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発情を起こす本能を、また違う本能が拒絶している。不完全な自分が、自分自身を苦しめているみたいだ。
二、三度吐いて、トイレにしゃがみ込んだ。涙が滲み、視界がぼやける。
『オメガだからこそ出来ることがある』と声高に掲げているくせに、自身のフェロモンさえ身体が拒否する。
オメガという性を受け入れられない自分を、ヒートの度に思い知らされる。
それなのに、バース性に囚われない世界を作りたいなんて。
出来るわけない。
アルファじゃない、不完全で、弱い存在である自分に、出来るわけない。
――ああ、嫌だ。苦しい。
ヒートの間は胃液を吐き続けて、トイレにうずくまり、朦朧とした頭はネガティブな思考ばかりがぐるぐるまわる。
カラーが予定よりも早いヒートに反応して、アラートを鳴らしている。
その音も遠く聞こえる。
は、は、と浅い呼吸を繰り返しながら、重い手を首へ伸ばして警告音を解除した。
「響」
名前を呼ばれ、背中に温かさを感じる。
「水飲める?」
振り返ると、響の背をさする壱弥がいた。
ペットボトルを、蓋を開けた状態で差し出している。
それを壱弥の手ごと受け取り、ほぼ飲ませてもらっている状態でボトルを傾けた。
喉元に纏わり付いている嘔吐感が、少し落ち着く。
触れる壱弥の体温と匂いが、熱くて冷たくてどうしようもない毒の回った身体を楽にしてくれる。
初めて会った、あの地下鉄の時のように。
「壱弥……俺、ヒートに……なったと思う。症状が、ちょっと違うんだ……普通と……」
「うん。響、辛かったら喋らなくていいよ」
頷いて、目を瞑る。
「壱弥、……ここにいて」
荒い息の合間に、気づけばそんな言葉がこぼれた。
「うん」
壱弥が響の身体を支えるように、後ろからそっと抱き締めてくれる。
心身から、力が抜けた。
相変わらず鼓動は早く息苦しいし、身体は熱さと悪寒に震えているけれど、胃を刺すような吐き気は治まりつつある。
少しの間、そのままの姿勢で壱弥に抱えられていた。
ヒート中にアルファに身体を預けるなんて、壱弥でないとあり得ない。
壱弥は特別だ。壱弥だけは。
だって壱弥は俺の……、
――俺の?違う、壱弥はF・アルファだから、そう、だから、……特別。ずっと、特別だった――
つらつらと、まとまりのない考えが浮かんでは散らばる。
それは一つとして形にならないまま、思考の奥に沈んでいった。
ミネラルウォーターを全て飲み終える頃、トイレを出られるくらいに嘔吐感は消えていた。
「響。部屋行けそうなら、ソファに座った方が楽だよ」
「……うん。……その前に、顔洗いたい」
本当は風呂にも入りたかったけれど、体力的に無理そうだと諦めた。
壱弥に支えてもらいながら、なんとか洗面所で顔を洗い口を濯ぐ。
気分は少しさっぱりとしたけれど、高熱を出した時のような奇妙な浮遊感に襲われ、うまく歩けない。
覚束ない足取りの響を、壱弥が軽々と横抱きにした。
応接スペースではなく、壱弥の使っている生活部屋のベッドに下ろされる。
「着替えて、今日はここで寝ようか」
部屋の中は、壱弥の匂いをより強く感じた。
着替えさせられた部屋着も、寝かされたベッドも、布団も、全て壱弥の匂いがして、響は深く呼吸をする。
攻撃的に身体を支配していた熱や、乱暴に強く打っていた鼓動がゆるやかに凪いでいく。
「……壱弥」
続く言葉もないのに、口からはただその名前が漏れ出た。
「……俺は、フェロモンに反応しないから、大丈夫だよ。安心して、眠っていいよ」
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