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その6-2

 * 「……あの、さ」 「うん、なあに?」 「こういう待ち伏せみたいなの、やめようよ」 「だってこうでもしないと、巧さんに会えないんだもん」  きょうは時間に余裕があったのか、わざわざ私服に着替えて、澪那は国中駅で待っていた。元から大人っぽい感じが、おしゃれな私服の効果で、いい意味でさらに助長されている。  早く帰っても、紫乃はホテルの手伝いでいないから、巧にしては珍しく、友人たちといっしょにのんびり駅への帰路を辿っていた。そこに、かわいい格好をした女の子がいたものだから、見事にカノジョと誤解された。柳瀬だけは目をしばたかせて、「だれ?」と訊いてくれたけれど、澪那をこれ以上待たせるのも申し訳なくて、ここで別れることにする。あとで、柳瀬には言い訳メールを送ることにしよう。 「じゃ、年下のかわいいカノジョにはやさしくなー!」 「うるさい、茶化すな」 「ははは、また月曜日な」  手を振り返して、駅の構内に去っていく友人たちの背中を見送る。彼らが階段を昇り切って、見えなくなるまで待ってから澪那を窺うと、彼女は頬を上気させて、目線を身体の前で合わせた指先に落としていた。 「澪那ちゃん?」 「『かわいいカノジョ』は、否定しないんだね」  ――それをされて、どれだけ澪那が傷つくか。おれは痛いくらい、知っていたから。  駅の近くの喫茶店に入って、紅茶を頼んだ。遠慮しないで、と勧めると、澪那は綿毛のように頷いて、ココアを注文した。  巧さんに会えないもん。そう言われてから、なにも応えられずにいた。  運ばれてきた紅茶に口をつけ、時間を稼ぐ。情けないくらいに、困っていた。  澪那の気持ちが、苦しくなるほどわかってしまう。だから、なにも言えなくなる。その場しのぎの言葉ほど、虚しいと感じる。誤魔化されるのも、見ない振りをされるのも、堪える。身体のどこかが抉られるみたいに、自分のどこかが減っていく。知っている。  片思いの相手にされてかなしいことを、巧は知っている。  きっと、だれより今、澪那の気持ちをわかってあげられる。それが余計に、互いにとってかなしいことだったとしてもだ。  澪那のことは、かわいいと思う。それに、実際の年齢よりも大人っぽくて、友人たちも巧といて違和を感じないくらいに見えたようだ。  元々、巧は女の子がすきだった。すらっとした体型も、凛とした顔つきも、笑うと笑窪ができるのも、ふわふわした髪型も、明るくて一途な性格も、正直に言えばこのみのタイプだ。でも、それは以前の話だ。  子どもみたいな顔をして、一人で無茶して、そのくせさみしがり屋で、心を隠すのが下手くそで、料理が大すきで、人の笑った顔が大すきで、お人よしで、お節介で、ねこと喋っちゃったり、変なTシャツを集めてたり、――そんな、わけのわからない人を、すきになった。  初めて、恋をしたのだと、思った。  澪那をすきになれば、澪那はよろこんでくれる。そのほうが世間的にもずっとよくて、ずっと楽だ。紫乃を困らせることもなくなる。  でも、それじゃ、そんな理由じゃもう、この気持ちに追いつけない。理由なんかじゃ、言い訳なんかじゃ、諦められない。 「おかえり」と言ってくれたあの日から、これからずっと、そばにいるのは宮司紫乃がいいと、思ってしまった。それがたとえ、一生叶わない願いだとしたって、一生だれかと寄り添える未来が訪れないことと同義だとしたって、構わないと、思った。 「巧さん」 「うん?」 「カノジョがいるの?」 「いや……」  カノジョはいない。付き合ってない。ただの、片思い。 