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第3話 星の下での約束
「うん、火曜。夕方頃だね」
身体に直接振動してくる低い声に起こされる。ベッドに寝転んだままで、ヒューゴがだれかと電話中だ。
「そう。さすが話が早いねケイ」
ああ、たしか諒子さんの彼氏の名前だな。
「リョウによろしく言っといて。何も持ってこなくていいから。じゃ」
ヒューゴは腕を伸ばして携帯を窓際においた。
「もっと喋っててよ。声が伝わって気持ちいいから」
おれが起きていることに気がついて無かったらしく、ヒューゴは一瞬固まって、「寝てろ」とぶっきらぼうに言う。でも少し照れた様子でそっとこめかみにキスをしてくれる。
「今日も晴れてるよ。泳ぎに行くかい?」
ヒューゴは寝転んだままでおれを胸に抱き寄せた。リクエスト通り、少し喋ってくれるようだ。
「そうだなぁ。行くとしたら川がいいかな、涼しそうだし。どこか知ってる?」
「ああ。子供の頃、毎年のように父がキャンプに連れて行ってくれた場所がある。小さな滝があって、いつも僕らしかいなくて、当時はとても涼しかったな。夜になると焚き火をして……。スモア、聞いたことがあるかもしれない。マシュマロを焼いてね、チョコレートと一緒にクラッカーで挟むんだ。父がホットサンドメーカーで焼いてくれるんだけど、それがとても重くて僕には持てなかった。
一度、父も僕もサンオイルを塗り忘れたことがある。2人とも大火傷しちゃってね。真っ赤になって服も着れないほど。帰宅したの時の母の叫び声がいまだに耳に残ってるよ。懐かしいな」
楽しそうな情景がありありと思い浮かんだ。
緑の木立に、きらめく水面に、滝から生み出される涼しく澄んだ空気……スモアか、食べてみたいな。それに、焚き火の爆ぜる音や川音を聞きながらヒューゴとゆっくりできたら……
「うちに寄ってよ。水着とか、取りに行かなきゃ」
「無理に出掛けなくてもいいんだよ?暑いからね」
おれの声に眠気を感じ取ったのか、ヒューゴが気を遣ってくれる。
「いや、おまえと自然の中でのんびりできたらって、考えてただけ」
「そうだな……1泊か2泊してもいいと思わないか?道具が足りなければ道中で買えばいい。うん。泳いで、ちょっと良い肉でBBQして、焚き火を見ながら酒を飲んで……」
おれは飛び起きた。なんて名案だヒューゴ。
「行くぞ!」
どうせ野営するんだからと、おれたちは最低限の身支度と、とにかく思いつく物をかき集めて駐車場へ降りた。
「ああっ、車のこと忘れてた」
駐車場全体に熱風が籠もっている。
「ロードバイクで行くより1000倍マシだろ。この車にも1つくらい夏のキャンプの思い出を残してやってくれ」
「本当に最後だぞ、夏に出掛けるのは」
そうヒューゴの車に言い聞かせ、熱湯のような車内で煮えながらおれのマンションへ向かう。
水着やら手持ちのソロキャンプ用のギアを適当に集め、残りは街道沿いにあるアウトドアショップで調達だ。
「夏なんて蚊帳とマットさえあればどうにでもなる」と野営大国スウェーデンからきた男に言われるが、地面が熱いことを考えて外国製の大きいコットを2つ購入する。
小物や消耗品を雑多にカートに入れていると、「あ、これだ」とヒューゴが調理器具コーナーで立ち止まり、周りの同じような商品より一回りほど大きいホットサンドメーカーを手に取った。
柄が長く、手持ち部分が木でできている。全く同じ、懐かしいな、と呟きながら眺めている。
どれどれ、とおれが手を出すと、ひょいと乗せてくれたが、衝撃に「うお」と声がでてしまう。腕が床に向かって下りるほどずっしり重い。
「……ここまで重いとは。焚き火の上でこれをホールドするのは辛い」
「もし僕がこれを扱えれば、透にかっこいいと思ってもらえるかもしれない」
「そうかもな。『ダディ』って呼んでやろうか?」
男らしさと言えば、と何気なく思いついてそう言うと、グッ、とヒューゴが喉を鳴らしてピタリと止まった。
「なに?」
「透君ねえ、外でそういうこと言わないの」
