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その6-1
彼のすきなものを作る。
彼は、おれが作るものを、結局ぜんぶすきだと言ってくれるけれど、初めて「おいしい」と言われたのは、オムライスだった。ちゃんと、覚えている。
どんなに上手に作れても、どんなに綺麗に盛りつけられても、いい匂いがしていても、減らない。
おれには、それがなぜかわからない。
おれの分だけが、一口ずつ減っていく。それだけ。
それに慣れた頃に、君は現れた。減らしてくれたのは、君だった。
目が覚める。
まだ部屋の中は暗かった。カーテンの隙間から、月明かりが潜り込んで、柔らかな光がゆらゆらと凪ぐ。隣で、小さな寝息が聞こえていた。
とてもさみしい夢を見た気がして、繋ぐ手を探す。
二つ並んだ布団の中を通って、その手を掴まえる前に、やめた。無条件に寄り添うなんて、してはいけないことだと、思っていた。
「……宮司さん?」
きゅ、と手が温もりに包まれた。
紫乃の手を見つけて、掴んでくれた。
彼より大きな掌だ。繋ぐ手に力が籠る。
「……手、震えています。寒いですか?」
「そうじゃないんだ……」
泣きたくなるくらい、さみしい夢を見たんだ。さみしくてさみしくて、堪らなくなったんだ。
君がいるから、余計、彼のいないことを感じたんだ。
「夢でも見たんですか?」
「うん……」
言い当てられて、素直に頷いた。部屋が暗いのが救いだった。
掌に、自分から力を籠める。じわりと熱が滲んで、存在を実感する。
「宮司さん」
名前を呼ばれる。彼からもらった名前を、君が呼んでくれる。
「もし、二人でいるほどさみしくなるなら、おれが、手を繋ぎます」
「さみしくなくなるまで、繋いでますから」と、手を包まれて、早い鼓動が聞こえてきた。自分の体温と重なって、手と手の境界がわからなくなる。存在を確かめるように、握り返す。
どこまで夢だったのか、わからない。
次に目を覚ましたときには、隣の布団は空だった。
「巧くん」
「あ、宮司さん。おはようございます」
いつも巧より早く起きて、朝食や弁当の準備をするのに、初めて寝坊してしまった。巧がフライパンを器用に操って、油が弾ける音と共に焼けた卵のいい匂いがした。
「宮司さん、顔洗ってきてください。もう少しかかりそうなんで」
「うん……、ごめん」
急いで、顔を洗いに行く。冷たい水が気持ちのいい季節になってきた。
(うわ……、クマできてる)
久し振りに、こんな自分の顔を見た。学生時代にレポートに追われて以来かもしれない。
目頭を揉んで、もう一度、顔に水をかける。おれは、だれかに寄りかかるわけにはいかないんだ。しっかりしろ、宮司紫乃。
「わあ、おいしそう」
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
茶碗によそった白米を受け取って、席につく。テーブルには、まだ湯気の立っている味噌汁と目玉焼きとベーコンが並ぶ。
「すみません、もう一品くらいなんか作りたかったんですけど」
「十分だよ。ありがとう、巧くん」
礼を言うと、巧ははにかんだように白い歯を見せた。褒められてよろこぶ無邪気な幼子みたいな表情に、不覚にもきゅんとする。それを誤魔化すように、味噌汁に口をつける。じわりと口内に広がる熱い味噌の旨味に、なんだかすごくほっとした。
食堂を開ける準備をしている間に、いつも巧が一限のある日に出ていく時間になって、外まで見送る。
「お弁当……、ごめん」
「大丈夫ですよ。宮司さんのお弁当が食べられないのは残念だけど、きょうくらい学食に行きます」
「あしたは、きょうの分まで気合い入れて作るから」
「あはは、いつも以上においしくなったら、おれの頬っぺたの危機です」
巧はけらけらと、なんでもないように明るく笑ってくれる。紫乃のもやもやした心の内を、晴らしてくれるみたいだ。
「じゃあ、行ってきます」と、身を翻す彼の服の裾を、無意識に掴んでいた。
「宮司さん?」
「あ……」
パッと手を離す。自分でも、どうして引き留めてしまったのか、わからなかった。
夢を見た。内容はよく覚えていない。
