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7章 因果
バルカは急ぎ城へと戻った。
大きな足音を立てながら廊下を進み、ニコラスの自室へと向かう。勢いよく扉を開けて中に飛び込むや否や、声を張り上げた。
「――このクソ王子!」
ニコラスは執務中だった。書類に署名をしていた手を止め、怪訝そうにこちらを一瞥する。
「どうした」
「あんたを信じた俺が馬鹿だった!」
バルカは声を荒らげ、ニコラスに詰め寄った。
「どういうことか説明しろ!」
「それはこちらの台詞だ。いったい何の話だ?」
ニコラスは涼しい顔で小首を傾げている。
その態度に、ますます憤りが募る。
「惚けんな!」
執務机を怒り任せに叩き、バルカは大声で怒鳴った。
「ザルーハから聞いた、オルグたちが荷馬車で運ばれていくのを見たってな! 街の牢屋には誰もいなかった! 俺の仲間をどこに売り飛ばしやがった!? ドルガ軍に引き渡したのか!?」
矢継ぎ早に問い質すバルカに、ニコラスは「落ち着け」と低い声で告げた。
落ち着いていられるはずがない。
乱れた息を整えながら相手を睨み付け、
「……本当に、血も涙もない男だな。最低の、クズ王子だ。最初からブッ殺しとくべきだった」
バルカは激しく罵った。
腰の剣を抜き、ニコラスの喉に刃の切っ先を向ける。
それでも、ニコラスは表情を変えない。恐れる様子も、取り乱す素振りもない。ただ落ち着いた声色で、バルカに語り掛ける。
「私を殺したいなら殺せばいい。だが、その前に――」
ゆっくりと椅子から腰を上げ、
「説明してやる。ついてこい」
と、ニコラスは静かに告げた。
■ ■ ■
ベルシュタット城からしばらく東へ馬を走らせると、森がある。木々が生い茂るその道を抜けた先には、長閑で牧歌的な景色が広がっていた。簡素な丸太小屋がいくつも並んでいる。
こんなところに村があるなんて知らなかった。地図には載っていないはずだ。
「中に入ってみろ」
と、ニコラスが促した。
「私はここで待っている。積もる話もあるだろうから、ゆっくりしてこい」
ニコラスに馬を預け、バルカは恐る恐るその集落に近付いた。
村の入り口に足を踏み入れた瞬間、目を疑った。
――オルグがいる。
その村の住人は、バルカの仲間たちだった。
いったいこれはどういうことなんだ。
唖然として立ち尽くしていると、
「おい、ルカじゃないか!」
仲間の一人がこちらに気付き、駆け寄ってきた。
「おーい、みんな! バルカだ! バルカが来たぞ!」
呼びかけに応じ、見知った顔触れが集まってきた。剣闘士時代の同胞であるレオとドルマンもいる。
バルカは皆と順番に抱き合い、再会を喜んだ。
「元気そうだな、ルカ!」
「バルカお前、無事だったのか!」
「馬鹿野郎、そりゃこっちの台詞だ!」
てっきりどこかの奴隷市に売り飛ばされているか、ドルガ軍に引き渡されて処刑されるという最悪の場合も覚悟していたというのに。村でのんびりと暮らしている仲間たちの姿に、バルカは面食らった。
「一体どうなってんだ、これは」
状況が理解できずにいるバルカに、レオが説明する。
「ニコラス様が、ベルシュタット領の中にオルグの村を作ってくださったんだよ」
「え――」
驚いた。
目を丸くし、バルカは辺りを見回す。
「オルグの、村……?」
にわかには信じられなかった。
「この村を、ニコラスが……?」
「そうだ」
「じゃあ、お前らは最初からここで暮らしてたのか? 俺はてっきり、全員牢屋にぶち込まれたものだと……」
バルカが尋ねると、レオたちは首を振った。
「いや、最初は牢屋にいたぜ」
「いきなり外に放り出されてたって、住む場所がなくて困るだろ? 家が出来上がるまでの間は、牢屋の中で寝泊まりさせてもらってたんだ」
「宿屋代わりにな。もちろん、食事付きだ」
「大工のハーゲンさんとその弟子たちが、総出で家を建ててくれてさ」
ハーゲンの名前に、もしかして、と思い至る。
