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第2話 Kiss Goodnight
試乗する気満々で車屋に乗り込んだものの、まともに運転をすることがかなり久しぶりなことに今さら気がついた。インド出張中に1度だけ買い出しのために車を借りたが、交通ルールもあって無いようなもので、それはカウントしない方がいいだろう。
目当ての車種の座り心地やハンドル周りの操作性を確認したところ概ね満足し、実際の試乗は、恥を忍んでヒューゴに頼んだ。
それに、2人で出掛ける時は彼が運転しそうな予感がする。
15分ほどの試乗を終えて感想を聞いてみる。
「座席も視界も広くて、僕は運転し易いと思った」
「じゃあ、これに決めます」
ヒューゴの感想を受けて、おれは即座にそう営業担当に向けて告げる。それでは早速お手続きに、とショールームの中へと案内された。
出されたアイスコーヒーを飲みながら、必要書類を揃えに行った営業さんを待つ。
「ローンを組むのか?」
「うん。そりゃね」
「これは提案なんだが」とヒューゴはアイスコーヒーをテーブルの脇にどかした。「僕と共同で買わないか?半額ずつ出して」
そしてテーブルの上に置かれているおれの手に目線を落とし、角張った親指だけで軽く触れてきた。その触れ方は間違いなく恋人のそれで、ピリリと皮膚に電流が流れるような感覚が心地良い。
「透がこの車を買うのは、僕ら2人で使うためだと思えて……認識が違うならそう言ってくれ。それに、たぶん僕が運転するんじゃないか?」
早々にバレてるな。
「都内住みだと稀にレンタカー借りる程度なんだよ。買ってから練習する」
「僕は車の運転が好きだし、透を隣に乗せていろんなところへ出掛けたいよ。だから、半分出させてくれ。名義はもちろん透のままで」
ヒューゴの提案について少し考えている最中、ふと、思いついた想像に自分でどぎまぎと胸が高鳴る。
この想像は、目の前で「自分で買い替えるより得だし、透の負担も減らせられるし、一石二鳥。しかもエアコンが壊れていない車は涼しいから、三鳥か」と自分のオファーを一生懸命正当化している金髪の男に言っていいのか躊躇するけれど……
車のような生活に必要で、かつ高額な買い物を共同ですることは、どう考えても……
いや、今は言わないほうがいいか。
おれは立ち上がり受付に向かった。「すみません、営業の方に相談があるのですが」
「はい、呼んで参りますので少々お待ち下さい」
すぐに出てきた営業担当に、現金で一括払いに変更したいと訂正を入れた。銀行振込となるらしい。
「審査がなくなる分、早ければ3週間後にはお手元に搬送できるかと」
「ちょうど秋の連休に間に合いそうですね」
おれの合いの手に、「そこは十分間に合います!」と若い営業さんははつらつに保証してくれた。
テーブルに戻り、ローンを取り下げた旨を伝えるとヒューゴはとても満足そうに微笑み
「夏の車と、冬の車ができたね」と言う。
「元々、引っ越しに併せて買おうと思ってたんだ。せっかく都内から離れるんだし。でもおまえと知り合って、買い物だのドライブだの連れて行ってもらえるから、自分の車を持つのは優先度が落ちてた」
「これからもそれは止めないよ?いつでも言って。僕の車でも透の車でも、どこへでも連れて行く」
「まずは運転を思い出さないとなー。ヒューゴに隣に乗ってもらって」
「うん。僕もAT車に慣れておきたい」
「ところで。悪いけど、アイスコーヒーのおかわり貰ってきてくれる?もう受付からの視線が痛い」
「めちゃくちゃ目が合う」
「だろ。行って来いよ。契約に時間掛かるだろうし、話し相手になってもらえよ」
「透がそう言うなら」
「ナンパはするなよ」
からかうおれにヒューゴは冷たい目をして見せ、空のグラスを持って席を立った。
入れ替わりに先の営業さんが必要書類を引っ提げて戻ってくる。
契約を無事終えて、とにかく急いでヒューゴのマンションに帰る。
少しの外出なのにすっかり汗ばんだ身体と、車の窓から差し込む日光で焼かれた皮膚を冷やしたかった。
2人共、少しでも汗をかくとシャワーを浴びたい性分だ。こんな暑い日はじゃんけんで先行を決めるのだが、負けたのが悔しかったらしいヒューゴは「次はバスルームが2つある部屋にする」と言いながら浴室に消えた。
先にさらりとした状態に戻れたおれは、さて、とソファに陣取る。
今までは、土日と、たまの3連休の最大3日間しか共に過ごしたことはないはずだ。これから1週間少々、ここでヒューゴとのんびり過ごせるなんて、まるでどこか南国のリゾートホテルに来ているみたいな、開放的な気分。
ストリーミングサービスから、古いSFドラマを再生する。少し前にリマスター版の配信がされたが、休みにまとめて観るつもりで取っておいたんだ。
「へぇ、いいね」とおれの選択に賛同しながらリビングに入ってきたヒューゴを見ると、2週間前に比べて、少しだけ元の体型に戻ってきたようだった。
まるで皮膚が筋肉に張り付いただけのようなあまりの絞りっぷりは外国のプロモデルのようだったが、さすがに人工的すぎだった。
