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8章 告白

 意識のないニコラスを抱きかかえ、バルカはベルシュタット城まで走った。  門番の騎士に助けを求めたところ、彼らはすぐさま城の薬師を連れてきてくれた。現れたのは立派な白い髭を蓄えた、小柄な老人だった。 「すぐに手当てをせねば。ニコラス様を部屋に運んでくれ」  と、その老人は指示を出した。  治療は長時間に渡った。  薬師はニコラスの傷口に軟膏を詰め、慎重に縫い合わせると、その上から薬草を被せた。バルカは傍に付き添い、治療を手伝った。止めどなく溢れる血を布で拭き取りながら、ニコラスに声を掛け続けた。  容態が落ち着いたところで、老人は薬を調合した。ニコラスの魔力を高め、自然治癒を促す薬だと、彼は説明した。材料にはオルグの体液が必要だと言われ、バルカは剣を鞘から抜き、自身の指先を切りつけた。  指先から血が滴る。 「好きなだけ使ってくれ」  この男が助かるなら、いくらでもくれてやる。  出来上がった薬を飲ませたところ、ニコラスの顔色は目に見えて良くなった。それまで荒く苦しげだった呼吸も穏やかになっている。 「これでもう大丈夫じゃろう。熱が出るかもしれんが、命の心配はない」 「今夜は俺が看てるから、爺さんはもう休んでくれ」  すでに空が白みはじめていた。薬師を家に帰したところで、バルカは寝台に腰を下ろし、深く息を吐いた。  まだ手が震えている。  意識のないニコラスの体を抱き締めている間、バルカはこの上ない恐怖を覚えた。  闘技場で魔獣と対峙した時にも、ドルガ帝国三万の軍勢に囲まれた時にも感じたことのないような、底知れぬ恐ろしさだった。  この男の命が消えることが、怖かった。  それは、オルグの未来が危ぶまれるからではない。彼の死によって自分たちがどのような不利益を被るかなどということは、一切頭になかった。  打算や損得勘定ではなく、ただ単純に、この男を失いたくなかったのだ。 「……バ、ルカ」  ふと、自分を呼ぶ声が聞こえた。  ニコラスの意識が戻ったようだ。  上体を起こそうとする彼の背中に、バルカはそっと手を添えた。 「気分はどうだ?」 「……ああ、悪くない」 「そりゃよかった。薬師の爺さんに感謝しねえとな」 「ネーゲルが手当てしてくれたのか」  聞けば、あのネーゲルという老人は元々レンハイム公国で薬草の研究をしていたそうだ。ニコラスは留学中に彼と知り合い、後にこの城の薬師として招いたという。薬の知識だけでなく、医療技術も持ち合わせた、有能な人物らしい。 「喉が渇いたろ? 水を注いでくる」  バルカは腰を上げ、水差しに手を伸ばした。  ふと手を止め、呟く。 「……俺のせいだ。すまねえ」  あの少年の狙いは自分だった。今回の一件は、彼のオルグに対する憎しみが招いたことだ。無関係のニコラスを巻き込んでしまった。 「気にするな」 「助けてもらったから礼は言うけどな、二度とあんな真似すんじゃねえぞ」 「体が勝手に動いてしまった」 「護衛を庇う王子がいるかよ、馬鹿」  水の入った器を手渡しながら、溜息を吐く。  ニコラスが中身を飲み干したところで、バルカは告げた。 「俺は、オルグの村には行かない」  ニコラスは驚いていた。  眉を顰めて問い返す。 「お前、何を言って――」 「こんな危なっかしいところ見せられたら、あんたを独りにするわけにはいかねえだろ」  すでに心に決めたことだ。約束の五十日が過ぎても、彼の騎士でいる。それがバルカの出した答えだった。 「ここに残る。あんたには恩もあるしな」  頷いてもらえると思っていた。彼もきっとそれを望んでいるだろうと。  ところが、ニコラスの反応はバルカの期待するものではなかった。 「よせ、バルカ」  彼は厳しい表情を浮かべ、首を振った。 「私に恩義を感じる必要ない。すべては私自身のためにしたことだ。気を回さずとも、今後もオルグたちの面倒は見てやる」 「違う、そういうつもりじゃ――」 「村で仲間と共に暮らせ。それがお前の幸せだ。そのために今まで戦ってきたのだろう?」  突き放すような彼の言葉が胸に突き刺さり、痛みを伴う落胆がじわりと心に広がっていく。  自嘲せざるを得ない。  何を自惚れているのだろうか、と。  ただの奴隷上がりの分際で、思い上がりも甚だしい。 「……まあ、そうだよな」  当然だ。俺みたいな元奴隷の野蛮人が、王子サマの周りをうろついてたら、迷惑をかけるだけだろうに。――バルカは心の中で呟いた。  人間とオルグ。王族と元奴隷。  所詮は住む世界が違うのだと、改めて思い知らされる。 「あんたに仕えるのは五十日間って話だった。まだあと五日残ってる。せめて、約束だけは守らせてくれ」  このまま彼の元を去りたくはなかった。  