初めて街の酒場に行ったあの日、ニコラスとハーゲンが話していた。ハーゲンに『大仕事を与えている』、と。――あれは、オルグたちの家の建築のことだったのか。
「俺たちも毎日交代で仕事を手伝ったんだ」
「ここまで荷馬車で運んでくれたから、移動が楽だったよ」
「奴隷時代だったら歩かされてたよなぁ」
「錘付きでな」
これまでの経緯を声を弾ませて語る二人に、
「なんだよ、そういうことだったのか……」
と、バルカは安堵した。
どうやら彼らが馬車に載せられてたのは、売り飛ばされたわけではなく、ただ単に働きに出ていただけの話らしい。自分の早とちりだったようだ。
「それより、お前は大丈夫だったのか?」
深刻そうな表情でドルマンに訊かれ、バルカは首を捻った。
「なにがだ?」
「ニコラス様が『お前たちがちゃんと協力するよう、バルカの命は預かっておく』って言っていたから、てっきり牢屋に閉じ込められてるものと思っていたが」
「……人質は俺の方だったのかよ」
自分は仲間を助けることに必死だったというのに、仲間たちには自分の方が心配されていたなんて。とんだ笑い種である。
「まあ、その立派な格好を見る限り、そんなに悪くない暮らしみたいだな」
「ああ。俺はニコラスの近衛騎士として働いてるぜ」
バルカが近況を伝えたところ、二人の顔色が変わった。
「馬鹿野郎、様を付けろ様を」
「お前が近衛騎士だと? おいおい、こんなガサツな奴がニコラス様をお守りできんのか?」
「どうしたんだお前ら、気持ち悪いな……あの王子に買収でもされてんのか」
レオもドルマンも、すっかりニコラスを心酔しているようだった。
彼らだけでない。他のオルグたちもだ。入り口の外で待っているニコラスを見つけ、オルグたちは彼を取り囲んだ。村に招き入れ、酒やら食べ物やらを振舞っている。
「ずいぶん歓迎されてんな、あの王子」
バルカの呟きに、
「当然だ。ニコラス様は、俺たちの恩人だからな」
と、レオが答えた。
「ベルシュタットにはオルグに対する差別や偏見が残ってる。野蛮人の村なんて作ったら、国民は普通、反対するだろ?」
「そりゃあ、そうだな」
「ニコラス様はな、それを見越して、ちゃんと手を打ってくださったんだよ」
レオの話によると、この国の法律では、新たに集落をつくる際は近隣の集落の代表者たちの承認を得る必要があるらしい。今回の場合、この村の最寄りに存在するのはベルシュタット城下町であり、すでに街の役人たちからの賛同が得られているという。
それらはすべてニコラスの手腕によるものだと、レオとドルマンは熱のこもった口調で語る。
「オルグも国に税金を納めるんだ。その分、他の国民の負担が下がることになる」
「それから、有事の際には俺たちも志願兵として騎士隊に加わることになった。人間にとっても悪くない話だろ?」
オルグは戦闘に長けた種族だ。戦力としてこれほど頼りがいになる存在はいないだろう。少なくとも、スランゴルの一件のおかげで、城下街の人々はオルグの頼もしさを知っている。
「この政策のおかげで、オルグの村は人間に認めてもらえたってわけだ」
「ここはベルシュタット領だから、帝国軍は攻め込めない。仮に攻め込んできたとしても、村に被害が及ばないよう、ニコラス様が魔術で結界を張ってくれてる」
「俺たち、とうとう自由に暮らせるんだぜ」
「やったな、バルカ」
仲間たちの嬉しそうな顔に、思わず笑みが零れてしまう。
これが見たかったのだ。反乱を起こしたあの日から、ずっと。
こみ上げる喜びを噛みしめながら、バルカは仲間と強く抱き合った。
■ ■ ■
仲間との再会をひとしきり喜んだところで、バルカはニコラスと共に村を出た。
馬に乗って来た道を戻り、街を目指す。森を抜けてベルシュタット城へ帰り着く頃には、日が沈みかけていた。
「疑って悪かった」
城の厩舎に馬を繋ぎながら、バルカは告げた。
早とちりをして、彼に憤りをぶつけてしまった。冷静さを欠き、激昂し、オルグのために尽力してくれた相手に心無い言葉を浴びせてしまった。自らの愚かな行為を思い返し、反省せざるを得ない。
