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 イチが離婚したらしい日から1ヶ月が経った。飲みたいとイチから連絡してきた。  あまりきちんとした構えの店だと、イチは酔えない。あまり騒々しい店だと、イチは他人の様子ばかりが気にかかる。  僕としては、イチにはほどよく気を抜き、それでいて深酔いはしないでもらいたい。  こういった事情を総合的に勘案の上いくつか店を回り、駅の裏手のワインバルの、奥まった席を選んで予約した。自分の声ばかりが響くような作りではなくて、隣の会話が耳に付きすぎるということもない。先に着いてしまったからという顔をして、壁側の椅子に座ってイチを待った。僕からは店中が見えて、イチからは僕しか見えない。  店に入ってきたイチは、僕を見つけて眉毛と右手を持ち上げた。相変わらずきれいな顔と体をしている。耳の後ろの髪が伸びすぎている。  イチは席に着くなり赤のボトルを注文して、肉が食べたいと僕に言った。リブロースを頼んで、それが焼けるのを待つ間、大皿の生ハムを食べる。イチが何かを口にいれるために俯くと、目元に睫毛の影ができる。 「急に呼んで悪いな」 「ぜんぜん。最近どうしてた?」 「こないだ石垣島行ってきたわ」  イチのグラスが空になるたびに、僕はワインを注ぐ。合間に水も飲ませる。イチも、酒を飲めれば飲めるほど立派だとはもう考えていないので拒まない。イチが3度グラスを唇に当てるたびに、僕も一口ワインを飲む。 「へえ。誰と?」 「ひとり」  イチの唇はひび割れていて、白く粉を吹いた皮膚をワインが染める。肉の塊が鉄板に載せられてやってきた。 「元気ならよかったよ」  僕は肉を切ってイチの皿に回す。イチは肉の切断面にソースをかけて唇の間に押し込む。 「俺沖縄って仕事で本島行ったことあるだけなんだよね。どうだった?」  イチは笑って、目だけで周りを見たあと、マングローブとナイトカヤックの話を始めた。僕が相槌を打つとその間に肉を口に入れる。イチはその旅行の写真をFacebookにアップしているから、2泊3日の間にひとりでどこに行ったかなんて僕はとっくに知っているのだけれど、そんなことはどうだっていい。イチの白い歯にタンニンが染みつきはじめているのや、舌の先に炎症が起きているのを、僕はほとんどずっと見ていられる。あの舌を口の中に引きずり込んだときは、とても気持ちがよかった。  イチと僕は19年前、同じ大学で国際政治論のゼミをとっていた。イチは今よりも痩せていて、今よりも髪が長かった。背が高くて、古着のTシャツを着て、今とは違うスニーカーを履いていた。きれいな子がいると気づいたときのことをよく覚えている。  ゼミに同期は15人、女子が3人、男子が12人だった。女子に仕切り屋が1人、男子におしゃべりが1人いて、格別気が合うわけでもない15人を、ただ同期というだけでさも仲間であるみたいにつるませていた。そうでもなければあんなきれいな子とお近づきになるなんて僕の人生にはあり得なかったから、運が良かったと思っている。  あの土曜の晩イチはまだ子どもで、男たるもの酒に強くなければならないと考えるよう努力していた。本当に飲める奴に両隣を挟まれたイチは、誰に頼まれたわけでもないのに張り合って、許容量を越えるまで飲んだ。そのうちに終電を逃した。僕は斜向かいの席で、イチが段々と陽気になり、そのうち度を過ごして、最後は靄に沈んでいくのをずっと見ていた。  イチの家にお金があることは皆知っていたので、別にタクシーに押し込んでもよかった。僕はどうせ近いからと言って、イチを肩に乗せ、引きずって自分のアパートに帰った。暑い夜で、イチと密着しているところから汗をかいた。  イチを畳の上のベッドに寝かせて部屋の灯りを消し、デスクのランプスタンドだけをつけて、僕は月曜日までの課題に手を付けた。近代西洋外交史論のレポートだった。途中、小さい音でカセットテープをかけた。誰の曲だか忘れたけれど、たぶんクラシックだった。  イチは僕のベッドで鼾をかいていた。僕はただ書いていた。イチのことをきれいだと思っていた。顔が小さいぶん首が太く見えるところが特によくて、その首に腕を回してろくでもないことを口走ってみたかった。  課題はあっという間に片付いたけれど、眠るまで机に向かっているつもりだった。鼾をかいている男が相手ではなにも起こらない。仮に目を覚ましていたとしても、イチが酔った勢いで僕を抱きすくめて荒々しく服を脱がすことは期待できなかった。男と寝たい男にだってそう扱ってもらえることは、若さという唯一なけなしのブランドをもってしても多くはなかった。それにしても、もしイチに体を裏返しにされて後ろからペニスを入れられたらたまらないだろう。僕は勃起していた。ズボンの上から指でなぞりながら、イチの手で擦り上げてもらうのを想像した。僕が何度も自慰をしたベッドでイチは眠っている。この状況を終わらせるのが惜しいので射精したくなかった。木曜のフランス語講読の準備をすることにした。できるだけくだらない気分になりたくて、テープを止めてラジオに変えた。思ったよりも大きな音が出た。イチがうめいた。僕は振り向いた。  イチはベッドに右肘をついて、上半身を半分だけ起こした。この薄暗い六畳間がどこなのかわかっていないようだった。お茶飲む、と僕は言った。イチは頷いた。僕は冷蔵庫の麦茶をコップに注いでイチに差し出した。イチはそれを一息で飲もうとして少しこぼした。 「いま何時」  僕はイチの胸元を布団で拭いながら、半分開いた唇と骨張った顎と、大きく突き出した喉仏を見た。 「3時にはなってないかな」  空になったコップを受けとるときに、僕はイチの指に触れた。関節が張っているので興奮した。この指で、目でも鼻でもいい、どこかしらの粘膜に触れられてみたいと思った。

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