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終章 自由

「こないだ村の女たちが、海で獲った魚を街の市場にもってったんだよ」 「バルカの友人だって言ったら、みんな喜んで買ってくれたらしいぜ」  レオとドルマンが嬉しそうに声を弾ませた。 「へえ、そりゃよかった」と、バルカも微笑みを返す。  オルグ村は今やこの国にすっかり馴染み、バルカの仲間の半数が出稼ぎの職にありつけるようになった。  力自慢のオルグ数人はハーゲンに雇われ、大工として働くことになった。  武器や防具を拵えていたオルグたちは、後継者不在に悩んでいたフーゴに弟子入りした。  或る者は行商人の護衛として、或る者は娼館の用心棒として雇われている。  元剣闘士であるレオとドルマンも騎士隊の教官となり、こうして度々稽古をつけに城を訪れるようになった。今はその訓練を終えて村に帰るところだ。  バルカはというと、今まで通り、ニコラス王子の近衛騎士として城で暮らしている。 「悪いな、お前らと一緒に暮らせなくて」  謝罪の言葉を告げたところ、二人は首を左右に振った。 「いや、お前の選択は正しいよ、バルカ。俺たちの自由はニコラス様のおかげだ」 「あの人がいないと困るからな。これからもニコラス様を守ってくれよ」 「ああ、任せとけ」 「それに、離れてたって、こうしていつでも会えるしな」 「また村に遊びに来いよ」  軽く言葉を交わし、彼らは城を後にした。  城門の前で二人の背中を見送っていると、 「――本当は寂しいんじゃないか?」  と、背後から声を掛けられた。  振り返ると、ニコラスが立っていた。 「見てたのか」 「強がることはない。いつでも村に戻っていいんだぞ」  強がっているのはどっちだか。  ニコラスの顔を覗き込み、バルカはにやりと笑った。 「俺が村で暮らしたら、あんたが寂しがるだろ?」 「否定はしない」 「ははっ」  妙に素直な態度が可笑しくて、思わず噴き出してしまう。バルカは彼の肩に腕を回して体を引き寄せ、耳元で囁いた。 「なんてな。俺があんたの傍にいたいだけだよ」 「……そうか」  初めは罪悪感があった。他のオルグたちに対して。村の繁栄に力を尽くせないことや、こうして自分だけが城でいい暮らしをしていることを、申し訳なく思っていた。いくらオルグの皆のためとはいえ、この王子に付き従うと決めたのは自分の欲であり、我儘である。だから心苦しかった。  しかし今となっては、自分の欲を優先させることに慣れてきたように思う。欲しいものを欲しいと主張していいのだと、この男が教えてくれた。  それが、自由ということなのだと。 「――あ、そうだ、ニコラス。あんたに折り入って頼みがあるんだけどさ」 「何だ?」 「オルグの村に、学び舎を作ってほしいんだ」  すると、ニコラスは難色を示した。 「何をするにも金がかかる。簡単に要望を呑むわけにはいかない」 「あんたが今つけてるその指輪を売れば、結構な額になるんじゃないか?」  バルカの提案に、ニコラスはむっとした。 「小さな小屋で構わない。それなら金も十分足りるだろ? 駄目か?」  オルグの子供のために教育の場を作ることは、セスの願いだった。どうしても叶えてやりたかった。  ニコラスはしばらく考え込んだ後で、 「……わかった」  と、肩を竦めた。  ため息交じりに「これが惚れた弱みというやつだな」と口を尖らせている。 「代わりに、これやるよ。街の市場で買った安物だけど」  バルカは懐から指輪を取り出し、ニコラスに渡した。  何の装飾も施されていない、ただ鉄を打っただけの質素な品だ。行商人のザルーハの店で売られていたお守りで、昨日そのうちの一つを買っておいた。  ニコラスは目を丸め、まじまじと指輪を見つめている。 「文字が書いてあるな」 「よく知らねえけど、身を守る呪文らしいぜ。意味はたしか、『災いから汝を守る』だったっけ」 「ほう、『永遠の愛を誓う』か」 「……くそ、古代ターランド語読めんのかよ」 「王族の教養を侮ったな」  ニコラスがにやりと笑う。  気恥ずかしくなり、バルカは舌打ちした。 「まあ、こんなちゃちな物、あんたの指には似合わねえか」 「そんなことはない。気に入った」    ニコラスはそれを左の薬指に嵌めると、心の底から嬉しそうに破顔した。 「ありがとう、バルカ。大事にする」  不意に胸が熱くなる。  こんな玩具みたいな安物でも、これほど喜んでくれるのかと。  愛しくて堪らない。  今すぐ抱き締めて押し倒してしまいたい。裸に剥いて、彼の中に欲を注ぎ込みたい。この男といると自身の中の獣のような本能を刺激されてばかりだ。このまま理性をかなぐり捨ててしまいたいところだが、流石に城門の前で手を出すわけにもいかなかった。 「よし、ハーゲンの尻を叩いて、すぐに学び舎を作らせよう」  すっかり機嫌がよくなったニコラスに顔を寄せ、甘く囁く。 「礼は体で払うぜ。何でも命令してくださいよ、王子サマ」  まさか自分が人間にこんな台詞を吐くようになるとは。あれほど命令されることを心底毛嫌いしていたというのに。 「……お前は本当に、私の心を弄ぶのが上手いな」 「あ? おい待て、俺がいつお前を弄んだ?」  聞き捨てならない台詞だった。バルカは眉を顰めた。こんなにも大事にしているというのに。 「自覚がないのが恐ろしい」  頬を赤く染めて目を逸らすその顔があまりにも愛らしく、バルカはニコラスの体を抱き寄せ、唇を奪った。 「汗かいてっから、湯浴みを済ませてくる。先に寝所で待っててくれ」 「……ああ、わかった」 「何なら一緒に入るか? 体洗ってやる」  いい提案だと思ったのだが。  真っ赤に頬を染めたニコラスから、「そういうところだぞ」という非難の声が飛んできた。

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