バルカの足掻きを、ニコラスは「お前がそうしたいなら、好きにするといい」と承諾した。  その後、ニコラスは再び眠りについた。  彼の寝顔を見つめているうちに、バルカの心の中に狂暴な感情が沸き上がってきた。  一緒に居られないのならば、いっそのこと彼をここから連れ去って、オルグの村に閉じ込めてしまおうか。  一生、自分から離れられないように、鎖で繋いで。  このまま彼を犯し、無理やり自分のものにしてしまいたいとさえ思った。  しかしながら、それはできなかった。今まで自分が人間に受けてきたような仕打ちを、この男に強いるわけにはいかない。  汚らわしい欲望をなんとか押し殺しながら、バルカはニコラスの顔に手を伸ばし、汗で湿った髪の毛をそっと撫でた。  もう、とっくに気付いている。  この人間を愛してしまったのだ、と。  あれほど憎んでいた人間にこのような感情を抱くなんて、思いもしなかった。 「あと五日、か……」  それが終われば、自分は騎士でも何でもない、ただのオルグの村人になる。もう、こんな風に、この男に触れることは許されないだろう。  人間の世界とは面倒なものだな、と思う。身分の差なんて、これまで考えたこともなかった。人間とオルグの二種類しかいなかったから。  今更になって、手の届く相手でないことを思い知らされるとは。 「……厄介なのに惚れちまったな」  バルカは身を屈め、ニコラスの額に口付けを落とした。     ■ ■ ■  それからニコラスは三日ほど寝込んだ。  その間、バルカは彼の傍につきっきりだった。食事を食べさせたり体を拭いたり、薬を飲ませたりと、甲斐甲斐しく世話を焼きながら、この時間が永遠に続けばいいと思った。  内なる想いを伝える勇気はなかった。一介のオルグが好意を告げたところで、相手をただ困惑させるだけだろう。ニコラスは王族だ。仮に自分が人間だったとしても、身分違いの、叶わぬ恋なのだ。  という話をロイに打ち明けたところ、彼は「俺からお前を推薦しようか」と提案した。騎士宿舎の食堂で夕食を食べているときのことだった。 「バルカの戦力は必要だから城に残してくれ、ってさ。そうすれば、近衛騎士にはなれなくても、騎士隊としてここに残れるはずだ」  ニコラスの傍にはいられないが、城に居る限り顔を合わせる機会は生じる。たしかにそれは名案だと思う一方で、手の届くところに手の届かない相手がいるという状況は、なかなか堪えるものがある。 「……つーか、それ以前の問題なんだよなぁ」  バルカは深い溜息を吐いた。 「どういうことだ?」 「あいつには、惚れた男がいる」  頭を過る。レンハイムでのニコラスの言葉が。彼が憧れ、恋焦がれている男の存在が。  どう転んでも自分に勝算はないのだ。だったらやはり、このまま彼と離れ、想いを風化させていくべきだろうか。  そんなことを考えていると、 「それがどうした」  唐突に話に割り込んできた者がいた。  ギデオンだった。 「惚れた男がいようが、関係ねえだろ。こっちに惚れさせりゃいい話だ」  遠慮なく隣に腰を下ろす男に、バルカは「盗み聞きかよ」と顔をしかめた。 「あの王子を骨抜きにしちまえ。剣闘士時代に培った技を駆使して、お前なしじゃいられない体にしてやるんだ」  にやにやしながらバルカの肩を小突く男に、ロイも「お前は本当に下品な奴だな、ギデオン」と呆れている。 「それが出来るなら、とっくにやってる」 「無理やり押し倒したか? 試しにやってみろよ。運が良ければ抱かせてもらえるだろ」 「運が悪けりゃ処刑されるぞ」  助言したいのか冷やかしたいのかわからないギデオンの言葉を聞き流し、バルカは椅子から腰を上げた。  夕食を済ませたところで、騎士宿舎を後にする。向かった先は城の裏庭。ここには古い小屋があり、薬師のネーゲルが暮らしている。 「爺さん、今日の分の薬を取りにきたぜ」  バルカは扉を開け、中に入った。  ネーゲルはちょうど作業をしている最中だった。薬草をすり潰していた手を止め、こちらに顔を向ける。 「来たか、バルカ」  薬師の小屋は興味深いものだった。まるで魔女の棲む家みたいだ。珍しいものばかりが目に留まる。様々な色形をした草や花、魔獣の骨、動物の皮、蜥蜴の尻尾や虫の脚。小屋の中を物色しながら、バルカは「こんなもんまで薬になるのか?」と首を捻った。 「ニコラス様の具合はどうじゃ?」 「元気だよ。元気すぎる。酒を飲ませろって煩えんだ」 「代わりにこれを飲ませてやれ」  ネーゲルは飲み薬の入った小瓶をバルカに渡した。  さらに、 「それと、傷口にこれを塗ってやってくれ」  と、彼が手渡してきたのは、掌に載るくらいの小さな壺だった。蓋を開けてみたところ、中には軟膏のようなものが詰まっていた。少し緑がかった色で、独特の匂いがする。  