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[23] 前妻
「あーっ!待ってそれダメ!」
隣で作業していたジャンが雑草と一緒に鈴蘭を毟り取ろうとしているのに気付き、レオネは声を上げた。
「えっ……」
ジャンが手を止めて固まる。
レオネはジャンの隣にしゃがみ、草をかき分け鈴蘭の株を見せる。
「この幅広い葉っぱは鈴蘭だよ。まだ花がついてないからわかりにくいけど……あ、ほらここに蕾がついてる」
「あ、すみません……」
「ま、段々と覚えていけばいいから」
レオネが笑顔でそう言うとジャンは俯き赤くなった。
季節は五月に入った。
ジェラルドに庭いじりの許可を貰い、麦わら帽子などの小物を用意してもらうとレオネは早速庭に出た。
このバラルディ本邸の庭は庭師のニコラが長年一人で作ってきたそうだ。しかしニコラも高齢で最近は腰を痛めてしまった為、思うように作業が出来なくなってしまった。そこで雇われたのがジャンだ。ジャンはレオネがこの家に来る少し前に入ったそうで、庭仕事は経験がない。
「ジャンはさ、何でこの家に来たの?」
世間話的に話しかける。
ジャンはあまり社交的では無いようで、レオネが庭を手伝うようになった当初は目も合わせてくれなかった。しかし、約ひと月が経ちやっと最近は世間話ができる程度にはなってきた。歳は多分レオネとそう違いは無いだろう。
「あ、えっと……その……都会に出たくて……」
目線は手元に落としたまま、ジャンが答えた。
「元々サルヴィに住んでたわけじゃないのか。どこの出身?」
「……ケッティです」
「え、ケッティなのか?」
ケッティは港町ラヴェンタのすぐ隣だ。レオネの同郷と言っても良い。
「あ、あの僕、海亀亭によく行ってて……」
「そうなの?なかなか居心地いい店だよね」
海亀亭に通っていた頃がなんだか遠い昔のように感じる。
「あ、あの、今度一緒に行きませんか」
唐突にジャンが誘ってきた。一応レオネはここの主の妻でジャンは使用人なのだが、ジャンは初めて就いた仕事でいまいち立場が分かっていないようだ。もっともその妻が麦わら帽子に園芸用手袋をして一緒に雑草取りをしているのだから無理もない。
「うーん、私はもうあそこへは行けないかなぁ」
「……あのタブロイド紙の件ですか?」
ジャンがコソッと聞いてきた。やっぱり使用人達も知ってるのか、とレオネは思った。
「まあ、そうだね。海亀亭に迷惑かけてないと良いんだけど」
先月半ばにジェラルドが手配した記者が書いた記事が大手新聞社の朝刊に掲載された。ロッカ平原で同行取材した内容だ。写真も二枚掲載され、一枚はバラルディ家とブランディーニ家とで撮った集合写真。もう一枚はロッカ平原を眺めながら何やら話し合っているレオネとジェラルドのツーショットだった。いつの間に撮られたのか全く知らなかったが、二人ともとても真剣な表情で仕事仲間のように見えた。
この記事でロッカ平原に飛行船港を造る計画があることが公表され、この婚姻がバラルディ家とブランディーニ家の事業協力であるが強調された。この記事でタブロイド紙の下品な書き方が忘れられると良いのだが……。
「あの、ジェラルド様とは海亀亭で……その……
」
ジャンがタブロイド紙のことを聞いてくる。やはりジェラルドがどう頑張っても市民には下世話な話の方が強く印象に残ってしまうらしい。
「ジェラルドとは、何も無いよ……」
ジェラルドの指示通りにあの夜は会ってないことにする。分かってはいるが胸がキリキリしてくる。
「そ、そうなんですね! 今も寝室は別ですもんね!」
ジャンが声を張り上げて言った。
ゲストルームから新しい部屋に荷物を運ぶ際にジャンにも手伝ってもらったから当然知ってはいるが、そんなにはっきりそれを言われると戸惑う。
「ジャン、あのね。仕える家の者に対して、あの人とどういう関係なのかとか、寝室がどうなのかとか、そんなにあからさまに聞いたり、人に話して良いことでは無いからね」
レオネはジャン本人のこれからも考え、諭すことにした。この家は貴族ではなかったけど、上流階級であることは間違いないし、ブランディーニ家と婚姻関係を結び貴族になったばかりだ。たとえ庭師であってもうっかりした失言が大問題になる可能性がある。
