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その6-3

「来週の土曜日、宮司さん誕生日ですよね」  と、食堂の片づけをしているときに巧から声をかけられ、そうか、と思い出した。そうか、もう、そんな季節か。 「なにか欲しいものとか、ありますか?」 「そんな、悪いよ」 「せっかくの誕生日になにもしないほうが、悪いですよ」  なんだその理屈、と失笑して、それでも何年も前の誕生日が過ってしまう。まだ忘れられない自分がいる。  翌日の日曜日は、命日だ。 「……じゃあ、一つだけ」  ふと思った。その考えに手をとられるように、口唇を開いた。  何度も、失敗してきた。いつも駅前の見えない境界にぶつかり、その眩しい街並みを、立ち竦んで見つめることしかできなかった。足を踏み入れることも、手を伸ばすこともできないで、諦念を抱きながら、四年が経った。  一人では、行けない。けれど、巧なら、「一人ぼっちなんかじゃない」と、手を繋いでくれた巧となら、行ける気がする。許してもらえる気がする。  独りよがりの確信でも、初めて、あの街に受け入れてもらえると思った。だったら、それを、叶えてみたい。 「なんですか、宮司さん?」 「その……、おれと」  不意に電子音が鳴り響いた。巧の携帯電話だ。紫乃に断って、巧がジーンズのポケットからだれかと繋がるその小さな塊を取り出す。キッチンから出て、紫乃を背にして通話に応じる。 「もしもし、澪那ちゃん?」 (――え?)  動揺した顔を悟られたくなくて、慌てて片づけに戻った。 (仲よくなったのは知っていたけれど……、連絡を取り合っているとは思わなかった)  巧の口ぶりは、毎日話しているような相手に向ける、親しげなものだった。  耳元に鼓動を聞きながら、トマトスープに使っていた大鍋を洗うことに意識を集中させる。油っぽさがなくなったのを見て、食堂用の大きな乾燥機に収納する。一昨年に買い替えたばかりの最新モデルで、ボタン一つで高熱除菌してくれる優れ物だ。タイマーをスタートさせたところで、巧がキッチンに戻ってくる。 「すみません、宮司さん。話の続き、なんでした?」 「あ……。いや、いいんだ」 「え?」 「もう、いいから」  気が合う女の子と、電話くらいするだろう。そもそも、巧はモテる。ほんとうは、付き合っている人がいたって、おかしくないのだ。なのに、なんで。なんでこんなに心臓が痛い。なにに、こんなに、苛立っている?  突き放すような口調に、巧が気づかないはずがない。「宮司さん」と、右手を掴まれた。 「すみません、おれ、なんか気分悪くさせましたか」 「なんでもないよ」 「嘘」 「なんでもないってば!」  手を振り払う。その拍子に、カウンターの端に置いていた皿に指先が掠って、悲鳴のような音が食堂に響き渡った。客のいなくなった無人の空間に、むなしく木霊する。その音の反響に、なぜか胸が詰まって、急いで割れたガラスを集めようとした。  床に散らばる尖った破片で、指を切る。すぐに巧が救急箱を持ってきた。 「大丈夫ですか? 消毒しますから、手を」 「自分でできる」  むきになって、その手を避けた。利き手の指先から、赤い血が滴り落ちる。意外と深く切ったようだが、痛みはあまり感じなかった。指よりも、頭の中のほうがもんもんと熱くて、自分でも正体の掴めない感情に、自制が利かない。  いきなり、ぎゅっと手首を掴まれた。骨が軋むほどの力に、少し怯む。 「巧くん、痛い……」 「なにに怒ってるのか知らないですけど、右手怪我してちゃ、自分で処置できないでしょう。おれが嫌でも、我慢してください」  無理矢理流しで血を洗い流され、ぽんぽんと水気を拭いて、消毒液を垂らす。傷口に沁みて眉を寄せたら、子どもにするみたいに「痛いの痛いの、飛んで行け」と、掌で包まれ、おまじないをかけられた。  ガーゼで丸まった指から、人肌の温度が離れていく。紫乃はその手から、目を上げられないままだった。 「はい、おしまい。利き手なんですから、気をつけてくださいよ。調理は、できそうですか?」 「……うん、平気」 「なら、よかったです」 (……いじわるなほど、やさしい)  これじゃあ、おれが一人で怒っている、子どもみたいだ。  ――でも、これで、よかったのかもしれない。  巧には、巧の場所がある。紫乃ではないだれかをすきになる日も、きっと来る。変わらない気持ちなんて、形がないから保障できない。そうであるならば、巧を、彼の墓参りになんて連れていくべきじゃない。