんの元気をくれる。
店の中へ促すと、昂也はカウンターにかけて、早速サンドウィッチとコーンポタージュを注文した。
食パンの耳を落としながら、なんとはなしに「きょうはどうしたんですか?」と尋ねる。きのう会っていたばかりだから、軽い照れ隠しだ。
「うーん、まあ……、きのう居候くんとケンアクだったから、大丈夫だったかなって」
思わず包丁を止めた。わざわざ心配して訪ねて来てくれたと知り、驚いたからだった。「手止まってるけど、大丈夫じゃなかった?」と呼びかけられ、慌てて首を振る。
「仲直りしました。話をしたら、ちゃんとわかり合えました」
自分たちの間には、言葉が足りなかった。互いに遠慮して、居心地のいい距離を保っていた。けれどそれは、思いやりなんて綺麗なものではなくて、相手に寄り添うのに、怠惰だっただけだ。そう気づけたから、もう、大丈夫だと思った。
きっと、もっとおれは、巧くんと仲よくなれる。もっと、家族になれる。
「そっか。よかったな」
(……ほんとうに、コウ先輩の弟なんだなあ)
安心したときの笑い方が、同じだった。
ホテルのシフトは、きょうは午後からだったらしい。朝食を済ませて、また食器を自分で片づけて、昂也は軽やかに鈴を鳴らして去っていった。ほんとうに、巧とのことだけの確認に寄ってくれたらしかった。
(……イジワルなんだか、やさしいんだか)
わけのわからない義弟(とか言うと百パーセント怒られるだろう)に頬を緩めて、昼食のメニューの仕込みをしておく。すぐにモーニングの客がやって来て、話をしながら朝の爽やかな時間を過ごした。こんなに心が軽いのは、間違いなく巧と昂也のお陰だった。
「ただいまー」
「おっじゃましまーす」
「おかえり、巧くん。柳瀬くんも、いらっしゃい」
元気な声が食堂に揃って響いた。柳瀬もすっかり常連だ。
巧は荷物を置くために奥へ、柳瀬はカウンター席へそれぞれ散る。この流れももう板について、紫乃も柳瀬に茶を出してメニューを尋ねた。
「きょうはなに食べたい?」
「んー、じゃあ、Tシャツにちなんで海老フライセット!」
「この時間からセットいっちゃうのかよ」
巧が苦笑しながら戻って来て、手を洗ってからキッチンに入る。
「だって、ここのご飯おいしいんだもん。同じ白米でも、なんか人んちのっておいしい気がしねえ?」
「あー、わかるかも。自分の家のご飯とは違う感じがする。同じように炊飯器で炊いてんだけどなあ」
「なあ」
大学生の無邪気な会話に耳を傾けながら、海老の殻を取って衣をつける。熱した油も、パチパチといい音を立てていた。
「あ、そーだ宮司さん。今度うちの大学である葉月祭、来ませんか?」
海老フライセットを柳瀬に出して、自分たちも一休みしようと茶を淹れたタイミングだった。柳瀬が頬っぺたに千切りキャベツを詰め込みながら、カウンターを見上げて言った。
「どうせ巧のことだから、まだ誘えてないんでしょ」
「おい、ヤナ……」
「葉月祭って?」
聞き慣れない単語に首を傾げる。巧が困ったように首の後ろを撫でる。
「その……、テスト終わった次の日から、打ち上げみたいな感じで、大学で祭をするんです。キャンパス内にサークルで屋台出したりして、夜は花火とかやって」
「へえ、おもしろうそうだな」
「巧ってば、来てもらえって言ってんのに、いつも『宮司さんには食堂があるから』とか『迷惑かけるから』とか言って、誘わないんですよ」
「う……」
友人に告げ口された巧は、気まずそうに目を伏せて紫乃の視線を避けた。
確かに、去年も誘われた記憶はない。けれど、もう一年半だ。それだけ経って、いっしょにいろいろなものを共有して、まだ、そんなこと考えていたのか、と思う。
