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[1] 酒場

 大型蒸気船が着港できる深い海をもつ港町、ラヴェンタ。そこにあるここ海亀亭は夜も深まり沢山の客で賑わっていた。  季節は春。大気は暖かくゆるみ、人々も開放的ななりつつある。  木造の建物は煙草の煙で満ち、客達が持ち寄った楽器で奏でる不揃いな旋律が鳴り響く。足踏みに手拍し、スプーンや食器などとあらゆる音の鳴るものを叩き盛り上がり、港で働く荷役夫や船員、娼婦も混じりステップの正しさなど気にせずグルグルと踊っている。  レオネはその喧騒の中心にいた。若い娘と組み、軽やかな足さばきで巧みに娘をリードしている。娘の方はただうっとりと身を任せているだけだ。リズムに合わせてレオネの束ねられた長い金髪が背中で踊り、娘の胸もゆさゆさと搖れる。健康的に日焼けしたそれは大きく胸元が開いたドレスからこぼれ落ちそうだ。レオネはその柔らかな膨らみを遠慮することなく眺め、娘もこの美しい男からの視線に快感すら感じていた。  レオネ・ロレンツ・ブランディーニ。  ロヴァティア王国の地方領地ロトロを収める候爵ランベルト・ブランディーニの次男として生を受け、今年で二十二歳になる。  酒場の薄い灯りで照らされたその姿は神話を題材にした彫刻のような美しさを放つ。金の長いまつ毛に縁取られた紺碧の切れ長の瞳。高すぎずスッと通った鼻稜。薄く笑みを浮かべた口元は色気を漂わせる。貴族だとわからないようにと着た安物のシャツ越しでもわかる盛り上がった胸筋や、しっかりとした肩幅も長い脚も成熟した男の美しさを漂わせていた。  奏でられていた曲が一旦終わり、そこかしこで拍手が起こる。間髪入れず次の曲が始まるが、レオネはこのタイミングで抜けることにした。 「素敵な時間をありがとう。お嬢さん」  娘の手の甲にキスを落とし、優雅にお辞儀をしその場を辞する。娘はただうっとりと夢心地でレオネを見送ることしかできない。 (可愛いんだけど、若すぎるな)  若い娘は本気になりやすく、後々トラブルになる事が多い。処女だとなお面倒だ。  さて、どうしようかと辺りを見回すと、店の入口付近の円卓に顔なじみを見つけた。通りで道具屋を営んでるカルロだ。焦げ茶のクセ毛で遠目でもすぐわかる。とりあえず話しかけに行こうとした時、「ブ、ブランディーニさん」と、声をかけられた。振り向くとそこにはレオネより頭一つ分低い背丈の男が立っていた。  猫背で茶色の長い髪を後ろで縛り、顔にも長い髪がかかり目がよく見えていない陰気な印象の男だ。年齢もレオネより若そうでもあり、意外と年上そうでもあり、言わば年齢不問。 「……はい、なんでしょうか」  やや不審に思いながらも答える。 「あ、あの良かったら一緒に呑みませんか?彼女達も一緒に……」  彼の視線の先には、娼婦が二人いた。テーブルに頬杖をつき妖艶な笑みを浮かべ、指先だけを小さく動かすように手を振りこちらを見ている。  レオネはなんとなく理解した。この冴えない男はレオネをダシに娼婦達と遊びたいのだろう。たまに、いや、レオネにとってはよくあることなのだ。だが見知らぬ男の恋の手伝いまでしてやる義理もない。そもそも彼女達と遊ぶカネがあるのなら一人で買えばよいのだ。 「せっかくのお誘いで申し訳ないのですが、知り合いがいたので挨拶に行きたいのです。またの機会に」  嘘ではない断りをいれると男はあからさまにガックリと肩を落とし「そうですか……」と小さく呟いた。レオネは「では、」と軽く会釈しその場を立ち去った。  喉の乾きを感じていたのでカウンターに寄りビールを頼む。店員のエルダがグラスに波々と注がれた黒いビールを差し出しながら聞いてきた。 「今日はいい娘いたかしら?」  