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働かせてください!(1)

 その後、ラインハルトはユリウスに薬草園を案内してくれた。特に何か会話があったわけではない。でも、ユリウスが気になる薬草を見つけて立ち止まるたびに、殿下も足を止めて急かすことなく待っていてくれた。それだけでも、口数が少ないだけで、心根の優しい方なのだろうと思った。  薬草園を見終わった後は図書室に連れて行かれて、個人では手に入れることのできない薬草の本や図鑑を読み漁っていた。  「迎えが来た」と侍従が呼びに来て初めて、ユリウスはいつのまにか殿下がいなくなっていたことに気が付いた。窓の外の空は橙色に染まっていて、家令(じいや)と約束していた日暮れ前の時間だった。  道中、家令(じいや)は、何も訊いてこなかった。ユリウスの浮かない顔で、何かを察してくれたのかもしれない。  馬車で姉の家に帰り着くと、蹄の音を聞きつけたのか、姉が子供達と一緒に出迎えてくれた。  二つ上の姉は17才で公爵家に嫁ぎ、20才にして2才と0才の子供がいる。2才の長男は姉と手を繋いでいて、0才の長女は姉の隣で乳母に抱かれていた。 「ユーリ、お帰りなさい! どうだった?」  馬車の扉が開くと同時に、姉の弾んだ声が飛び込んでくる。  ひとまず馬車から降りて姉の前に立ったが、期待に満ちたその視線をまっすぐに見つめ返すことができず、目が泳いでしまう。   「あ……、えっと……、第3皇弟殿下のところに行くことになった……」    帰り着くまでは、ちゃんと正直に、選定の儀で誰にも選ばれず、侍従として第3皇弟殿下に仕えることになったことを話すつもりだった。でも、護衛として城門までお供をしてくれた使用人たちにも周りをぐるりと取り囲まれた状況で、どうしても本当のことを言えず、曖昧な表現になってしまった。    姉の顔が、ぱあっと輝く。 「無事にライニ様に選ばれたのね! よかったわ。きっとそうなるって信じていたけど、ユーリは可愛いから、ライニ様の順番が来る前に皇帝陛下や他の殿下に選ばれてしまうかもって心配していたのよ」  喜んでくれる姉の姿に苦い後悔が込み上げてきたけど、謝罪は先送りすることにした。  それよりも気にかかることがあって。 「姉様はラインハルト殿下とお知り合いなの?」  殿下のことを「ライニ様」と愛称で呼んだことから、そう思ったのだ。 「あら。ユーリはまだ知らなかったのね。ライニ様はエイギル様の従兄弟なのよ。エイギル様の亡くなられたお父様とライニ様のお母様がご兄妹だそうなの。結婚式にも来てくださっていたのよ。あのときご挨拶しなかったのかしら」  家の中へと入りたがる息子に手を引かれ、喋りながら姉が歩きだす。ユリウスもその後ろに続き、家の中へと進んだ。  「結婚式」という言葉を耳にし、胸に微かなさざ波が立った。と同時に、殿下のダークブラウンの髪とヘーゼルナッツ色の瞳を見たとき、大昔にどこかで見たことがあるような既視感を覚えたことを思い出した。  もしかして、結婚式のときに会っていたのだろうか……。いやでも、あの髪と瞳の色を見たのは、3年前とかじゃなく、もっと昔のことだったような気がするんだけど……。  何の根拠もないのに、何故かそう思えた。  ラインハルトが姉の結婚式に来ていたのなら、同じ場所にいたわけで、そのときに見かけていた可能性も十分にありうる。  他の日であれば、あれほどの美丈夫なら一度見かけるだけでも記憶に残っていただろうが、あの日に限っては、記憶がぼんやりしていて自分でも自信がなかった。  それに、今日の様子を見ると、向こうもユリウスのことを全く覚えていないようだった。  ――まぁでも、選定の儀で売れ残るようなオメガだし、見かけていたとしても忘れられていただろうな。    最後はそんな自虐的な結論に落ち着いた。 「ご挨拶していたらさすがに覚えているだろうし、ご挨拶しそびれたみたいだね」  と、姉には、当たり障りのない返事を返す。 「もうすぐエイギル様も帰って来られるから、早く着替えてらっしゃい。今日はお祝いになると思って、あなたの好きな無花果(いちじく)のパイも用意したのよ」  いま本当のことを言えば、せっかく用意してくれた無花果(いちじく)のパイが味気ないものになってしまう。いずれは分かることだし、本当のことを話すのはもう少し先でいいかと、ユリウスは自分に言い訳し、客間へと向かった。

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