家族だと言ってくれたのは、巧だ。そこにはもう、そんな大きな、遠慮なんて荷物はいらない。ちゃんと、そう教えてあげるから、ちゃんと、自覚をしていてほしい。そうでないと、紫乃もさみしい。
「巧くん」
「わ、わかってます、すみません、我が儘言って……。でも、その、来てほしいっていうのはほんとうで……いや、いいんですけど、宮司さんが忙しいのは充分わかって……」
「おれ、それ行きたいな。いつやるの? 巧くんはいっしょに回れるの?」
「えっ」
素直すぎる顔に、つい吹き出す。
「え、あの、宮司さん」
「あはは、ごめん、ちょっと、巧くんのびっくりした顔がかわいくて」
「ひどっ」
声を出して笑う。柳瀬もいっしょに笑って、巧だけが照れ臭そうに顔を隠している。
巧くん。もう、そんな気遣いしないでよ。君が思うこと、してほしいこと、おれにそのまま言ってよ。年下のくせに、遠慮なんかするなよ。家族だろう。
「八月三日、四日の土日です。二日間……」
「よし、じゃあ三日に行こう。いいよな?」
「は、はい……!」
(よし、うれしそうな顔)
掌の下から現れた表情につられて、微笑む。
その顔が見たいから、おれは、君の声を聞きたいと思うんだよ。ね、知ってた?
満足そうにお腹を擦って、柳瀬は海老フライセットを完食した。中途半端な時間だが、これは彼にとっておやつなのか、早い夕飯なのか。
「あー、おいしかった! こんなにうまいご飯食べると、帰って自分で夕飯作るの嫌になっちゃうな」
「お粗末さま。よかったら、余った材料でお持ち帰りメニュー作ろうか」
「いいんすか、うれしい!」
「宮司さん、あんまりヤナを甘やかさないでください」
おやつだった。呆れながらも、巧が持ち帰り用のタッパーを用意してきて、素直じゃないんだから、とおかしくなる。余っていた海老を、今度は胡麻衣に包んでフライにし、油ものだけではバランスが悪いから、キャベツとチキンライスを合わせた。
「なんでチキンライス?」
ひょこっと巧が手元を覗きこんでくる。手を動かしながら、簡単に説明する。
「トマトケチャップには、クエン酸がたくさん含まれているんだけど、それが自律神経を刺激して、代謝を活発にする働きがあるんだ。あと、ペクチンは脂肪の吸収を妨げてくれるから、油物ばっかりで柳瀬くんが太らないように」
「へえ、そうなんだ」
「宮司さん、やさしい~」
感心する巧と、両手を合わせて紫乃をおだてる柳瀬は、まるで違う反応なのに、仲がいい。それぞれがきっと、違うところを認め合って、気に入って、いっしょにいるのだろう。なんだか不思議な感覚だ。
だれもがこうして、一人一人違う心を持った人たちと、関わり合っている。彼らからしたら、紫乃も自分とは違う人間の一人だ。相容れない人もいる。だからきっと、たくさんの人の中から、関わりたいと思える相手を、目を凝らして探すのだ。
どれだけ理不尽な世の中を嫌っても、どれだけ人を疎んでも、人は、一人では生きられない。だから、特別な光を宿すだれかを求めて、真っ暗の深淵を覗く。だれしもが、一生をかけて、だれかを見つける旅をしている。そうでなければ、紫乃が功一と出会うこともなかった。
「よし、完成」
「ありがとうございます。おいしそー!」
完成したタッパーに、キャラメルタルトを包んだアルミホイルを添えて、きらきらと目を輝かせる甘党大学生に手渡してあげる。「また来ます!」と黄色いヒマワリみたいに言われれば、目蓋の内側までぱっと明るくなる。
「巧も、またあした! おれのお陰で宮司さん誘えて、よかっただろ?」
「うるさいな、早く帰れ」