「すきな人がいるの」 「……うん」  澪那は長い睫毛を伏せて、ココアを口に運んだ。仄橙色の柔らかい照明が、頬に影を落とす。髪の毛の先が、放課後の教室のカーテンみたいに、胸元で揺らめく。 「告白、した?」 「うん、振られた」 「じゃあ、どうして?」  どうして、自分と付き合えないのか、訊きたいのかな。それとも、どうしてそれでも思い続けて、どうして諦めないでいて、どうして……。そんなの、おれだって、知りたい。  どうして紫乃なのだろう。どうしてこんなにすきなのだろう。どうして、叶わないと知っているのに、それでもいいと思うのだろう。紫乃でしか満たされないなにかが、自分の中にある。不思議だった。  叶わない恋心を抱えるのも、それに一生を差し出すのも、前ほどつらく感じない。不思議だ。  望みがあるわけじゃない。きっとずっとこの手には入らない。 「……どうして、か。難しいね」  難しいなあ。どんな言葉にすれば、どんな音に乗せれば、伝わるかな。  窓の外に目をやる。僅かに傾いた日差しが、透明に外気を反射する。それだけで、午後の街並みが柔らかく見える。 「巧さん……」  困ったような甘い声が、片耳に触れた。小さな吐息の気配と共に、冷たい手が巧の手の甲に重なった。きゅ、と指先に力が籠る。 「……じゃあ、それまででいい」 「え?」  振り向いて、無意識に息を飲み込んだ。今までだれにも向けられたことのないくらい、真っ直ぐな視線に射抜かれていた。そこだけ真空に変わったみたいに、澄んで、巧の目に届く。濁りのない眼差しだ。 「澪那ちゃん……」 「それまででいい。巧さんが、その人と付き合うまででいい。巧さんにほかにすきな人ができるまででいい」 「でも……」 「二番でいいから、わたしは巧さんといたいの」  顔が火照った。十四歳の女の子が、そんな愛の言葉を知っていて、それを自分に向けてくれるなんて、思ってもいなかった。ドラマの観すぎだよ、なんて茶化せない。澪那は、真剣だった。  言わせてしまった。澪那は、ほんとうは今まで、きっと言われる側だったのではないだろうか。それこそ、彼氏を作ろうとすれば、いくらでも選べるような子だろう。 (あ……)  自分と重ねるわけじゃない。でも、紫乃から見た巧の姿は、こうなのではないか、と確信のように思う。 「ただいま」  めったに使わない食堂の鍵を使って、戸を開ける。ガラス部分に「臨時休業。ご迷惑をおかけして、すみません」と、カレンダーの裏を使った手書きのメッセージが貼りつけてあった。「また来てください」くらい書こうよ、と苦笑したけれど、紫乃の謙虚な人柄が出ているようで、やっぱりこれでいいかと思った。  爪が床に当たる音が聞こえて、ポチが食堂に降りてきたのだと察する。名前を呼ぶと、カウンターの角からまんじゅうがのそのそと近づいてきた。こちらからも近づいて、真ん丸な身体を抱き上げる。 「ポチ、お腹減ってる? いつもより早いけど、ご飯にしよっか」  な、と顔を近づけると、もじゃもじゃの髭に鼻を突かれた。油断している内に、口をベロリと舐められる。 「うぷっ、おい、ポチ~。って、なにそのドヤ顔」  マンガだったら、むふ、なんて効果音が似合いそうな顔で笑って、ポチは巧の腕から飛び降りた。重たそうなお尻が奥へと消える。  先に台所に着いたポチの瞳が、暗闇で金色に光っていた。ふだんねこらしからぬボディを見慣れているおかげで、ちょっと意外だった。入口のすぐ横にあるスイッチを押して、電気を点ける。テーブルの上には書き置きがあった。  紫乃の案外男らしい文字に従って、冷蔵庫からサラダとコロッケを取り出す。冷凍ご飯を暖めて、食堂のほうからハヤシを拝借。