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その7-1

「このグラタンおいしーい!」  ほんとうにおいしそうに頬に手を添える女の子に、巧は笑いかけた。 「澪那ちゃんがうれしそうでよかった。デートでグラタンは合格?」 「うん! 少なくとも、ビビンバよりかはデートっぽい」 「あはは、ごめんて」  頭を掻いたら、澪那に含み笑いを返された。ああ、そうだよ、と思う。  そうだよ。おれは、こういうのを幸せにしてきたはずだった。こういう、ささやかで温かい、カノジョとのデートがすきだったはずだ。忘れていた。なんで忘れていたんだっけ。  苦しい思いばかりしていたものだから、あまりにその人しか見えなくなっていたから、自分を見失っていたのか。  天秤にかけたとき、どちらが楽なのか。どちらのほうがたのしいか。  答えはわかりきっている。わかっていたはずだった。  口に運んだグラタンは、味がないような気がした。 「ただいま」  戸口の鍵が開いていたから、もうすでに家主が帰宅していることはわかった。一日中閉まっていた食堂はやけに静かで、夕刻のせいか、空気自体が色をつけ、暗く感じた。 「宮司さん?」  躊躇いながら、奥に声をかける。靴を脱いで、台所を覗いて、寝室に向かって、小さく息を吐いた。  丸まった背中が、二つ並んで横になっていた。押し入れから綿毛布を出して、大きなほうにかけてやる。 「……高校生」  初めて会ったときのことを思い出して、心が凪いだ。あのときに戻れたら……、なんて何回考えたか数え切れない。 「たくみくん……?」 「あ……」  無意識に顔を寄せていた。大きな瞳と視線が重なる。こんなときに狡いと思う。でも、そっと白い額にキスを落とした。困ったような、照れたような顔をして、紫乃は毛布を手繰り寄せて頭を隠してしまった。「巧くんは、意地が悪い」と、くぐもった声が聞こえてくる。 「そうやって誤魔化して、おれが機嫌を直すと思ってる」 「機嫌、悪かったんですか」 「お陰さまで」  紫乃がどうして機嫌を悪くしていたのか、理由を測りかねた。気分なら、悪くさせた自覚があるけれど。昂也との時間を邪魔しないように、昼飯処まで変えたのに。 (今、自分に嘘ついたな)  わかっている。見たくなかっただけだ。自分を守りたかっただけ。自分を気にしてほしかっただけ。十九年間生きてきて、こんな不器用なやり方でしか、気持ちを伝えられない。情けなかった。  ポチも目を覚まして、むにゃむにゃと口を動かしながら正座した巧の膝の上にお手をした。昼飯抜きが効いているのかもしれない。よいしょ、と重い身体を抱き上げて、合わせた腿に座らせる。たぷたぷな腹を撫でたら、喉を鳴らしてまた瞼を下ろしてしまった。 「宮司さん、ポチがお腹空いたって」 「……ごめんな、ポチ」 「おれも、お腹空いたって」 「君には謝らない」 「そうですね」  謝るべきは、自分のほうか。  意地の悪いことをした。でも、紫乃が巧のことを特別な意味で思っていない以上、あんなことを言っても、なんの意味もない。たぶん紫乃は、巧が隠しごとをしていたのが気に入らないのだろう。  布団の隙間から顔を覗かせ、丸い瞳がこちらを向く。 「澪那ちゃんと、付き合ってるんだ」 「それに関しては、一つだけ言い訳してもいいですか」 「十五字以内で簡潔に」 「自分を重ねたんです」  紫乃が布団から出てくる。微かな表情を覗かせながら、黙って続きを促してくる。言い訳だとわかっていて、聞いてくれるのだ。 「澪那ちゃんに言われたんです、『二番でいいから』って。……おれは、宮司さんがすきです。でも一生おれは功一さんには敵わなくて、ずっとおれだけが思っていくんだ。そう思ったら、澪那ちゃんが自分に重なって見えた。二番でいいって言えてしまう気持ちも、痛いくらいわかるんです」 「……じゃあ、巧くんは、おれが『コウ先輩の次にすきだから、付き合ってほしい』って言えばうれしいのか?」 「……はい」  二番でいい。同じだけの気持ちを返してくれなくても、いい。いっしょにいて、自分だけを見てくれる時間があるのなら、それだけでいい。