泡が零れそうなので早速一口飲み、エルダにコインを渡す。 「んー、どうかなぁ。全部うまく行かなかったらエルダの部屋に泊めてよ」  ちょっと小首を傾げながらお願いしてみる。きっとエルダは断らない。 「はいはい」  あきれた感じではあるものの、笑顔で答えてつつエルダは厨房の奥へ戻っていった。  ビールを手に入れて、目的通りにカルロに話しかけに行く。  カルロはこの海亀亭で時々会う呑み仲間で、年齢もレオネと近い。背はレオネよりやや低いくらいで、焦げ茶のくせ毛にギョロッとした目が特徴だ。  自分を貴族扱いせず気軽に話してくるカルロにレオネも親しみを覚え、ここで会えば大抵一緒に呑んでいる。  カルロが座る円卓には中年の男が二人いた。カルロはその男達に嬉々として話しかけているようだった。女の子以外にそんなに嬉しそうに話すカルロは珍しい。 「やあ、カルロ」  レオネが円卓に近づき声をかけた。 「おー!レオネ。今夜も選り取り見取りかぁ~?」  カルロがニヤニヤ言ってくる。中年の男二人に軽く目礼しつつカルロに聞いた。 「こちらはお知り合い?」  カルロはヤレヤレと呆れつつレオネに言った。 「レオネ……こちらの方がわからないのか?」  レオネはカルロが示した方の男を見た。  年は恐らく三十代半ば。座っていてもわかる鍛え上げられた大柄な体型で、短く切られた黒髪と銀縁の眼鏡の奥に鋭く黒い瞳が光る。着ているものはごくごく庶民的なウールのジャケットなのだが、胸板の厚さや、コーディネートの良さで洗練された大人の装いだと感じさせる。  男はテーブルにおいてあった煙草を咥えて火をつけた。 「どこかでお会いしたことがありましたでしょうか」  こんな印象深い男は一度会ったら忘れなさそうだが、一応聞いてみる。男はレオネをチラッと見ると煙草の煙をフーッと吐き出した。 「いや、君とは初対面だよ」 その声は実に耳心地の良いバリトンボイスだった。 「レオネ、違う違う。知り合いとかじゃなく、超有名人! こちらの方があのジェラルド・バラルディ氏だよ!」  カルロがギョロ目をさらに大きく見開いて言ってくる。  そのファミリーネームはよく知っている。たぶんこの国で知らない者はいない。  ここロヴァティア王国に拠点を置き、国内外で幅広く商売を行っている貿易会社、バラルディ商会。今や貿易だけでなく製造業や物流業など、多岐にわたり商売を広げ、その資産は王族を凌ぐほどだと言われている。 「えっと……バラルディ商会のご親族でしょうか?」  自信無さげに言うとカルロはますますあきれたように言ってくる。 「お前なぁ…勉強不足だ。バラルディ商会の現会長だよ!」  驚いて彼を見る。当人はなんて事はないという風にウィスキーらしき液体が入ったグラスに口を付ける。 (この人があの巨大豪商のトップ……)  するともう一人の中年男が声を潜めてカルロに言う。 「君、君〜、あんまり大きい声で言わんでくれたまえ。ここの輩でジェラルド様に気付いてるのは君くらいなんだから」  小柄な四十過ぎの男だ。白髪混じりの髪をセンターで分け、たっぷりの整髪剤で撫でつけてある。丸い分厚い眼鏡をかけた男だ。 「そうだ、私はここの奴ら奢れと言われてもびた一文払う気はない」  ジェラルドが上体を起こし壁に寄りかかりながら顔を上げ小馬鹿にしたようにそう言い切るとカルロは「えー、期待してたのになぁ」と大げさに残念がった。  確かに大勢の客がここにバラルディ商会会長が来ていると知れば、全員が奢ってくれと言い出しかねない。きっとこの男には余裕で払う財力があるはずだ。なんなら店ごと買い取ることもできるだろう。 「では、自分の酒は自分で持ってきたので、私はご一緒させて頂いてもよろしいですか」  レオネは社交界で培った笑顔浮かべジェラルドに尋ねると、彼は一つ空いている背もたれのない丸椅子に座るよう促した。