「ははっ、照れんなよ。じゃあ、宮司さんもまた! ご馳走さまでした!」
最後まで元気なままで柳瀬が去る。さらさらの茶髪が扉の向こうに消えてから、巧は長い息を吐き出した。
「すみません、騒がしくて」
「たのしい子だよね。葉月祭にも誘ってもらえたし?」
意地悪く言えば、巧はまた眉を下げて、「ほんとうにいいんですか?」と聞き返した。
「お店は……」
「お店も大事だけど、巧くんと過ごす時間も大事だ。テストの疲れを、ぱっと吹き飛ばそうよ」
「はい」
はにかんだ笑顔を見たら、ほら、もっと、たのしみになった。
*
「なんかきょう、川辺くんごきげんだね」
「えっ」
隣の席の女の子に言われて、思わず頬に手を重ねる。
「いつもこんなだろ?」
「なに言ってんの。最近の川辺くん、やたらコワイ顔してたよ」
「そうかな」
「そうだよ」
そんなに顔に出ていただろうか。紫乃と喧嘩していたときの不機嫌も、仲直りしたうれしさも、自分的には内に秘めていたつもりだった。
教授のお経を片耳に、フランス語の教科書をパラパラ捲りながら、きのうのことを思い浮かべる。
(葉月祭、宮司さんと回れるんだ……ふふ)
「もしかして、すきな人といいことあった?」
「はっ?」
いきなりおかしなことを言われて、思ったより大きな声が出た。そんな巧の反応をどうとったのか、周りの女の子たちが「えっ、巧くんすきな子いたの?」だの「やだ、ショック……」だの騒ぎはじめ、慌てて両手を左右に振る。
「待って待って、誤解……」
「そうそう、巧がこんなにうれしそうな顔してんのは、家主さんが葉月祭に来てくれるからなんだよなー?」
と、不意に後ろの席から肩に抱きつかれて、背骨があらぬ方向に軋む。突然こんなことをするやつは、知り合いに一人しかいない。
「ヤナ、折れる折れる!」
「川辺くんのすきな人って、家主さんなのっ?」
「同じ屋根の下禁断の、的な?」
「違う違う違う! いや、家主さん男だし!」
「なあんだ」
話がどんどんヤバイ方向に展開しそうだったのを、急いで止める。振り向いて柳瀬を睨むと、当人はペロッと舌を出して腕を解いた。「当たってるくせに」と、巧にしか聞こえないような小声の挑発を、デコピンで封じる。
「いって!」
「ヤナはもうしゃべんな」
「ひどいなあ。おれは巧がモテてんのが気に食わなかっただけなのに」
「……それもどうなの」
正直は美徳、とか言うけれど、格言もときと場合によるのだろう。
とにもかくにも、フランス語がカタカナにすら聞こえてこないくらいに、きょうの巧は浮かれていた。教授の鋭い視線にすら、気がつかない。
紫乃が葉月祭に来てくれる。それも、いっしょに回ってくれるという。二人で出かけることはこれまでもあったけれど、行くのは近くのスーパーくらいで、デートみたいなことをしたことはない。これが浮かれずにいられるか。
わたあめをはんぶんこしたり、たこ焼きのソースを頬っぺたにつけた宮司さんを笑ったり、それを拭ってあげたり、そのままそれを舐めちゃったり、軽音楽部の演奏を二人で眺めたり、みんなからちょっと離れたところで線香花火をして、光に惹かれて自然と顔が近づいちゃったりとかなんかしちゃったりなんかして……。
寝ているわけでもないのに、ノートにミミズが這う。
まずはテストを乗り切らなければ、そんなたのしみもなくなる。頭ではわかっているのに、勝手に顔がにやけはじめる。
「川辺、散々騒いで、まだにやけてんのか」
「えっ、はっ」
「よーし、今のところテストに出すから。みんな川辺には教えんなよ」
「そんな~」
狭い教室内が笑いに包まれる。それどころではないのは、巧だけらしい。
(あー、もう、がんばる……!)