その匂いを嗅いだ瞬間、バルカの記憶が一瞬にして呼び起こされた。  ――この薬を、知っている。  過去に使ったことがある。  剣闘士だった頃の話だ。  いつも試合の後、手紙と共に傷薬を届けてくれる観客がいた。顔も名前も知らない、見ず知らずの人間からの贈り物。  それがまさに、この軟膏と同じ匂いだった。 「なあ、これって……傷薬だよな?」  バルカが尋ねると、ネーゲルは「そうじゃよ」と答えた。 「どこで買えるんだ?」 「買えんよ。儂が独自に調合したものじゃから」 「……あんたが?」 「そうじゃ。昔な、ニコラス様に頼まれたんじゃよ。『お気に入りの剣闘士がいつも怪我をするから、よく効く塗り薬を作ってほしい』と」 「え――」  まさか、と目を見開く。  一縷の期待を抱きながら、バルカは尋ねた。 「……その、お気に入りの剣闘士って、誰だ」 「さあ、名前は聞いとらんが」  ネーゲルは懐かしそうに目を細めた。 「ニコラス様はいつも嬉しそうに話しとった。闘技場で一、二を争うほど強いオルグでな、試合を観て一目惚れだったそうじゃ。なんでも、その剣闘士は双剣使いで盾を持たないから、よく怪我をするんじゃと――」  間違いない。  これは、自惚れなどではない。  驚きやら喜びやら、いろんな感情が洪水のように押し寄せてくる。  思わず緩む口元を、バルカは掌で覆い隠した。 「……ん? どうしたバルカ、顔が真っ赤じゃぞ」  ネーゲルはきょとんとした顔で首を傾げていた。     ■ ■ ■  ニコラスの自室を訪れたところ、当の病人は寝台を抜け出し、窓の外を眺めていた。 「寝てろって言っただろ」  バルカの小言に、ニコラスは悪びれもせず「もう治った」と返す。 「ほら、今夜の分の薬だ」 「酒は?」 「いいから飲め」  渋々、ニコラスが小瓶の中身を飲み干す。その眉間に皺が寄った。 「口うるさい奴だ」 「なんだよ、その言い草は。あんたのために言ってやってんのに……」  口を尖らせたバルカに、ニコラスが小さく笑う。 「お前がこんなに甲斐甲斐しい性格だとは思わなかった」 「……甲斐甲斐しいのはそっちだろ」  バルカはそう言い、例の薬壺をニコラスに見せた。  その壺を見た途端、ニコラスの顔色が変わった。やはり心当たりがあるようだ。 「あの手紙の送り主、あんただったんだな」  淡い期待を抱きながら、バルカは問い質した。 「お気に入りの剣闘士のために作らせた、って聞いた」 「……ネーゲルめ、お喋りな奴だ」  ニコラスは否定しなかった。苦笑し、肩をすくめている。 「わかった、すべてをお前に話そう」  寝台に腰かけ、ニコラスは徐に口を開いた。 「私が過去に誘拐されたことは、知っているか?」 「ああ、噂で聞いた。近衛騎士に裏切られたって」  バルカは頷いた。ロイから聞いている。  ニコラスが十七のときの話だ。その一件で彼は誰も信用できなくなり、すっかり塞ぎ込んでしまった。何年も部屋に閉じこもっていた、と。 「兄のダリアスが、そんな私を心配し、外に連れ出してくれたんだ。ある日、兄は私をドルガ帝国の闘技場へと連れていった。そこで生まれて初めて剣闘士の試合を観戦した。……お前の試合だった」  その日の出来事を、ニコラスは懐かしそうに語る。 「お前の戦いぶりに一目で心を奪われたよ。気絶した相手のオルグに、お前は止めを刺さなかった。命令に逆らえば処刑されるだろうに、お前は自分の誇りを貫いた。圧倒的な強さと、その気高き心に私は感動し、思わず立ち上がって拍手をしてしまった」 「じゃあ、あのときの観客は――」  今でもよく覚えている。その男のことを。彼の行為に、自分の命は救われたのだ。  まさか、あの来賓客がこの男だったとは。  ニコラスは頷き、言葉を続けた。 「お前は強くて、美しかった。私はお前の姿に感化され、いつまでもこのままではいけないと思い直した。だから、お前のように強くなろうと、魔術を学び始めたんだ」  そう言って微笑むニコラスは、あのときと同じ顔をしていた。  あの日、レンハイムの宿屋で、憧れの男について語ったときと同じような。甘い熱を帯びた眼差しでバルカを見据えている。 「レンハイムの魔法研究所に留学してからも、お前の試合は必ず見に行った。手紙とその薬を贈ることしかできなかったが、一度だけ、大金を払って夜宴に参加したことがある。お前は常に女に囲まれていて、なかなか声を掛けられなかったが……勇気を出して告白したんだ」  バルカが夜宴で男を相手にしたことはなかった。誰に声を掛けられても、答えはいつも同じだった。『悪いが、男には興奮しねえんだよ』――そう言ってあしらってきた。  そんなバルカに、真剣に思いを告げた男は、一人しかいなかった。  もしかして、と気付く。 「他の貴族に襲われて、半泣きになってたな。