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6章 夜宴
レンハイムから帰国し、三日が経った。
ニコラスは執務で忙しそうだった。自室に籠り、溜まりに溜まった書類を片付けている。バルカは特にやることもなかったので、武器庫の掃除当番だというロイを手伝うことにした。
「――それで、ニコラス様が二日間付きっ切りで看病してくれた、と?」
「まあな」
作業を進めながらレンハイムでの出来事を語ったところ、
「……自慢か?」
と、ロイが鎧を磨く手を止めた。
「なんでそうなるんだよ」
「『俺は王子様からこんなにも寵愛を受けてます』っていう、ただの自慢にしか聞こえないんだけど」
羨ましいと口を尖らせるロイに、バルカは反論する。
「物好きな王子だって言いたいんだよ、俺は」
オルグの自分に対してこんな扱いをする王族なんて、物好きとしか言いようがない。
「あいつ、なんであんなことを……」
自分の頭を撫でる指先の感触が忘れられなかった。レンハイムでのニコラスの言動に対し、未だに戸惑いが拭えずにいる。
「まあ、たしかにニコラス様は変わった人だけどさ」
「そうじゃなかったら、俺みたいなオルグを近衛騎士に選ばないだろ」
人間離れした大きな体躯に、古傷が走る顔。悪目立ちする銀髪に浅黒い肌。王子の側近として見栄えが悪いことは、自覚している。
若くて綺麗な女ならまだしも、こんな自分を侍らせて何の特があるというのだろうか。
「もしかしたら、王子はお前のことを守りたいのかもな」
ロイの言葉に、バルカは棚の埃を掃う手を止め、小首を傾げた。
「……守る? どういう意味だ」
「騎士隊にはお前を目の敵にしてる奴もいるし、大臣はオルグを毛嫌いしてる」
「どうせ俺は嫌われ者だよ」
「お前はオルグの頭領なんだ。牢屋に入れておいたら、誰にどんな扱いを受けるかわからないだろ? 看守の騎士に暴行されたり、最悪殺されることもあるかもしれない。だから牢の外に出して、自分の目の届くところに置いてるんじゃないか?」
「俺を守るために、俺を護衛に付けたってことか? 変な話だな」
ありえない、と笑い飛ばす。
そこまで目を掛けてもらう謂れはない。自分は戦争捕虜であり、これほどの丁重な扱いを受ける立場ではないのだ。
その事実を理解しているからこそ、ニコラスの厚意を素直に受け入れられずにいる。
「そんなに気になるなら、理由を訊いてみりゃいいじゃねえか。本人に」
「訊いたところで、口ではどうとでも言えるだろ」
知りたかった。彼の本心を。
だが、同時に、知るのが怖かった。
もし仮に、彼の恩情の意味が、自分の望むものではなかったら――。
「……考えるだけ無駄か」
情けないな、と思う。人間相手に、こうも心を乱されるなんて。
バルカが自嘲を零した、そのときだった。
「――ロイ、大変だ!」
騎士の一人が、血相を変えて武器庫に飛び込んできた。
「どうした、サリバン」
「街の外に、魔獣が……スランゴルが出た……っ!」
スランゴル――この大陸に生息する魔獣の一種である。虎と熊を掛け合わせたような姿形に、山羊のような二本の角。体長は人間より一回り以上大きく、獰猛で気性の荒いな肉食魔獣だ。普段は山奥に棲んでいるが、食料を求めて人里に降りてくることもあった。
「ギデオンが一人で食い止めてる! すぐに来てくれ!」
状況は芳しくなかった。その騎士の話によれば、すでに十数人の騎士が敗れ、負傷しているという。彼らを逃がすためにギデオンが残り、魔物を足止めしている最中だそうだ。
「ロイ、お前はニコラスに知らせてくれ。怪我をした騎士たちの手当てを頼む」
「わかった。気をつけろよ、バルカ」
「ああ」
バルカはすぐに馬に跨り、城下町へと急いだ。
馬の腹を強く蹴り、速度を上げる。
しばらくして、街の入り口が見えてきた。門の先にギデオンの姿があった。剣を構えて魔物と対峙している。深い怪我を負っているようで、顔や腕から血を流していた。付近には真っ二つに割れた盾が転がっている。
バルカは馬から飛び降り、ギデオンの前に躍り出た。
「交代だ、ギデオン。あとは俺に任せとけ」
左右の剣を抜き、構える。
「やめろ、バルカ! 一人じゃ無理だ!」
制止するギデオンの声を無視し、バルカはスランゴルに向かって突き進んだ。
魔獣は牙を剥き出して飛び掛かってきた。すばやく避けながら、獣の脇腹に右側の剣を突き刺す。
呻き声と共に暴れ回る獣から一度離れ、隙を見計らって再び距離を詰めた。もう片方の剣を両手で握り直すと、魔獣の懐に素早く潜り込み、顎下から脳天にかけて一直線に貫いた。