「いや、隠しておいた私も悪い」
バルカの謝罪の言葉に対し、ニコラスは軽く首を振った。
「そりゃあ隠して当然だろ。仲間が無事だとわかったら、俺が逃げるかもしれないしな」
「お前が街から戻ったら、話すつもりだった」
「じゃあ、あんたが言ってた『いい話』ってのは……」
このことだったのか、と今になって気付く。オルグの村と、そこで暮らす仲間たちのことをニコラスはもとより知らせるつもりだったらしい。
馬の首を撫でながら、ニコラスは「そうだ」と頷く。
これ以上ない吉報だ。村のオルグたちの幸せそうな顔を思い出し、バルカは頬を緩めた。
「それにしても流石だな、あんたは。相変わらず、人の心を掌で転がすのが上手い」
「何の話だ」
「聞いたぜ、税金の政策のこと。人間に得をさせることでオルグとの共存を認めさせる。あの酒場での力比べと同じ、上手いやり口だよな」
素直に感心していると、
「税金が多少下がるくらいで、国民の差別意識が払拭されるわけがないだろう」
と、ニコラスは鼻で笑い飛ばした。
「彼らの心を動かしたのは私じゃない、お前だ」
「……え?」
バルカは眉を顰め、ニコラスをじっと見つめた。
「お前が街の住人と打ち解け、信頼を得たからこそ、オルグの村は受け入れられたのだ。お前がスランゴルからあの街を守ったことで、彼らはオルグがいれば安心だと思えるようになった。ただそれだけのことだ」
その言葉を引き金に、バルカの頭の中に、この四十日間の出来事が鮮明に蘇る。
酒場で乾杯を交わした男たち。ロイや騎士隊の皆とのやり取り。街の商人たちとの交流。魔獣との戦闘。
何気なく過ごしてきたこれまでの日々が、途端に大きな意味を持ちはじめ、胸が熱くなる。
「すべてはお前がもたらした結果だ。……よく頑張ったな、バルカ」
真っ直ぐなその労いの言葉に、心が震えた。
何も言葉を返せず黙り込んでいると、ふとニコラスが小さく笑った。
「泣くほど嬉しいか?」
そう言われてはじめて、バルカは自分が泣いていることに気付いた。
頬を伝う涙を袖で乱雑に拭いながら、胸の内に秘めていた思いを吐き出す。
「……今まで、ずっと、後悔してたんだ。自由なんか求めなきゃよかった、って」
涙が止まらなかった。
バルカは俯き、たどたどしく言葉を紡いだ。
「俺たちが、反乱なんか起こさなければ、みんな死なずに済んだのに、って……」
嫌というほど同胞の骸を見てきた。
戦場で八つ裂きにされた者もいた。首に縄を掛けられ、死体を木に吊るされた者もいた。磔にされ、生きたまま燃やされた者もいた。
最初に反乱を起こしたのはバルカを含む数人の剣闘士だ。この戦争に巻き込んでしまったせいで、オルグの女も子供も老人も武器を手に取らなければならなくなった。
その結果、多くの仲間を失ってしまった。
最後にベルシュタット王国に挑み、捕虜となった際も、自分の判断のせいだと悔やみきれなかった。
「だけど今、初めて思えたよ……戦ってきてよかった、って」
この戦いは意味のないものではなかった。多くの犠牲を払いながらも、ここまで戦ってきたからこそ、バルカたちはこのベルシュタットに流れ着いた。
そして、この男――ニコラス・フォン・ハーウェンベルクに出会った。
自由という微かな希望の光だけを頼りに、地獄のような日々を彷徨い続けてきた。そんなバルカたちに、理想郷を与えてくれる存在に、こうして辿り着くことができたのだ。
ようやく、報われた。
セスの顔が頭に浮かぶ。この場に彼もいてほしかった。
「……ありがとう、ニコラス。あんたのおかげだ」
いくら感謝してもしきれない。一生かけても返しきれないほどの恩だ。
ありがとう、と繰り返すと、ニコラスが口を開いた。
「ハーゲンは、五十日あれば全員が暮らしていけるだけの家を建てられると言っていたんだが、オルグたちが手伝ってくれたおかげで予定よりも早く完成した」