ただただ、さみしくて仕方なくなってしまったんだ。そうしたら、巧くんが、君が、手を繋いでくれたんだ。「さみしくなくなるまで」って。どこまでが夢だったのか、おれにはわからない。けれど。
「きょうは三限までなんで、早めに帰ってきますね」
「……うん」
「そうしたら、きのうのゼリー、いっしょに食べましょう。たのしみです」
「うん」
巧の背中が、曲がり角に消えていく。一度だけ振り向いて、小さく手を振ってくれて、さみしくなくなった気がした。こんなに簡単に、自分は一人きりではなくなれるのだ。知らなかった。
店内に戻る。もう少ししたら、はじめの客も来るだろう。……微笑む唇から、なかなか目が逸らせなかったのは、きっと気のせいだ。
入口の鈴が鳴って、洗い物から顔を上げれば、友人が隙間から顔を覗かせていた。「いらっしゃい」と、なかなか店内に入って来ない麻紀を戸口まで迎えに行くと、彼は視線を巡らせてから敷居を跨いだ。
「空いてるか?」
「うん。少し前から閑散期。もうちょっとで巧くんが帰ってくるかも」
「そうか」
カウンターを勧めて、たまにはコーヒーを淹れてみる。砕くと蜜の香りがするコーヒー豆を選んで、ついでに住居のほうの冷蔵庫からゼリーを持ってきた。麻紀の分は、なんとなく紫色だと決めていた。
「ああ、ゼリーだから、きょうはコーヒーなんだな」
「うん。気分じゃない?」
「いいや、食べたい」
「待ってて、もうすぐ入るから」
先によく冷えたゼリーと、いっしょに冷やしておいたスプーンを渡した。麻紀も、うれしそうに紫乃の作ったものを食べてくれる。
少し遅れてクリームを添えたコーヒーを出すと、ゼリーのスプーンをそのまま使って、麻紀はコーヒーを掻き混ぜた。思わず吹き出す。
「紫乃?」
「あっ、いや、はは、麻紀ってときどき、無頓着で笑えるなって」
「……褒めてはいないな」
ぶすっとした顔を作って、麻紀が今度はコーヒーに添えたスプーンでゼリーを食べはじめて、また笑わされた。
麻紀はゼリーとコーヒーを完食すると、「おいしかった。ゼリーには炭酸を使ったんだな。うちでも参考にさせてもらう」とスプーンを二本並べて置いた。紫乃が返事をするより早く、改めて名前を呼ばれて、反射で返す。
「なに、麻紀?」
「神永(かみなが)先輩、覚えてるか?」
「ああ、もちろん」
大学時代の先輩だ。功一と仲がよくて、でも、常に穏やかな功一とは反対の印象の、華やかな花束みたいな人だった。なぜ二人が親友なのかは、謎のままだ。今は、ホテルのキッチンでシェフをしていると聞いていた。
「神永先輩が、今度の金曜日の夜、仕事を手伝ってほしいそうなんだ」
「仕事って、ホテルの?」
「ああ。調理だけでいいそうなんだが、政治家のパーティーがあるらしく、人手が足りないって。給料も出るらしいけど、行くか?」
しばし、考えてしまう。特別な用事があるわけではない。食堂も、一日くらい休んでも特に支障はない。それに、功一と食堂をやっていた頃、神永はよく食堂を訪れ、世話を焼いてくれた。きっと、それからは、紫乃一人だと声をかけづらかったのだろう。
でも……。
ちらり、と巧の顔が浮かぶ。
巧は子どもではない。一人にしても、大丈夫だろう。
(大丈夫じゃないのは……)
「……行く」
「え、行くのか?」
「なんだよ、麻紀が誘ったのに」
「いや、ちょっと意外で」
ほんとうに意外そうな顔に苦笑する。紫乃だって、自分で驚いている。
功一がいれば、もうなにもいらないと思った。世界は、みやじ食堂の中で完結してもいいと思っていた。けれど、麻紀に、巧に、手を引かれた。
二人は、過ぎ去ってしまった時間を大切に仕舞って、次の場所を示してくれた。世界には色があって、たくさんの人がいて、人の数だけ心があって、だからそれを動かすような料理を作りたいと、そう思い出させてくれた。
功一と二人きりの世界は、甘くてやさしくて居心地はよかったけれど、厳しくてつらくて、でも今の自分には、差し伸べられる手が見えるこの場所が、大切だと気づいた。だから、閉じ籠っていた分、これからは色んな場所を見ようと思ったのだ。
色んな場所で、色んな人に出会う。そしていつか、功一に、紫乃の出会った人たちの話を聞かせてあげるのだ。いつか、あの街で。
