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第39話 7章 囚われの小鳥
「香? 大丈夫か?」
目覚めた香に成川が問い掛ける。香は小さく頷いた。体は火照り、全身が怠い。成川に抱かれるといつもこうだ。体の力が抜けたようになるのだ。
「今日のいきっぷりは凄かったな。久しぶりだったからかな」
香は恥じらいに顔をそむける。そんな仕草がまた、どうしようもなく可愛い。成川は、香を抱き寄せた。そしてその背を撫でてやりながら、気になっていたことを質した。
「これからどうするんだい? このまま神林にいるのか?」
「はい、来年の卒業までは」
「その後は秋好へ戻るのか? 桜也さんの襲名披露公演はいつなんだい?、」
「はい、父の補佐を務めたいと思っています。公演の正式決定はまだですが、来年秋ごろだと」
「そうか、一周忌を済ませた後になるよね」
香は、成川との関係は神林にいる間のことと考えている。つまり、来年春神林を出れば終わると思っているのだ。
しかし、成川は香と切れる気持ちは全く無かった。香が十五の時に出会い、少年が青年になるさまを見てきた。それは、固い蕾が、膨らみ花開くようであり得難い思いでいる。
この先、香は大輪の花を咲かせるだろう。香はそれだけの美貌と、才能を持っている。それなのに、今手放すのは考えられない事だった。
香が秋好に戻るのは当然だろう。藤之助の死で、香は秋好流の若宗家になったのだから。それが無くても、元々、神林には大学卒業までとは聞いていた。
故に、最近は香の秋好に戻ってからの方策は、それなりに考えてはいた。ただ、弱小流派と言えど、若宗家を相手にするのは、今までとは違う。秋好の若と言えど、神林の内弟子の一人と、仮にも若宗家では立場が違う。こちらも、そのつもりで接する必要はある。
最初は、密やかにと思ったが、やはり宗家の桜也には話を通さねばならんなと、思い直した。
神林の首を縦に振らせたのも、結局は金だった。相当な金を積み、それは今だに続いている。それを、今度は秋好に積み納得させねばと成川は考えた。
つまり、神林への支援を、そのまま秋好へ回すのだ。代償が香の体なのだから、当然のことではあった。
しかし、それはまだ先のこと。来年、香が秋好へ戻ってからでいい。ただし、その根回しは今のうちにしておかねばならんなと、成川は思う。
「香の若宗家披露公演楽しみだな」
「主役は父ですから」
「何言ってるの、香が主役だよ。当代一流の若手舞踏家が新たな立場で踊るんだよ。注目されないはずはないし、間違いなく話題の中心はお前だよ」
その見方は贔屓目なしにあっていた。今や香は注目の若手舞踏家であるのは、確かな事だった。この世界を知るもので、秋好香を知らない者はいないと言っても過言ではない。神林宗家の秘蔵っ子、美貌の天才舞踏家、香はそう呼ばれていたのだ。
そして同時に『神林の若』である東月をはるかにしのぐ才能であることは、誰の眼から見ても明らかであった。香の才能が優れているのもだが、東月の踊りは凡庸でもあった。
それは、当然成川も知っていることなので、神林はあの凡庸な若でどうするんだろうと思ってはいた。成川にとっては所詮他人ごとではある。この時の成川は、神林の宗家の真意を知らない。後、それを知って驚くことになる。さすがにその想像はしなかったからだ。同時に、芸と流派を守る者の冷徹さを知る事にもなる。
思えば伝統芸能はそのようにして守られ、続いてきたのかもしれない。しかし。そこには生身の人間が息づいているのだ。人間には心がある。故に、冷徹さに耐えられず、消えていくものもあっただろうし、これからもあるのだろう。
「次は、あんまり間を空けないで会いたいな。今回はことがことだし我慢したが、三ヶ月も会えないのはたまらんからな」
恨みがましく言われ、祖父の亡くなる前の頻度で会う約束をさせられる。しかし、成川に会うことも香が決めていることではない。全てが神林で決められ、それに従っているにすぎない。
それは成川も承知していて、交渉は神林とするつもりだが、成川としては香にも知っておいて欲しい思いもあるのだった。
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