小さく微笑み、彼は静かに告げた。
「今日限りで王家近衛騎士の任を解く。お前はもう自由だ、バルカ」
自由――ずっと求めていた言葉だ。
それなのに、どうしてこうも胸がざわめくのだろうか。喜びよりも戸惑いを感じている自分に気付き、バルカは驚いた。
「これからは好きなように生きてくれ。このまま街を出ても構わない」
「いや、俺は――」
バルカは言い淀み、ニコラスから目を逸らした。
言葉を返そうとしたところで、
「冷えてきたな。城に戻ろう」
ニコラスが話を切り上げた。
厩舎を後にするその背中を見つめながら、バルカは自問した。
今、自分は何と答えようとしたのだろうか。
■ ■ ■
近衛騎士の任は解かれたが、バルカは城に留まっていた。今後のことについてじっくり考えたいと伝えたところ、ニコラスには「好きにしろ」と言われた。
とはいえ、騎士でもない自分がいつまでも城に住みつくわけにはいかないだろう。いずれはここを出て行かないといけない。オルグの一員として村の発展に尽力することが、自分のこれからの役目になる。
ようやく積年の願いが叶い、仲間と自由な暮らしができる環境を得られたというのに、どういうわけか気乗りがしなかった。
認めたくないが、どうやら自分でも思っている以上に、今の生活が気に入ってしまっているらしい。
とはいえ、城での贅沢な暮らしを捨てられないでいる、というわけではなかった。
そんな自身の複雑な心情を、街の酒場でうっかり漏らしたところ、
「――それはつまり、ニコラス様と離れたくない、ってことだよな?」
と、葡萄酒を呷りながらロイが尋ねた。
「ついにあの人に惚れちまったかぁ。ニコラス様も罪な御方だ」
揶揄うように笑うロイに、バルカはむっとした。
「別に、惚れてるとは言ってねえよ」
むきになって言い返すと、ロイはさらににやついた。
「じゃあもし仮に、ニコラス様に『愛してる』って言われたら、どうする?」
「押し倒して犯す」
「……完全に惚れてるじゃねえか」
ロイが呆れ顔になった。
「欲求不満なだけかもしれねえだろ。オルグは人間より性欲が強い種族なんだよ」
あの夜以降、ニコラスのことを想って自慰に耽ることが増えたということは、ロイには黙っておいた。
ニコラスのことを憎からず思っていることは認めるが、この感情が恋心によるものなのか、それとも単なる色欲のせいなのか、バルカには判断が付かなかった。
「じゃあ、試しに、その辺の娼婦と寝てみたらどうだ?」
と、ロイが提案する。
「はあ? なんでそんなこと」
「確かめるには手っ取り早いだろ」
気乗りしないバルカを余所に、酒場で客引きをする娼婦の集団に向かって、ロイは「なあ、誰か今夜こいつの相手してやってくれ」と声を掛けた。
「おい、やめろって」
慌てて止めたが、遅かった。一人の娼婦がバルカたちの卓に寄ってきた。露出の高い服を纏った長い黒髪の女が、バルカの膝の上に座り、首に腕を絡めてくる。
「私じゃ嫌?」
「いや、そういうわけじゃねえけど……」
「前から思ってたの、オルグと寝てみたいって。あっちで二人で飲みましょ、ね?」
襟ぐりの広いドレスからはみ出した胸を、女がバルカの体に押し付ける。強引に腕を引かれ、バルカは渋々腰を上げた。にやつくロイの顔を尻目に、カウンターへと移動する。
そのときだった。
不意に、一人の男がバルカの目に留まった。
ニコラスだ。
見覚えのある金髪の頭に、すぐに気付いた。あいつだ、と。
ニコラスはカウンターの前に立っていた。酒場の店主から一杯の酒を受け取り、振り返る。バルカに気付くと、はっとして動きを止めた。
「いたのか」
「あんた、また来たのかよ……三日に一回はいるって話は本当なんだな」
呆れ顔で肩をすくめるバルカに、ニコラスは軽口を返した。
「国が市民に金を落とさないと、経済が回らないだろう」
「尤もらしいこと言いやがって。酒が飲みたいだけのくせに」
「そういうお前も、愉しんでるみたいじゃないか」
バルカの体に腕を巻き付けている娼婦を一瞥し、ニコラスが一笑した。