その一生を、縛りつけてしまうみたいだから。  巧にふさわしいのは、紫乃ではない。かわいくておしゃれで、ちゃんと巧を一番に思ってくれるような、そんな人だ。  巧が割れた皿を片してくれている間に、食堂の片づけと夕飯の準備を済ませた。 「いただきます」と「ごちそうさま」の間に会話はなく、なんとなく気まずいまま風呂に入って、布団を敷いた。  あしたは日曜日で、巧はいつも遊びにも行かずに店を手伝ってくれる。感謝しているのに、なんだか上手く、話せない。 「おやすみなさい」  巧が電気を消した。こんな風に擦れ違ったまま一日を終えるのは、初めてだ。寝返りを打って、巧に背中を向ける。嫌な夢を見る予感がしていた。  味がなかった食事を、またおいしいと思えるようになったのは、いつからだったろう。 「うまい?」 「……はい。……最高に」 「そっか」  うれしかった。あんなに心の籠った「うまい」を、初めて聞いた気がしたから。 (ああ、そうだ)  君が来てからだ。君が「うまい」って、言うからだ。  食事には、作る側のおいしく食べてほしいという気持ちが要る。おいしいと思える場所が要る。おいしいと伝えられる人が要る。それを、巧くんが教えてくれた。気づかせてくれた。  環境が料理の味を変える。同じ一皿を、まずくも、おいしくもする。  みやじ食堂の料理を、一番おいしくしてくれたのは、ずっと食に携わってきた自分でも、功一でも、麻紀でもなく、食に関しては素人の、巧だった。  目が醒めると、横たわった部屋はやっぱりまだ暗かった。体重がかかっていた肩が痛くて、身体を仰向けにする。  布擦れに紛れて、微かな息遣いが耳に届いた。隣の布団に視線が行く。巧の顔が目に入る。薄明かりに照らされた寝顔が眉を寄せていた。悪い夢でも見ているのか、額に汗が滲んでいる。 「巧くん」  近寄って、肩を揺する。一度呼んでも起きないので、さらに強く肩を揺らして、名前を呼んだ。 「巧くん、起きて」 「……ん」 「え……」  声が漏れた。微かに開いた瞼の端から、涙が零れた。 「巧、くん……」 「……宮司さん」  ゆるりと掌が伸びてきた。拒まずに受け入れると、大きな身体に包まれた。確かめるように、紫乃の身体を抱き締める。  こんなに不安そうな姿を見るのは初めてで、戸惑いながら背中に手を回す。布団と体温に挟まれながらそっと撫でてやると、より強く、肩口に引き寄せられた。 「すみませ……っ」 「いいよ。夢、見た?」 「は、い……」  掌の熱が、服の上からじんじんと滲んでくる。浅い呼吸から、ほんとうにつらい夢を見たことを察する。  どんな夢見たの? と、羽毛に吐息を吹きかけるように、そっと尋ねた。僅かでも力を入れすぎたら、広かった背中がほろほろと崩れてしまうと思った。 「……宮司さん、が」 「うん」 「大怪我する夢」 「……それはひどい」 「でしょう」  おそらく、紫乃が指を切ったりしたせいだ。あんな態度をとって、彼の胸の内側に、蟠りを植えつけてしまったのだろう。 「……宮司さん」  身体が離れる。開いてできた距離を埋めるように、掌が頬を伝う。 「怪我、してない……?」 「してるよ。指切った」 「だけ?」 「ああ。ほかは、なんともないよ」  目に見える傷は負っていない。心に残る傷も、どれくらい治ったとか、あとどれくらいで消えるとか、わかればいいのにね。  喪失の傷を持つのは、自分だけではない。だれしも、他者には見えないところで、傷を拵え、痛みに堪えている。言葉にすれば、それがどんな姿をしているものなのか、伝えることができる。  それでも、新たにだれかと共有することはできない。人は、時を遡ることができない。功一を失ったのは、巧ではなく、紫乃自身だ。 「宮司さん」 「うん?」 「キス、してもいいですか……?」 「……うん」と、返事をしながら、瞳を閉じた。震える唇が重なる。  功一は、もういない。  きっとずっと、背負っていく傷だけれど、そのために、今そばにいてくれる人を支えることを放棄するのは、違う。ぜったいに、違う。この体温一つで、巧の不安を和らげられるのなら、いくらでも貸す。君を支えるためならば、もうコウ先輩との約束すら、おれは捨てられるんだよ。  たくさんたくさん、支えてもらって、おれは今も、ここに立っていられる。  唇の表面を触れ合わせるだけの口づけは、ほんの数秒間で過ぎた。  照れたように笑って、「もう大丈夫です」と、巧は布団に潜り直した。紫乃もそれに倣って、もう一度眠ろうと試みる。