手伝いの件を了承し、あとで詳しい日時と場所をメールで送ると言って、麻紀は帰り支度をはじめた。
「うちも、紫乃ならいつでも……」
「はいはい、また今度な」
いつも通りの文句を言おうとするのを、軽く流す。麻紀はおもしろい。客として行こうとすれば勘弁してくれというくせに、こうしてキッチンには毎回呼ぶんだから。
麻紀の車を見送り、爽やかな青い空を見上げてしばらくぼんやりしていたら、突然、目の前が真っ暗になった。
「だーれだ」
「……小学生か」
「あーそういうこと言うんですね。おれはかなしいです」
紫乃の視界を隠しながら勝手にかなしむ大学生に苦笑する。どうやら、答えるまで離してはくれないらしい。
ぽんぽん、と彼の腕に触れて、「たくみくん」と答えを言う。するりと掌が解けていく。――と、不意に温もりが寄り添った。
「巧くん?」
「……ちょっと、背中貸しててください」
「……なにかあった?」
返事はない。話せないということだろう。だから紫乃も黙ったまま、再び空を仰いだ。
二の腕に、掌の感触がある。肩口が温かいのは、巧が顔を伏せているからだろうか。
話してほしいとは言わない。彼が、この背中でいいと言うならば、いくらでも貸そう。それ以上を求めないなら、紫乃から甘やかすわけにはいかない。それが、巧が決めた、紫乃との距離なのだから。
どれくらい、そうしていただろうか。一分だったかもしれないし、もっとずっと長かったかもしれない。触れる手が離れていったから、振り向いた。巧は、照れたように肩を竦めた。
「満足?」
「へへ、とりあえず。それより、早くゼリーが食べたくなりました」
「ゲンキンだな」
「自分に素直なんです」
「じゃあ単純、かな?」
「ヒドーイ!」
(……そうだよ、笑ってな)
君には、そういう顔が、似合ってる。
悩んでいい。悔やんでいい。困ることもあるだろう。笑っていられないほどつらいことも、生きていればいくらでもある。かなしいことも、さみしいことも、腹が立つことも、泣きたいこともある。でも、巧には、笑っていてほしい。どんなことがあっても、最後には、「大丈夫でした」って、笑ってほしい。
我が儘かな。家族でも恋人でもないのに、こんなこと、望んじゃいけないのかな。でも、他人じゃない。少なくとも、家族の次に、君の素顔を知っている。それじゃ、だめなのかな。
巧が欲しい距離がこんなものではないということは、わかっているつもりだ。それでも、紫乃には今この距離が、心地よいと感じる。
「宮司さんの分はオレンジですか?」
「あはは、そうだね」
自分の分は考えていなかったから、つい笑声が漏れた。ゼリーの残りは三つ。巧の黄緑色と、桃色とオレンジ色。桃子が来たら、きっと桃色がいいと言うだろうから、紫乃が食べるとしたらオレンジ色だろう。
巧がゼリーとコーヒーを準備してくれたので、紫乃はカウンターにかけた。「はい、どうぞ」と、カウンターの向かいからゼリーが差し出されて、客になった気分だ。巧がコーヒーを持って隣に座ったから、片方を受け取る。
「うーん、おいしーい」
巧のうれしそうな声に、身体の内側がぽかぽかする。
紫乃の手元にあるゼリーは、濃いめのオレンジジュースを使った。適度な酸味とオレンジの粒の舌当たりが、いい感じだ。
「そっちのも一口ください」
「うん、いいよ」
ゼリーの器を差し出すと、なぜか頬を丸められる。
「えっと?」
「そこは、あーんでしょう」
「ぶはっ、まじか」
まさかの言い草に吹き出す。でも、なんだかきょうは甘やかしてあげたい気分だったから、スプーンに小さく掬って、巧の前に出す。
「はい、あーん」
「……っ」
「……照れるなら言うなよ」
「……やってくれるなんて、思わなかったんですよ……」
りんごの実みたいな顔をして、カウンターに突っ伏す大学生が、子どもみたいでおかしい。「いらないの?」と声をかければ、瞬きするより速く、オレンジの欠片が消えていた。片方だけ丸い顔と目が合って、思わず、顔を見合わせて笑った。
ぴたり、と巧が笑うのをやめる。スプーンを握る手をそっと包まれた。
「おれがすきなのは、ちゃんとずっと、宮司さんですから」
いきなりそんなことを言われて、心臓が跳ねる。目を逸らそうとしたけれど、向かう視軸の真っ直ぐな引力のせいで、できなかった。