許可が降りたので持っていたグラスをテーブルに置き、座る前に左側に座っているジェラルドへ右手を差し出した。 「レオネと申します」  ファミリーネームは名乗らない。  ジェラルドは座ったまま右手を出し 「バラルディだ」  と、握手をかえしてきた。レオネより一回り大きく肉厚なその手は温かかった。  右側の小男の方は丁寧に立ち上がり自らレオネに握手を求めてきた。 「秘書のウーゴです」 「レオネです」  ウーゴとも握手を交わし、丸椅子に腰を下ろす。すると座ると同時くらいにジェラルドが言った。 「君は貴族だろう」 「あ、やっぱり、わかります?」  レオネではなくカルロがテーブルに肘をつき、身を乗り出しながら答えた。ジェラルドはフンと鼻で笑いながら言う。 「明らかに毛色が違う。着ているものを市井のものに合わせているが、姿勢が良すぎる。さっきあそこで踊っていた時も明らかに周りから浮いていた」  踊っている姿を見られていたと知って、やや気恥ずかしくなる。 「どちらの方なのですか?」  ウーゴが興味津々に聞いてくる。 「没落寸前の地方貴族ですよ」  苦笑いで誤魔化しはぐらかす。 「なぜこんな場所に? 貴族同士のほうが話が合うのではないか?」  ジェラルドが聞く。うーん、と考えつつレオネは答えた。 「サロンや夜会にも行きますよ。ですがそういった場所はある意味私の仕事場です。ここは気兼ねなく飲んだり話したりできるのでよく来るのですよ」  するとカルロが口を挟む。 「こいつね、しょっちゅうこの店に来ては俺に絡んでくるんすよ。こんな色男がいるとね、大抵いい女は取られちまうからこっちはたまったもんじゃないですよ~」  ジェラルドはふーんとつまらなさそうに返事をし、煙草の煙を燻らせる。愛想の無い人だなと感じつつレオネからも質問を投げかけた。 「お二人こそ、天下のバラルディ商会の方がなぜこんな安酒場に?」  そう聞くとジェラルドではなくウーゴが答えてくれた。 「私達は明日港から出る船に乗るんですよ。今日サルヴィから出てきたので今夜はこちらの宿に一泊します」  ロヴァティア王国の王都サルヴィから港町ラヴェンダまで汽車で約五時間かかる。少し前までは馬車で二日目はかかったらしいから早くなったが、現在でも大変な距離だ。 「こんな安宿に宿泊ですか? もっといい宿あるじゃないですか」  カルロが驚きながら言う。海亀亭の常連のくせに、海亀亭にまったくもって失礼な発言だが、レオネも内心は同意見だ。 「ただ一晩寝るだけなのに高級ホテルに泊まる必要はない」  ジェラルドが吐き捨てるように言う。そのセリフにレオネはフハッと吹き出した。 「なるほど、バラルディさんは芯が通ってらっしゃる」  この男、大金持ちだがケチなのだろう。これから一緒旅をするだろうウーゴは大変そうだ。 「払う価値があると思えばいくらでも使う。見栄だけで使っているといくらあってもカネはあっという間に終わるものだよ」  ジェラルドはレオネの目をまっすぐに見てそう言った。レオネが貴族だから言っているのだ。レオネは苦笑いしながら言う。 「なかなか手厳しい。でもおっしゃる通りだと感じます。まさに私の父が見栄でカネを使う気質ですから」  父ランベルトならここの全員に酒を奢ってしまいそうだ。  レオネが素直な意見を受け入れたことにジェラルドは少し驚いたようだったがさらに言葉を続ける。 「使う分だけ稼げるなら問題はない。近頃どの貴族たちも行き詰まり始めているのは、収益が下がっているいのに昔ながらの習慣や贅沢をなんの疑問もなくそのまま続けているからだ」  耳が痛い話だが、社交界では誰も言ってはくれない話。 「だが、爵位は今でも最高の名声で誇りだ。それだけで信用になる。