ポチには、コロッケを崩した特製ねこまんまを作ってあげると、にんまりと目を細めて喉を鳴らした。 「よし、いただきます」  パチンと手を合わせると同時に、ポチが口の周りをコロッケでいっぱいにする。目を細めながら、巧もハヤシライスを食べはじめる。  紫乃は、今頃どうしているだろうか。ホテルのキッチンで、先輩に扱き使われているのだろうか。帰ってきたら、疲れながらも、いろいろな話を聞かせてくれるのだろう。たのしみだ。 (……おれは、内緒が増えちゃったな)  ポツリと、思った。  紫乃に言えないことが増えた。――澪那と付き合うことにした、なんて、言えるわけがない。  断れなかった。どんなに理屈でよくないとわかっていても、どんなに言い含めなければと思っていても、同情せずにはいられなかった。それは、自分に言うようで、堪えられなかった。  飽きれば間違いに気づくだろうとか、気持ちが落ち着けば考え直すだろうとか、そんな子ども騙しで返事をしたわけじゃない。自分の気持ちを誤魔化すためでもない。ただただ、澪那にさみしい顔をさせたくなかった。自分と同じ轍を踏んでほしくなかった。  巧が心変わりすることは、一生ないと思う。それでも、束の間でいいから、夢を見せてあげたかった。巧の見られない夢だ。 「……完璧、言い訳だよなあ……」  スプーンをくわえたまま頬杖を突いて、慌てて姿勢を正す。姿が目の前になくても、作った人の顔が見える。そんな料理を作れる人を、尊敬しないでいられるわけがないのだ。  夢が醒めるまで。  おれが君の理想ではなくなるまで。  二番でいいなんて言わないで。君を一番だと思ってくれる人が、必ずいると、気づいてくれるまで。  しばらく、彼女の恋をサポートする。そう、決めたのだ。 「ただいま~」  二十二時を回った頃、鈴の音と紫乃の声が聞こえて、寝巻のまま食堂に出迎えに行く。電気を点けると、ちょっと疲れた顔の紫乃が、お土産を片手に笑った。 「ただいま、巧くん。これ、お土産」 「やった、ありがとうございます! ケーキですか?」  かわいらしい箱だったので尋ねると、紫乃は「桃子ちゃんに頼まれちゃって」とテレビの中の会社員みたいな仕草で頭を掻いた。箱と荷物を引き受け、奥に促す。夕飯を食べたか確認されて、書き置きのものとハヤシライスをいただいたことを伝える。 「お疲れさまです、宮司さん。お風呂沸いてますよ」 「うれしい、ありがとう。じゃあ入ってこようかな」 「ケーキは冷蔵庫でいいですよね?」 「うん。あ、巧くん、まだ歯磨いてなかったら、いっしょに食べようよ」 「桃子ちゃんに怒られませんか?」 「人数分買ってきてあるから、大丈夫、だと思いたいです」 「はは、了解。用意しておきます」  着替えを持って風呂に向かう紫乃を見送って、台所に入る。食器とマグカップを二人分用意して、彼を待つ。先に箱の中身を覗いてみれば、色とりどりのケーキやらタルトやらゼリーやらが行儀よく並んでいた。小戸森の運転は、いちおう信用できるらしい。 (八個……、宮司さんはほんとうにお人よしなんだから)  おそらく、秋名一家や、いっしょに行ったはずの小戸森、巧と柳瀬の分まで入れた数なのだろう。都合が合わなくても、桃子に余分に持たせられるように、と考えたに違いない。参ってしまう。眉間に力を入れていなかったら、すごく間の抜けた顔になっていた。ああ、こういうところがすきで堪らないと、思わされる。 「お待たせ。準備ありがとうね」 「はい。お湯沸かしたんですけど、宮司さん、なに飲みます? 紅茶とカフェオレと、コーヒーならすぐ入ります」 「じゃあ、疲れたから甘いカフェオレで。