急所を突いたバルカの攻撃に、さすがのスランゴルも動きが止まった。
息絶えた獣の死体から剣を引き抜き、自身の腰に戻したところで、バルカはギデオンに声を掛けた。
「腰抜けって言ったこと、訂正するぜ。なかなか根性据わってんじゃねえか」
「……うるせえ」
「立てるか?」
「なんとかな」
「ほら、捕まれ」
と、右手を差し出す。
ギデオンは不服そうな顔で握り返した。
「城に戻ったら、ニコラスに傷を診てもらえよ」
肩を貸そうとしたところで、
「すげえな、バルカ!」
歓声が上がった。
いつの間にか野次馬が集まっている。遠巻きに戦いを見守っていた街の住人たちが、声を弾ませながらバルカを取り囲んだ。
「スランゴルをたった一人で倒しちまうなんて、さすがオルグだぜ!」
「あんたがいてくれりゃ、この街は安心だよ!」
拍手と賛辞の声を浴びながら、バルカは首を振った。
「ギデオンのおかげだ。こいつが弱らせといてくれたから止めを刺せたんだよ。この国は良い騎士に恵まれてるな」
「へえ、そうだったのか!」
「二人とも、ありがとな!」
住人たちと別れ、怪我をしたギデオンを馬に乗せたところ、
「……格好つけやがって」
と、憎まれ口が聞こえてきた。
「どっちが」
腕の傷口を軽く叩いてやると、ギデオンは「いってぇ! この野郎っ」と悲鳴を上げた。
バルカは腹を抱えて笑った。
■ ■ ■
その夜、宿舎の食堂に騎士たちが集い、宴が開かれた。
突然の魔獣の襲来によって多くの者が怪我を負ったが、幸い皆大事には至らなかった。全員の無事と勝利を祝い、葡萄酒が振舞われることになった。
「――おい、バルカ!」
さっそくギデオンが酒を片手に絡んできた。
「飲み比べで勝負だ! 剣では俺の負けだったが、これなら俺が勝つ!」
酒の強さでオルグに挑むなど身の程知らずにも程がある。
いとも容易くギデオンを返り討ちにしてから、バルカは周囲を見回した。食堂は大盛り上がりだ。皆すっかり酔っ払っているようで、大声で歌っている者もいれば、裸になって踊っている者もいる。奥の卓では力比べの勝負が始まった。ロイとサリバンが戦っている。
騎士たちのお祭り騒ぎを遠巻きに眺めながら、バルカは大きな溜息をついた。
「……今、他の国に攻め込まれたら、この国は終わりだな」
「心配ない、私がいる」
バルカの独り言に返事をしたのは、隣に座って酒を呷っていたニコラスだった。
「いや、なんでいるんだよ」
「騎士隊が宴を開くと聞いてな。饗応に与ろうかと」
「酒好きにもほどがあんだろ……」
とはいえ、負傷した騎士たち全員を治療したのは、魔術師であるこの男だ。今回の功労者に出て行けとは言えまい。
「今回の一件で、騎士隊に認められたようだな。よかったじゃないか」
「別に」
「嬉しいくせに」
「はあ?」
酒を呷りながら、ニコラスが薄く笑った。
そのときだった。
「バルカ、飲んでるかぁ!」
赤ら顔の騎士が数人、こちらにやってきた。空になったばかりのバルカの杯に、溢れんばかりの酒を注いでいる。
「しっかし、すげえなお前は! スランゴルを倒しちまうなんてよぉ!」
「まあ、何度か戦ったことがあるからな」
「おい、マジかよ!」
「剣闘試合じゃ、スランゴルやらイヴォーレンやらを相手にすることもあるんだぜ」
剣闘士が戦うのは同じオルグだけではなかった。魔物との対戦も人気の高い見世物だった。
そして、バルカは魔物の戦いが得意だった。オルグを相手にするより気が楽だからだ。同胞の剣闘士を殺すくらいなら、獣に食い殺された方がマシだと思っていた。
「大変だなぁ、剣闘士ってのは」
「お前は強いし、さぞ人気があっただろう」
「貴族のご婦人にモテたか?」
にやつきながら絡んでくる騎士たちに、バルカは口角を上げて答えた。
「試合の後は、俺の取り合いで女同士の喧嘩が起こってたな」
騎士たちから歓声が上がった。口笛を吹いて囃し立てる者もいる。
いい気分だ。バルカは得意になり、さらに自慢話を続けた。
「毎回、試合の後に贈り物を渡してくる熱心な奴もいたぜ」
「おいおい、そりゃ本当かよ」
「ああ、本当だ。試合が終わると、いつも熱烈な手紙が届いてた」
懐かしい話だ。
酒を呷りながら、バルカはあの頃の記憶を思い返した。
■ ■ ■
その日の試合はスランゴル戦だった。
もちろん勝利したが、少し手こずった。横腹に走る三本の爪痕からは血が滲み、体を動かす度に痛みが走った。