「なんでだよ」
「……後で説明する」
そう言うとヒューゴは鉄の塊のようなホットサンドメーカーをおれの手から取り上げて、ちょうど同じ場所に置いてあったジャンボマシュマロも一緒にカートへ追加した。
レジで会計をしながら店員さんに場所について尋ねると、ヒューゴが記憶している場所は、穴場として一部のソロキャンパーに知られている程度だそうだ。
「まだキャンプができることが分かってよかった」
食材の買い出しへ向かう車中でヒューゴがそう安堵した。
「もしダメでも、店の裏庭でいいじゃん。ビニールプールに浸かりながら酒を飲む」
「透はいつもいいことを思いつくね。それもやろう。初めてだよ、このクソ長い日本の夏を嬉しく思うの」
珍しく汚い言葉を使うほど毎年暑さに堪えているんだろう。
車は、モールに併設されている大型スーパーの駐車場へと進入する。
「ところで、さっきの『ダディ』ですが」とヒューゴが固い口調を作る。「透は、お父さんみたいな感じ、の意味で言ったのはわかる。でも、それだけの意味じゃないんだ。
恋人同士においては、場合によって——たとえばセックス中に相手のことをそう呼ぶんだよ。だから、透にそういうことを言われると……想像してしまいそうになる」
なるほどねぇ。スラングは難しいな。
「言われたこと、あるんだ?」
「まあ……僕はほら、主導権を握る側だからね」
「なのに、なんでおれにはそんなに奥手なの?」
「奥手?」ハッとヒューゴは笑い飛ばした。「僕がキミにどんなことをしたいと思ってるか、知らないだろ?」
「知ってる。おれ、ネットで調べたから」
ものすごくバカに聞こえることを言ってしまったが事実だ。
「へぇ」とヒューゴは目を細めて見つめてくる。「どう思った?」
「全部して欲しいと思った」
「う……ほんと勘弁して」
「おれにもそう呼んで欲しい?英語、ちゃんと練習しようかな」
「マジメな英語の練習ならいくらでも付き合うよ」
などと、あーだこーだ言いながら、おれたち2人とも楽しみに沸き立つ気持ちを隠さず早く早くと食材や酒を調達し、買ったばかりのクーラーボックスをいっぱいにした。
車はそこから1時間半ほどで山間へ、左手に川を見ながら曲がりくねったカーブを丁寧に進んで行く。
道路の舗装がなくなりしばらくすると、川の方へ下りる細い山道があるようだった。よほど注意していないと見落としてしまいそうなほど草木に覆われている。
「確かここから川へ出たと思う」とヒューゴはゆっくりと坂を下る。
何度もこいつの運転に頼っているが、よく道を覚えているし、どんなに混んだ駐車場でも自分の駐車場所を見失わない。
以前に秘訣を尋ねたことがあるが、『一度でも訪れると、自分が地球のどこにいるのかが衛星写真のように記憶されるだろ』と当たり前のことのように言われ、おれはその非常にアンドロイドな返答に爆笑してしまった覚えがある。
たぶん頭も相当良いんだろうな。
ガタガタと河原を進み、木陰に駐車する。
「一度降りて、場所を決めよう。昔と同じ場所が……」
「滝だ!」おれはヒューゴが言い終わらないうちに急いで車を降りる。
「気をつけろよ」との声を背後に、ごうごうと音が鳴る方へ駆け寄った。
側に寄ると、気化熱で澄んだ空気が冷ややかですがすがしい。
足を冷たい水にひたしていると、小魚が寄ってきて足首をつつく。
くすぐったさに笑い声を挙げていると、「場所決めたよ」とヒューゴが車の方から声を掛けてくる。手伝おう振り返るが、すでにタープなどの大物は運ばれており、あとは立てるだけのようだ。
タープには買ったばかりの2台のコットを並べ、端に置いたナイトテーブル代わりの薪木の上にランタンを乗せる。小さな寝室の完成だ。
「居心地よさそう」
おれが眺めながら言うとヒューゴは外から蚊帳を閉め、「初夜にちょうどいい」とこちらを向かずに言う。
「え!?今夜?外で?」
「初めてのキャンプの夜、って意味だ。でも、透が何を想像したのかあとで教えて」
くそ、今度はおれがからかわれたか。