敵わないとわかっているから、一番にはなれないと知っているから、割り切れるのだと思う。  おれは、宮司さんが付き合ってくれると言うなら、どんな形でもいい。そんなのかわいそうとか、哀れだとか、そんな綺麗事はもういらない。そばにいられる保障をくれるのなら、なんだっていい。 「かわいそうだね、巧くん」  当人に言われた。さみしそうな瞳をして、紫乃の手が頬を撫でた。 「そんなの、かわいそうだ」 「……じゃあ、おれのこと、すきになってよ」 「うん……、そうだな」  どちらにでもとれる返事をするような狡い大人でも、やっぱり、すきで。頬に触れる温もりは、泣きたくなるくらいやさしくて。巧はくやしさを押し殺すために、痛いくらい下唇を噛み締めていた。 (……こんなときでも、宮司さんのご飯はおいしいんだなあ)  ほかほかの炊き込みご飯と味噌汁、華やかな天ぷらと茶塩がそれぞれ行儀よく並び、紫乃と向かい合う間にほっけ焼きが一匹、半分こして食べる。  洋食屋といえど、紫乃の和食のメニューは少なくない。どれもうっとりするくらいおいしくて、比喩抜きでいくらでも食べられる。どんな気持ちを抱えていても、贔屓目なしで紫乃のご飯はおいしいと思える。 「……おいしいです」  呟くようにして伝える。どんなに気まずくても、口をききたくなくても、自然と零れて、言葉にしたらもっとおいしくなる。紫乃の作る料理の魔法だった。 「うん、よかった。巧くん、あしたは何限だっけ?」 「一限です」 「了解」  小さな口に、炊き込みご飯が吸い込まれていくのを、ぼんやりと見つめる。その唇の感触すら、もう知っているはずなのに、手が届かない。もどかしい距離を越える術は、紫乃しか知らない。 「……なんだよ、じっとこっち見て」 「すみません……」 「謝らなくてもいいけど……」  だれよりもそばにいられること。それを紫乃が願ってくれたこと。すきだという気持ちを渡せること。拒まれずにいられること。  どれもこれも、うれしいことのはずなのに、それを望んでここに戻ってきたはずなのに、心が沈む。足りない足りないともがき出す。欲張りになっている。自覚している。 「――巧くん」  名前を呼ばれた。紫乃はほっけの皮を剥がして身を分けながら、「心に形が宿るのは、嘘をついたときだ」と、独白のように言った。 「え?」 「嘘をつくとさ、ここが、なんだか苦しくなるだろう」  左手で胸を押さえて、拳を作る。そこにある心を示す。 「みんな、いっしょだよ」 (宮司さんは、おれになにを伝えたかったんだろう……)  二人分の布団を用意しながら、夕飯のときの紫乃の言葉を思い出していた。 「心に形が宿る、か……」  目には見えない。手では触れられない。  そんな曖昧で不確かでも、確かに、そこにあるもの。  さっきから、重たく沈んでいるこれが心という形なのだとしたら、おれがついた嘘って、なんだ。自分でも知らない内に、嘘なんて、つけるもんか。 「ああ、布団ありがとう」  風呂から上がった紫乃が寝室に顔を出す。振り向くと、情けない顔でもしていたのか、「どうしたの」と苦笑混じりに言われた。 「宮司さん」 「うん?」 「おれ、嘘なんてついてません」  今度ははっきりと、苦笑いを返された。 「おれが言っちゃっていいの?」 「教えてくれないとわかりません」 「意外に子どもだな」 「自称二十七歳には言われたくないです」 「自称じゃないからな!」  子どもだとばかにされたって、揶揄われたって、わからないものはわからない。紫乃の言うことをわかりたいのに、所詮子どもな巧には、言っても理解できないということなのだろうか。埋まらない時間がここにも横たわっているのだと思ったら、一層胸の奥が重くなった。  ふと、シャンプーの香りが近づいた。紫乃が巧のすぐ目の前にしゃがむ。思わず息を詰めた。それほど、近い距離だった。 「また、苦しくなった?」 「はい……」 「なんでだと思う?」  幼子にするような問いかけに、答えを出せない自分がいる。  桃色の丸い掌が、スウェットの上から巧の胸に触れる。心を触られているみたいに、体温を感じて、どきどきする。 「……からだ」 「うん?」 「宮司さんのことが、すきだからだ」  ぽろりと溢れ出た気持ちが、コップに注がれた水がいっぱいになっていくように、次から次から繋がっていく。