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その5-2

「宮司さん、巧くん!」  数日後の土曜日の昼下がり、賑やかな声がみやじ食堂のドアを叩いた。 「秋名さん、いらっしゃい」 「どうしたんですか、そんなに慌てて?」  紫乃がカウンター席へ促すと、赤い顔をした秋名が礼を言ってそこにかけた。出されたお冷やを一気に飲み干して、満足そうにプハーッと息を吐き出す。それから幾分落ち着いた様子で話しはじめた。 「きのう、娘と家内にオムライスを作ったんです」 「お、どうでした?」  紫乃が明るく尋ねる。秋名の様子からして、上手くいったんだとわかったからだ。 「すごくよろこんでもらえました!」 「よかった~」 「はい! 娘なんて……、あ、澪那(みおな)っていうんですけど、澪那なんて『また作って』なんて言ってくれまして」 「へえ!」  紫乃もうれしそうだ。頬を赤らめて笑う秋名と、自分のことのようにはしゃぐ紫乃を見ていると、巧までうれしくなってくる。笑う顔は、伝染するのだ。 「宮司さん、ほんとうにありがとうございました。あれから澪那も態度が少し柔らかくなって……」 「ちょっと、秋名さん、泣かないでくださいよ?」  巧が冗談半分で口を挟むと、秋名はふにゃりと頬を緩めて、「歳をとると、涙腺が緩くなるんだ」と、鼻をすすった。 「そうだ。巧くんも、ありがとう」  そう続けられて、キョトンとする。巧は、礼を言われるようなことをした覚えはない。紫乃がオムライスを教えるのを、若干涙を飲んで見ていただけだ。 「おれはなにもしてないですよ」 「いや、巧くんが声をかけてくれなかったら、私は今ここにいないよ。それに、巧くんも、手伝ってくれた、感謝しているんだ」  そんな風に言われると、なにも言えなくなる。イタズラで声をかけた。手伝ったことなんて、失敗作の消化くらいだ。返答に困って、隣にいる紫乃を見たら、紫乃はゆっくりと一つ、呼吸と共に頷いた。 「お礼は減るもんじゃないし、もらっておきな」 「ふっ、なんですか、それ」  紫乃には、秋名が巧に礼を言った理由が、わかっているみたいだった。だから、おれはわからなくてもいいかな、なんて思った。きっと、大人に近づいたら、わかること。 「……あの、それで、宮司さんに相談なんですが……」  秋名が左右の指を絡めながら、紫乃の顔を窺う。 「なんです?」 「その、あした、娘と家内をみやじ食堂に連れてきてもいいでしょうか……?」 「へ?」 「事情を話したら、宮司さんにお会いしたいと、家内が言い出しまして……」と聞き、紫乃と顔を見合わせる。 「迷惑、ですよね……、すみません」 「いえ、ぜひいらしてください。おれも、秋名さんのご家族の方に挨拶したいですし」 「そうですよね……すみま、って、えっ、あ、ありがとうございます!」  秋名の顔はころころ変わっておもしろい。「いつでもいらっしゃってください」と微笑む紫乃の顔にリラックスしたのか、秋名もほっと胸を撫で下ろして、家族の話をしはじめた。思わず、くすりと笑む。  巧はこれまで、紫乃の姿ばかりを追いかけて、他の人の顔を見逃していた。すごくすごく、狭い世界の中にいた気がする。  改めて、秋名の顔を見る。そうか、この人は、こういう顔をして笑うのだ。こういう顔をして、家族の話をする人なのだ。見逃していた、勿体ないことをしていた。  紫乃がすきで、振り向いてもらいたくて見つめてきたけれど、きっと、二人きりの世界になったって、さみしいだけだ。だれもいない場所なんて、つまらない。  桃子が、小戸森が、柳瀬がいないと、巧の世界は輝かない。だから、これからは、いろんな人の顔を見たい。大切な、自分の世界にいてほしい人を増やすのだ。繋いだ絆の分だけ、世界は広がって、その分、色鮮やかになる。 「じゃあ、あしたの午後三時に」  と、秋名が入口の鈴を鳴らして帰っていく。「お待ちしてます」と返す横顔は、やっぱり、だれより眩しい。 「宮司さん」  二人きりになったみやじ食堂で、彼の名前を呼んでみる。柔らかい返事が聞こえる。 「すきです」 「……君は唐突すぎて、心臓に悪いな」  ふふ、と息を漏らすと、紫乃も頭を掻いて、口の端を上げた。 (……やっぱり、すきだ)  世界が二人きりじゃなくても、宮司紫乃が一番すきだ。  さあ、夜の準備をするよ、と声をかけられ、にやけ面を自覚したまま彼に倣った。