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その6-4

 二人組の女性客も帰って、食堂が静かになる。 「――宮司さん」  響く声は、さっきまで接客用に愛想のよかった声とは、まるで異質だ。 「あの人は?」 「……前、ホテルに手伝いにいったときに、先輩に紹介されたんだ。……コウ先輩の弟さん、なんだって」  言い訳沁みた説明が口先を滑る。自分がなにを隠したいのか、わからない。背骨に氷水を流し込まれたみたいに、身体の芯は冷えきっているのに、末端がじくじくと熱を持つ。 「じゃあ、どういうことですか?」 「なにが……?」 「日曜日って。なにか約束したんですか? お店があるのに、わざわざ」 (……ああ、そうか)  氷水が弾けた。すん、と全身が冷える。その反動なのか、すぐに、沸き立つような感情が、身体のどこかから溢れ出てくる。  その日が特別なのは、自分だけだ。それをわかれというほうが、無理なのかもしれない。 (巧くんは、命日だってことなんか、忘れてるんだ) 「……いにち」 「え?」 「コウ先輩の命日。いっしょにお墓参りに行ってほしいと、おれが頼んだ」  あ……、と、か細い声を聞いた。  八つ当たりだと、自分でもわかっていた、つもりだった。  おれは、一体なにに、こんなにも苛立っているんだろう。巧くんが、コウ先輩の命日を忘れていたこと? 昂也さんとの関係を疑っていること? それとも、自分が彼をお墓参りに誘えなかったこと?  脳の奥が痺れるようだ。思考が狭いところでぐるぐると回る。つい先日も同じように感情が乱れた。冷静にならなくては、失敗の繰り返しになる。わかっているのに、自分で自分をコントロールできない。 「なんで、おれを誘ってくれなかったんですか……?」  沈んだ声だった。  紫乃が理不尽に苛立っているだけなのに、気を遣わせている。わかっている。巧は年下で、自分はもう大人なのに……。 「おれが、忘れてると思ったから……」 「誘おうとしたよ、一番最初に!」  自分の声に驚く。違う、こんな風に、声を荒げるつもりじゃ―― 「宮司さ……」 「こんにちはー!」  不意に響いた鈴の音と女子高生の声に、ぴたりと店内が静まる。桃子が入口に固まったまま、紫乃と巧の顔色を見て、「喧嘩?」と首を窄めた。ううん、と口先だけで否定をして、カウンターを勧める。 「なんでもないよ。いらっしゃい、桃子ちゃん」 「はい」 「……おれ、外の空気吸ってきます」  巧が席を外す。  申し訳ないことをしたと思った。それなのに、どうしても、謝罪の言葉が、その背に言えなかった。  戸の外で話し声が聞こえる。巧は電話をしているらしい。桃子の話に頷く振りをして、外が気になってしまう。最低だ。  相手はだれだろうとか、おれ以外の人の前で、どんな風に話すんだろうとか、詮のないことばかりを考えては、またそんな自分に嫌気がさす。  似ている。巧が出て行って、なにも手につかなくなったときと同じ感じだ。 「……きょうは帰りますね」 「え?」  桃子が席を立つ。さっきまでの話の内容が頭に残っていなくて、どうして急にそんなことを言い出されたのかわからなかった。 「宮司さん、上の空みたいだから」 「あ……、ごめん」  気分を悪くさせてしまった。高校生にまで、気を遣わせた。せっかく来てくれたのに、自分なんかを慕ってくれているのに、不甲斐ない。  それでも、ほっとしてしまった。どうしようもないことだとわかっているけれど、一人で考えたかった。頭を冷やしたかった。  桃子は元気に「また来ます!」と笑顔を残して、店を出ていった。  巧と一言二言声を交わして、帰っていく姿が、ドアの小窓越しに見える。入れ違いに、巧が店に入ってくる。 「アーモンドクッキー」 「え?」 「今度来るとき、食べたいそうです」 「はは……、了解」  彼女は、やさしい。  巧も、昂也も。自分なんかに、親切にしてくれる。心やさしい人たちが、こんなに支えてくれているのに、おれはそんな彼らに、一体なにを返せるというのだろう。  