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0.プロローグ

   ゴミ箱の縁を掴んでいた手の甲に、ぽつと、濡れた感覚があった。  雨かと思い顔を上げると、曇り空がその欠片をこぼすように、鈍色の雪を降らし始めていた。  どうりで寒いわけだ。  繁華街に程近いこの公園にも、人の姿はほとんどない。  残飯欲しさにゴミを漁る自分と、ベンチに座る学生服の男くらいか。  雪がひどくなるか、雨に変わるかする前に早く戻ろう。  壱弥はかじかむ手を、さらにゴミ箱の奥に潜り込ませた。実のない感触ばかりだった指先に、弾力を感じる。  薄い紙に包まれたそれは、食べかけのハンバーガーだった。一口か二口食べただけらしく、ほぼ丸々形が残っている。  思わず頬が緩み、口の中に唾液が広がった。クンクンと鼻を近づけ、匂いを確認する。肉や油、ケチャップやマスタードの中に、わずかに()えた匂いが混じっているけれど、大丈夫だ。まだイケる。  嬉々として齧り付こうと、大きく口を開けた。 「食べちゃだめ」  今日の凍える空気によく似た、凛とした声が響く。  “あ”の形に開いた口もそのまま振り返ると、学生服を着た少年が壱弥の後ろに立っていた。  さっきまでベンチにいた男だろうか。  張りのある、上質そうなダッフルコートの下に見える紺色のブレザーとチェックのパンツは、この辺りでは有名な名門附属中学の制服だった。首元には、シミや毛玉なんて一つもない、まるで新品のようなマフラーが巻かれている。 「お腹こわすよ」  言葉を続ける少年を、壱弥はただ呆然と見つめることしか出来ない。  十歳の壱弥よりもいくつか年上であろう彼は、見るからに裕福で、育ちが良さそうで、そしてとても綺麗な顔をしていた。  長いまつ毛に縁取られた大きな目と、すらりと高い鼻、桜色の形いい唇が、小さな顔に絶妙なバランスで配置されている。艶やかな栗色の髪には、舞い落ちた雪がキラキラと光る。  ――バルドルみたいだ。  以前読んだ、世界神話をまとめた古い本。その挿絵に描かれていたバルドルという名の、美と光の象徴として崇めらる神様に似ていると思った。 「これ、あげる」  そんな、神のように美しい少年が、自分の鞄から紙袋を取り出す。はい、と差し出されたその袋には、サンドイッチが二つ入っていた。野菜やハムなどの具材がぎっしりと詰まった厚みのある断面に、喉が鳴る。 「だから、それは捨てようか」  壱弥の持つハンバーガーに、少年の目が留まる。いつもなら、こんな上等な戦利品を手放すなんて考えもしない。  けれど、彼が「捨てろ」と言う。  壱弥はためらうことなくハンバーガーをゴミ箱に放った。  伺うように視線を送ると、彼は微笑みながら小さく頷いてくれた。  飼い主からの許しを得たみたいに、貰ったサンドイッチにかぶりつく。 「……君、親は?」  頬を膨らませ夢中で食べる壱弥に、少年が尋ねる。 「……いない」  短く答えると、少年は驚いたような表情を浮かべ、「そう」と呟いた。 「これ……もう一個も、食べていい?」  あっという間に分厚いサンドイッチを平らげ、残りの一つも袋から取り出す。 「いいよ。座って食べようか」  少年は壱弥をベンチに座らせ、自分もその隣に座った。 「美味しい?」  尋ねられ、ぶんぶんと首を縦に振る。  普段は、傷んでいないまともな物を食べられただけでラッキー、という生活だ。だからこんなに美味しいサンドイッチは、まるで知らない世界の食べ物みたいだと思う。 「今年の冬は、寒くなるらしいよ」  壱弥が瞬く間に二つ目のサンドイッチも食べ終えた時、少年が立ち上がった。  彼は自分のマフラーを解き、壱弥の首にふわりと巻きつけた。  不意に訪れた柔らかさと暖かさに、目を見開く。甘い香りがして、頭の芯がぼんやりと痺れた。 「風邪、引かないように」  驚きで声が出ない壱弥にそう言って、少年は背を向ける。背筋のしゃんと伸びた後ろ姿は段々と遠ざかり、視界から消えてしまった。  公園には、壱弥だけが残された。  色を濃くした空からは、雪が降り続いている。  首元の柔らかさに触れた。  ぬくもりと甘い香りはじわじわと全身に広がり、壱弥は雪の中、動くことも出来ずにただ立ち尽くしていた。    

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