ありがとう、巧くん」 「……へへ」  二人分のホットカフェオレを作って、テーブルに置く。いつもの席に、二人で座る。それぞれすきなケーキを取って、残りは冷蔵庫にしまった。 「いただきます」 「いただきます」  木苺が飾りつけられたタルトは適度に甘く、卵の風味が濃厚なカスタードクリームと絶妙に口の中で溶け合って、おいしかった。紫乃も、桜色のクリームを使ったモンブランを、大切そうに掬って、その味を噛み締めている。 「ホテル、どうでした?」  尋ねると、ペロリと舌を覗かせながら、「すごかったよ」と教えてくれる。ホテルのキッチンの怒涛の忙しさ、見慣れない技術、スピードと均等さに目が回ったと、紫乃が語る。 「あとね、テレビで見るような政治家も来ててさ。すごかったな」  一人で思い出して、何度も頷く姿に笑う。紫乃がたのしそうで、よかった。  ほんとうは、少し不安だった。以前の紫乃は、みやじ食堂以外の場所を見なかった。功一の遺したここを守るためだけに息をして、料理をしていた。でも、今は違う。外へ出て、いろんなものを見て、たのしそうに話す姿は、前よりさらに眩しい。よかった。 「あ、そうそう、聞いてよ。ひどいんだよ」 「なにかあったんですか?」 「着いてすぐだったんだけど、おれがキッチンにいたらさ、いきなり知らない人に『ここは遊ぶところじゃないぞ、坊主』って怒られた!」 「ははっ、さすが宮司さん」 「褒めてないな、それ。しかもその人さ」  ――と、不意に紫乃が言い止した。首を傾げる。 「どうかしたんですか?」 「あー……、ううん、なんでも。その人ウエイターさんだったんだけど、きょう一日、結局ずっと坊主だガキだっていじめられた」 「あはは、いい度胸してますね、その人」 「……うん、ほんとにね」  ケーキを食べ終えて、食器を片づけ、歯を磨いた。あしたは土曜日だから、澪那と約束をした。食堂を手伝いたいから、午前中に少し会って、帰ってくるつもりだ。ついでに紫乃のお土産を渡そう。 (……さっきのも、気になるし)  紫乃が誤魔化すように言葉を切ったのが、引っかかっていた。話したくないなら無理強いはしないけれど、やっぱり、隠されると探りたくなる。  電気を消して、「おやすみなさい」と声をかける。返事からすぐに、寝息が聞こえてくる。よっぽど疲れていたのだろう。  カーテンの裾間から舞い降りる月明かりに、幼い横顔が白く縁取られている。 「……宮司さん」  返ってくるのは、寝息だけだ。外から聞こえる微かな風の音が、窓ガラスを静かにノックする。葉擦れの囁きが子守唄のように響く。 「すきです」  ほら、口にしたら、もっとあんたをすきになった。  あしたもあさってもしあさっても、一か月後も一年後も、だれとどう関わっても、だれがなにを言っても、変わらないであろう気持ちだ。  おれは、ちゃんと澪那ちゃんに、伝えてあげられるだろうか。  わからない。それでも、大丈夫だと思うほかない。瞳を閉じる。隣にいる人を感じる。それだけで、ゆっくりと眠気がやさしく、全身を満たした。  * 「ケーキ?」 「――っ!」 「……そんな驚かんでも」  いや、いやいやいや、後ろから突然声をかけられれば、だれだって驚く。……それが、どう接したらいいのか悩む相手なら、なおさら。 「買ってくの?」 「ええ、まあ……。近所の子に頼まれちゃって」  視線を避けるように、紫乃はケーキの並ぶショーウインドウに目を向ける。桃子は、甘いものはバナナ以外ならなんでもすきだ。だから、どれを買っていってもよろこんでもらえると思うのだが、いかんせん種類が多すぎて、選びきれないでいた。  左端のクランベリーケーキがおいしそうだ。