でも、心臓がうるさくて、なかなか意識を手放せない。  眠ったのか眠れなかったのか、よくわからないうちに目覚まし時計が鳴って、渋々身体を起こす。隣でなにごともなかったように寝息を立てる大学生を見て、ついつい肩を落とした。  寝顔はやっぱり、年相応だ。 「……さすがに、予想外だったな」  月曜日の朝一番にみやじ食堂に来店した客の顔を見て、ついそう呟かずにはいられなかった。当人は格好つけて「子どもに予想されてたまるかよ」と鼻を鳴らす。 「また子ども扱いする」 「子どもだろ。おれよりも年下。ビフカツサンドとコンソメスープ」 「はいはい」  昂也がカウンター席に座って、店内をぐるりと見回した。彼の行動を気にしつつ、注文されたメニューを用意する。 「兄ちゃんにしては、趣味のいい店だな」 「コウ先輩、趣味悪かったんですか?」  大学生のときは、特にそうは思わなかった。服も無関心ながらに似合うものを身につけていたし、部屋もふつうだったと思う……物は散乱していたけれど。 「ショタ選ぶくらいだから」 「だれのことですか」 「さあね」  真面目に取り合って損した。昂也は人を揶揄して遊ぶのが趣味らしい。  慣れた手つきでビフカツサンドを三角形に切る。ざくざくと音を立てて衣が断たれる。上出来だ。平皿に、プチトマトを添えたポテトサラダと合わせて盛りつける。スープは右端の鍋から、具が均一になるよう掬い上げて器に注ぐ。  できあがった料理を差し出す。いただきます、と昂也が手を合わせる。その仕草に、鼓動するものが身体の中心にあることは、自覚していた。  すぐにぱくっと口に含んで、「うん、うまい」と相好を崩す。それぞれをバランスよく口に運んで、みるみる皿の上が空になる。サービスでコーヒーを出すと、少年みたいな笑顔を向けられた。 (……なんだかなあ)  自由すぎるこの人を見ていると、まるで昔から知っていた相手のように思えてくる。功一とは違うタイプの変な人だ。 「あー、おいしかった。ご馳走さま!」 「お粗末さまでした」  そのまま帰るかと思いきや、昂也は食べ終わった皿を重ねてキッチンに運んできた。客の立場の人がこんなことをしてくれるとは思わなかったので、慌てる。 「あっ、置いておいてくれれば」 「いーよ、自分で洗う。なんか手、怪我してるみたいだし」 「でも、わっ」 「あ、こら」  絆創膏だけになった指を背に隠そうとしたせいで、同時に昂也を止めに動いた自分の足に、足を引っかけた。躓いたところを、片手に皿を持った状態で器用に受け留められる。さすがホテルのレストランホールで働いている人だ、とおかしなところで感心する。 「なにもないところで躓くな。しかも自分ち」 「す、すみません……」  すぐに体勢を立て直して、頭を下げたら、ぐしゃぐしゃとその頭を掻き混ぜられた。驚いて後ずさったら、今度はキッチンの作業台に腰をぶつけた。 「おまえ、大丈夫か?」 「うう……、なんとか」 「紫乃くんって、犬みたいだよな。なんかいつもころっころしてて。柴犬?」 「そんな失礼なことを言われたのは初めてです」 「褒めてるつもり系」 「嘘でしょう」 「嘘じゃねーよ。おれは大の犬ずきだ」 「……そうですか」  まったく、この人と話すのは、調子が狂う。  調子は、狂う。でも、ぜんぜん嫌じゃない。  昂也と話すのは、たのしい。今まで出会わなかったタイプの人だからか、ついその話に引き込まれる。軽やかな口調も、場を和ませる冗談も、さらりと撫でるように逆立った気分を簡単に鎮めてくれる。話していて気が楽なのだ。 「……あの」 「んー?」 「……今度の日曜日、空いてますか?」 「うん。シフト入ってないと思う。きのう夜勤だったし」  皿を洗ってくれる横顔を見つめる。意外に睫毛が長い。手元に伏せられた瞳から頬に影が落ちている。頬から顎へかけてのラインが、同じだと思った。 「おれと……、コウ先輩のお墓参りに行ってくれませんか」  意識なんてしていなかった。なんとなく、口をついていた。  迷惑だろうか。ホテルのシフトがどのように組まれているものなのか、紫乃にはよくわからないけれど、楽な仕事ではないだろう。せっかくの日曜日だし、人との約束があるかもしれない。そもそも、お墓参りは家族で行く予定なのかもしれないのに、でも、なんだろう、確信している――。 「うん、いーよ」 (……ほら)  こんなに簡単に、昂也は頷く。  夜勤明けでそのままここに来たらしい昂也が仮眠をさせてほしいと言うので、住居のほうへ促した。  