我々商人にはなかなか得られない羨ましいものでもあるよ」  バラルディ商会トップが『爵位が羨ましい』と言うのは意外だと感じた。レオネは質問をする。 「最近では貴族でも商家と組んだり商人と同じような商売をする家もありますよね。そういう家が現代だと最強ですか」 「そうだな。最強ではあるが、君たち貴族は金儲けは卑しいと思ってるんじゃないか?」  ジェラルドがニッと皮肉ぽく笑いレオネに聞く。 「ええ、そう考える貴族も多いですが、もうそうは時代が許してくれないのでしょうね。過去の栄光に縋っている老人はなかなか新しい考えを受け入れられませんが」  それからレオネはジェラルドに商売をする上での考え方や、貴族の問題点、ここ二十年の変動、これからの予測など色々な話を聞いた。  レオネの無知な質問にもジェラルドは丁寧に答え、自身の考えを述べる。レオネにとっては予想外の発見や全く考えていなかったことも指摘され、どんどん彼の話にのめり込んで行った。  最初は愛想の無い男だと思ったが実は面倒見の良いタイプなのかもしれない。  話の序盤でカルロは別の友人に声をかけられ席を離れて行った。小一時間した頃にはウーゴが船を漕ぎ始めた。どうやらあまり酒には強くないらしく、ジェラルドに促され自分の部屋へ入って行った。  円卓に二人だけになってもレオネは話を終わりにする気になれなかった。 「何か追加でいかがですか?」  そんな二人にエルダがメニュー表を持って笑顔で話しかけに来た。話ばかりではなく何か頼めとの催促だ。まったく商売上手だ。  ジェラルドがメニューを受け取り、そのままレオネに渡しながら言った。 「何か頼め。奢るよ」  ジェラルドが素っ気なく言ったその言葉にレオネは驚いた。 「え、いいんですか?」 「ああ」  ジェラルドが少しだけ犬歯を見せ笑う。  カァっと耳が熱くなる感覚がした。自分とのこの時間を有意義に思っていてくれていると言うことなのだろうか。 「じゃあ、バラルディさんが飲んでいたのと同じものを」  ウィスキーだと思われるものを頼む。 「では、ヴィルガを二つ」  ジェラルドがそうエルダに注文した。 「…あ、はい。お持ちしますね」  エルダはほんの一瞬だが迷ったような間を作ったがすぐさま了承し厨房へと入って行った。  ヴィルガはロヴァティア王国に輸入される高級ウィスキーだ。しかしこの店で一番高いわけではないことを常連のレオネは知っている。  高いものは高いことがステータスになり社交界でも持て囃されているが、味は値段に比例していない。ヴィルガは値段的には三番手くらいだが味はそれ以上だ。しかしおそらく先程ジェラルドが飲んでいたものはヴィルガではない。ヴィルガはもっと色が濃かったはず。  「はい、お待たせしました」  エルダがすぐにグラス二つを持って戻ってきた。  美しい琥珀の液体。やはり先程より色が濃い。恐らくジェラルドは飲んでいた酒より高いものを注文してくれている。これがよくいる貴族達だったらきっと『先ほど私が飲んでいたものより高い酒を頼みましょう。貴方にの為に』などと言ってひけらかすだろう。逆に言わなかったとしても相手がその好意に気付かないと『あいつは物の良さがわからない』等と言う。  ジェラルドは気づいて欲しくてそういうことをするタイプでは無いように思えた。単純にこの場を楽しめばよいのでは無いかと。 「では、いただきます」  レオネが礼を言いつつグラスに手を伸ばすとジェラルドも『ああ』と言ってグラスを手に取り軽くレオネのグラスにコツンとあててから口をつけた。  レオネも倣って口にする。  深い、だが爽やかなスモーク香が鼻から抜けていく。 「ああ、良い香りですね」  素直に感想を述べる。 「ここの蒸留所は以前行ったことがあるが、とても丁寧な仕事をしていたよ」  ジェラルドが口の端を微かに持ち上げて言う。  