紫乃がすきだから、追いつきたいと思う。開いた距離に悩む。わかりたいと思う。――一番に、選んでもらえる人になりたいと、願う。 「ばかだ、おれ……」  わかっていた。  わかりきっていたことだ。  宮司さんの一番になりたい。宮司功一に勝ちたい。宮司昂也に負けたくない。小戸森さんにも、桃子ちゃんにも、とられたくない。宮司さんを一人占めしたい。おれのことだけを見てほしい。おれのことだけ心配して、おれのことだけ考えて、おれのことだけ追いかけてほしい。おれのことを、愛してほしい。二番なんかで、いいわけがないんだ。  恋人になれたって、二番目にすきだと言われたって、虚しいだけだ。うれしいと思うのは一瞬だ。あとからあとから、またこんな風に、親にねだる子どもみたいに、もっと、もっと、と欲しがるんだ。そんなのに、堪えられるように、おれはできていない。  かわいそうだと言われた意味が、ようやくわかる。  自分の気持ちすら見失って、偽ったままそれが本心だなんて信じて、相手もそうだろうなんて思って、共感する振りをして救った気になって。自分の心に指を差されて、ようやく気がついた。  おれは、自分の心に嘘をついたんだ。  満足したように紫乃が離れていこうとするのを、腕を掴んで引き留めた。じっと澄んだ瞳を見つめる。紫乃も同様に、視線を返してくれる。 「キスしたい」 「だめだ」 「じゃあ、勝手にします」 「だめだってば」  手で口を塞がれて、思わず笑いが出た。なにやってんだろうって、さっきまでの胸の閊えはなんだったんだろうって、思って、おかしかったんだ。 「……やっと、元に戻れた」 「ほんとだよ」  ここ数週間、ずっと、二人の間に距離があった。巧には後ろめたいことがあって、紫乃にもきっと、気になるところがあったのだ。ふつうに、今まで通りに、と思えば思うほど、振る舞いが不自然に空回った。  けれど、ようやく今、戻れた気がした。また心のままに、紫乃と話せる。冗談を言って、肩を小突かれ、学校の話をして、「おいしい」と伝えて、顔を合わせて笑える。そういう時間を取り戻せて、よかった。  そうだ、と思い出したように言って、台所に呼ばれた。ついて行くと、紫乃は戸棚から平らな箱を一つ、取り出した。見覚えがある。 「それ……」 「せっかく巧くんがプレゼントしてくれたんだから、使わなきゃもったいないだろ?」  てっきり、この前割れたものの代わりに、店で使うと思っていた皿のセットが、テーブルに並べられる。  透明感のある色合いと、ちらほらと舞う小ぶりの花柄が綺麗で選んだ。陶磁器の皿は、小さめのホールケーキが載るくらいのサイズと、小皿サイズがペアになっているものの、三枚組だ。それぞれ、空色、檸檬色、翠色を地に、白と銀を使った細い線で花びらが描かれている。 「綺麗だなあ。やっぱり、出しておいてあげないと、勿体ないね」  紫乃はそう呟いて、今度は冷蔵庫から別の箱を取り出す。ショッピングモールで見かけた菓子店のロゴマークが箔押しされている。 「昂也さんのオススメなんだ。仲直りには甘いもの、らしいよ」 「おれのこと、話したりするんですか?」 「するよ。君と仲違いしてたら、店がまわらない」  そうじゃなくて、の言葉を飲み込む。紫乃が、うれしそうに笑っていたから。  聞きたかったのは、紫乃がだれかに自分のことを話したりする程度には、気にしてくれているのかと、胸がそわついたからだ。 (でも……、そうか。そうなんだ)  新品の皿を濯ぐ横顔に、目を細める。  宮司さんは、そんな顔で、おれのことを考えてくれるんだ。  少なくとも、いっしょに生活する相手として、居心地のいいようにと考えてくれている。巧が紫乃を思うように、形は違っても、紫乃も巧を思ってくれている。今は、それを知れただけで、充分だ。 「はい、どうぞ」と、翠色の皿が差し出される。マカロンを上下に開いて、中にクリームと果物が彩られた愛らしいケーキが載っていた。この洋菓子のように、心に鮮やかな、それでいて柔らかい色を灯す。  形じゃない。でも、確かに、ここに、色づくのだ。 「寝る前に食べると太りやすいって聞きました。