奥へ下がろうと擦れ違う巧のシャツの裾を掴む。俯いたまま、ごめん、と呟いた。今度はすんなりと、喉から出てきた。  掴んだ指先を解く手は、やっぱりどうしようもなく、やさしかった。  誕生日には、麻紀から手作りケーキを、桃子からねこの描かれたオリジナルTシャツを、巧からは綺麗な皿のセットを貰った。前に食堂で割れてしまった分の穴埋めに、と考えてくれたらしかった。 「勿体なくて、お店じゃ使えないなあ」  冗談で言ったら、「割れたら、また買えばいいだけですから」と、控えめな笑顔で言われた。  あれから、まだ胸の蟠りは完全には消えていない。上手く隠された巧の態度が物語っていた。それがわからないほど、無関心なつもりはない。  ーーまた買えばいい。  巧は、どんな気持ちで言ったのだろう。少なくとも紫乃には、「そんなに大切にしなくていい」と言いたげなニュアンスに聞こえた。おれから贈られたものなんて……、と。  違う、とすぐに言ってあげられなかったのは、巧からも貰うものも、もちろん功一や麻紀や桃子に貰うものも、ぜんぶ大切なものだけれど、平等とは言えない狡い気持ちが、隠れながらも確かに、心の底にひっそり波紋を立てるせいだった。  心が離れたまま、二十七回目の誕生日は終わった。  巧からのプレゼントは結局、大切に住居のほうの台所の棚に仕舞った。 「……ひっでえツラだな」 「……それはどうも」  翌日迎えに来てくれた昂也の開口一番から、くまの浮いた顔を背ける。店の前に「本日休業」の札を下げて、扉に鍵をかけた。巧も朝から出かけていた。行き先も、だれといるのかも、聞いていない。  昂也に促されて、彼の車に乗り込む。おしゃれな形の軽自動車だった。 「高速乗って一時間ちょいで着くけど、おまえは寝てな」 「でも……」 「そんな顔、兄ちゃんに見せる気?」  う、と言葉に詰まる。昂也の言う通りだった。こんな顔を見せたら、きっと功一は安心できない。 「ほら、これ掛けて寝てろ。シートベルトはしておけよ」  ブランケットを無理矢理押しつけられ、返事をする間もなく、車が発進した。こういうところが、ほかのだれにもない、昂也の魅力なのだと思った。 「紫乃くん」 「……ん」  車の揺れに身体を委ねる内に、いつの間にか、ほんとうに眠っていた。目を開けて、眼前にぼんやりと、昂也の輪郭が線を結んで浮かんでくる。 「こうやさん……」 「着いたぞ。寝惚けてんだったら、キスして起こしてやるけど」 「遠慮します」  身体を起こすと、肩が凝っていたが、目の前に広がる街の風景に、それも一瞬で吹き飛んだ。てっきり、墓地の近くに駐車すると思っていた。 「駅……」  いつも、紫乃が足を止める場所。透明な壁にぶつかって、それ以上、前に進めなくなる道。 「麻紀くんから聞いた。いつも、こっから先に行けないんだって。墓地には駐車場ないし、ここからは歩こう」  な、と促されて、戸惑いながら車を降りた。  数週間前に、一人でコンビニ弁当を食べたベンチ。いつも、立ち止まってしまう街路。初夏の色に染まった広葉樹と、その元で控えめに咲く額紫陽花だけが、時の流れを身に宿している。 「紫乃くん」  手を、差し伸べられた。取るのを躊躇うと、手首を掴まれて、踏み出した。  引かれるままに道を歩く。呆気ないほど簡単に、この場所を歩いている。  墓地は、駅から十分ほど歩いた公園と隣接した高台にある。  左右を緑で彩られた小綺麗な階段を昇る。舗装された段差は、手入れが行き届いて、端に黄色と赤色の小さな木の実が集められていた。 「昂也、さん」  階段の中間くらいで、彼の名前を呼んだ。前を歩いていた項が振り返る。その後ろ姿の先に、新緑に縁取られた空が見えた。 「うん?」 「ありがとうございます。もう、大丈夫」  大丈夫。手を離されても、立っていられる。立っていてみせる。ここからは、自分で行かなくちゃいけない。ここまで連れて来てくれた昂也が、最後の勇気を手渡してくれた。 