レオネはウィスキーちびちびと舐めながら香りを楽しんだ。強い酒だ。酒に弱いほうではないが酔いすぎないようにしなければ。彼の前で醜態は晒したくない。 「君は子供はいるのか?」 ふいにジェラルドが聞いてきた。 「あー……結婚もまだだったりします」 「ん? 今いくつなんだ?」 「二十二歳です」 「二十二か……。私が二十歳の時にはもう息子がいたが……。貴族にしてはのんびりなのだな。許婚が若すぎるのか?」 「いえ、許婚すらいないので……」  酒の肴にする程度な気軽さで振っただろう話題が思いのほか深刻で、ジェラルドの眉間に深い皺が刻まれる。新しく火をつけようとしていた煙草を咥えたまま彼の顔には『何故!?』と大きく書かれていた。 「えっと……我が家は兄と私の二人兄弟なので、当然父の後は兄が継ぎます。私はどこかに婿に行くべきなのですが父が縁談に望みを高く持ち過ぎてまして、未だに婿入り先が決まらないのです」  困ったように笑い、ウィスキーを飲みながらジェラルドの疑問に答えた。 「高望みとは、相手の家から貰うカネとかか?」  ジェラルドが怪訝そうに聞く。 「そうです。支度金や条件などだと思います。うちは今それほど潤っているとは言えない状況なので、私が父の最後の切り札なのです。たぶん、適齢期のお嬢さんとの縁談は無いと思っていますよ。それで良いなら早い段階で許婚になっていますからね。突然当主を失って困ってる未亡人とか、当てにしてた一人息子が亡くなったとか。あー……男色家の爵位持ちに養子か妻にってことも考えられますね」  笑いながら言ったがジェラルドの顔はより厳しいものになっていた。  力ある男性が望めば男でも子供でも異国人でも婚姻関係を結べる法。制定以来、愛ある結婚と言うよりは様々な契約的な関係に利用されている。 「君は……それでいいのか?」  強い疑問は否定だ。良いはずがないと言っている。 「それが私の役目なのだと思っています」  笑顔でそう言った。  物心がつく前から言われてきたことだ。今更どうも思わない。 「いや、違う」  ジェラルドはどこか空を鋭く見つめてきっぱりと言った。そしてレオネの目を見て言葉を続ける。 「自分の人生は自分で選ぶべきだ。まだ確定していないのならなおのこと。さっき時代は今大きく動いているって話をしただろう? 自分とは関係ない話だと思っていたのか? まさに今の君の状況がそれだろうに……!」  強い口調で諭すように言われレオネは戸惑った。動揺しジェラルドから目をそらしウィスキーグラスを持つ己の手を見ながらボソボソと言う。 「しかし、家を見捨てることはできませんし、家から離れて生きていく術も私には無いんです。そこまでしてやりたいことがあるわけでもありませんし……」 しかしジェラルドは許してはくれずさらに続けた。銀縁眼鏡のレンズ越しに黒い瞳がレオネを貫く。 「いや、君は今まで考えてこなかっただけだ。今の話を聞く限りでは君のお父上はすぐに縁談を決めかねているのだろう? だったら今がチャンスじゃないのか。例え君が身売りのように結婚しても相手の家の資金援助だけで、君の実家も嫁ぎ先もこの先安泰だとは言えないだろう。経済的問題があるのなら抜本的に解決しない限り、その愛の無い結婚に君の人生をかける意味はあるのか?」  レオネは額に手をあてて項垂れた。 「ですが、私達貴族にとって家の為にする結婚は当然のことで……」  と言いかけてジェラルドに目線をやると強くギロッと睨まれ気付いた。 「……って、これが時代遅れってことですね」 「その通りだ」  ジェラルドがしっかり頷く。 「はは、なんだか青天の霹靂だなぁ……。もう結婚だけが自分の役目だと思っていたので、ほら、この通りフラフラ遊んでるだけの次男坊ですよ。