「なにをしようと俺の勝手だろ。もう自由なんだから」
「当然だ」
ニコラスに背を向け、バルカは席に着いた。
隣に腰を下ろした娼婦が、
「ねえ、今の人って、ニコラス王子でしょ?」
身を寄せ、小声で尋ねた。
「ああ」
「いい男よねぇ」
うっとりと目を細める娼婦に、
「そうかぁ?」
と、バルカは顔をしかめた。
「もちろん、貴方もいい男よ?」
娼婦の世辞を聞き流し、元主の悪口を連ねる。
「無愛想で、偉そうで、王子のくせに素行が悪くて、碌な奴じゃねえよ」
それなのに、どうしてこうも心惹かれるのだろうか。
隣に美女が座っているというのに、どういうわけか、奥の席で賭け事に興じている男のことばかりが気になってしまう。無意識のうちに、そちらに視線が向いてしまっている。彼の姿を目で追ってしまう。
どうかしているな、と自嘲する。
頭の中からあの男を追い出そうと、バルカはさらに酒を呷った。いくら飲んでも、酔えない。オルグは酒に強い体質であるが、これだけ飲めばそれなりに気分が高まるものだ。しかしながら、今夜はその高揚感が一切感じられなかった。
酒瓶が空になったところで、女がバルカの手を引いた。
「そろそろ行きましょう?」
「……ああ、そうだな」
頷き、椅子から腰を上げる。
酒場を出たところで、ニコラスの後ろ姿がバルカの目に留まった。
ちょうど彼も帰るところのようだ。城に向かって歩いていくその背中を見た途端、
「――悪い」
バルカは声をあげていた。
しな垂れかかる女の肩を掴み、引き剥がす。
「気分が乗らねえ、帰る」
女をその場に残し、バルカは走り出した。先を行くニコラスの背を追い掛ける。
「ニコラス!」
声を掛けると、ニコラスが足を止めた。
振り返り、首を傾げている。
「どうした?」
「……いや、別に」
「娼館なら、あっちだぞ」
反対方向を指差すニコラスに、
「あんまり好みじゃなかったから」
と、バルカは適当な言い訳を告げた。他に言い言葉が見つからなかった。何が、好みじゃなかった、だ。バルカは自分自身に呆れた。
すると、ニコラスの唇が弧を描いた。
「私が代わりに相手してやろうか?」
「えっ――」
「冗談だ」
「おっ、お前なあ!」
「ははっ」
腹を抱え、ニコラスが声をあげて笑う。
酒が回っているせいか、珍しく上機嫌だった。
「くそっ、いいから帰るぞ」
バルカが踵を返した、そのときだった。
ニコラスの笑い声が消えた。
「――バルカ!」
自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
一瞬の出来事だった。
突然、バルカはの体は前のめりになった。ニコラスが突き飛ばしたのだ。体勢を崩し、倒れ込みそうになったが、バルカはなんとか踏みとどまった。
一体何事だと振り返ると、暗闇の中に小さな人影が見えた。
子供だ。
以前、街で出会った、あの孤児だった。
彼はナイフを握っていた。
その刃先が、ニコラスの腹に深く埋まっている。
「あ、ああ……そんな、っ……ニコラス様ぁ……」
少年は愕然としていた。
バルカは悟った。自分を狙った一撃だったのだと。
そして、ニコラスが自分を庇ったのだ、と。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
震えながら謝罪を繰り返す少年に、
「大丈夫だ、心配いらない……、今すぐ、家に帰るんだ」
ニコラスは声をかけた。
苦しげに顔を歪ませながらも、優しい声色で。
「お前は、何もしていない、すべて忘れろ……いいな?」
少年は泣きながら何度も頷き、逃げ出した。
次の瞬間、ニコラスがその場に頽れた。
「ニコラス!」
バルカはその体を抱き止めた。
「おい、しっかりしろ! ニコラス!」
返事はなかった。
掌に生温かい血の感触が走り、バルカは顔を顰めた。
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