きょうの自分は、とてつもなく前向きだ。
七月の終わり、大学二年春学期のテストも全教科無事(と信じたい)乗り切り、ついにやってきた葉月祭の朝に、巧の胸はどきどきしっぱなしだった。紫乃は朝だけ店を開いて、午後から来ると言っていたので、先に大学に行って彼を待つことにした。
(わたあめはここ、お好み焼きも出てる。いい匂い。軽音のステージはあっちで……)
二人で回るプランを考えながら、葉月祭オリジナルの地図を片手に歩く。
きょうはどんなTシャツを着てくるんだろう、なんて想像を膨らませ、友だちのいるサークルに顔を出していれば、あっという間に待ち合わせの時間になる。
柳瀬は、いろんな女の子に順番に掴まっているから、邪魔が入る心配はない。
きょうは、紫乃と二人きりで、たのしい時間を過ごす……はずだった。
「……なんでこうなった」
今鏡があったら、生まれて史上一番コワイ顔をしている自信がある。
――「食堂で待ち合わせてから、みんなで来たんだ」と、高校生みたいにはしゃいで言う当人はじめ約二名も、校門に入る前から目をキラキラさせて校舎の様子を眺めている。
「紫乃くん、キャラ飴売ってるぞ! そのTシャツのキャラとかないかな?」
「ええ、どこどこ? つか、このペロニャンは最近大人気なんですよ。知らないんですか?」
「ねえよ。なあ?」
「私知ってましたよ。昂也さんが知らないだけー」
「味方がいない! なあ、居候くんはコイツ知ってた?」
「当然です、……じゃっ、ないっ!」
なぜか紫乃は、義弟と巧のカノジョを連れていた。
子どものように無邪気に(一人は見た目その通り、一人は実際中学生だけれど)屋台に駆けて行く三人に呆れて、その場でぽかん……とする。だめだ、脳が上手く働かない。
すぐに三人はおのおの気に入ったキャラクターを模した棒付きキャンディーを手に、にっこにこして巧の元へ戻ってきた。はい、と澪那に差し出されたうさぎの形の飴を、惰性で受け取る。
「ありがとう……」
「えへへ、お揃い」
花のような笑顔の口元で、巧と色違いのうさぎが揺れる。かわいい。癒しだ。……なんてぼんやりと思って、慌てて首を横に振る。絆されるな、そんなこと言っている場合ではない!
「み、宮司さん、これはその、どういうことっ?」
我に帰って、童顔男を振り向く。ペロニャンの耳を齧りながら、「葉月祭の話をしたら、二人とも行きたいって」と、飄々と答えられて、なんとも我慢しがたい気持ちになる。
(おれは、こんなにこんなにこんなに、たのしみにしてたのに!)
不満が顔に出たのか、紫乃がすっと身を寄せた。昂也と澪那には聞こえないくらいの声で、囁かれる。
「澪那ちゃん、『私カノジョなのに、誘ってもらえなかった』って、さみしがってたよ?」
「う……」
言葉に詰まる。まだ、澪那と話をできていなかったからだ。
「わかりました……、きょう、ちゃんと話をします」
「ふうん、いいのか?」
「宮司さんのイジワル」
「あははっ」
弾ける笑い声といっしょに肩を叩かれて、頭を掻く。じとっとした視線を渡せば、もう一度強めに肩を叩かれた。
「じゃあ、若いお二人さんの邪魔しちゃいけないから、昂也さんはおれと行きましょう」
「ちぇっ、おれも澪那ちゃんと回りたかったのに、野郎といっしょかよ」
「おにいさん、でしょ?」
「あっ、童顔のくせに調子乗るなよ?」