こんな私に出来ることってあるのでしょうか」  レオネは両手を軽く広げてジェラルドに聞いてみた。 「それは君自身が考えることだ。今私が言えばただそれをやるだろ? それでは意味がない」  先程までの熱弁とは裏腹にサラッと素っ気ない解答が返ってきた。思わずレオネは笑ってしまう。 「ひどいですよ。散々煽ってそれですか?」 「若い貴族など格好のカモだ。いい話には大体裏がある。人からアドバイスを受けるのは良いが、順序的にはまずは自分で考え進む道筋をつけるべきだ」  レオネは確かに、と思いつつも自分に何が出来るのかイマイチ浮かんでこない。悩むレオネにジェラルドが助け舟を出す。 「例えばだが……自由になる資産があるならそれで事業を起こすとか。君の得意な分野がいい。君のその容姿は宣伝に使えるから君自身が広告塔になれる」  ほほー、そういう手もあるのか、と関心の眼差しを向けるとジェラルドはレオネをを見つめて、はぁーっと溜息をついた。 「いや、ダメだ。一旦忘れてくれ。何か詐欺に巻き込まれそうな気がしてくる」 「私はそんなに頭が悪そうですかね」  レオネは頬をポリポリ掻きながら聞く。 「いや、年齢を重ねた貴族でも騙されて大金を巻き上げられている。私が時々相談に乗れれば良いのだが、明日出立したら戻るのは一年後だ……」  今後も相談に乗ってくれそうな気があるような発言に一瞬喜びを感じたが、次の発言に胸がきしんだ。 「一年も、戻らないんですか?」 「ああ、今回は長めの出張なんだ。とにかく良く考えて、行動する時は慎重に、だ。信頼できる人によく相談して……」  レオネはジェラルドの話を遠耳に聴きながら、今後この男に最低でも一年は逢えないという事実に胸が締め付けられる思いを感じていた。  酒場でちょっと話した貴族の若者のことなんて、一年後まで覚えていてくれるだろうか。『そう言えばそんな奴いたな』くらいになってしまうのではないか。  ガッカリした気持ちを悟られないように話題を繋げる。 「ご主人が一年も不在となると奥さまは寂しがっていらしゃるのでは?」  レオネはちょっとからかうように言った。  レオネの政略結婚にそこまで拒否反応を示すとなるとジェラルドは自身で妻を選んだのではないだろうか。相思相愛の夫婦ならば長期間離ればなれになるのはきっと寂しく感じているだろ。  だが…… 「いや、妻とはもう死別してるんだ」  ジェラルドは少し寂しそうな、でも優しそうなほんの少しの笑みを浮かべて言った。  レオネは絶句しつつ言葉を絞り出す。 「あ……そうでしたか。不躾に申し訳ありません……」  ジェラルドのその表情と、己の失言に心臓がギュッと縮む。 「いや、良いんだ。もう八年も経つ」 「八年……」  どう言葉を続けて良いか分からない。  レオネの落ち込みを察してかジェラルドが話を続ける。 「立場上、良く聞かれるんだ。気にしないでくれ。子供は息子が一人でね。女性の同伴が必要なときは姉を連れて行ったりするんだが、これが出戻りでね。私以上に会長のような態度なんだ。もう一人娘もいたら良かったのに、と思ったりもするがね。姉はやたら再婚させようとするし、なかなか面倒だよ」  ジェラルドがやれやれ……と言った感じに言う。 「再婚は考えていらっしゃらないのですか」  レオネは疑問に思い聞いた。  大富豪で見た目も良くまだまだ若い。そりゃ引く手あまただろうに。やはり妻をまだ愛しているからだろうか。  ジェラルドは淡々と語り始めた。 「ここまで事業が広がった状態で四十間近の男が再婚相手を選ぶとなると、どうしても条件で選ぶようなことになってね。さっき君に反対したような事態が私にも起こるのだよ。そこまで再婚の必要性を感じていないし、息子も今年から私の仕事を手伝い始めたんだ。