「……澪那ちゃんのこと?」
「……まあ」
先に目を伏せて、巧の手が離れていった。紫乃が相手だから、余計に言いづらいのだろう。
間を埋めるようにコーヒーを飲んだ。蜜の香りが豊かで、微かに甘味が舌に滲むこのコーヒーは、功一がはじめに買ってきたものだ。味が気に入って、なくなっては買い足して、そうして何年も変わらず、棚に絶えないようにしている。
「……さっき、澪那ちゃんに会ったんです」
「え?」
「国中駅で、おれを待ってたみたいで」
胸騒ぎで、ざわざわと肺を揺すられる気がした。平然としているつもりで、自分では見えないどこかが揺れてしまう。
(……弟に彼女ができたら、こんな感じなのかな)
そんなことを、小さくエプロンの裾を握りながら思う。
「連れてこなかったんだ?」
「学校帰りみたいだったので、心配かけるからって」
巧が言葉を切った。珍しく歯切れの悪い物言いに、別れたあとの澪那を気にしていることを察する。
自分を慕って、わざわざ訪ねて来てくれた、年下の女の子を帰してしまったことを、申し訳なく思っているのだろうか。それとも……、おれのせい、だろうか。
巧がみやじ食堂に澪那を連れて来なかったのは、紫乃に見られたくなかったからなのか、と考える。だから、急に改まって「すきだ」だなんて、言うのかと。
――きのう、澪那が告白したとき、動揺しなかったと言ったら嘘になる。
巧は格好いいし、やさしいし、上手に澪那を気遣って、親しくなっていた。欲目なしに「いいお兄さん」だったと思う。でも、それが恋愛感情になるなんて、思わなかった。だって、二人は五才も歳が離れていて……、そこまで考えて、息が詰まった。
(……おれと巧くんは、七つ離れてる)
それでも巧は、紫乃をすきだと言う。
おれは、巧くんが澪那ちゃんにとられてしまうのが、こわかったのだろうか。また、一人になるのが、嫌だったのだろうか。
無条件に自分を思ってくれる人を、ずっとそばに置いておきたい。同じ気持ちを持ち寄れなくても、いつも味方でいてくれる、そんな人を繋ぎ留めておきたい。そう、思ったのだろうか。そうだとしたら、自分の浅ましさに、舌を噛みたくなる。
自分をすいてくれるから、すきになる。拒絶されるはずのないことを知っているから、思うことができる。いつも自分だけ安全圏で、手を伸ばしてもらうのを待っている。そんなの、狡い。
どうしてこんなことを思いつけてしまうのか。こんな、狡い大人になるつもり、なかったのに。いつからか変化を疎んで、自分の保身ばかり考えるようになった。
「宮司さん」
導かれるように顔が上がる。凛とした声音が、真っ直ぐにぶつかってくる。
「澪那ちゃんになにを言われても、なにをされても、おれは宮司さんがすきです。ぜったい、変わりませんから」
自分に言い聞かせる風ではない。言い訳でもない。
真摯に、揺るぎない自信を持って、紫乃に向かってくる。だから覚悟しておいてくださいね、と不敵に笑ったりもする。若い彼の眼差しに、不覚にも胸がきゅうっとした。
忘れていた。巧には、きっとぜんぶ、紫乃の考えていることなんてお見通しで、それでいて、そんな紫乃を思ってくれるのだ。そんな、お人よしな、ばかな子なんだ。一年も前から、知っている。
小さな返事をするのが、やっとだった。巧の真っ直ぐすぎる姿に、目を細める。
(……おれも、ちゃんとコウ先輩に言っておけばよかったかな)
意地を張らずに、愛していると目を見て伝えていたら、功一も、今の自分と似たような気持ちになっただろうか。わからない。でも、不思議と、胸の中を占めたのは、後悔ではなく、清々しい気持ちだった。
前を向けている。確かに半歩、進めている。その証拠みたいだった。
それから、巧と話をしながら夜の支度をはじめた。その間に桃子がおやつを食べに現れて、店内が明るい活気で華やいだ。
講義のこと、教授のこと、友人のこと、学食や購買のこと。紫乃が通り過ぎた時間のことを、瑞々しく語る二人の声を聞いていると、自分がその場にいるような気持ちになれる。彼らと時間を共有できるみたいで、胸がときめく。若返る感覚に、自然と頬が緩む。