おれもその内、宮司さんのお陰でポチみたいになっちゃうのかな……」 「なんだよ、ポチはおれだけのせいじゃないからな。巧くんだって、おやつあげてるだろ」 「だって、口モフモフしててかわいいんだもん」 「だもんって……! はは、もー、お茶冷めるだろ。早く食べよう」 「いただきまーす!」  うれしい気持ちが、心に色を与えてくれること。また、紫乃に、新しいことを教えてもらった。  * 「紫乃、なんかおれのこと、避けてる?」 「えっ」  不意に隣でハンバーグを焼く功一に言われて、思わずデミグラスソースを掻き混ぜる手が狂った。鍋の周りに飛び散ったソースを拭きとる振りをして、顔を俯ける。彼の言う通りだった。  功一は念願だった店を持ち、日々を忙しく過ごしている。紫乃は大学四年生となった。社会人と学生では、休日もなかなか重ならない。それなのに、久し振りに会った功一は、容易く紫乃のことを見抜いてしまった。ふだんはニブチンのくせに。きまりが悪くて、顔を上げられない。  視界の端で、功一が火を止めて、ハンバーグを皿に盛りつける。二人分の昼食に、目玉焼きとポテトサラダ、アスパラ、ニンジン、パセリを飾っていく。  功一は、一度尋ねたことを繰り返したりはしない人だ。返事がなくても、なにも言わない。じっくりと待っているようにも、口を噤むことを許してくれているようにもとれる間が、紫乃は少し苦手だった。秘密を抱えるのは、息苦しい。 「……紫乃?」 「あ、ごめんなさい」  いつまでもソースをかけないことを不審に思ったのか、首を傾げられて、慌ててお玉を動かした。完成したワンプレートを両手に、功一がテーブルにつく。いつもは向かい合って食べるのに、なぜか隣り合わせに皿を並べて、イスまで移動させて、「食べよ」と紫乃を誘った。  白米とウーロン茶を用意して、戸惑いながら隣に座る。テーブルの幅が狭く感じる。並ぶ肩を意識したら、途端に手が上手く動かなくて、茶碗をとる手とグラスをとる手がぶつかった。 「わ」 「あっ……とと」  二人でグラスを押さえて、零さずに済む。重なる掌に、また心臓がぐずりだす。 「ごめん、つい」 「い、いえ。ぼんやりしてたおれが悪いんです……」  びっくりしたせい以上に、心臓がドキドキ言っている。でも、なぜだろう、それと反比例するように、身体の内側のどこかが質量を増している。 「……紫乃」 「はい」 「心に形が宿るのは、いつでしょう?」 「……謎かけですか?」  クス、と笑い声を零して、「そんなとこ」と変わらない態度で功一は白米を口に運んだ。  心に形が宿る。口の中で呟いて、考える。  心に形はない。だからこそ掴めなくて、自分も他人もわからなくなってしまうときがあって、迷ったり悩んだりする。目に見えたなら、言葉なんてものはほんとうはいらなくて、もっと世界は単純だった。そうではないから、伝えたいともがいたり、伝わらないとくやしくなったりするのだ。  ハンバーグを食べ終えた功一が箸を置く。 「さっきおれさ、紫乃におれのこと避けてるって言ったろ?」と、こちらに身体を向ける。こくんと頷いて、紫乃も身体を向かい合わせにした。膝と膝がぶつかりそうだったけれど、今、この人の心を、真正面から見たいと思った。 「避けてなんかないですって、言ってみて」 「……おれ、避けてなんかないです」 「ほら」  今、どこかが重くなった。  と、功一の手が胸に重なった。あ、と思った。 「嘘、ついたから……?」 「はは、やっぱり嘘だった?」  苦笑されて、顔がかあっと熱くなる。鈍い鈍いと思っていた功一に見抜かれていたことも、それに素直に反応してしまった自分も、呆れるくらい格好悪い。 「嘘ついたり、隠しごとしたり……、苦しくなることはやめよ?」  ね、と促されて、もう一度子どもみたいに、大きく頷いた。 「ごめんなさい」  功一が相手だからではない。苦しくなるのは、だれに対しても同じだ。けれど、きっと、功一が相手だから、こんなに胸がきゅうっとするのだ。今、ここに心があると、実感する。苦しい苦しいと、この平たい胸の中で、足掻いていたのだ。  功一は、いろいろなことを知っている。料理のことも、人のことも、大切にその身体のどこかに刻んで、そうして生きてきた人なのだと思う。 