私が再婚して子供を授かるような事態になると、跡取りの問題が少なからず発生しそうなのも面倒でね」  なるほど。レオネとは立場も状況も違えど、似たように縁談を薦められることがあるのかと若干の親近感が湧く。違いはジェラルドは自身でそれを払いのける力があることだ。 「バラルディさんはそんな大きなお子さんがいらっしゃるんですね。お若いので全くそんな感じがしませんが」  ジェラルドが小さく笑いグラスを傾ける。  目つきは鋭いが時折とても優しげな表情を見せる。  信頼できる頼もしい息子。きっと亡くなった妻のことも大切に想っているのだろう。この人の愛情を当然受け取っているだろう家族がとても羨ましくなってくる。レオネにだって愛してくれる家族はいるのだが、なんだか今はとてもこの男の視界に入りたいという思いが強く胸の奥で膨らんでいる。 深夜になり客はずいぶん減っていた。 エルダが客の居ない場所から片付けを始めている。 「明日の船は何時出港なのですか?」 レオネはふと気になって聞いてみた。 「確か十時だったかな。これで三日間狭いキャビンにあのウーゴと二人生活だよ」  うんざりと言った感じにジェラルドが言い、思わずクスクスと笑ってしまう。  そろそろ彼を解放してやらなければ、と思うのだがこの時間を終わらせることが惜しくてレオネは迷っていた。  チラリとグラスを傾けるジェラルドの横顔を盗み見る。  もう残り少なくなった琥珀色の液体が彼の唇に吸い込まれていく。嚥下に合わせて喉の尖りがゴッと動いた。その頬や唇、喉に自身の唇を這わせたい衝動がこみ上げてくる。男にこんな感情を持ったのは初めてで、レオネ自身が驚く。  もうこれで別れたら一年は会えない。一年後も彼が会ってくれる保証はない。彼はきっと自分のことをなんて忘れてしまうだろう。どうせ今だって彼とは何の関係も無いのだ。だったらどんな醜態を晒しても、何か言って嫌われても同じではないか。  レオネの視線を感じたのかジェラルドがレオネを見た。視線が絡む。 「ん?」  ジェラルドが小さく聞いてくる。  レオネはあわててジェラルドから視線をそらし、自身のグラスを持つ両手に視線を落とした。 「あ、あの……」  まだ決意が出来てないのに口が勝手に開いてしまった。  顔に血液が上るのを感じる。たぶん真っ赤になっている気がする。鼓動もかつて無いほど大きく鳴っている。 「わ、私……、その……今日は車を返してしまったので……帰る脚が無いのです……」  そこまで言って思い切ってジェラルドの顔を見た。ジェラルドは目を見開き固まっている。レオネが何を言い出したのか察しているような……。  もうここまで来たら誤魔化せない。言うしかない。 「……だから、その……貴方の部屋に泊めてもらえませんか……」  語尾が小さくなる。  レオネの発言にジェラルドそのままさらに三秒程硬直した。その時間はレオネにとって永遠に思えるほど長く感じた。  ジェラルドは、はぁーっと大きな溜息と共に左手で自身の両目を覆う。 (やっぱり唐突すぎて嫌われただろうか……。)  レオネは不安と緊張を張り巡らせつつジェラルドを見つめて返事を待つ。『何を考えているんだ⁉』と怒られる気がしてくる。  やがてジェラルドが顔を隠していた手を下ろし、レオネと視線を合わせてきた。そして少し笑いながら言ってきた。 「私は床で寝る気はないけど、いいの?」  口元は笑っているが、瞳には情欲の色が浮かんでいる。レオネはその目に全身が熱くなるのを感じた。 「では、わ、私が床ですかね」  レオネも冗談ぽく微かに笑いながら言ってみる。  顔が熱い。  するとジェラルドはレオネの耳元に顔を寄せ囁いた。 「貴族のご子息を床に寝かせるなんて出来ないよ」

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