用事があるとのことで、桃子は早々に帰ったが、去り際にまた来ると約束していってくれた。
「きょうは学食でお茶漬けを食べたんですけど、お茶の代わりに冷たい出し汁を使ってて、ご飯も玄米ご飯が混ざってて、香ばしくておいしかったんですよ。あ、もちろん宮司さんのお弁当のほうがおいしいんですけど」
「あはは、わかったから。今度、うちでもやろっか、それ」
「ほんとうに? うれしいです! あ、カツとか使って、梅ペースト添えて、付け合わせ洋食っぽくしたら、店でも出せるんじゃないですか? きっとこの時季、人気になりますよ」
「ふふ、そうだな」
巧のはしゃぐ横顔を見ると、微笑ましくなる。
(おれも、歳をとったってことかなあ)
いつの間にか功一の歳を追い越したことに気がついて、吐息と共に苦笑が零れた。笑えたことに、小さく驚き、安堵した。
(ああ、そっか。もう、笑えるんだなあ)
午後八時を回って、客が途切れたところで、店を閉めることにする。
片づけを進めながら、短く震えた携帯電話を確認すれば、麻紀から金曜日の件の詳細が送られて来ていた。巧にも、伝えておかなければいけない。
店からオニオンスープの残りと、蟹クリームコロッケを持ってきて、食卓に並べる。巧が白米をよそってくれている間に、冷蔵庫からサラダと牛乳を出した。
ポチがご飯の匂いを嗅ぎつけて、身体に似合わない俊敏さで、紫乃の足に向かってきた。鼻先を押しつけてねだる背中を撫でて、ご飯を盛った皿を床に置いてやる。巧から茶碗を受け取り、向かい合ってイスに座る。
「いただきます」
「いただきます」
挨拶が重なって、毎回のことながら、ちょっとおかしくなる。紫乃もまだまだ、箸が落ちて笑う年頃を抜けられていないらしい。ポチは相変わらずのマイペースだが、この声を聞くまでは食べるのを待てるようになった。
白米を噛んでいると、きょうもよく働いた、と思う。客が来てくれて、「おいしい」と、料理を食べてくれて、生気を得て帰っていく。そんな人の顔を見るのがすきで、ずっと、続けてきた。
小さな店でも、片田舎でも、人に生気を与えられる場所でいられる。それが今度は、紫乃に、ご飯みたいに元気をくれるのだ。
きっと、世界中のどこの調理場でもいっしょだ。もちろん、神永のホテルだって。
「あのさ、巧くん」
「なんですか?」
「今度の金曜日なんだけど……」
大学の先輩のホテルを手伝いたいと言うと、巧は少し微妙な顔をしたあと、頷いてくれた。彼は、人との距離をとるのが上手だ。紫乃のすることに、過剰に口を挟んだことは、これまでだって一度もない。ただ、気持ちを隠すのが上手すぎて、心配になってしまう。それを聞き出せない距離だということも、わかっているつもりだけれど。
「帰りは遅くなるんですか?」
「いや、八時にはお開きで、片づけも最後までは付き合わなくてもいいみたいだから、そんなに遅くはならないと思う。行き帰りは、麻紀が車で送ってくれるし」
「……助手席には座らないでくださいね」
「残念ながらツーシーター」
「最悪だ!」
わざとだろ、だの、やっぱりむっつりなんだ、だの勝手を言う様子がおかしくて、よかった、とふと思った。巧の本音を聞けてよかった。この距離でよかった。帰って来てくれて、よかった。
「さみしい」と思うことは、孤独とは違うということを、教えてもらった。感謝している。
「じゃあ、ご飯は冷蔵庫に入れておくからね」
「はい」
「鍵は持った?」
「はい」
「もし遅くなったら、先に寝てていいから」
「はい」
「えっと、それから」
「わかりましたから! もう行きますよ、おれ」
「あ、はは、ごめん。行ってらっしゃい」
「はい。宮司さんもがんばってきてください」
「うん」
巧が紫乃の頭にふわりと触れて、駅の方角へ去っていく。年下のくせに、と唇を尖らせつつ、世話を焼くみたいに口出ししてしまったことに鼻頭を掻いた。やっぱり、自分のほうが子どもかもしれない。
麻紀が迎えに来るのは、午後二時過ぎだと言っていた。だから、昼までは店を開けるつもりだった。
きのうも顔を出してくれた桃子に、きょうは食堂にはいないことを伝えたら、話の流れで、「ホテルのスイーツをお土産に」と任務を預かってしまった。