下の層はチーズケーキ状になっていて、上は透明なゼリーに閉じ込められたクランベリーが隙間なく詰まっている。隣のタルトも、ブルーベリーとチョコレートの色合いが綺麗だ。その隣の木苺のタルトも、春の花畑みたいでかわいい。ショートケーキは王道だし、右のホルンも捨てがたい。モンブランなんて三色もある。それぞれで味が違うのだろうか。  ……と、宝石みたいなケーキに目を奪われていると、いきなり頭を掻き混ぜられた。この人は、やたら紫乃を驚かせる。思わず顔を上げたら、あの人そっくりの顔で、彼は笑った。 「お使いか。偉いなー」 (むっか~。やっぱり、ぜんぜん似てない) 「お使いじゃないです。揶揄う暇があるのなら、選ぶの手伝ってくれませんか、八人分」 「大所帯だな」  からからと肩を揺らして、もう一度、髪を混ぜられる。さりげなく、その手を避けた。  パーティーは無事に終わり、キッチンでは今、後片づけをしている。神永は「片づけはうちのスタッフがやるから」と言って、上司にパーティー終了の報告に行ってしまった。帰るにも一言残していきたかったので、麻紀は片づけの手伝い、紫乃は桃子に頼まれたケーキの調達に来た。早く戻って、手伝わなくては。 「三園(みその)ちゃん、ケーキ計八個お持ち帰り、今から言うの一つずつで」  突然、彼が売り場の女性にそう言ったので、三園と呼ばれた女性は、素早くケーキ八個が入りそうな箱を用意した。パッパと指示通りに彩りが詰まっていく。 「あと、その一口チーズケーキは、そのままちょうだい」 「はい。宮司くん、これでいいの?」 「うん。サンキュー」  勝手にお代まで払って、彼は箱と飴玉みたいに包まれた丸いチーズケーキを一つ持って、身を翻してしまう。ぽかん、とその背中を見つめていたら、おい、と呼ばれて、慌てて追いかけた。 「あ、あの」 「ほら、座って」  戸惑いながらも、促されて近くのベンチにかけた。すぐ隣に、彼も座る。  キッチンとエントランスホールを繋ぐ廊下は、どちらの喧騒も遠く、ここだけ世界が隔絶しているような変な感じがした。先ほどまでいたキッチンのぱきっとした蛍光灯とは異質の、クリーム色をした照明のせいかもしれない。 「ほい」とケーキの箱を手渡されて、急いで財布を取り出す。 「お金はいーよ」 「よくないです。いくらでしたっけ」 「いいってば。子どもからお金もらうのは、ちょっとな」 「だから、子どもじゃないです。一つしか違わないでしょう」 「おれより年下は、みんな子どもだ」 「そんな無茶な……」  なにを言っても、つーんとそっぽを向かれて、一向に受け取ってもらえなかったので、渋々財布を仕舞う。まったく、どちらが子どもなんだか。 「おれ、聞きたいことがあったんだよね」 「おれにですか?」 「そう、紫乃くんに」  不意に名前で呼ばれて、心臓が変な音を立てた。切れ長の目にじっと見つめられる。形は同じなのに、あのほよんとした影はまるでない。 「紫乃くんの名字。みんな名前で呼ぶから、聞きそびれちゃって」 「……そうですね」  紫乃といなければ、功一が亡くなることはなかった。恨まれて、当然だ。  この名前を名乗る資格は、おれにあるのだろうか。わからない。でも。 「――宮司です。宮司紫乃」 「だよね。その前は、櫻井、でしょ?」 「知ってたんですか?」 「兄ちゃんがいつも話してたから」  兄ちゃん、という言葉を改めて耳にして、唇を結んだ。弟がいるという話は聞いていたけれど、会うことはないだろうと思っていた。  紫乃が俯いたのに気がついてか、ぽん、と手の上にチーズケーキが置かれる。 「疲れたときに最高なんだぜ、このチーズケーキ」 「食べてみな」と言われて、捩じった包み紙を引いて剥がす。