素直に気持ちを伝えられるようになったこの場所が以前前よりも、さらに心地よい。  ――そんなみやじ食堂に嵐がやってくるまで、あと二十三時間。  昼のピークを過ぎて、時計は午後二時半を指していた。約束の時間まで、あと三十分ある。  使用済みの皿をテーブルから引き、皿洗いをしていると、紫乃がキッチンの隅でなにやら作っているのに気がついた。泡のついた皿を置いて、後ろから手元を覗いてみる。 「ゼリーだ」 「わっ、巧くん!」  近づいていたことに気づかなかったのか、薄い肩が揺れて、巧の胸にぶつかった。「ご、ごめん、びっくりして」と、鈍く疼く胸を、紫乃の手が撫でる。 「……それ」 「うん?」 「変な気持ちになるので、ちょっと」 「ばっ、ばか!」  パッと手が離れる。ああ、言わなきゃよかった。  仕方なく自分の手で撫でてから、ゼリー作りに戻った紫乃の、肩から落ちかけていたエプロンの紐を直してあげる。 「あ、ありがとう」 「もしかして、意識してくれてるんですか?」 「違うってば」 「あはは、かわいいー」  ぷくう、という効果音が似合いそうなくらい頬を丸めて、宮司さんはゼリー作りに集中してしまう。子どもみたいで、ほんとうにかわいい。思わず、触りたくなってしまう。  あれから、紫乃に、すきだと言うようになった。今まで腹の中に貯めていた分を、少しずつ渡すようになった。手渡す度に、なんだか胸がくすぐったくなる。ああ、おれ、ほんとうにこの人のことがすきなのだ、と実感する。  叶わない、届かない。わかっている。わかっているから、伝えるわけじゃない。拒否されないから、楽なわけじゃない。  紫乃に、ただ伝えたい。少しずつでいいから、今度は、この気持ちをその胸に貯めていってほしい。いらない分は、捨ててくれても構わない。重い分は聞き流してもらっていい。そうして、いつか、いつか、本心から、新しい気持ちを探せるようになってほしい。  功一のことを忘れてほしいわけではない。大切な人のことを、簡単に忘れてはいけない。忘れてほしくない。巧も、忘れない。それでもいつか、新しい気持ちに紫乃が悩んだとき、思われる相手が巧じゃなくても、頷いてあげられる自分でいたい。  紫乃を思うからこそ、そう感じる。そのために、ここに帰ってきたのだ。  紫乃の手元には、淡い色のついたゼリーが並んでいる。  青、赤、黄、オレンジ、桃、黄緑、紫。幼な子が自由に絵を描いたら、きっとこんな景色になる。店内の照明を浴びて、光の粒がデコレートされる。  いつの間に作ったのだろう。巧の視線に気づいて、紫乃は「ああ、これね」と言いながら、さらに純白のクリームとさくらんぼを彩る。 「澪那ちゃん、こういうのすきかなって思って」  盛りつけの終わったゼリーを見つめる瞳を、愛しく思う。  今なら、わかる。紫乃の作る料理は、温かい。いつか小戸森が口にしたときは、その言葉の意味がわからなかった。小戸森も、余計な説明をしようとはしなかった。  今なら、わかる。紫乃の、人を思う気持ちの籠った料理は、温かいのだ。 「いつの間に?」 「きのう寝る前に思いついて、原液だけ作っておいたんだ。寒天とかは今朝、お店開ける前に作って」  見れば、ゼリーの中に星型の寒天がいくつも浮かんでいる。色とりどりの果物といっしょに、ゼリーの空を泳ぐ。息をつくほど綺麗だ。 「よろこんでくれますよ」 「え?」 「澪那ちゃん」  ぱああっと目が輝いて、「そうかな、そうだといいな」なんて、それぞれのゼリーの上に飾りつけを増やそうとする紫乃の頭を撫でる。照れたみたいな顔が、掌の下から睨んでくる。 「巧くん、最近生意気になったな」 「反抗期かな」 「中学生からだとしたら、長いな」 「それほどでも」 「いちおう言っておくけど、褒めてない」  声を出して笑う。近づいた距離は、互いに感じている。それが、うれしかった。 (大丈夫。必ず、よろこんでもらえるよ)  生意気でも反抗期でも、父親の下着と自分の服をいっしょに洗われるのを嫌がるような子でも、大丈夫。紫乃の料理には、人の心を動かす力がある。巧が、一番知っている。 「巧くんは、何色がいい?」 「え?」 「先に取っておかないと、食べられちゃうかもしれないよ」 「おれの分もあるんですか?」  当然のように頷くから、無意識に黄緑色を指差していた。「だと思った」と、紫乃がそれを自宅のほうの冷蔵庫に仕舞いに行く。それだけのことなのに、堪らなくなってしまう。  紫乃に出会ってから、自分の感情の幅が広がっていくのを、実感する。