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初夜(1)

 「どうしよう」が「マズい」という言葉に変わって、再びぐるぐると頭の中を回る。 「熱があると聞いたんだが……。この匂いは、発情期(ヒート)か?」  ラインハルトが部屋の中に入ってくるのを見て取り、ユリウスは起こしたばかりの体を再びベッドに倒し、頭から上掛けをかぶった。 「申し訳ありません! 僕……、発情期(ヒート)を起こしてしまったみたいで……。すみませんが、一度、家の外に出てもらってもいいですか? その間に僕は地下倉庫に行くので!」  上掛けをかぶっているので、足音は聞こえないし自身の声もこもっている。  ただ、ラインハルトが近付いてきていることは、身をもって感じられた。  アルファの『気』のようなものに包まれて、息苦しさを覚える。自分では、怖くて触ったことすらない場所に、切ない疼きを覚えた。  オメガの体が、アルファを求めて発情している。  かろうじて残っている理性は、そんな自分を嫌だと叫んでいる。  妾にすら選ばれなかった人間なのに。何でまだオメガなんだろうと思ったら、やるせなくて涙がこぼれた。 「ユーリ」  頭の上のほうで声がした。  殿下に愛称を呼ばれたのは、初めてに思える。  今朝一緒に馬に乗ったときのことが、今そうしているかのように、鮮やかな感覚として蘇った。  あのとき感じた、殿下の体温や息づかいが、肩越しに蘇る。頭がくらくらして、鼓動が激しく打ちつけているのも、あのときと同じだった。  頭の中で渦巻いていた『マズい』という言葉が、『駄目だ』に変わる。  駄目だ――。  ライニ様。それ以上近づいちゃ――……。 「ユーリ」  と再び呼ぶ声は、耳元で囁かれているほどに近かった。  声だけじゃない。  今まで嗅いだことのない香りが鼻をつき、体中の血が沸騰するような衝撃に襲われる。  『雄の匂い』とでもいうのだろうか。花の蜜のようなオメガの香りとは異なる、動物的なのに甘美で、官能を直撃する香りだった。  ――ライニ様がラットを起こしてる!?  ラットといって、オメガの発情期(ヒート)に煽られて、アルファも同じような発情状態に陥ることがあると聞いたことがある。だとしたらこれは、アルファの放つ、欲情の香りなのかもしれない。  その香りの所為なのか、体がとろけそうなほどに熱くなって、切なく疼いていた場所にとろりと濡れた感触が伝う。  それは、いつもの発情期(ヒート)とは別の次元のものだった。  情欲をすり減らしたいんじゃない。  それ以上に、欲しい。  体が、ただ、アルファの熱を求めていた。  頭から被っていた上掛けが、引き剥がされる。  劣情を宿した獰猛な眸と、視線が絡む。ラットを起こしたアルファの圧は、空気がビリビリと震えるほどのものだった。  それでも、恐怖よりも、求められていることへの喜びを感じてしまうのは、オメガの本能なのだろう。  出会って初めて見る、ラインハルトの欲情した、余裕のない顔が近づいて来る。  ライニ様、駄目です……。そう言いたいのに。  言えなかったのは、喉がカラカラに乾いていたからか、それが本心ではなかったからか――。 「ユーリ、すまない」  彼が言葉を言い終えたときには、唇が触れ合っていた。  なぜ、ライニ様が謝るのか。  悪いのは、発情期(ヒート)がきたらこうなることがわかっていて、事前に対策を講じなかった僕なのに。こういうことをしたくなかったから、妾ではなく侍従にされたのに。  ラットが治まったら、ライニ様はきっと、僕を侍従にしたことを後悔されるだろう。  そう思ったら、酷く胸が苦しくなった。  性急さとは裏腹に、優しく唇を啄まれる。  殿下は少し怖いところはあるけど、魅力的なアルファには違いないから、こういう経験は豊富だろう。騎士は休みの日にはよく娼館に行くと聞いたこともある。  性欲を発散させるだけなら、キスは必ずしも必要ないはずだ。だからきっと、気を使ってくれているのだ。  かつて木陰から覗き見た、姉と初恋の人のキスのような初々しいキスを交わしながら、そう思った。  その根底にあるのは、彼らのような甘い感情じゃない。従兄弟の義弟という立場への配慮と、選定の儀で選ばれなかったオメガに対する同情だろう。  そう考えたら、恋人のように扱ってもらっていることが、なおさら罪悪感を膨らませる。  ライニ様。僕のほうこそ、ごめんなさい。  好きでもないオメガの相手をさせることになってしまって。  心の中で、何度も謝罪した。    歯列をなぞり、その隙間からやわらかな熱が押し入ってくる。  堪えきれずに洩らした小さな悲鳴をも飲み込み、まるで生き物のような(それ)は優しく、情熱的に、ユリウスの舌に絡みつき、口内を掻きまわす。  気持ちよくて。苦しくて。  涙がこぼれた。

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