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第8話

佐山奏 ーー どうして。 何故、今朝霧蒼が隣にいるの。 早く離れなくてはと思うのに、体が言うことをきかない。 当たり前だが、蒼は大人になっていた。 首席挨拶の時は遠目でしか見ることが出来なかった蒼が、目の前にいる。 やや切れ長だが優しさを帯びた目に筋の通った鼻。 黒髪がよく似合う端麗な顔立ち。 あの頃と比べると、雰囲気も随分と落ち着いた。 もっと見つめていたいような、それでいて早く逃げ出したいような不思議な感覚になる。 鼓動が早くなっているのが分かり、密室ということも相まって少しだけ匂いが漏れていないかが心配になる。 発情期はもうずっと来ていなかった。 その代わり定期的に注射器で認可の降りていない強い抑制剤を打ち続けている。 だから、大丈夫だ。 発情なんかはしないはずだ。 少しも動かせない体。 自分が眠れているのか眠れていないのか分からないような感覚。 数分置きに目覚めているのは分かるし、次第に時折聞こえる声や映像が現実なのか夢なのかさえ分からなくなる。 いつからこうなってしまったんだっけ。 母と父と音羽と4人で暮らしていた頃は、毎日が充実していたような気がする。 ーーいや、過去のことに思いを馳せてどうする。 今やらなければならないことから逃げていては、 音羽すら守れない。 俺は俺にできることをやるだけだった。 “奏” ふいに声が聞こえた気がして、体を硬直させた。 最近この名を呼ぶ人は1人だけになっていた。 “今日の報告がまだじゃないか。 君が弛んでいたら音羽に同じことをしてもらうしかないね” 「……っ」 そうだ、早く連絡をしなくては。 “せいぜい役に立とうね。 役に立ってから死んだ方が良い” “奏” 「奏っ!」 名前を呼ばれて現実に引き戻された。 俺が手を伸ばしていたのか、はたまたこいつが無理矢理握ったのかは分からないが、手が握られている。 「うなされてた。 どれだけ佐山って呼んでも起きないから、名前も呼んでみてたところだったわ」 「……悪い」 握られた手から、温もりが伝わる。 それはあの時、俺の手のひらに折り鶴を置いたあの温もりと同じように感じ、慌てて手を引いた。 「とりあえずそこの自販機から水買ってきた。 飲んだら」 ペットボトルの水を渡され、それを手に取る。 手に冷たさが伝わり、先ほどの温もりが消えてしまうような感覚がして、どことなく寂しさを覚えた。 無理矢理一口飲み込むと、それは喉を通っていくのが分かる。 その様子を、蒼はじっと見ていた。 「なぁ佐山」 「何」 「俺とお前ってさ、どこかで会ったことある?」 瞬間、周りの空気がぴんと張り詰めたような感覚がした。 少しだけ、ほんの少しだけ、 覚えているか聞いてみたいような気もする。 言えるわけがない。 言ったって覚えているわけがない。 覚えていたとして、何がどうなるわけでもない。 「……佐山奏なんて人、いなかったでしょ」 「そうなんだけど」 「今日が初対面だよ」 呟いた言葉は、自分の胸を刺すようだと思った。 10年前のあのはじめての気持ちは、胸に閉まって今後出すことはないのだ。

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