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 壱弥が『それ』に気づいたのは、プレスイベントと港区の会社での打ち合わせを終え、その後訪れた半導体製造メーカーの会議室の中だった。数人の社員と響が向かい合い、打ち合せを行っている。 「――すいません、失礼します」  響の後ろに控えていた壱弥は、強引にその打ち合せに割って入った。話が途切れるタイミングなんて待っていられない。緊急事態だ。  身体を寄せ、響にだけ聞こえるよう耳元で囁く。 「響、ヒートが始まりかけてる」  響が目を見開き息を飲んだ。 「……間違いない?」  その目は間違いだと言ってくれと訴えている。けれど壱弥が響から感じ取った匂いは、あの夜――響がトイレに駆け込み、壱弥のベッドで眠った夜――と同じだ。  響の期待を裏切ることを心苦しく思いながら、壱弥は頷く。 「……分かった。ありがとう」 「どうされました?」  壱弥と響のやり取りに、メーカーの担当者が首を傾げた。 「ちょっと社の方でトラブルがあったようで。大変申し訳ないのですが、今回の打ち合わせはここまででもよろしいでしょうか?」  胸の内を隠し、落ち着いた調子で響が言う。 「ああ、大丈夫ですよ。あとは各社での調整で問題ありませんから」 「ありがとうございます。急にすみません。改めてご連絡させていただきます」  申し訳なさそうに頭を下げ、失礼しますと部屋を出る響の後に続く。  会議室の扉が閉まった瞬間、二人で足早にエレベーターへ向かった。 「この前のヒートから一週間しか経ってないのに、どうして……」  戸惑う響から感じるヒートフェロモンは、それでも確実に濃くなっていく。  運良くエレベーターはすぐにやって来た。中には数人の社員が乗っていて、壱弥は響を背に隠すよう乗り込む。  数字が減っていくパネルを睨むように見つめる。  ――十、九、ああ、早く着いて。 「……なんか、甘い匂いしないか?」  誰かの声が聞こえ、壱弥は「くそ」と心の中で呟く。  自分のジャケットを響の肩にかけ、七の階数ボタンを押した。  響の身体を支えながら、エレベーターを途中下車する。  覗き込んだ響の顔は、頬が上気し、半開きになった唇からは浅い呼吸が漏れ出ている。 「ちょっと抱っこするよ。掴まってて」  入館時に見たフロア案内図を頭の中で開く。  幸い、七階に人の姿はない。響を横抱きにして、非常階段で一階の平面駐車場まで駆け降りた。  英司のポルシェにたどり着き、後部座席に響を座らせる。響のカラーからは、ヒートを知らせるアラームが鳴っている。 「響、着いたよ。吐き気は?」 「……吐き気は、ない……」  壱弥に答えながら、響がアラームを止め、バッグから取り出した抑制剤を飲んだ。 「……なんで、またヒートに……はぁ、……壱弥、このまま俺のマンション、行って」 「わかった」  運転席に座り、シートベルトをしめた。  響の家までのマップを脳内ファイルから見つけるのに、いつもより時間がかかる。  車内に充満する甘い匂いが邪魔をするせいだ。  響の香水より、この前初めて食べたマカロンというお菓子より、甘くて濃くて、――美味しそうな匂い。  壱弥は一度強く目をつぶり、窓を大きく開けた。ようやく頭の中に表示された地図に従い、アクセルを踏み込んだ。 「響、薬はいつもあまり効かない?」 「……うん。効きづらいと思う。それに、このヒート……いつもと違う、感じがする……」  この前のトイレに駆け込んだヒートとは違う。それは壱弥も感じていた。  響のマンションに車を止め、部屋に連れ帰った頃には、その「いつもと違う感じ」はより顕著になっていた。

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