ヒューゴの脛を軽く蹴る素振りをすると、「透のそういうところ、どうしようもなくかわいい」と呟き、手で両目を覆いながらクックックと笑っている。どんな顔して言ってるのか見てやりたい。
「泳ごうぜ。浮き輪買ってなかった?」
「その前に、焚き火の用意だ。すぐに火を起こせるようにしておかないと、身体が冷えるだろ」
おれは特大サイズの浮き輪を膨らますことに専念し、キャンプのあれこれはすべてヒューゴに任せることにした。
滝壺のあたりは深さはあるが流れは穏やかで、おれとヒューゴはそれぞれ浮き輪の上に座り、ビール片手にプカプカと涼風を楽しむ。
鼻から思いっきり息を吸い込むと、ただのビールが極上の味に変わる。自然は一番の調味料だとか聞いたことがあるが、本当にその通りだ。ここなら何も乗せていないクラッカーですら美味しく感じるだろう。
滝からの飛沫が虹を作っていて、黒い岩面とのコントラストが美しい。
少し離れたところで浮いているヒューゴは、同じようにボトルを片手にサングラスを掛けて、水面でボーッとしているだけなのに、まるで虹のミストシャワーを浴びている森の精霊のようだ。
「おまえ今、不良エルフってかんじ」
「不良ガイジンじゃなくてよかったよ」
そう言いながら空いている方の手をオール代わりにして、おれの方に寄ってくる。
「なあ、透」
「ん?」
「毎年来よう、2人で」
「大賛成」おれはビールのボトルを掲げてみせた。
ヒューゴがまた、おれの未来の予定を埋めてくれる。予定はこれからも少しずつ増えて、何年も何年も続いて行くことをおれは確信できる。
「好きだよ、ヒューゴ」
不良エルフは「浮き輪がジャマだ」と、座った体勢からドボンと勢いよく川に飛び込み、おれの浮き輪を掴んだ。
「沈む!」まだ中身が残るボトルを死守したせいでバランスが取れず、身体が水中へ落とされてしまった。
ヒューゴは半分水に浸かっている唇そのままで、軽くキスしてくる。「本当に奇跡みたいだ」そう呟いて、2度目のキス。
「身体が少し冷えてるね」
筋肉質な森の妖精はボトルと浮き輪を片手で持ち、もう片方の腕でおれを抱き寄せると、ぐいぐいと河原の方へ引っ張っていった。なかなか力強い精霊じゃないか。
出会ってすぐに、酔い潰れて寝たおれを家まで連れ帰ってくれたことを思い出した。
記憶はないが、あの時もこんな風に自転車とおれを抱えて行ったんだろうと、今なら想像できる。
陸に上がると、昼間は谷間に反響するほどにぎやかだった蝉の声が少しだけ収まって、空気に夕方の匂いが混ざり始めている。
「焚き火とグリルは任せて。あとで、お湯を沸かして軽くシャワーにしよう」
おれはラッシュガードを脱いでタープから近くの枝へと伸びるロープに掛ける。
すでに火は付いていて、ヒューゴが即席で作った岩のかまどにはグリル網が乗せられている。
ずいぶん慣れた様子だ。
「おまえがいれば遭難しても生きていけそう」
「見直した?」
「惚れ直した」
思ったまま素直に告げたのが響いたのか、「肉の美味しいところは透にあげる。日が落ちる前には焼ける」とヒューゴは照れを誤魔化すように火かき棒で炭をならした。
BBQで満腹になったあと、夜の川は怖いね、と言いながら、川面側へせり出している巨大な岩の上に寝そべって夜空を眺めた。
ヒューゴがキスをしてくれる。優しく、深く。
「好きだよ」と何度も囁きながら。
そっと目を開けると、たくさんの星がこちらに向かって微笑んでいるかのように瞬いていて、まるで、空が、自然が、ここにある全てが受け入れてくれているような気持ちになる。
「嬉しい」
思わずそうつぶやくと、「僕も」とヒューゴがおれの目尻に溜まった涙を唇で吸い取った。
愛している、と初めて思った。
ヒューゴの思い出の場所が、おれの思い出の場所にもなることが喜ばしい。そしておれの思い出も、未来も、すべてヒューゴと共有し、共鳴していきたい。
この気持ちに間違いは無い。
それから流れ星を2つほど見送り、おれたちは焚き火へ戻った。小さな温かみが丁度良い。
チェアを並べ、それぞれのステンレスのカップにワインを注ぐ。デザートタイムだ。