「わ、痛い痛い!」
昂也に拳を頭に当てられながら、紫乃が遠ざかっていく……。さっきの視線のお返しに、角に消える前にウインクを一つ投げられて、思わず溜め息をついた。こちらの事情を知らない澪那は、桃色の表情のままで、首を傾げる。
「気を遣わせちゃったかな」
「ああ……、大丈夫だよ。おれたちも行こう」
「うん!」
細い腕に腕を取られて、歩き出す。触れ合う肌の感触は気持ちがいい。でも、手放すと決めたのは、自分自身だ。
澪那と肩を並べて屋台を回りながら、思う。
紫乃はどんな気持ちで、巧に澪那と別れるよう促したのだろう。巧のことがどうでもいいなら、あんな助言はしない。それとも、親心みたいなものだったのか。でも、紫乃は超がつくほど鈍感だけれど、巧の気持ちを知っていながら、わざわざ自分に振り向かせるようなことをするだろうか。わからない。
恋心は、持たれてはいない。でも、少なくとも、思いを告げる前とは変化したのだと思う。
(宮司さんは、おれのことをどう思っているのかなあ……)
弟くらいにしか思われていなかった一年前よりも、時間を重ねた分だけ、紫乃の考えがわからなくなっていた。
「あ、澪那ちゃん、ちょっと待ってて」
「え? うん」
二つの校舎を繋ぐ空間は、竹とベンチが並ぶ憩いの場になっている。天井はガラス張りのドーム型だ。透明な午後の日差しが、影を作りながら舞い降りる。屋外ではあるが、風の通り道になっていて比較的涼しい。
そこに軒を連ねる屋台の中に、友人のいるサークルを見つけた。大学の印の入った大福餅を売っていたので、四つもらって、澪那の元へ帰る。
「ごめんね、お待たせ。これ、さっきのうさぎのお返し」
「あ、ありがとう!」
「あっちのベンチで食べよう。あんこは平気?」
「うん、大すき」
頷く澪那の手を引いて、人波から外れ、離れたベンチに向かう。ちらりと窺えば、頬を染めて繋がる手を見つめる顔を見てしまって、反射的に目を逸らした。振り向かなければよかった……。
ベンチに腰かけて、澪那に桃色の大福餅を渡してあげる。表面に校章と和花柄が描かれている。
「すごーい、かわいい!」
「おれの友達が作ってたんだ。そっちのは、ご両親に」
「うん、ありがとう。すごいなあ、こんなの作れちゃうなんてかっこいいなあ」
巧も自分の分を取り出して、包装ビニールを剥がす。澪那は両親の分が入った容器を見つめて、色とりどりの大福餅に目を奪われている。
中身はこしあんだった。色によって使っている餡子の種類も違うようだ。舌の上で甘さがとろけて、おいしい。餅もふわふわしていて、伸びもよく、口の中で繊維がほどけて餡と絡む。澪那も幸せそうに餅を口に含んでいた。
「おいしいね、巧さん」
「うん。……ねえ、澪那ちゃん」
「うん?」
「話があるんだ」
「なあに?」とかわいらしく首を傾ける女の子に、自分は、ひどく残酷なことを言おうとしている。
夢から醒まさせるのが王子様の役目ならば、そんな王子様はいないほうがいいと、心底思った。
*
日が落ちてきた。降り注ぐ光が少しずつ青みがかって、見上げた空に小さな星達が瞬きはじめる。
(巧くん、ちゃんと言えたかな……)
余計な口出しだと、わかっていたけれど、痛々しくて、見ていられなかった。澪那も、……巧も。
「紫乃くん、あっちでライブはじまるみたいだ。行く?」