「冷蔵庫にゼリーが冷やしてあるんだ。食べながらでいいんだけど、話してみる?」 「……はい」  うん、とやさしく頷く顔は、すごく大人びて見えた。兄がいたら、きっとこんな感じだ。 (……いや、違うな)  功一がゼリーを取り出してくれたので、お揃いで買ったスプーンを用意した。紫乃のために揃えられたものが、ここにはいくつもある。二人でいっしょに選んでは、買い足している。ここがいずれ自分の帰る家になるのだと思ったら、胸の奥がくすぐったかった。 (コウ先輩は、たぶんどんな人にも、こういう顔をする) 「いただきます」 「いただきます」  この鮮やかなゼリーみたいに、心に色はないけれど、見えないけれど、わかることはある。それは、共に過ごした時間が、この目で見た姿が、教えてくれる。その奥にあるほんとうの心を見つけるのは、自分だけが、できることだ。 「先輩、ちょっと怒ってる」 「な、なんでわかったの?」 「鼻の穴が膨らんでたから」 「……っ!」 「嘘です」 「もー、紫乃!」  それは、ゼミの飲み会のときだった。  酔っ払ってふざけていた友人に、キスをされた。  そのときは紫乃も酔っていて、気にしなかった。周りもアルコールのせいでおかしいテンションになっていた。そもそも、男同士でキスしたところで、ただの遊び、で済まされるはずだった。――後日、その友人から告白された。 「もちろん断りました。でも、なんか……、気になっちゃって……」 「相手が?」 「……コウ先輩が」 「おれ?」  功一の目を見られないまま、頷いた。  酒の席とはいえ、付き合ってもいない人とキスをして、功一の知らないところで告白されて、断ったのに、その友人は相変わらず仲よくしてくれている。いいやつだと思う。  功一が卒業してから、大学で過ごすことがなくなって、彼と会うのは、この洋食屋に紫乃が赴いたときだけ。たぶん、心のどこかで不満を感じていたのだと思う。ずっと夢だった店を開いて、功一が多忙であることくらいわかっている。仕事をする横顔が、大学時代よりも生き生きとしていることも知っている。でも、会いたいと思っているのが自分だけみたいで、くやしくもあった。  告白されて、揺れたりはしなかった。  でも、もしも、相手が友人ではなかったら。女の子だったら。自分はほんとうに、ほんの少しだってぶれずに、また功一の隣に帰ってこられただろうか。そう考えたら、不安になった。  視線を手元に落とす。情けなかったけれど、今、どんな顔をしたらいいかわからない。 「紫乃は、おれがそんなことで、紫乃のことをきらいになると思ったの?」  首を振る。功一の不器用なくらいの一途さは、ゆで卵をくれたあの日から、紫乃が一番よく知っている。 「じゃあ……、おれがどう思うか、わからなくなっちゃった?」  きっと、そういうことなのだろう。  紫乃、と名前を呼ばれて、ちらりと視線を上げた。どんな顔をしているかと思えば、功一はテスト問題を解く高校生みたいに生真面目な表情で小首を傾げていた。 「二十三歳って、十分大人、かなあ?」 「え? ええ……たぶん」  曖昧に頷く。すると、表情を和らげて「だよな。おれって、もう大人なんだ」と頭を掻いた。 「年齢や見た目で大人って判断するのもどうかと思うんだけどさ、おれは大学生じゃないし、周りから見たら大人なんだよなあ」  功一は、大人だ。初めて出会ったころから、そう感じていた。  落ち着いた言動だけでなく、先を見る力だとか、努力する姿勢だとか、冷静な判断だとか、そんな風に言葉にできてしまうこと以外からも感じた。二歳しか変わらないのに、自分とは遠い場所にいる人みたいだった。だからこそ、そういう人がどうして自分なんかを選ぶのか、戸惑ったことも覚えている。 「……だからさ、あんまり我が儘言っちゃだめだって、思ってたんだけど」  目を閉じる表情を見つめたら、「今だけ、ちょっと言ってもいい?」と、くしゃりと、下手くそな笑みを渡された。 「おれのことをきらいになりそうだったら、聞き流してね」 「せんぱ……」 「――ほんとうは、おれ以外の人と仲よくしてほしくない。おれ以外の人に触ったり触られたりしないでほしい。おれ以外の人と会わないでほしい。おれ以外の人と料理とかしないでほしい。