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第25話 信頼の生む力1

「うるっせえな、この時計のアラーム。鼓膜が破れるかと思ったわ……」  綾人は、まどろんでいたベッドのフレームに設置されている、レトロなデジタル時計のアラームスイッチを叩きながら呟いた。あまりに大きな音が鳴ったので慌てて止めたのだが、それでもかなり耳がジンジンしている。  しかし、おかげで他のみんなにも時間になったことが伝わっただろう。そんな風に、前向きに捉えることにした。 「ふわあー。あー、寝ない方が良かったかもしれないな。余計に眠くなった気がする……」  伸びをしながら、眠り足りないと嘆いていると、ビーッと呼び鈴が鳴った。水町と瀬川と陽太がやって来たようだ。タカトがドアを開けようと立ち上がると、応対を待つことが出来ないのか、ドンドンと強くドアをノックされた。 「はいはい、今開けるから。……ちょっと待って! もう遅いから迷惑になるよ!」  そう言いながら、ドアノブに手をかけた。  ノブを回してドアを引くと、僅かな隙間に傷だらけの大きな手が差し込まれた。その手が乱暴にドアを開け放つと、そこから大きな体がグラリと倒れ込んで来た。 「うわっ! え? どちら様ですか?……ちょ、ちょっと!」  そう尋ねると同時に、二人はもつれ合って倒れ込んでしまった。ドスンと大きな音が立ったため、綾人はドアの方を振り返った。 「タカト? どうした?」  なんとなく様子がおかしいのはわかったが、タカトが倒れたこと以外は死角になっていてわからなかった。ドアの方へと駆け寄ってみると、入ってきた男がタカトの上に乗った状態で、二人は倒れていた。  腕の関節を取った状態でその男の正体を確認しようと思い、男の背後へ回ろうとした。そして、ふとその背中を見て目を見開いた。そこには、キラキラと輝く大きな翼が生えていた。 「あれ、お前……瀬川か? どうしたんだ? なんでウルになってんの?」  綾人はウルの肩をトントンと叩きながら声をかけた。身体中のあちこちに小さな血の飛沫のようなものが見えている。その血は、羽の表面にもところどころについていて、よく見ると体にも数箇所様々な大きさの切り傷があった。  綾人がウルに呼びかけると、背中の翼が僅かに動いた。その翼も傷だらけで、ところどころ羽がむしり取られている。疲労が激しいようで、肩で息をしているものの、目は攻撃性は保たれたままで、狭まった瞳孔がこちらを見ていた。  綾人に声をかけらていることに気がついたようで、ウルは綾人の方を見ながらニッと笑った。言葉を発するのが難しいらしく、絞り出すような声でタカトへと呼びかけた。 「た、貴人さ……ま」  首を上げる力も無いようで、すぐにうつ伏せの状態に戻ってしまう。長髪と牙のある顔は、あざがいくつも出来ていた。左目の下には浅いが大きな傷があり、そこから出血して髪が張り付いてベタついていた。  貴人様はウルの声に気づき、すぐにタカトと入れ替わった。そして、倒れ込んでいるウルの顔を覗くと、その傷の様子を見て顔を顰めた。体を見渡し、「こんなになるまでどうした」と言いながら跪いた。ウルの長い金色の髪を手で梳き、その手を頬にそっと添えた。 「すぐに治してやる」  そして、両手でウルを支えると、綾人にその後ろに回るようにと言った。 「悪いがウルの背中を支えていてくれ。こいつは細身に見えるがかなり重いんだ」  そう言われて、綾人は「はい」と返事をしながらウルの背中に回った。背中には、あの大きな翼がある。翼に触れると痛むようで、ウルは「うっ」と呻き声を上げていた。  出来るだけ翼に触れないように注意しながら、背中を支えようとした。しかし、そうしようとするとかなりの力が必要だった。空手をやっているので筋力はある方だと思うのだけれど、脱力した人間を支えるのは想像以上に力が要る。  しかも、天狗の状態の瀬川は、いつもより筋肉量が増えている。翼の重量もあり、四苦八苦してしまう。 「すぐに終わる。多少お前も影響を受けるだろうが、耐えていろよ」  綾人はその言葉を聞いて、あの二度経験した、強烈な浄化の様子を思い出していた。  貴人様の目から火の鳥が現れ、凛華・桃花・陽太の呪玉の呪いを焼き払った日。井上邸で、シュウのケイトに対する記憶を焼き払った日。どちらも、立ち会っただけにも関わらず、とてつもないダメージを受けた。  今日もそれを味わうことになるのだろう。しかも今日は、あの二回とは比べ物にならないほどの至近距離にいる。不安と恐怖が蘇り、気がつくと体が小刻みに震えていた。  情けないが、あの魂の底からくるような恐怖感には、慣れようが無い。それでも、今はウルを助けるために必要なことだと言い聞かせて、自分を奮い立たせるしかなかった。 「立ち向かおうとするな」  綾人の様子に気がついた貴人様が、そう呟いた。綾人は一瞬意味が分からずに、貴人様の顔をじっと覗き込むと「どう言うことですか?」と訊ねた。 「逃れようのない大きな恐怖には、立ち向かうな。怖いと言う気持ちを受け入れろ。同時に意識を外らせ。やるべきことそのものに意識を集中しろ。そうすることで、その恐怖が打ち消せる」  貴人様はそう言いながら、綾人の手をそっと握った。そして、ゆっくりと近づくと、後頭部の髪に手を差し入れた。 「そして、恐れの正体を知れ。事細かくその正体を突き詰めろ。その一つ一つを潰していけば、恐れるものは大体無くなる」  そして、綾人の額に貴人様の額をコツンと合わせ、じっと綾人を見つめた。  綾人には、身を焼かれて死んでいったヤトの記憶がある。炎の熱さ、その熱で皮膚が裂けていく痛み、命が失われていく恐ろしさ……その全てを、まるで自分のことのように知っている。炎を恐れるのは、その記憶のせいでもある。  炎による浄化が、綾人の精神的負担になることは、目に見えていた。そして、この迦楼羅炎そのものが、罪人にはより大きな恐怖を与える火龍の力であるため、罪人だった綾人には罪のない人よりも、恐怖がより強く伝わる。そのことは貴人様も承知の上だ。  争わずに、それを乗り越える精神力を持てと言われているんだなと、綾人は理解した。キュッと唇を結ぶと、試合の時にゾーンに入るような感覚を追い求めた。   ——集中しろ。深く、深く、深く。……もっと、深く。俺がやるべきことは、ウルを支えておくこと。ただ、それだけだ。  貴人様は空いている方の手をウルの胸へとあてた。その口を開き、言葉の羅列を鳴らし始めた。それは、仏教を勉強している人間なら、必ず一度は通る基本の教えだった。 『不要な意識を逸らし、必要なことに集中しろ』  頭の中に、貴人様の声が響き渡った。 『恐れにフォーカスせず、やるべきことを分析して、その全てに全力を注ぐ。余計な気は、読経に集中させる。これなら、出来るだろう?』 ——これ……般若心経だ。あ、そうか、そういうことか。  綾人は貴人様に倣うことにして、繰り返し般若心経を唱えた。声を揃えて音を合わせる。そのことに集中していると、深く集中していく感覚を覚えた。  何度唱えたのかは、もう分からない。そして、綾人は頭の中に、音も時間も存在しない、青黒い深淵の空間を見出した。綾人がいつも空手の試合に出た時にたどり着くゾーンと同じ感覚に、いつの間にか辿り着く事が出来ていた。

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