「宮司さん、知らないんですか? クイーンズホテルといえば、とにかくスイーツがかわいくって有名なんですよ」
「そうなんだ」
「はい。レストランで店頭販売もしているらしいんです。前雑誌で見ました」
「へえ、すごいなあ」
「だから、ね?」
「へっ?」
……女子高生のかわいいスマイルに勝てるわけもなく、ちゃんと忘れずにスイーツを調達しなければならなくなった。二十代後半の男が、一人でスイーツを買う勇気を、彼女は知らないのだ。
きょうはメニューを少なめに出す。昼に人気のメニューを中心に下拵えをする。
ホテルのスイーツを参考にして、桃子になにか作ってあげたら、よろこぶかもしれないと思いついて、一人でたのしくなる。
約束の時間きっかりに鈴の音が鳴って、住居のほうから食堂に顔を出す。もうすでに「準備中」の札に差し替えていたから、来店者が麻紀なのはわかっていた。準備しておいたバッグを持って、靴に履き替える。
「わざわざお迎え、ありがとう。助かる」
「いや。三十分くらいかかるけど、トイレは大丈夫か?」
「子ども扱い」
「気を遣っただけだ」
ついつい……、と言う麻紀の頭の中の声が聞こえて、おもしろい。麻紀も釣られたように微かに笑う。麻紀は笑うときも大人っぽく、唇に笑みを載せる。紫乃にはできない笑い方だ。
車に乗り込んで、足元にバッグを置かせてもらう。シートベルトをする間に、隣で眼鏡をかける仕草に気が留まった。
「眼鏡いるんだ?」
「ああ、前の更新でついに引っかかった」
「似合わねー」
「……大きなお世話だ」
意地の悪い親友にくしゃりと髪を掻き混ぜられる。結構な力で押さえられて、こいつでも照れるんだ、とにやけそうになる。わざと揶揄ったのは見慣れない眼鏡姿に、ちょっとどきっとした照れ隠しだなんて、言えるもんか。
その人に出会ったのは、ほんとうに突然だった。
「あっ、こら坊主、キッチンでなにしてんだ!」
「えっ、うわあ!」
いきなり服の襟を後ろから掴まれ、ねこのように捕まえられた。近くにいた麻紀が振り向いてやって来るより早く、背中で声が聞こえる。
「神永さーん! なんか知らない子が入り込んでるんですけど!」
「えー、なんだってー?」
どうやら、イタズラで潜り込んできたと勘違いされたらしい。これでも、ちゃんと腕を見込まれて雇われてきたはずなのに。
コツコツと革靴を響かせて、久し振りに顔を見る神永がキッチンの奥から出てくる。紫乃と麻紀を認めて、「ああ、来てくれたのか」と頷く。彼も変わりないようだ。
「え、神永さんの知り合いですか?」
「そうだよ。おまえ、いつまで掴んでんだ、かわいそうだろー」
「あ、ごめん」
パッと首が解放され、振り向いて相手を睨みつける――はずだった。
「え……」
隣に並んだ麻紀を見ると、同じように驚いた顔をしている。だからやはり、思い過ごしではないらしい。
思えば、声質も似ていたのだ。艶があって、耳に心地よく通る感じ。ただ、あまりにも、話し方が違うから……。
「悪いな、坊主。つまみ食いする悪ガキかと思ったんだ。神永さんの知り合いってことは、きょうは手伝いに?」
「あ、はい……」
かろうじて応えると同時に、肩に腕が回ってきた。神永が紫乃と麻紀を引き寄せて、「ほんと助かるわ」と白い歯を覗かせる。ついでに、目の前の人に二人を紹介する。
「大学時代の後輩。麻紀と、紫乃」
「え、ってことは、歳いくつだよ?」
「今年で二十七」
紫乃が唇を尖らせて言えば、彼は腹を抱えて「おれの一個下? そっちのクールな子はともかく、こっちは見えねー!」と爆笑した。慣れているとはいえ、こんな清々しいまでに笑われると、さすがにくやしい。
ひとしきり笑い終わり、彼は紫乃と麻紀に、一本ずつ手を差し出した。渋々、その手を握る。
「おれはここでギャルソンしてるんだ」
――「宮司昂也(こうや)。よろしくな」なんて言われて、確信した。神永は、この人に会わせたくて、紫乃をここへ呼んだのだ。
瞳だけで肩を組む先輩を窺うと、紫乃だけにわかるように爽やかなウインクをいただいた。
肺の底から湧き上がる深い溜め息を飲み下したことは、言うまでもない。
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