「あ、あの……すみません。レオネ様」
ジャンは素直に謝罪した。
「ま、鈴蘭と同じだ。一つずつ覚えていこう」
レオネは笑顔で返した。ジャンは「はい……」と赤くなり猫背をさらに丸めた。
それから黙々と作業を続けているとニコラがやってきた。
「レオネ様、新しく植えたいものとかありますかね」
手を止めて立ち上がり、麦わら帽子のツバを少し上げてニコラを見る。
「うーん、そうですねぇ」
そして周りを見回した。この庭は実に美しく良く出来ている。これを崩して何かしたいとは思わない。
「このまま手入れしていけば良いと思うのですが」
「ですが、旦那様にレオネ様の好きにさせるように言われてるんですよ」
ジェラルドがそう言ってくれるのは嬉しいし、何か少し植えさせて貰うべきかと思い、ニコラと庭を見て回ることにした。
噴水から続く水路が石畳の小道に添って流れ、薔薇以外にも様々な花や草木が植えられている。石積みの塀には蔓薔薇が巻き付き、花が咲いたら見事なことだろう。
ニコラは薔薇以外にも詳しく、レオネが質問すると丁寧に答え、またレオネの薔薇の知識にも「若いのによく知っとる」と関心してくれた。
そうこう見て回っていると少し葉の茂りが弱い株を見つけた。
「この株はだいぶ弱ってきてますね」
「もう二十年くらい経つ老木ですな。四季咲きで秋にも花をつけるんですが、ここ数年はあまり数もつかねぇですよ」
ニコラの説明に驚く。二十年とはすごい。と言ってもそろそろ潮時か……と思った時、ニコラが続けた。
「その薔薇はエレナ様が好きだったんで、なんとか持たせてきたんです。無くなるともロランド様が淋しがるかと思って」
エレナはジェラルドの前妻のことだ。
「なるほど……」
「色は白なんですが花芯のほうが少しだけ薄紅色になるんです。なかなか可愛らしい花ですよ」
ドナートやジルベルタ、それからマルタとソニアからもジェラルドの前妻エレナの話を全く聞かされていない。レオネのジェラルドへの想いに気付いているからだろう。レオネ自身も知りたいような知りたくないような、単純な嫉妬とも少し違う気持ちがある。そもそも張り合える相手では無いのだ。ジェラルドに愛されてジェラルドの子を産んだ女性。そして幼い息子と夫を残してこの世を去った。それはどれほど無念だっただろうか。
「……エレナ様はどんな方だったのですか」
この薔薇のように可愛らしい方のだったのだろうか。これから咲く花を思い浮かべ思い切って聞いてみる。レオネの想いなど全く知らないニコラは躊躇 うことなく話し始めた。
「とても小柄で素朴な人で。元々はここで働いてた使用人の娘だったんですよ」
「え、そうなんですか?」
レオネは驚いた。ジェラルドは政略結婚ではないだろうと思っていたが。
「小さい頃からジェラルド様とジルベルタ様とエレナ様の三人でよく遊んでたんですよ。ジェラルド様が寄宿舎のある学校に入られて、その後エレナ様も屋敷でメイドとして働いてたんですが、ジェラルド様が卒業されてこのお屋敷戻られたらすぐにご結婚されて。そりゃ驚きましたよ。エレナって皆呼んでたのに、ある日突然『奥様』ですからね」
はははっとニコラが笑う。
(ああ、聞かなきゃ良かった……)
レオネは想像以上に自分がショックを受けていることに驚いた。
使用人の娘と結婚するのにご両親はきっと反対されたはずだ。それでも結婚したのはそれほどまでに彼女を愛していたからだろう。
一夜限りの遊びで寝た男が今や妻と言う肩書で最愛の妻の居た屋敷に居座っている。レオネは都合の良い捌け口としてでも抱いて欲しいと思ってしまうが、エレナと過ごした屋敷でそんなことは出来ないだろう。そもそも可愛らしい女性とは似ても似つかない男らしい筋肉の張った身体だ。きっとジェラルドはもう一度触りたいとも思っていない。ジェラルドの心はきっと今もエレナが妻なのではないだろうか。
「素敵な……お話ですね」
何とか当たり障りない感想を吐き、あたりをぐるっと見回したニコラに言った。
「とりあえず、現状維持かな。またゆっくり考えます」
レオネはそう言ってその場を逃げるように立ち去った。
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