「あ、はい」
昂也に促され、食べかけだったチュロスを一気に飲み込んだ。
人の波に紛れてしまいそうになる背中を追いかける。ちらりと振り返った昂也が、紫乃の手をとった。階段を上がり、二つの校舎を繋ぐ渡り廊下に出る。ちょうど眼下に演奏の準備をする学生たちが見える。ステージも正面の穴場だ。
手摺に寄りかかって、演奏開始を待つ。いつしか、繋いだ手は離れていた。
チューニングが終わり、ボーカルらしき男の子が話しはじめた。そこここから上がる歓声と若い高揚に身を委ねる。
ギターとベースのユニゾンがアンプから流れはじめる。ーーそれに掻き消されそうな中、微かな泣き声が聞こえた。
振り向く。後ろに立つ人と目が合って気まずかったが、聞き逃せなかった。
「紫乃くん?」
急に身を翻した紫乃を、昂也が追ってくる。ドラムの音が加わって、あたりがわっと沸く。一面、音符に溢れ返る。
「どうした?」
「声が……、あ」
人混みから外れて縮こまる丸い身体を見つけた。
渡り廊下の隅で小さくなっている背中のそばに寄ると、白い顔をした女の子が紫乃を見上げた。涙でいっぱいの目をこわがらせないように、しゃがんで視線を合わせる。
「どうしたの? お父さんやお母さんは?」
「いなくなっちゃった……」
背中に手を伸ばすと、女の子は甘えるように腕の中に抱きついてきた。そっと包み、抱え上げる。
ライブの音が大きかったので、渡り廊下の戸を潜って避難する。
「紫乃くん」
昂也が駆け寄ってくる。女の子を抱く紫乃を認めて、事情を瞬時に察したようだ。
「迷子か。お嬢ちゃん、お名前は?」
「みな」
「みなちゃんな。いっしょに来たのは、お父さん? お母さん?」
「どっちも……。おにいちゃんがおうたうたうの、みにきたの」
その「おにいちゃん」がこの大学の生徒なのだろう。
昂也の大きな手が、幼女の頭を撫でる。ついでに紫乃の頭も撫でて、「よく見つけたな」と褒められた。
「また子ども扱いする」
「褒めてんだろ。ほら、さっさと探してあげよう」
「はい」
喧騒の向こうに、演奏が聞こえてくる。面倒な顔一つしないで、率先して動いてくれる背中が、広く見える。
「どう? いた?」
「わかんなーい」
肩車でみなを背負って、周辺を探す。人混みより頭一つ出ているから、両親のほうも、近くにいたら気がつくだろう。昂也があたりを見回して、「お父さんたちは、歳いくつ?」と尋ねた。頭の上で、うーん、とちょっと迷うような声が聞こえる。
「みそじ?」
「お、難しい言葉知ってんだな。ちなみに、みなちゃんは何歳?」
「さんさい!」
「そっか、三歳か」
おそらく「おにいちゃん」というのは、叔父とか近所の知人ということなのだろう。
頷く昂也の横顔を見ながら、少し複雑な気持ちになる。
(……おれの子どもでも、おかしくないんだな)
それは、昂也も同じだ。後悔はないけれど、ふと、巧には同じ思いをしてほしくないな、と思った。
巧くんには、幸せになってほしい。かわいい奥さんと、かわいい子どもに恵まれて、温かい家庭を作って、そして、ふと思い出したときにでも、家族みんなでみやじ食堂を訪れて、笑って時間を過ごしてほしい。
(――えっ)
思わず、立ち止まった。
気づいたみなが、不思議そうに足を揺らした。それくらい、自分で驚いていた。
(痛い……?)