俺が助けてやらなかったら、あのまま犯されてただろ」 「覚えているのか?」  ニコラスが意外そうに目を丸くする。 「あんなに必死に接吻を強請ってきた奴、初めてだったからな。遊び慣れてない田舎の貴族かと思っていたが、まさか一国の王子様だったとは」 「おかげで一生の思い出になった」  バルカの言葉に、ニコラスは苦笑を零した。 「魔術の修行に明け暮れているうちに、お前の養成所で反乱が起こったと聞いた。半数が逃げ出し、残りの半数は捕まり、処刑されたと。てっきりお前も死んでしまったと思っていた。……だから、あの日、反乱軍の中にお前の姿を見つけたときは、涙が出るほど嬉しかった。絶対に死なせるわけにはいかないと思った」 「だから、俺たちを生け捕りにしたのか」 「そうだ」  ニコラスは静かに溜息を吐いた。 「欲が出てしまった。あの夜宴の日に叶わなかったことが、今なら叶うと思った。ただ思い出に、最後に一度だけ、お前に抱かれたかった。だから伽を命じた。……だが、一度抱かれてしまえば、もっと手放せなくなってしまった。どうにか理由を付けて、お前を傍に置いておきたかった」  ニコラスは頭を垂れた。 「すまなかった。私のしたことは、お前の尊厳を傷つけるものだった」 「そんなことはもう、どうでもいい。あんたにもらった恩に比べたら――」  いや、とニコラスは首を振る。 「あの政策だって、オルグのためでも国のためでもない。自分のためだった。……ただ、お前に好かれたくてやったことだ」  視線を上げ、バルカを真っ直ぐに見据えると、 「愚かな男だろう?」  と、ニコラスは目を細めた。  初めて見せるその甘い微笑みに、バルカは胸が締め付けられる思いだった。 「俺に惚れてんなら、最初にそう言えばよかっただろ。なんで今まで黙ってたんだよ」  それほどまでに自分を想ってくれていたなんて、知る由もなかった。自分への気持ちも、オルグ村の計画のことも、すべて話してくれていたら、これほど遠回りをせずに済んだはずだ。あんなに酷く抱くこともなかっただろうし、彼に対して礼節を欠いた態度を取ることもなかった。  すると、ニコラスは苦笑を浮かべた。 「私がお前への想いを打ち明けたら、お前は仲間のために自分を犠牲にする。私の機嫌を取るために自分を押し殺したはずだ。そうだろう?」  否定はできなかった。もし仮に、あの夜に真実を知らされていたら――自分と仲間の命を握っている人間が、自分に好意を寄せているとなれば、それを利用しない手はない。この男に取り入るため、自由を諦め、心を殺し、喜んで奴隷に成り下がっていただろう。 「たしかに、最初はそうかもしれねえけど……でもな、ずっとあんたの傍にいて、あんたのことを見てたら、結局は今と同じ結果になってたと思うぜ」  バルカの言葉に、ニコラスは眉を顰めている。 「……どういう意味だ?」  バルカはニコラスに歩み寄った。彼の腰に手を回し、抱き寄せる。 「こういう意味だよ」  顔を覗き込むように身を屈め、そのまま彼の唇に口付けた。  ニコラスは驚き、目を丸くしていた。  その顔を真っ直ぐに見つめ、バルカは告げた。 「俺も、あんたに惚れてる」  最初は心底嫌いだった。嫌な奴だと思っていた。  今思えば、あの酒場での一夜が始まりだったのかもしれない。王子のくせに変な奴だと思った。この男を知れば知るほど、憎しみが薄れていった。国民に慕われている姿を見て、やがて尊敬の念を抱くようになった。  彼が時折自分に向ける情のようなものが、くすぐったくて、そして同時に心地よくて、離れがたくなった。  そして、いつしか、彼の傍に居たいと思うようになっていた。  この男は自分の世界を変えてくれた。絶望や憎しみではなく、希望と幸せに満ち溢れたものへと。  それだけではない。人間や、貴族や王族に偏見を持っていた自分自身すらも、変えてくれた。 「俺なんかが手の届く相手じゃないってことは、わかってる。……だけど、好きになっちまったんだ」  バルカは床に片膝をつき、ニコラスを見上げた。  頭を垂れ、忠誠を誓う。 「贅沢は言わない」  近衛騎士でも、恋人でもなくていい。 「奴隷でいい。あんたの傍に居られるなら、一生奴隷のままで構わない」  バルカ、と自分を呼ぶ声がした。声が震えていた。ニコラスが床に両膝を付き、顔を覗き込んでくる。 「奴隷なのは、私の方だよ」  ニコラスが優しく微笑んだ。その美しい瞳から、一筋の涙が零れ落ちていく。 「初めてお前の試合を観た、あの日からずっと……私はお前の奴隷なんだ」  バルカはニコラスの身体を強く抱きしめた。そして、もう一度口付け、彼の頬を伝う涙を指先で拭った。 「体が治ったら、あんたを抱きたい」  唇でニコラスの耳に触れ、囁くように告げた。 「言っただろう? もう治った、と」  ニコラスは目を細め、バルカの頬に手を添えた。