元はと言えば、おれがインド出張中に音信不通になり、過度に心配を掛けてしまったせいだ。食べていないだけじゃなく、水分も取っていなかったんだろう。
身体を撫でると、軽く抱き寄せてくれる。水シャワーだったのかひんやりした皮膚がとても心地よく。いつものフレグランスが微かに香る。
しばらく2人で映像を観ながら、ヒューゴは時折ドリンクを作ってくれたり、電子書籍リーダーを手に読み始めたりと、隣で好きなことをしていた。
今のヒューゴとの空間や時間は、今まで経験した寮の共同生活や、過去の恋人とのものは全く異なる。
お互いの存在に幸福を感じながら、過ぎゆく時間に感謝している。
おれはこれが生涯続けばいいと思う。いや、希望じゃないな。生涯、続ける自信がある。
それは前から薄々感じていた、一緒に居ない時間に抱く違和感や喪失感にも現れている。それに、さっき車のディーラーで浮かんだ想像にも影響されていて。
ヒューゴが用意してくれたフィンガーフードで、夕飯という名の晩酌をする。
半分に切ったゆで卵の黄身の代わりに、塩辛い魚卵が入ったものがとても気に入った。
「これキャビア?」
ヒューゴは横目でおれに一瞥をくれ「偽キャビア」と言った。そうだろうな。本物だとしたらこの量で数万円はするだろう。
「すごく美味しい。下にあるのは黒パンでしょ?店でもパーティの時に使うよね」
「プンパーニッケル。魚に合うんだよ」そう言ってヒューゴは小さくロール状に巻かれた魚の切り身が乗ったものを指さした。
「こっちはニシンのマリネを乗せている。意外かもしれないが、北方は日本よりも癖のある魚を食べるんじゃないかな」
「どこだったか、うなぎのスープを勧められたことがあって」
「ハンブルクだろ?行ったことあるの?」
「前に出張で」あれはハンブルクだったのか。ホテルと職場と空港しか記憶にない弾丸出張だった。この間のインドといい、おれ、こんなのばっかりだな。
「最終日に、せめてなにか現地らしいものを食べたいと思ってホテルの受付で尋ねたんだよね。店も教えてくれた」
「美味しかったか?」
すぐさましかめっ面で答えたおれを見てヒューゴは声高く笑い、「日本のうなぎを知っていたら、食べられないだろ?」と肯定してくれた。
生臭いなんてものじゃなかったからな。うなぎの種類も違うんだろう。
「秋になったらサーモンのスープをごちそうするよ」
ヒューゴは、食べ物でも、おれに未来の楽しみを与えてくれるようだ。
美味い肴で、酒もほどよく進む。
軽くSFドラマの続きを見て、きりが良いところで停止ボタンを押す。当時、一世風靡しただけあってストーリーに引き込まれる。しかし、人気がありすぎたせいで酷く引き伸ばされ、後になるほどに評価が落ちたという批判でも有名だった。
時計を見ると、まだ日付が変わる前だ。
こんなに早い時間に視聴をやめることは今までの週末ではありえないからだろう、ヒューゴが少し心配そうにこっちを見てきた。
「もう眠いの?」
「いや、せっかくの長期休暇だから」いえども1週間程度だが。「昼夜逆転するともったいない」
「はは、突然健康的なことを言うね。明日は泳ぎにでもいくか?」
「それもいいね。あと、少し長く寝たい。今夜はベッドに行っていい?」
ヒューゴはおれを抱き寄せ「透がそう言ってくれるのを待ってたよ。今夜だけ?それともずっと僕の隣で寝てくれる?」とそっと耳元で囁いた。
あ、また……。昼間の車屋での想像が頭をよぎる。こいつ無意識なのか。
「ずっと」
おれはまだ照れが残り、簡潔に答えて早々にベッドへ行った。寝ている間もヒューゴに触れていたい。
「透」
呼ばれてハッとなる。パイル地のシーツがさらさらと心地よく、ついベッドの真ん中に陣取ったまま寝てしまったようだ。
「ごめ……」
上体を起こし、おれは思わず息を飲んだ。ボクサーしかつけていないヒューゴの、薄明かりに照らされる金色の肢体。こんな美しい生き物が居ていいのか、と目を疑う。
「透?」
「ああ、ごめん。見とれてた。もうちょっと見せて」
ヒューゴは大げさにため息をついて、「好きなだけ見せてやるよ」と上体をこちらへ向けてくれ、その言葉と仕草の荒さに胸が鳴った。
「でもあまり褒めるな」
「だって本当にそう思うんだから仕方ないだろ」
「透さ、」
ヒューゴはベッドの端に腰掛けると、おれの手を掴んで自分の胸へ押し付けた。
トントンと力強い鼓動が伝わる。「分かる?」
「うん、強くて早い」
「まだ僕をあんまり挑発しないで。いい?」
手が触れているヒューゴの肌が吸い付くように滑らかで、おれは急激な眠気に襲われ、どさりと仰向けに横たわる。
ヒューゴが躊躇する理由はなんとなく想像できるけれど、おれはか弱いわけでも、不安感があるわけでもない。
「Good night」とヒューゴが呟き、額にキスを落としてくれると、麻酔が効いたみたいにすっと眠りに落ちてしまった。
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