笑うのも料理するのも、悩むのも泣くのも、ぜんぶおれのためだけでいい。紫乃を笑わせるのも迷わせるのも泣かせるのも幸せにするのも、ぜんぶぜんぶ、おれがいい」  な、きらいになった?  すっと功一がイスを引いた。二人の間に、距離ができる。それをさみしく思うのは、彼をきらいになっていない証だろう。  くやしくなって、開けられた分の空間をイスを寄せて詰めた。細い瞳が、珍しく丸く見開かれる。 「先輩、そんなこと思っていたんですね」 「……うん」 「なのにおれに言わないで、いっつも嘘ついてたんだ」 「……うん」 「いっつも、一人で重たい思いしてたんだ」 「……うん」  形を持った心を携えて、それを溶かす方法も知らないで、ずっと苦しんでいたのだ。  功一には店を離れられない理由がある。学校で紫乃がどう過ごしているのか、知りようがない。それを、「自分だけが会いたいと思っている」だなんて思い込んで、ずっと一人で不安がっていた。ばかみたいだ。 「きらいになんて、なるわけない」  功一の手をとる。いつもより、冷たい気がした。  功一が選んでくれたときから、紫乃が功一を選んだときから、心変わりなんて考えもしなかった。  この人と料理をして、この人と年をとって、この人のために笑って、この人のために泣いて、この人のために一生を捧げて、この人と共に生涯を終えよう。幸せで満ち足りた人生だったと、おれはきっと、笑って死ねる。そう思った。  でも、そう思うことがただの独り善がりでは、嫌だ。同じ気持ちを持ってくれと強請ることも、押しつけることもできない。しかし、功一がそう思えないのなら、自分に彼の隣にいる資格はないと思う。 「コウ先輩」  名前を呼ぶ。紫乃がこの世界で一番幸せにしたい人の名前だ。 「もっと言って」 「紫乃……」 「我が儘、いっぱい言ってください。ぜんぶちゃんと、聞きますから。叶えられないものもあるだろうけど、でもおれは、コウ先輩の思っていることを知りたいんです」  束縛でもいい、子どもみたいでいい、我が儘で構わない。功一が我慢しているものを、ぜんぶぶつけていい。少なくとも紫乃は、功一の言葉を聞けるのが、うれしいと思うのだから。自分だけに、その我が儘を聞かせてほしい。  いちいちそんな細かい気遣いなんてしていたら、ね、これから何十年、どうするんです。  泣く子をあやすように、短い前髪の間から覗いた額にキスをした。そうしたら、ほんとうに子どもみたいに功一が肩口に抱きついてきた。ふわふわと頭を撫でる。ぎゅうう、と掌が背中いっぱいに広がった。 「……ごめん、おれ子どもみたい」 「おれよかマシです」 「紫乃は顔だけだから」 「あー、一番気にしてるのに」 「はは、自分で言ったのに」  するりと体温が解けて、触れるだけの口づけを贈られる。目を開いて見えたのが、いつもの抜けた顔でほっとした。 「紫乃、一個だけ、約束してくれる?」 「一個でいいんですか?」 「う……、うん。もう、大丈夫だから」 「わかりました」 (やっぱり、大人だ)  自分が功一の立場だったら、たぶん、どうしようもないことを無限に並べ立てる。そしてまた、約束なんて形がないじゃないかと不安になって、功一を困らせる。  でも、功一は紫乃を信じて、約束をくれる。一つきりでいいと、紫乃のために、気持ちを飲み込むのだ。 (……おれも、なれるかな)  おれもこんな風に、やさしくて強い、そばにいるだれかを思える大人に、なれるだろうか。コウ先輩には、教えてもらいたいことが、まだ、いっぱい、いっぱい、きっと一生なんかじゃ足りないくらい、いっぱいあるのだ。 「……おれ以外の人にそういう意味で触られたら、千回洗いの刑」 「ぶはっ、口千回も洗ったら荒れますって!」 「じゃあ、今回のは、おれが千回キスして免除にしよう」 「ちょ、やだ、放してって、んっ、恥ずかしいな!」 「あと九百九十九回」 「鬼畜!」  この人といれば、こんなおれでもきっと、いつか、だれかに大切なことを伝えられる大人になれる。そう、確信のように思えて、なんだか、すごくすごく、うれしくなった。

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