爽やかなレモンの香りに、思わず息を深く吸い込んだ。  おいしい。レモンの風味にマッチしたほどよい甘さが広がって、一瞬でクリーム状に蕩ける。溶けたあともくどくなく、喉を通り抜け、チーズの余韻が舌に残る。こんなにおいしいチーズケーキは、初めてだった。 「うまいだろ? 選んだケーキもぜんぶおれのオススメだから、覚悟して食えよ」 「……んで」 「うん?」 「なんで、親切にしてくれるんですか……」  下唇を噛む。言うつもりのなかった言葉なのに、もう取り戻せない。でも、聞きたかった。どうしても、理解できなかった。  功一の家族に、自分は恨まれているはずだ。顔も見たくないと思われていることだろう。挨拶には来ない。結婚もできない。子どもも授かれない。紫乃とみやじ食堂にいたせいで、帰らぬ人となった。終いには、墓参りにも来ない。そんな、相手だ。  くしゃり、と、握った指に巻き込まれた包み紙が音を立てた。 「隙あり」 「あ」  一瞬で残りのチーズケーキが手の中からなくなった。なにが起こったのかわからなくて隣を見れば、モゴモゴと口を動かして、にやっと笑う人がいる。やがてごくんと喉を上下させる。 「はい残念、証拠隠滅」 「……ひどい」 「はは、さっさと食わねーおまえが悪い」  ――と、掌が重なった。  温かい、厚い手だ。  それだけなのに、なんでだ、目が熱い。 「兄ちゃんの大事な人だから。それ以外に、なんか理由、いる?」  ああ、もう、どうしよう。 「あっ、わっ、ばか、なっ、泣くなよ?」 「……泣きませんよ、子どもじゃあるまいし」  泣くもんか。あなたみたいな、イジワルな人の前で――。 「今度、店行ってもいい?」 「嫌って言っても、来るんでしょう」 「おまえ……はは、かわいくねえの」 「べつに、昂也さんにかわいがってもらいたくなんてないですもん」 「あー、またそういうこと言って。兄ちゃんも、こいつのどこがいいんだよ」 「コウ先輩の前では、カワイイ後輩でしたから」 「兄ちゃーん、あんた騙されてるよー!」 「あはは、冗談です」  そっか、おれ、「宮司紫乃」でいて、いいんだ。 「……あれ? じゃあおれって、昂也さんのお兄さんになるんじゃないですか?」 「うげっ、まじかよ」 「ほら、義兄さんって呼んでみて」 「ぶは、やだよ、ばか」  肯定してくれる人が、ここにいる。  帰りの車内で、麻紀は難しい顔をしていた。ケーキを買いに出た紫乃が、昂也とキッチンに戻ってきたのを見ていたからだろう。  麻紀は、紫乃が負い目を感じていることを知っている。だから、心配してくれているのだと思う。 「……紫乃」  みやじ食堂に辿り着く前に、麻紀は路肩に車を停めた。こちらを振り向く。眼鏡の向こうの深い色の瞳は、大学時代から変わらない。 「昂也さんに、なにか言われたか?」 「……うん」 「大丈夫か」 「うん」  壊れものに触れるように、頬を白い指がなぞる。微かに震えているのは、気づかない振りをした。 「……昂也さん」 「……うん」 「おれのこと、恨んでないって」 「そうか……」 「『兄ちゃんの大事な人だから』って」 「……うん」 「ケーキも、買って、くれて……」 「……うん」 「それから、おれ……」 「うん、よかったな」  そっと髪を掻き分けて、引き寄せられる。麻紀の胸に甘える。自分でもどうしようもないくらい、いろんな感情でいっぱいだった。どれが大きかったからだろう、心に張られた薄い膜を破ったように、涙が零れてくる。  ぽん、ぽん、と、子どもをあやすように肩を揺すられる。目を閉じて、揺り籠に似た安堵に身を委ねる。  落ち着いたのを見計らって、麻紀がハンカチを貸してくれた。ありがたく使わせてもらう。