簡単に言葉にできない思いが、自分の心にはこんなにたくさんあったのだと、驚くのだ。 「宮司さん、ありがとうございます。すごいうれしい」 「ん、よかった」  食堂に戻ってきた紫乃に、真正面から伝えたら、やっぱり温かく笑ってくれた。  ほんとうは、「うれしい」では足りない。もっともっと、溢れだす日溜まりのような気持ちを感じているのに、今の巧の中には、それを表現できる言葉がない。それが歯痒い。けれど、言葉にできなくても、紫乃の顔を見たら、どうでもよくなった。ぜんぶを上手く伝えられなくたって、彼は感じてくれる。共感し、それを素直に、表情で返してくれる。そういう人だ。  約束の五分前に、みやじ食堂の鈴が鳴って、秋名一家が訪れた。 「宮司さん、こんにちは」 「いらっしゃい」  紫乃と近くで話すためにか、秋名は慣れたカウンター席を選んだ。その後ろを戸惑いながら奥方らしき女性と、緩くカールした髪がかわいい女の子がついてきた。カウンターに並んだ三人に、紫乃が麦茶を出す。 「宮司さん。きょうはすみません、無理を言ってしまって」 「いいえ、うれしいです。こんにちは。秋名さんには、いつもお世話になってます。店主の宮司紫乃です」  台詞の後半は女性のほうに向けられていた。会釈をする紫乃に戸惑いながら、「主人がお世話になっております……」と挨拶を返す。紫乃の童顔に驚いているのだろう。高校生くらいにしか見えない相手に、自分の旦那が敬語を使って、気遣うように話していたら、確かに驚く。 「あなたが『宮司さん』……」 「はい」 「ずいぶん、お若いんですね」 「今年で二十七になります」 「ええっ」  思わず吹き出しそうになって、慌てて口を押さえる。厨房に隠れて無音の笑いを吐き出したら、こちらを見もしないで紫乃に蹴られた。ひどい。  互いの緊張も解れて、大人たちが話に花を咲かせる間、澪那が店内をきょろきょろ見回しているのに気づく。話に入れなくて退屈なのだろう。年下相手はあまり得意ではないのだが、このままではかわいそうだ。 「澪那ちゃん」 「え?」 「お腹空いてる?」 「うん」 「ハヤシライス、すき?」 「うん」  小さめの皿に、作り置きのハヤシライスを暖めてよそう。女の子の食べる量がよくわからなかったので、とりあえず茶碗一杯くらいのご飯の量にしておいた。彼女の前に置いて、スプーンを差し出す。受け取った澪那が頬を桃色にして食べはじめる。自分が作ったわけじゃないのに、その表情に、少し胸を張りたくなる。 「おいしい?」 「うん。とっても」 「そっか」  今の中学生がみんなこうなのかはわからないけれど、澪那はすごく大人っぽい。ぱっと見ただけでは、高校生には見える。背も高く、ショートパンツから覗いた脚は、モデルみたいに膝から下が長い。ふわふわとカールを施した髪を胸元まで伸ばしていて、小さな頭によく似合っている。  食べるのに邪魔そうだったので、近くにあったゴムを渡そうとしたら、「それ輪ゴム」と、笑われた。それから、手首につけていたシュシュで緩く髪を束ねた。  長い睫毛が頬に影を落としている。湯気に滲む瞳が、ちらりと紫乃を窺う。 「お父さんにオムライス教えてくれたのは、あの人?」 「そうだよ。宮司紫乃さん」 「……お兄さんは?」 「おれは居候」 「じゃなくて、名前……」 「あ、あはは、ごめん。川辺巧」 「巧さん」 (……なんか、くすぐったいな)  巧さん、なんて初めての呼び名で、変な気持ちだ。そんな巧を揶揄いに来たのか、ポチがのそのそと住居のほうから顔を出した。澪那が「ねこ?」と目を輝かせるから、ポチを抱いてカウンターにまわる。  澪那の隣のイスに腰かけ、ポチのぽっちゃりボディを腿に座らせる。 「ポチだよ」 「……犬みたい」 「よく言われるにゃあ」 「あははっ」  よかった。だいぶリラックスしてくれたみたいだ。  ちゃんと手を合わせてハヤシライスを食べ終え、そのままポチの腹に手が伸びる。ずいぶんと細くて、綺麗な手だ。女の子の手だなあ、なんて思って見ていたら、くすぐったそうに目を細めるポチと目が合った。ポチってば、かわいい女の子に触られて、にやにやしてんじゃあないよ。 「ねえ、ちょっとポチ……、大きくない?」 「澪那ちゃんはオブラートに包むのが上手だね。確かに、完璧これは重量オーバーだ。拾ってきたときは、すごく痩せてたんだけど」 「ほんとうに?」  紫乃がどこからか連れてきたねこは、泥で汚れて、痩せ細っていた。去年の晩夏だった。