ヒューゴは手首が折れそうなほど重い鉄のホットサンドメーカーをいとも簡単に駆使して、スモアを作ってくれた。おれがふざけて『ダディ』と呼ぶと、いつものように鋭い横目でちらりとおれを見て、いつもには無く口角を上げた。
それだけで、身体の温度が急上昇するような色気を発していて、おれは急いで眼の前のスモアに集中せざるを得なかった。
焼いたマシュマロは表面がカリッとして、中身はとろとろで、それがチョコレートと混ざりグラハムクラッカーをしっとりとさせる。まるで小さなケーキだ。マシュマロが甘いからと、ヒューゴがあえて苦いチョコレートを選んだのは正解だな。
とろけるチョコレートが指に付くが、構ってる場合じゃない。床は屋外だし多少垂れてもいいだろう。
「透は、僕にどんなことをして欲しい?」
ヒューゴはおれの手を取ると、指についたチョコレートを一本ずつ、ゆっくりと舐めとった。おれには煽るなと言うくせに。仕草から、恐らくそういう行為での、希望を聞いているんだろう。
意識すると余計に、舐め取られて吸われる度に、背筋に甘い刺激が走る。
「どんなことでもいい?」
「もちろん。なんでも話して」
「こういうことされたら嬉しいだろうなって思うことはあるよ」
「たとえば?」
「おれ、ヒューゴに抱かれたい」
「本当に?でも……」
おれは目を伏せ焚き火をみる。
「ごめん、変なこと言った。嫌なら……」
「そんなわけない!」ヒューゴが慌てて否定してくれ、安堵する。「否定したように聞こえたら悪い。ただ、透の勇気に感心した。身体に大きな変化を与えることになるから……きっとすごく大変なことで、透が辛い思いをするかもしれない」
「あのさ」とチェアを動かしてヒューゴの真正面を向く。
「おれは、まさに『ヒューゴに』おれの身体を変えて欲しい。おまえを身体の中に入れることができるようにして欲しいって頼んでるんだ」
ヒューゴの喉仏が動くのがありありと見える。
想像して、ヒューゴ。おれとどんなふうに愛し合うか。未熟なおれに全部教えて。
「透がそう思ってくれることが、例えようもなく嬉しいよ……。気持ちが通じただけでも奇跡なのに、こんな風に、愛し合うことについて話ができるなんて。
じゃあ、時間を掛けて、透の身体を僕のものにしていく。いいね?」
「いいよ。でも急いで」
おれの返事を受け、ヒューゴはポケットから携帯電話を取り出した。
「はい、これ。僕はクリーンだから、参考までに」
画面を見ると、性感染症の陰性証明書だった。つい最近の発行日だ。
「おまえがヨーロッパ人だったことを久しぶりに思い出したよ。ちゃんとしてるなあ」
「パートナーに対して当然のことだ」
「ちょっと待ってて」
おれも携帯電話を取り出し、春に受けた検診センターのサイトへアクセスする。
ここで検査結果が見られるからだ。30歳代に突入したことをきっかけに全項目の血液検査をしたんだ。その時には、こういう場面で利用できるとは想定していなかったが。
……よかった、だいたいの感染症は項目に含まれている。
「おれも」
「まあそうだろう、お互い、奥手で真面目だからな」
「おれも?」
「そ。1年間、僕のスキンシップに反応してくれなかっただろ」
言われてみれば、ただ耐え忍んでいたな。
指摘すると、やめられそうで。
デザートとワインの宴を夜半頃に終え、ヒューゴが用意してくれた簡易的なシャワーで軽く身体を流すと、漆黒の川から上ってくる夜風がさらりと肌を撫でた。川の苔の香りが青々として、すっきりと心地よい。
焚き火を消してヒューゴがタープの蚊帳を開き、ランタンを灯す。そろそろ寝る時間だ。
「まさか、本当に初夜がここじゃないよね?」と念のために確認する。
「するわけないだろ。ま、来年はどうかわからないけども」
そう言ってヒューゴは横になると、おれのコットの方へ伸ばした腕を置いた。
「人影もないし、抱きしめて眠るくらいはいいだろ。おいで」
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