慣れない眼鏡を指先で押し上げて、車のエンジンをかける。再び静かな夜の町を走り出す。  みやじ食堂に着いたのは、二十二時過ぎだった。車を降りて、運転席のほうに回る。気づいた麻紀が、窓を開けた。 「ハンカチ、洗って返すから」 「いいよ、そんなの」 「いいから。あと、ケーキ、麻紀の分もあるから、早めに食べに来て」  おれの分まで? と少し呆れたみたいに眉尻を下げて、「じゃあ、あしたの昼過ぎに来る」と約束してくれた。  甘えている。麻紀は、わかっていて、それを許してくれる。狡いと思う。でも、紫乃には、今麻紀の存在が必要だった。いつか、自分一人で立てるようになったとき、彼に一番に、礼がしたい。 「じゃあ、またあしたな。紫乃、おやすみ」 「きょうはありがとう。お疲れさま、おやすみ」  手を振って、車を見送る。振り向けば、みやじ食堂の赤い暖簾が、微風に靡いている。 (巧くん、よろこんでくれるかな)  ケーキの箱を抱え直し、父親の心境で扉を開けた。 「ただいま~」  すぐに巧が出迎えてくれて胸の奥がほっと温かくなった。促されるまま熱い風呂に入り、出たら巧がケーキのお伴を用意してくれていた。こういう気遣いがすきだ。いっしょにいて、楽だと思う。  ケーキを食べながら、きょうのことを話す。巧は聞き上手だ。相槌を打っては、言葉を添えて、紫乃に返してくれる。聞いていますよ、と言われているみたいで、もっと話していたくなる。  神永のホテルは、みやじ食堂とはまるで違った。きらきらと目映いシャンデリアや、赤い絨毯、曇り一つなく磨かれたたくさんの調理器具に、たくさんの人。  それぞれ班に分かれて決められた分の料理を作る。作り方も当然均一だ。見慣れない技術に目を見張り、初めて見るブレンドのソースに感心し、美しい盛りつけを瞬時にこなす腕に憧れた。 「これは、なにをしているんですか?」と尋ねれば、手を休めずに「ナージュって言って、香味野菜に水や白ワインを加えて煮た茹で汁に、魚介類を入れて煮立てる。生クリームとかバターを入れるとさらにコクが出る。きょうはほかと合わないからやらないけどな」と、早口に答えてくれる。不思議な野菜を見つければ、「ロマネスコだ。見たことないのか?」と解説してくれる。きょう一日で、ほんとうに勉強になった。  それを、一つ一つ確かめるように言葉にして、巧に届ける。うん、うん、と返事をしてくれる。一人ではできないことが、今、ここで二人でできている。 「あ、そうそう、聞いてよ。ひどいんだよ」 「なにかあったんですか?」 「着いてすぐだったんだけど、おれがキッチンにいたらさ、いきなり知らない人に『ここは遊ぶところじゃないぞ、坊主』って怒られた!」 「ははっ、さすが宮司さん」 「褒めてないな、それ。しかもその人さ」  ――と、思わず言葉を止めた。巧が首を傾げる。 「どうかしたんですか?」 「あー……、ううん、なんでも。その人ウエイターさんだったんだけど、きょう一日、結局ずっと坊主だガキだっていじめられた」 (……なんで)  へらへらと笑いながら、心の中で戸惑った。 (巧くんには、知られたくない……)  なぜかは、わからない。ただ、宮司昂也という人の話を、彼にしたくない。してはいけない。そんな気がしてならない。きっと、不安にさせてしまう。嫌な思いを、させてしまう――。  ケーキを食べ終え、お皿を片づけ、寝る支度をした。  布団に入る。言わなくてもいいことだと割り切って、目を閉じた。  自分で思っていたよりも身体は疲れていたのか、あっという間に睡魔に誘われ、ぐっすりと眠った。

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