誘うようなその眼差しに中てられ、眩暈がする。  抱きたい、今すぐに。この男を。その躰を貪り、奥まで愛し尽くしたい。 「まだ駄目だ、傷に障るだろ」  だが、ニコラスはまだ本調子ではなかった。傷は塞がっているように見えても、体はまだ回復しきれていない。しばらく寝込んでいたせいで体力も落ちている。  そんな彼を、今の自分が抱いてしまったら――今度こそ本当にヤリ殺しかねないだろう。バルカは理性を奮い立たせ、どうにか誘惑に抗おうと努めた。 「バルカ」  追い打ちをかけるように、ニコラスが甘い声で呼ぶ。 「お前が欲しい」 「……我慢してんだから、煽んなって」  諫めたところで素直に言うことを聞くような男ではない。ニコラスはくすりと笑った。緩慢な動きで、まるで焦らすかのように服を脱ぎ、白い肌を晒す。 「おい馬鹿、なにやってんだ」 「ほら、見ろ。傷はほとんど塞がっている。だから――」  視線を逸らそうとしたが、叶わなかった。その美しい裸体から目が離せない。 「ニコラス、やめてくれ。頼むから」  これ以上、俺を挑発しないでくれ。 「バルカ」 「駄目だって言ってるだろ」  その言葉とは裏腹に、体が勝手に動いてしまう。ニコラスの肌に触れようと、手を伸ばす。まるで花の蜜を求める蝶のように、彼の躰に引き寄せられていく。 「あんたを傷つけたくない」  滅茶苦茶にしたい。だけど、大事にしたい。  相反する感情がせめぎ合い、バルカを苦しめている。頭がおかしくなりそうだ。  なんて贅沢な苦痛だろうか、とバルカは思った。どちらに転んでも、その先に待っているのは幸福でしかない。 「お前の気持ちは嬉しいが……あまり焦らすと、最終手段を使うぞ?」  痺れを切らしたニコラスが仕掛けてきた。バルカの掌に、彼の指が絡みつく。 「なんだよ、最終手段って」 「お前に伽を命じる」  バルカの手の甲に口付けを落とし、ニコラスは悪戯っぽく笑った。 「命令を聞かないなら、縛り首にしてやる」  甘い声で物騒な言葉を吐くニコラスに、バルカは思わず笑ってしまった。 「おいおい、とんだ暴君だな」 「知っているだろう? 私はお前を手に入れるためなら、何でもする男だと」  そう言って愛らしい微笑を浮かべる彼を前にしては、理性の壁など何の役にも立たなかった。もう限界だ。バルカはニコラスの体を抱え上げると、寝台の上にそっと降ろした。  こうして閨を共にするのはあの夜以来である。初めて伽を命じられたときは一切欲情しなかった相手に、まさかこれほど身を焦がすことになるとは。 「あのときは悪かったな……酷い抱き方をしちまった」  思い返せば後悔が芽生える。あのとき憎しみを込めて噛みついた肩口を優しく撫でながら、バルカは詫びの言葉を告げた。 「気にするな。私が望んだことだ」 「痛かったよな?」 「そんなことはない」  ニコラスは青い瞳をうっとりと細めた。 「ずっと恋焦がれていた男に抱かれて、あの夜は本当に幸せだった」  あんな凌辱紛いの情事で満足されては困る。  口角を上げ、バルカは服を脱ぎ捨てた。 「本当の幸せがどんなもんか、今からじっくり教えてやんねえと」  鍛え上げられた肉体に押し倒されたニコラスは期待に頬を染めていた。バルカの後頭部に手を回し、自分の方へと引き寄せる。鼻先が触れ合いそうな距離で見つめ合う。 「剣闘士のお手並み拝見だな」 「ああ、骨抜きにしてやるよ」 「それは楽しみだ」  誘うように口を開き、赤い舌をちらつかせる。バルカはその唇を貪った。  唾液が絡み合い、卑猥な水音が鳴り響く。 「ふっ、……んっ、はぁ」  息継ぎの合間にニコラスが吐息を漏らす。舌や上顎を擽るように舐めてやると、バルカの頭を抱きしめる腕に力が入った。  さらに激しく口付けを交わす。ニコラスの顔は蕩けきっている。その余りの色気に、バルカの心臓は弾んだ。  もっと見たい、と思う。  接吻だけでこんな顔をするのなら、ここを弄ったらどうなってしまうのだろうか。どこまで乱れるのか、この男の反応が見たくなった。  彼の股の間に手を這わせたところ、その細い腰が軽く跳ねた。 「あっ、ん」  欲に突き動かされながら、彼の一物を丁寧に扱く。男には興奮しないと散々拒絶してきたくせに、嫌悪感は微塵もなかった。それどころか、気は昂る一方だ。 「濡れてきたな」 「ここも……触ってくれ」  ニコラスがバルカの手を取り、さらに下の方へと誘う。恥じらいながらも股を開くその姿があまりにも淫らで、バルカは思わずごくりと喉を鳴らした。  バルカを求めてひくつくその穴に、唾液を絡めた指をそっと挿し込む。  その瞬間、ニコラスが「んっ」と息を詰めた。 「はぁ、オルグは、指も太いな、っ……」 「気に入ったか?」 「ふふ、ああ……お前の体は、どこも男前だ」  薄く笑い、ニコラスが艶めかしい溜息を吐く。  