「うん」  功一そっくりに微笑んで、するりと掌を解いた。 「……コウ先輩、お久し振りです。紫乃です」  海が近いのだろうか。どこからか、潮の匂いがした。  さわさわと木々が囁きを交わす。身を青色に染めて、目前に迫る夏を待つ。広い空の色は、数年前と変わらない。変わったのは、変われたのは、紫乃自身だ。 「今まで、ずっと来られなくてごめんなさい。きょうもたぶん、一人じゃ来られなかった」  昂也を振り向くと、彼は駅前の花屋で買った花の長さを整えていた。紫乃の言葉に、小さく横顔が笑っているように見えた。 「昂也さん、ありがとうございました」 「兄ちゃん、誤解すんなよ。別に、紫乃くんとはそういうんじゃねーからな」 「あはは、当たり前です」 「ほら、おれにはこんなにかわいくない!」  声を合わせて笑う。コウ先輩、おれは、大丈夫だよ。  花を活けて、丁寧に墓石を洗う。側面に達筆で、名前が刻まれていた。息が詰まったけれど、ゆっくりと吐き出して、そっと水をかけた。指先でなぞると、澄んだ冷たさが伝わってくる。  昂也に続いて線香をあげる。手を合わせる。瞳を閉じる。  親友の顔が浮かんだ。かわいい女子高生の顔、仲のいい三人家族の顔、ホテルで働く先輩の顔、生意気な義弟の顔、――だれより近くで、だれよりやさしく、紫乃の背中を支える大学生の顔。  たくさんの人が、おれに前を向かせてくれた。  世界で一番大切な人を失ったという事実に、向き合わせてくれた。腐ったこともあったし、八つ当たりもした。たくさんたくさん、迷惑をかけた。それなのに、だれ一人欠けず、この手を取ってくれた。  感謝している。  功一の遺してくれた居場所が、かけがえのない人たちを集め、紫乃をこの世界に繋ぎ留めた。 「よし、行くか。どっか寄って、メシ食ってこ」 「はい」  墓地に背を向ける。  また近い内に、今度はうちの居候を連れてくるよ。世話の焼ける大学生なんだけど、弟みたいで、なんかかわいいんだ。笑った顔が、お日さまみたいな子なんだよ。  約束を交わして、高台をあとにする。  樹上で木の葉が揺れている。「またな」と、功一が手を振ってくれているみたいだった。  下道を走って、全国チェーンのショッピングモールに入って昼食を摂ることにした。  日曜日なだけあって、店内は賑わっている。 「ビビンバ食べたい!」なんて昂也が急に言い出したから、レストラン街にあるビビンバ専門店に入ることにした。  なんでビビンバなのかと尋ねたら、一人では入りづらいからだと答えられた。そんな繊細な性格だったかと視線を泳がせると、心を読んだようにテーブルの上の手の甲を突かれた。しかし、昂也の行動は、それが理由ではなかったらしい。 「紫乃くん、なんかニヤニヤしてるけど、どうしたの」 「えっ」  注文した石焼ビビンバを待っているときにそう言われ、慌てて口を押さえた。昂也がゆっくり瞬きをして、首を捻る。 「なに?」 「あ、いや、その」 「言わないと塩水の刑」 「ちょっと!」  備えつけの塩を手にとって脅され、仕方なく口を開く。 「……怒らないでくださいよ?」 「内容によるかな」 「イジワル」 「おれにぶりっこは通用しないぜ」 「……似てるなって、思ったんです」  キョトンと見開いた目と目が合う。気恥ずかしくて、先に目線を外した。 「おれ、『なに食べたい?』って聞かれるの、あんまりすきじゃないんです。なんか、逆に選択肢ありすぎて、気を遣っちゃったりして」 「うん」 「コウ先輩は、いつも『ラーメン食べに行こう』って、誘ってくれました。おれ、そういうところが、ほんとうにすきだったんです。そしたら……」  相槌が聞こえた。艶のある、芯の通った声だ。  瞳を上げる。花みたいに微笑む顔と、出会った。 「……昂也さんも、そうなんだと思って、うれしくて」  比べるつもりはない。昂也は昂也だ。だから、こんなことを言うのは失礼だと思った。  でも、どうしても、うれしい気持ちを抑えられなかった。功一にまた会えたみたいで、自分以外の人の中でも、功一が生きているのだと感じて、うれしかった。