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怖い、よりも知りたい(8)

 都に来る前から憂鬱と緊張が続いていて、気疲れしているのは確かだった。それに加えて熱の所為もあって、ベッドで横になっていたらいつのまにか熟睡していた。  暑苦しさと、濡れた衣が肌に張り付く不快感を覚え目を覚ますと、カーテンを閉じていない窓の外は、橙色に染まっていた。  もう夕刻に近い時分のようだ。  午後いっぱいベッドの中で過ごしてしまった罪悪感より何より、最初に感じたのは、「マズい」という危機感だった。  体の深部でくすぶっているのは身に覚えのある感覚。それに花の蜜のように甘い香りが部屋中に充満していた。   それを自覚した途端、胸がドクンと大きく脈打ち、鼓動が一気に速くなった。  ――どうしよう。どうしよう。どうしよう。  必死で考えようとするのに、眩暈のようにその言葉だけが頭の中でぐるぐると回るだけで、何も解決策が浮かばない。  唯一理解できるのは、自分が今、発情期(ヒート)を起こしているという事実だけだった。  オメガの発情期(ヒート)はおよそ3か月ごとに来るが、ユリウスの場合は毎回、1、2週間のずれがある。  期間も3日で終わることもあれば、1週間続くこともあった。  今回は予定より3週間も早い。  これほど早かったことは初めてで、まだ先の話だから、近いうちに対策を考えればよいかと問題を先送りしてしまっていた。  それにこれまでは、最初は微かに蜜の香りがし始めて、徐々に匂いが濃くなり、翌日以降に本格的な発情(ヒート)が始まっていた。だからそれまでに水や食料を部屋に運んだり、部屋の外にオメガの香りを和らげる香草を置いたりして、本格的な発情(ヒート)に備えることができた。  熱が出て寝込んでしまったことも、香りと発情が一気にきたことも、今回が初めてだ。それに、発情(ヒート)中、近くに頼れる人が誰もいない状況というのも、初めての経験だった。  ユリウスの家族は全員ベータで、使用人もそうだった。ただ、ユリウスの亡くなった母がオメガだったため、初めての発情期(ヒート)のときから、周りの人間のほうが発情期(ヒート)中のオメガの扱いに慣れていた。    ……どうしよう。これまでどうしてたっけ……。  両親に弟、実家の使用人たちに、姉や姉の夫のエイギル……。  熱に浮かされたような頭に、これまで頼りにしてきた人達の顔が浮かんでは消えていく。  そんな中、都に来てから出会った人たちの顔も浮かんできて、そう言えば、エレナが、かつてはライニ様の母君の侍女だったと言っていたことを思い出した。  彼がアルファということは、その母はオメガの可能性が高い。仮に母君がオメガではなかったにしても、宮殿にいたのなら、オメガの妾を見かける機会もあっただろう。  そう考えたら、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。  実家にいた頃、馬の交尾を見たことがある。  発情期(ヒート)中は、自分が人ではなく、交尾中の馬のように、ただの(さかり)のついた獣になったように錯覚する。しかも、交尾と違って、一度精を放てばそれで終わりではない。発情期(ヒート)が始まってしまえば、人としての矜持すら忘れ、ひたすら自身を慰めて、嵐のように自分の中で荒れ狂う情欲をすり減らすしかないのだ。  そういう、自分ではどうすることもできない、浅ましくて恥ずかしいオメガの習性を知っている人がいることは、今は恥ずかしいよりも心強かった。  少し冷静さを取り戻したら、確かギルベルトが、この家に今はほとんど使っていない、食料を保管するための地下倉庫があると言っていたことも思い出した。  ワーグナー夫妻の部屋は1階で、ユリウスとラインハルトの部屋は2階にある。それほど大きな屋敷ではないし、同じ階であればオメガの香りが彼の部屋まで伝わってしまう可能性が高い。  妾でもないオメガの香りのせいで、殿下に迷惑をかけるわけにはいかなかった。  エレナを呼んで、ひとまず水だけ持って、地下倉庫に避難させてもらおう。  時間をかけて、ようやくその結論に辿り着いた。  のろのろと重い体をベッドから起こしたとき。  コンコンと扉をノックする音がした。 「エレナ様!」  てっきり、エレナが様子を見に来てくれたのだと思ったユリウスは、ドアに向かってそう声をかけた。  だが、外から扉が開き、そこに立っていたのは――。  ラインハルトだった。

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