中は狭く、熱い。  遠慮がちに指を押し込みながら、バルカはニコラスの顔を覗き込んだ。 「大丈夫か?」 「……大丈夫では、ない、っ」  ニコラスが切なげな顔で首を振るので、バルカは指を引き抜こうとした。  それを引き留めようと、バルカの指を追いかけるように、ニコラスが腰を突き出す。 「お前に触れられると、中が疼いて仕方がないんだ……」  どうにかしてくれ、と声にならない声でニコラスが囁く。  頭を抱えたくなる。 「ああ、もう……お前、いい加減にしろよ」  理性が焼き切れ、獣に成り果ててしまいそうだ。無体を働いてしまわないよう、バルカは沸き上がる興奮を押し殺した。ゆっくりと抜き差しを繰り返しながら、ニコラスの反応を探る。どこを弄られるのが好きなのか、彼の心地のいい場所を知りたかった。声や表情の変化を見逃さないよう注視しながら、丁寧に中をまさぐり続ける。 「ふぁ、あっ、ん」 「良い声だ……もっと聞かせてくれ」  穴の縁を擽るように刺激すると、彼の内腿が小刻みに震えた。中の少し膨れたところを強く押すと、彼の唇から高い嬌声が漏れた。指を一本増やすと、彼のつま先に力が入った。中の壁を引っかくように擦ると、彼は悩ましげに腰をくねらせた。  快楽を感じやすい体質なのか、反応が良い。バルカの指の動きによってニコラスの表情も変わる。眉を寄せたり、唇を噛んだりして快楽をやり過ごそうとする姿は、どれだけ見ていても飽きない。 「ああっ、そこ、は……っ、だ、だめだ――」 「最初に抱いた夜も、そんな顔してたのか?」  普段の冷ややかな仏頂面からは想像もつかない、情熱的で耽美な表情。  これを見逃していたというのなら、なんとも惜しいことをしたものだ。乱れるニコラスの姿を目に焼き付けようと、バルカは身を乗り出し、顔を寄せた。  ニコラスがバルカの肩を押し、恥ずかしそうに顔を逸らす。 「……そんなに、見るな」 「いいじゃねえか、見せてくれよ」  顎を掴んで強引にこちらを向かせると、彼は「いやだ」と拗ねたように口を尖らせた。赤く染まった頬を両手で覆い、顔を隠そうとする。  意外と可愛いことするものだ、とバルカは思った。あの夜は平気な顔で四つん這いになっていたくせに、今は見つめられただけで恥ずかしがるなんて。なんだかちぐはぐな感じがして。可笑しかった。 「隠すなよ」 「……もう、揶揄うな」 「俺があんたに興奮してる顔、見たくねえの?」  にやつきながら尋ねると、ニコラスはすぐに手を退けた。 「……見たいに、決まっているだろう、っ」  顔を隠していた両手が再びバルカの首に回る。 「ほら、これ見ろよ」  バルカは自身の腰をニコラスの体に押し付けた。股の間に熱が集まり、固く膨らんでいる。 「あんたのせいで、男にも勃つようになっちまった」 「……あ、っ」  その猛りを肌で感じ、ニコラスははっと息を詰めた。いきり立つ一物に熱を帯びた視線を向けて呟く。 「お前が私に、こんなに興奮してくれるなんて……」  ニコラスは感極まり、声を震わせた。本当に俺のことが好きなんだなと、つい頬が緩んでしまう。 「あのとき、お前の誘いを断るんじゃなかったな……勿体ないことをした」  バルカは苦笑を零した。  夜宴で声を掛けられたときに抱いておくべきだった。これほどいじらしい男を平気で袖にした過去の自分を叱りつけたい気分だ。こんなに感じやすく、淫らなこの躰だと知っていれば、食わず嫌いをせずに済んだだろうに。 「いつ見ても、すごいな……こんなに大きくて、太くて……」  ニコラスの掌がバルカの股に触れた。陰茎に浮き出た血管をなぞるように指先で撫でる。 「……物欲しそうな顔しやがって」 「はやく、いれてくれ……もう、我慢、できない――」  ニコラスが見せつけるかのように足を大きく開き、はしたなく強請った。 「はやく、ここに――」  興奮が突き抜け、息が荒くなる。バルカは歯を剥き出した。 「我慢できねえのはこっちだっての、っ!」  はち切れんばかりに勃起し、どくどくと脈打つ性器に手を添え、 「散々煽りやがって……覚悟しろよ」  と、ニコラスを睨むように見下ろす。  バルカは薬壺を開け、反り返った一物に傷薬の軟膏を塗りだくった。滑りをよくしてから、すっかり柔らかくなった彼の中に侵入する。  体の傷を刺激しないよう、ゆっくりと、少しずつ腰を進めていく。 「痛くねえか?」 「大丈夫、だから、……早く、っ」  バルカの頭に細腕が伸びる。引き寄せられるままに唇を重ね、舌を絡め合う。  口付けを施しながら奥を突いた瞬間、 「あ、ああっ!」  ニコラスの体が大きく弾んだ。  甲高い嬌声を上げた直後、腰をびくびくと小刻みに震わせている。  彼の腹は精液で汚れていた。どうやら挿入しただけで果てたらしい。 「……すまない、先に達してしまった」  と、掠れた声で色っぽく囁く。 