それを、目の前にいる、同じように彼を思ってくれる人に、伝えたいと思った。 「紫乃くん、今のもしかして告白? 照れるなあ、はは」 「なに寝惚けたこと言ってんですか。あ、ビビンバ来ましたよ」 「つれねー!」  出会えてよかったなあ、と、ビビンバを口に運びながら思う。自分のご都合っぷりに苦笑しながらも、神永に心の中で礼を言う。 「ぶはっ、塩水! いつの間に!」 「ぎゃはは、気づけよ!」  ……もうちょっと、先輩に似て物静かなら、言うことないんだけどなあ。  *  せっかくの日曜日で、食堂も開かないから、澪那を誘ってデートに行くことにした。  澪那が服を選んでほしいと言うので、電車を乗り継いでショッピングモールに来た。この辺りでは、一番大きな施設だ。 「巧さん、このブラウスどうかな」 「うん、かわいい」 「……巧さん、さっきからそればっかだから、わたしのお財布ピンチなんですけど?」 「う……」  いたずらっぽく舌を出して、澪那は身を翻した。綺麗な淡青色のブラウスが靡く。確かに、彼女の言う通りだった。でも、嘘はついていない。実際澪那はスタイルもいいから、なんでも似合う。  近くにあったTシャツを手に取ってみる。眼鏡をかけたねずみのイラストがかわいくて、ちょっと、紫乃に着てみてほしいなと思った。ねこのイラストは何枚か持っていたけれど、ねずみはどうだったろう、と。 (……またやってしまった)  ブラウスを試着している澪那に聞こえないように、溜め息を吐く。  澪那といるときは、紫乃のことは考えないと、決めた。澪那に気を遣わせないためでもあったし、なにより、自分自身が、ちゃんと『澪那ちゃんの彼氏』でいたいと思ったから。 「ね、澪那ちゃん、お腹空かない?」 「空いた」 「ご飯、食べに行こうか。ビビンバとかは?」 「巧さん……、デートでビビンバはなくない?」 「ええっ、なんでっ?」 「あはは。いいよビビンバ」  なんで呆れられたのかよくわからなかったけれど、とりあえず澪那もよさそうだったので、さっき見かけた店に向かうことにした。  今さらだけれど――、このとき、澪那に「なにが食べたい?」と、聞くべきだったのだ。そうしたら、間違いなく、違うお店になっていた。  レストラン街に並ぶビビンバ専門店を見つけて、店員に人数を告げ、席に案内される。  ふと、耳に触れた。  反射で振り向く。  知っている、声。 「お前、ガキなのは顔だけにしろよ。頬っぺたついてる」 「え、どこ?」 「違う、こっち」  笑いながら、高校生にすら見える彼の頬を拭う人がいる。照れたみたいに拭われた頬を膨らませる顔は、ほんとうに子どもみたいだ。  ペロリ、と指にとった米粒を食べる仕草から、目が離せない――。 「ちょっと、なにしてくれてんですか、コウ先輩にだってされたことないのに」 「もったいないだろ」 「そういうのは、カノジョさんとしてください」 「いたら、せっかくの休みに、男と出かけてねーよ」 「その性格ですもんね」 「どういう意味かな?」 「いひゃい! 暴力反対!」 (……なんだよ)  あんた、そんなたのしそうな顔、料理作っているとき以外にもするのか。 「巧さん? どうかしたんですか……って、あ、宮司さん」 「え?」  宮司姓の二人が振り向く。軽い声が、「えー、紫乃くんの知り合いにこんなにかわいい子いたの?」と応えた。  揺れる視線が、澪那を認めて、そのあとに、巧に向く。小さな小さな、息を飲む気配が、空気を震わせて伝わってきた。 「巧くん……」 「居候くんのカノジョだったのか、残念」 「やだ、カノジョだなんて」  紫乃に、付き合いはじめたことは言っていない。言ったら、自分の気持ちが軽いものだと思われそうで、嫌だったんだ。 「そうなんです。澪那ちゃんと二人きりで食事したいので、場所を変えますね」  聞こえたのは、世界のどこかで、だれかが恋に落ちる音。

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