いつも布団を敷いている部屋に案内すると、ちょうど窓から日が降り注いでいたのか、大きなまんじゅうが畳の上に落ちていた。「ねこだ」と弾んだ声でその背を撫でて、昂也が隣に横になる。 「布団出しますよ?」 「大丈夫大丈夫。それよか、枕が欲しいな。膝枕」 「そこの座布団、適当に使ってください。じゃあ、おれは店のほうにいるので」 「冷たい……」  冗談だったので、押し入れから枕を出して渡したら、「……おれのは冗談のつもりじゃなかったんだけどな」と、また冗談だか本気だかわからないことを言うから、無視して食堂へ引き返した。 (返事、なんて言ったらいいか、わからなかった……)  来客の相手をして、昼の準備を進めながらも、昂也とのやりとりが頭から離れない。  だれもかれもが、自分をすいてくれるわけじゃない。万人から愛される聖人も、一人から憎まれることはある。それが心を砕くこともあるだろう。そもそも自分は聖人ではないし、特に人にすかれやすいとも思わない。それなのに、昂也の言葉を信じたくなっている。すかれていたらいいな、なんて思っている。  人から嫌われるのは、こわい。昂也にやさしくしてもらえたのも、こうして約束通り食堂に来てくれたのも、ありがたかったし、うれしくて堪らなかった。  それと、この気持ちは、同じなのだろうか。 「こんにちは、宮司さん」 「あ、いらっしゃいませ」  顔見知りの客が来てくれて、余計な思考を追い出す。昼も近くなり、客が増えてきた。テキパキと仕事をこなすうちに、頭のもやもやは吹くように消えていた。  午後二時半を回って、昼のピークも落ち着いた。テーブル席でパスタを頬張りながら話している二人組の女性に一言声をかけて、住居のほうに引っ込む。  昼食を済ませたポチが、今度は寝室の箪笥の上で微睡んでいる。そろそろ三限終わりの巧が帰ってくる時間なので、昂也を起こそうと思った。 「昂也さん、時間……」  大丈夫ですか、と続けようとして、つい口を噤んだ。意外に行儀よく仰向けに寝ている昂也を部屋に踏み込む前に目にして、起こすのを躊躇った。 (……しゃべらなきゃ、ほんとうに……)  心地よさそうな寝顔を、以前も見ていた。起こすと、ふにゃって笑って、短い茶髪をわしわし混ぜながら、おれの名前を……。  食堂に戻る。  取り戻せない時間は、だれにだってある。でも、だからこそ、少しの間でいいから、夢の中に浸っていたいと思った。少しでいい。今は、ちゃんとたのしくやってるから――。  しばらくして、巧が帰宅した。いつもの元気な「ただいま!」の声に、負けじと「おかえり!」と返す。  テーブル席の女性たちが、巧に気づいて入口を振り返る。小さく黄色い声で話すのを見ると、ちょっと複雑な気分だ。 「巧くん、今ちょっと奥にお客さんが来てるから、あんまり近づかないでほしいんだけど」 「わかりました。こっちはおれが見てるので、宮司さん、奥行っててもいいですよ」 「うん、ありがとう」  今度こそ、ちゃんと起こして、帰ってゆっくり休んでもらおう。奥に足を向けようとしたときだった。 「よく寝た。紫乃くん、ありがと、助かった」  と、昂也のほうから店に顔を出した。荷物を持っているから、このまま帰るようだ。 (……大丈夫、巧くんは、コウ先輩の顔を知らない)  きっと、気づかれない。 「お帰りですか?」 「おう。今度は日曜……」  ふと、昂也の目が、キッチンに立つ巧に留まる。心臓が嫌な音を立てる。胸騒ぎ、という言葉を音にしたら、きっと今聞いているこの音だ。 「えっと?」  昂也が不思議そうに首を傾げると、たぶん大学時代の先輩だとでも思っているのだろう巧が名乗る。 「川辺巧です。こちらに下宿させていただいてます」 「下宿?」  後ろめたいことがあるわけじゃない。それなのに、昂也の視線から逃れようと、無意識に目を逸らした。「ふうん?」なんて声すら、わざとらしく聞こえてしまう。このまま帰ってくれたらどんなにいいかと思ったが、現実はそう甘くないらしい。 「これからもちょいちょいお邪魔するかもしれないから」 「はあ」 「おれは宮司昂也。よろしくね」  顔を伏せたままでいたから、巧がどんな顔をしていたのかはわからない。昂也がどんな顔で言ったのかわからない。  でも、「じゃあ、また日曜日な、紫乃くん」と、鈴の音が響いたときに耳の後ろに感じた電気みたいな痺れは、おそらく、どちらかの視線だ。

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