「少し休むか?」 「いや……」  ニコラスは首を振り、バルカの右手を胸元へと誘った。 「次はここも、触ってくれ……っ」 「……くそ、堪んねえな」  つんと尖った乳首を指先で擽りながら中を擦ると、ニコラスの体はさらに悦んだ。刺激を求め、彼の両足がバルカの腰に絡みつく。  胸に舌を這わせ、乳頭をなぞるように舐めてやる。赤く熟れた乳輪を口に含み、突起の先を舌でこねるように弄ると、ニコラスの声が高くなる。 「あっ、ああ!」 「ここ吸うと、中が締まる」 「んっ、そこ、……もっと、っ」  そんな風に強請られてしまえば、こちらも我慢できなかった。胸を舌と指で嬲りながら、奥を擽るように腰を揺すっては、ゆっくりと抜き差しを繰り返す。  その甘い刺激に、ニコラスが身悶えた。 「そ、んなにっ、両方、されたら――」 「気持ちいいか?」 「い、いっ、すごく、あっ、また、くる、っ――」  ニコラスが再び果てた。背中を仰け反らせ、体を痙攣させている。吐き出された白濁が体を汚す。  接吻をしようと顔を上げれば、ニコラスと目が合った。熱っぽく、潤んだ瞳で見つめられ、思わず胸が高鳴る。 「バル、カぁ……愛して、る……あっ、ん」  言葉にできない感情が心の奥底から溢れ出す。 「ずっと、お前のことが、ぁ――」 「……ああ」  狂おしいほどの愛しさに胸を焦がしながら、 「俺も、愛してる」  バルカは目を細め、囁いた。  おかしくなってしまいそうだ。何も考えられない。この男のこと以外は。  ただ彼を悦ばせることだけを考えていた。じっくりと抉るように、自身の先端をゆっくり奥に押し付ける。  ニコラスの体が震えた。 「そんなに、気を遣わなくて、いい、っ」  眉根を寄せて告げる。 「お前の好きなように、動け――」 「俺のことはいいから」  自分の中にこんな感情があるとは知らなかった。この男に尽くしたい。見返りはいらない。愛撫に悦ぶ彼の姿を見ているだけで、心が満たされていく。  それと同時に、欲に火がつく。もっと気持ちよくなってほしい。俺の体を感じてほしい。俺の手に、この一物に、溺れてほしい。そんな感情を持て余しながら、バルカはニコラスの体を追い詰めていく。  そのときだった。  パチン、と指を鳴らす音が聞こえてきた。  直後、視界が反転し、バルカの背中は寝台に沈んでいた。  繋がったまま、位置が入れ替わっている。 「……こんなことに魔法使うなよ」  呆れてため息をつくと、バルカの上に跨ったニコラスが、してやったりの顔で笑みを返した。 「お前が、加減なんかするからだ」  体に障らないよう、硝子細工を扱うかのように丁寧に抱いていたのだが、ニコラスはそれが気に入らないらしい。不満そうに口を尖らせている。 「先程から、私ばかりが達してるじゃないか……お前にも、気持ちよくなってもらわないと」 「なってるよ、十分」  バルカは上体を起こし、ニコラスの体を抱き締めた。 「あんたの中にいるだけで、すっげえ気持ちいいんだ」 「ん、っ……」  鎖骨に口付けを落とす。それから、彼の耳元で囁いた。 「こうして繋がってるだけで、満足しちまってる」 「……っ」 「あ、今ナカ締まったな。……興奮したか?」 「……した」  ニコラスが顔を赤らめて頷き、バルカの上で腰を振り始めた。その度に彼の腹筋が収縮し、腹の傷痕が動く。そんなに張り切ると傷が開いてしまうのではないかと、バルカは心配で堪らなかった。 「病み上がりなんだから、無理すんなよ」 「大丈夫、だから、っ」  バルカの心配を余所に、ニコラスは腰の動きを速めた。 「あぁ、奥、当たる、っ……いい、はっ、あぁ」 「……っ、くそ……っ」  喘ぐ度に彼の中がうねり、バルカの雄を絞るように締め付けてくる。せり上がってくる昂りを抑えきれなかった。ニコラスの腰を掴み、強く突き上げると、バルカは彼の中に精を吐き出した。腰を揺するように動かし、奥へと注ぎ込む。 「ああ、……熱い……」  嬉しそうに微笑むニコラスの顔に手を添え、親指で優しく頬を撫でながら、唇を重ねる。 「……わかった、俺の負けだ」  バルカは再びニコラスの躰を抱え上げた。寝台に寝かせ、彼の上に覆いかぶさる。 「もう手加減しねえからな」 「ふふ、望むところだ」  後ろから一度、押し倒して一度、再び上に乗らせて一度。  長い時間を掛けて可愛がった甲斐もあってか、ニコラスはたかが外れたように激しく乱れていた。暴力的なまでの色香を醸し出す男に、バルカの腰は止まらなかった。いくら射精しても萎えることはない。昂りがおさまらない。欲望のままに、バルカはニコラスを貪った。 「あ、っ……また、いく、っ……あぁ」  もう一度、正面から抱き合う。もう何度気をやったかわからないニコラスの体は、精を吐き尽くしていた。四肢は力なく投げ出され、空になった性器はだらりと垂れている。