胸が、痛い。
この痛みを、知っている。
つい先日、彼に教えたばかりの、懐かしくなるくらい久し振りに感じる、痛み。
「あっ、あれ!」
「いた?」
みなが、「うん!」と元気に返事をする。それに気づいた男女が、ぱっとこちらを振り返った。垢ぬけた感じの夫婦で、みなを連れた紫乃達のほうへ駆け寄ってくる。
「みな、どこに行ってたの、心配したのよ!」
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
「ありがとうございました」
「ああ、いいえ。とんでもない」
よいしょ、と肩からみなを抱き上げて、引き渡す。小さな掌は躊躇いなく、ほんとうの父親に抱き着いた。
「紫乃くん、子どもすきだったんだ」
軽音楽から吹奏楽に変わった演奏を遠くに聞きながら、人波から外れたベンチを選んで腰かけた。トロンボーンの白いリボンのような音色が、高らかに木霊している。
独り言みたいな台詞に目を伏せた。さっきまで触れていた高めの体温を思い出した。胸の痛みを、思い出した。
「昂也さんこそ」
「うん、子どもはかわいい。おれだって、早く結婚しなきゃとは思うんだ」
「……思うだけ?」
「相手がなあ」
たぶん、紫乃に笑ってほしくて、冗談めかして言ったのだろう。でも、笑ってあげられなかった。
昂也を思う人は、きっと少なくない。真剣に結婚しようと活動すれば、相手は見つかるだろう。昂也も自覚していると思う。それでも選ばない理由が、紫乃にはわからなかった。
「……紫乃くんさ」
「はい」
「もう、兄ちゃんのこと、忘れてもいいんだよ」
わずかに瞳を上げて、また足元に落とした。空から降る夕日が、影を淡く染めている。
瞼を閉じた。
もう、いないと、わかっている。親友が、新しい家族が、捨て身でそう教えてくれた。自分が立っている場所は現在なのだと、手を掴んでくれた。……でも。
「わかっています。もう、向き合えるって、思う。でも、また……、また、ね、おれ、なんでもないように、『ただいま』って、帰ってくるような気がしているんです」
「おかしいですよね」と、自分で笑い飛ばそうとしたら、右手が温もりに包まれた。目を開ける。昂也の横顔を見つめる。橙色に縁取られた輪郭に、夢を見ているみたいなんだ。忘れるなんて、できない。
静かに、演奏が終わっていく。拍手と歓声が弾ける。鼓膜とは別の場所から、昂也の心音が聞こえてくる。
もう一度だけ、瞳を閉じた。夢の世界に沈む。
ピアノの旋律が響きはじめた。ジャズ調のメロディに、鼓動が呼応する。
「紫乃」
確かに、名前を呼ばれた。
唇を噛んだ。
瞼の裏側が潤んでいく。
恐る恐る、繋がる手を握り返した。彼の体温が、掌に滲む。
今だけ、今だけでいい。
繋がり合う体温に泣きそうになったのは、言葉少なな昂也が、らしくなさすぎて、おかしかったせいだ――。
「お、あそこで花火配ってる。貰ってくるわ」
「はい」
ライブ演奏が終わると同時に、至るところで花火が配られはじめた。一番近くにいた花火を配る学生に、昂也の背中が近づいていく。
仰いだガラス越しの空は、もう夜天を湛えていた。きらきらと零れ落ちてきそうなほどの星々が、青紫色の天幕にはためいている。
「ほら、貰ってきたぞ」
「ありがとうございます」
昂也が戻ってきて、花火の束をくれた。彼も同じものを持っていたから、一人一束ということらしい。
「あ、宮司さんたちいた。おーい、宮司さーん!」
前方から声が聞こえて、人波に目を凝らす。巧と澪那が、花火を持った手を振っている。反対の手は、仲よく繋がれたままだった。
(巧くん、言い出せなかったのか……?)
早速昂也に揶揄われて、慌てたように手を離す。澪那の頰は桃色に光って見えた。
「澪那ちゃん、居候くんにいろいろ買ってもらったか?」
「うん! 大福と、りんご飴と、あと射的もやったの。巧さん、ほんとに上手で」
「そっか、よかったな」
ほら、と荷物を自慢して明るく答える澪那から、視線を移す。巧は諦念したように、薄く微笑んだ。
「巧くん?」
「ちゃんと、話します」
「宮司さんに、話しますから」と、隠れて指先を握られて、不覚にもどきっとした。
巧がライターを借りてきてくれて、円になって点火用の線香に火を点ける。だれからともなく、パチパチと音を立てて、光の花を咲かせる。
「わあ、きれー!」
「あ、それいいな。澪那ちゃん、どれやってる?」
「えっとね、持つところが黄色と青のやつ」
「これ?」
「うん、そう!」
若い二人が花火の光に目をきらきらさせる。自然と、こちらも表情が緩む。と、視線を感じて顔を上げると、昂也と真っ向から目が合った。パチリ、と瞬きが重なる。
「昂也さん?」
「……なんでもない」
また、昂也は花火に視線を落とした。伏せられた瞼が、少しだけ震えていたように見えたのは、花火が散らす光の揺らめきのせいだと思った。
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