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フルボトル4分の3本でイチはちょうどいい具合まで酔った。テーブルの真ん中に視線を落として、ひとりでぺらぺらとしゃべる。メキシコ料理とかテニスの選手とかの話をする。ときどき前のめりになって、自分で気づいて背を伸ばす。体が重いなら頬杖をついたっていいのに。水のグラスをとろうと左手を伸ばしてくる。その手首の時計で、23時近いことを確認した。
「大丈夫? けっこういい時間だけど」
熱帯魚の話が途切れたところで言ってみた。イチは腕時計を見た。首を右に曲げて、隣のテーブルのカップルが会計をしているのも見た。
「ぜんぜん。そっちなんかあんの、明日」
「俺もぜんぜん。もう1本いる?」
もう1本飲んだらイチは寝入ってしまうし、だいたいもう酒の味になんて飽きているだろう。イチが首を横に振ったので、僕はグラスに水を注いだ。
「2軒目がいい?」
「いや、まあ、でも」
何年かに1度、思い出したように、イチは僕に連絡をよこす。飲みたいと言われ、他に誰か誘うのかと聞くと、いや、とかまあ、とか言われて、僕は店を予約して、イチが来るのを待つ。
「じゃあ久々に俺んち来る?」
僕は訊ねた。イチは右の眉を持ち上げながらああと言った。店の最寄りの私鉄の駅から、イチを電車に乗せてしまえばあとは部屋まで20分もない。
会計のあと、イチはちっとも酔っていないような顔で店を出た。
僕は机に戻った。フランス語のやさしい法学教科書を翻訳する作業で、内容はさっぱり入ってこなかった。汚い訳文をノートに1ページと少し書いたとき、イチが言った。
「なにしてる」
「輪読の準備」
「飲んだあとに?」
「あんまり飲んでない」
「勉強好き?」
「気が紛れる」
「俺酔いつぶれてた?」
「うん」
「ごめん」
「気にしないで」
「おまえホモ? オカマ?」
「ゲイ。なんで?」
「俺のことガン見してめちゃくちゃ勃ってた」
僕は振り向かなかった。
「それはごめん」
なんだかわからないけれどいつの間にかイチと2人きりになって、なんだかわからないけれどセックスする感じになったらいいな、と想像したことがないとはとても言えない。何度思い浮かべたか数えられたものじゃない。その晩もイチが眠っている間に、念のため、まあとりあえず、とかなんとか言いながら、するための準備をしていた。もちろんこの想像は筋立てがどうみても乱暴だし、現実に期待をかけて準備したというよりは、妄想自体を捌け口にしていたというのが正確なところだ。
イチは黙っていた。認めてしまったのはよくなかっただろうかと考えた。人格を否定するようなとんでもない罵声を浴びせられたらどうしよう。それはそれでたまらないなと思った。
「気持ち悪かったら帰るといいよ。始発まだぜんぜんないけど。駅前ならタクシーいるかも」
これが頭の中での出来事なら、イチはここで黙って僕の後ろに立って、あの腕で僕の体を抱く。きれいな男の子がなぜか僕に性的興味を持つところがこのシナリオ随一の圧倒的に無茶な部分だから、あとはなるようになる。イチは言った。
「俺のこと好きなの」
「きれいだと思ってる」
正直に答えた。
「お持ち帰りしといてかわいげなくない」
「イチは持って帰った女の子みんなに好きって言ったの」
「は?」
低い声だった。
僕はペンを置き、振り向いて席を立って、ベッドで横たわるイチの体に覆い被さった。イチは僕の顔を見た。そうなると黙っているわけにもいかないので言った。
「なに。やってみたいの」
「掘られんの俺」
「逆なんだよね」
イチが腕を僕の背中に回し、少し力をかけた。僕はまるでイチに引き込まれたみたいな顔をして自分からベッドに入って、イチの体が冷たいと思った。
「尻ってどうなの」
「準備してあるからローション使ったらそんな変わんないと思うけど。ゴムはつけなよ万一あるから。病気ないはずだけど。右の引き出し。ローションも」
僕は机を指した。イチは僕をまたいでベッドから降り、右の引き出しを開けてため息を吐いた。
「おまえこんなにいつ使うのよ」
引き出しの中は筆記用具一式以外、潤滑剤と、種類の違う複数のコンドームの箱で隙間なく埋めていた。たまにはセックスでも使うけれど、ほとんどは想像を楽しむためのものでしかなかった。どういうタイプのものをどこで買ってきてどう使う男なのか、あるいはそんな面倒なことは平気で軽んじる男なのか、そのあたりからディテールを詰めているだけだ。イチが帰ったらどれを使ったのか確認しようと思った。
僕はうつ伏せになって布団の中でズボンと下着をずらし、イチはスタンドライトを消した。ラジオは消さなかった。街灯なのか月なのか、カーテンの隙間から白く光が射していたけれど、イチの表情がわかるほどではなかったと思う。
イチがゴムの封を切る音も、ローションの蓋を開ける音も聞こえた。布団をめくられて腰を持ち上げられて、イチが入ってきた。熱くて大きくて、驚いて少し泣いた。
イチはずっと僕の腰を掴んでいて、他のところにはさわらなかった。僕は唇を噛んでいた。なにしろ本物に抱かれているので、気を抜いたら何を口走るかわかったものじゃなかった。最初こわごわと動いていたイチはそのうちノってきた。腰に指の先が食い込み、奥を強く突かれて、この人は僕でイくんだとわかった。20歳のきれいな男の子が僕で射精しようとしている。唇を噛むだけでは足りなくて、枕に顔を埋めて息を殺した。イチは最後まで行った。
ベッドで背中を合わせてぼんやりとしているうちに、カーテンの向こうが白くなってきた。イチは起き上がって、帰る、ごめんと言った。
イチがいなくなったあと、床に落ちていたコンドームの袋を確認して、入った感じデカかったしなと思った。袋を枕の下に入れて、イチ、イイ、イク、とかそういったことをぼろぼろ言いながら、1日中1人で過ごした。
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