それでも快楽は容赦なく彼を攻め立てた。 「あっ、駄目だ、そこは――」 「は、駄目じゃねえだろ? 腰、勝手に動いてるぞ」 「ああっ、もう、これ以上は、おかしくなる、っ」 「いいじゃねえか……俺だって、とっくにあんたに、おかしくなってる」  射精を伴わない絶頂を迎え、押し寄せる快感にニコラスが善がり狂う。 「ん、あっ……もっと、きて、バルカ……私を、犯して、――」 「く、っ……はっ、はぁ……俺も、もう、っ」 「あぁ、バルカ、バルカぁ……っ!」  そんな声で名前を呼ばれたら、抑えが利かなくなる。達した余韻で震える彼の腰を掴み、バルカは激しく突き立てた。  何度も穿ち、彼の中を自身の精液で満たしていく。  ――俺の、だ。  誰にも渡さない。この男は俺のものだ。強烈な独占欲に支配されながら、バルカはニコラスの体を掻き抱いた。 「……愛してる、ニコラス」 「もっと、呼んで、……なま、え……っ」 「ニコラス、……ニコ、ラス……」  強く抱き締め、最後の一滴まで注ぎ込む。  激しく犯されて悦ぶ姿に煽られ、つい快感を与えすぎてしまった。このまま抱き潰してしまいたいところだったが、相手は病み上がりだ。ニコラスが失神する寸前のところで、バルカは一物を引き抜いた。  数えきれないほどの絶頂を味わった身体は、ぐったりしたまま寝台に沈んでいる。 「……おい、大丈夫か?」  ニコラスの顔を覗き込み、肩を優しく揺さぶる。  掠れた声が返ってきた。 「……骨抜きどころではないな」  未だ夢見心地のようで、ニコラスは情事の余韻に浸りながらぼんやりとしている。 「剣闘士の技巧を見くびっていた……」 「ははっ」  軽く笑い、バルカは彼の顔に手を伸ばした。汗ばんだ前髪を指先で掬い、頭を撫でる。 「そんなに良かった?」 「ああ……夜宴でお前に抱かれていたご婦人たちが、心底羨ましい。いつもこんな良い思いをしていたとは」 「まさか」  昔を振り返り、バルカは笑い飛ばした。 「一晩で何人も相手しないといけなかったんだぜ? ここまで丁寧に抱いてねえよ」  隣に寝転がり、後ろからニコラスを抱き締める。  ニコラスの顔が綻んだ。 「恋人の特権というわけか」  恋人――なんて甘美な響きだろうか。  まさか自分に恋人ができるとは。戦って死ぬ運命だと覚悟していたあの頃には、こうして愛しい男を抱き締めて甘い時間を過ごす日が来るなんて、思いもしなかった。 「つーか、本当にいいのか? 一国の王子の恋人が、奴隷上がりのオルグなんかで」  たとえお互いが愛し合っていたとしても、周囲には反対されるだろう。身分違いの恋とはそういうものだ。 「いくら着飾っても、所詮はオルグだ」  どれだけ王子から寵愛を受けようと、それは変わらない。  ニコラスが腕の中で身を翻した。向かい合い、見つめ合う。 「そう卑下するな、バルカ。お前ほどのいい男は他にいない。私には勿体ないくらいだ」  ニコラスの手がバルカの顔に触れる。  バルカの唇を親指でなぞると、 「それに、着飾る必要もない。裸のままのお前が一番魅力的だからな」  冗談交じりに告げ、片目をつぶった。  直球な口説き文句に、柄もなく照れてしまう。  ニコラスの体を抱き直し、軽く口付けた。 「お前のためなら、いつでもこの身分を捨てる覚悟はできてる」 「……マジかよ」 「だから、心配しなくていい。何があっても、お前のことは必ず守る。そのために力をつけたのだから」  王族の地位がなくとも、生きていけるように。愛する男を守り、支え、養うことができるように。長年魔術の修行を積んできたのは、すべてそのためだとニコラスは語る。 「……どうかしてるよ、あんた」  信じられない。たかが奴隷一匹のために、王子という肩書きを放棄できるなんて。正気の沙汰とは思えない。  胸が熱くなる。人に愛されるというのは、これほどまでに心地よいものなのか。堪らない気持ちになり、バルカはニコラスの唇を塞いだ。  それだけでは足りなかった。彼の首筋に、鎖骨に、胸の間に――唇を這わせ、強く吸い上げ、赤い痕を付けた。この男が自分のものであるという印を、彼の全身に刻み付けたかった。  傷口の上に口付けを落とすと、 「……バルカ」  ふと、ニコラスが名前を呼んだ。 「どうした」 「一つ、頼みがある」 「言ってみろよ。恋人の頼みなら何でも聞いてやる」  ニコラスの手がバルカの下半身に伸びてきた。指先で擽るように一物を撫でられ、バルカは思わず「おっ」と声を漏らした。 「……また挿れてほしいと言ったら、軽蔑するか? 品のない王子だと」  上目遣いで見つめられ、バルカは眉を下げて笑った。 「あんたのその品のないところ、結構好きだぜ」

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