紫乃に拾われなかったら、おそらく冬を越すことはできなかっただろう。約一年で、めでたくポチは丸々とおいしそうなまんじゅうボディを手に入れた。 「宮司さんが甘やかすから」 「あー、巧くん、悪口聞こえてるからな」 「事実でしょう」 「そんなこと言ってると、そのうち巧くんもぶくぶくに太るぞ」 「おれ、甘やかされてますっけ?」  秋名一家が笑う。つられて笑っている間に、紫乃がカラフルなゼリーの乗った盆を冷蔵庫から出してきた。カウンターの上の段に置いて、澪那を呼ぶ。 「どれがいい?」 「じゃあ、黄色いの」 「はい、どうぞ。口に合うといいんだけど」 「かわいいー! ありがとうございます」  澪那のきらきらした表情に満足そうな横顔を見て、今度はこちらがにやけそうになって、ポチの口を引っ張って、なんとか誤魔化した。  紫乃特製星空ゼリーを、「すごーい!」だの「かわいくて食べるのが勿体ない」だの眺める少女を、かわいいと思う。 (……五歳しか、違わないんだ)  それなのに、澪那を、中学生を、子どものように思ってしまう。じゃあ、七歳も違うおれは、宮司さんからしたら、もっと子どもに思われているのだろうか。少し、落ち込む。  うにゃあ、と、ポチがいきなりねこパンチを繰り出してきた。丸い拳が頬を掠める。 「おい、ポチ、いきなりなにすんだよ」 「ぐう」 「ぐうじゃない。このー!」  ポチの身体をおれのほうに向けさせて腹をくすぐると、ポチは嫌がって床に降り立った。目を細めて、口と鼻を顔の中心に寄せている。「なんて顔してんだよ」と言われているみたいだった。  ポチは、人の感情に鋭いと思う。ねこのくせに、人に構ったり、構ってほしかったり、表情を変えたりする。世話焼きなオバチャンみたいなやつなんだ。だれに似た、なんて、言わなくてもわかる。 「ポチと喧嘩?」 「ううん、『気にすんな』ってさ」  澪那には不思議そうな顔をされたけれど、巧には、にやけたその顔が、確かにそう言ってくれているのだと思った。  一時間半くらい、話をしたり、紫乃が奥方ーー名前は静(しずか)という(柳瀬ならここで「名は体を表すって、ほんとうだったんですね。綺麗なお名前です」なんて気障なことを言うんだろう)ーーに料理のレシピを伝授したり、澪那に礼を言われたりしている間に、窓の外の日が傾いてきたので、お開きとなった。  秋名一家を店の前で見送る。少し前まで、秋名が暗い顔をして帰宅する家とは思えないくらい、三人とも仲がよさそう見えた。 「宮司さん、きょうはほんとうに、ありがとうございました」  静が頭を下げる。どうやら、秋名家は女性のほうが力が強いようだ。慌てて秋名もお辞儀をする姿に吹き出しそうになる。 「巧さん」  改めて澪那に呼ばれて、「うん?」と返事をする。大きな丸い瞳に見上げられていた。  暮れなずんだ空の光が反射して、あの星空ゼリーみたいだ。瞬きしたら、きらきらと儚く零れてしまいそうで、目を逸らせなくなる。 「ちょっと屈んで?」 「え?」 「いいから」 「うん」  理由はわからないが、かわいい中学生の言うことが聞けないほど、巧は厳しくない。腰を屈めて、澪那と目線を合わせる。  ――それは突然だったんだ。と、言い訳しておく。  瞬きのタイミングを狙ったように、ふっと吐息が近づいた。反射的に身を引いた。勢い余って、その場に尻餅をつく。したたかに尻をコンクリートに打ちつけたけれど、痛がることもできないくらい、脳がショートしかけていた。 「み、みみみ……っ!」 「逃げなくてもいいのに」  唇を尖らせる女の子に、目をぱちくりさせる。危なかった、ほんとうに、危なかった。自分の反射神経に全力で感謝する。 (くっ、口と口がぶつかる……というかキスされるところだった……⁉︎)  それにしても、空気が凍るって、こういうときにも使えるらしい。真っ白な顔をした秋名夫婦と、真っ赤な顔をした紫乃が目の端に映る。たぶん自分は、赤いほうだろう。  そんな大人の事情は完全無視して、澪那が目の前にしゃがんだ。かわいい顔が、不敵に笑っている。どこが零れそうだ、儚さの欠片もない。 「巧さんのこと、すきになっちゃった。私と、付き合ってください」  ……宮司さん、『われわれ二人で死の旅にも同時に出る約束を覚えていますか』。なんて。  どうやら、笑えない展開になってきたみたいだ。

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