養成所の主人はケチで、剣闘士を使い捨ての道具としか思っていない男だ。怪我をしたところで医者に診てもらえることはない。まるで手負いの獣のように、ただただ眠り、体力を回復させるしかなかった。試合を終えて養成所の独房に戻ると、バルカは石畳の床に仰向けで寝転がり、目を閉じた。
その直後、見張りの男が声を掛けてきた。
『バルカ、お前に贈り物だ』
鉄格子の隙間から放り込まれたのは、小さな壺と、一枚の手紙だった。
『また、いつもの人からの贈り物か?』
隣の房からセスが話しかけてきた。
頷く代わりに、
『読んでくれ』
と、その手紙を鉄格子の隙間に差し込み、セスに渡した。バルカは字が読めない。だから、いつもこうして彼に代読してもらっていた。
手紙を受け取り、セスが文章を読み上げる。
『「貴方の無事を祈っています。次も勝利の女神が貴方に微笑みますように」だってさ』
剣闘の世界において、負けは死を意味する。
薬壺に添えられた手紙には、いつもバルカの勝利を願う言葉が記されていた。
『毎回試合を見に来て、さらに差し入れに傷薬までくれるなんて。甲斐甲斐しいというか、健気というか……差出人はわからないのか?』
『ああ。会ったこともない』
『綺麗な字だ。きっと教養のある、地位の高い家柄の令嬢なんだろうな』
剣闘士に差し入れをするためには賄賂が必要だ。それなりの身分でなければ叶わない。送り主の名前がわかれば礼の一つでもするのだが、相手が名乗らない以上、どうしようもなかった。
バルカは薬壺の蓋を開け、
『この薬、よく効くんだよ。お前も使うか?』
軟膏を人差し指で掬い、傷口に塗り込んだ。
少し染みるが、しばらくすると痛みが和らいできた。これを塗ると傷の治りが早い。高級な薬草が使われているのかもしれない。
どこの誰だかは知らないが、薬はおろか碌な食事も与えられない奴隷の身としては、これほど有難い贈り物はなかった。
■ ■ ■
騎士隊の宴は日付を跨いでからも続いていた。
一部の面々は街の娼館へと繰り出したようだが、バルカは食堂に残っていた。
隣に座るニコラスもいつの間にやら酔い潰れてしまったようで、ぐったりと卓に突っ伏している。
「何が『心配ない、私がいる』だよ……あんたも潰れてんじゃねえか」
バルカは肩を竦め、彼の体を揺さぶった。
「おい、起きろ。まったく、こんなになるまで飲みやがって――」
すると、ニコラスは顔を上げ、気怠げに首を振った。
「酔っているわけじゃない。魔力切れだ」
「は?」
「悪いが、部屋まで運んでくれないか? 力が入らないんだ」
「調子乗って曲芸なんかするからだぞ、アホ王子」
宴の最中、ニコラスは酒瓶を宙に浮かせたり、杯や皿の音を鳴らして音楽を奏でたりと、見せびらかすように魔法を使い、騎士たちを湧かせていた。
ただでさえ全員の治療をして魔力が切れかかっていたというのに、くだらない余興まで披露したせいで、この有様だ。
「本当に、手のかかる王子サマだな」
渋々、ニコラスの体を抱き上げ、バルカは宴を抜け出した。
城の階段を上り、彼の自室へと向かう。
「――ここでいい」
命令に従い、扉の前で降ろしてやった。ニコラスの体はいやに軽く、冷えきっていた。
「……すまない、世話をかけたな」
まだ少しふらついている。具合が悪そうだ。よく見れば、顔も青ざめている。魔力切れのせいだろう。
「おやすみ」
と、ニコラスが背を向けた。
バルカはとっさにその腕を掴み、引き止めた。
驚いた顔で振り返ったニコラスに、小声で告げる。
「魔力が足りないんだろ? 俺を使えよ」
バルカの申し出を、
「必要ない」
ニコラスは断った。
わからなかった。魔力が足りないなら、自分に頼ればいい。ただそれだけのことなのに。どうしてそこまで頑なに拒むのか。
「辛いんだろ? やせ我慢すんなよ」
「一晩寝れば良くなる。お前の手を煩わせるまでもない」
「俺がいいって言ってんのに?」
ニコラスの瞳が微かに揺らいだ。
「これは搾取じゃない。こないだの借りを返すだけだ」
レンハイムで助けてもらった、その礼だ。ただそれだけのことで、深い意味はないのだと言い聞かせながら、ニコラスに詰め寄る。
バルカは彼の肩を掴み、扉に押し付けた。逃げられないよう体重をかけ、顔を近付ける。そのまま強引に唇を塞ぎ、舌をねじ込んだ。
口の中に溜まった唾液が舌の上を伝っていく。
それを相手の咥内に注ぎ込みながら、バルカは昔の記憶を思い出した。
剣闘士時代の、ある夜宴での出来事だ。
■ ■ ■
『――ああっ、そう、そこ、いいわっ、バルカぁ!』
甘ったるい声で女が啼く。
腰を動かす度に、豊満な乳房が大きく揺れる。
早く終われと心の中で呟きながら、バルカは何度も女の奥を突き立てた。
これが、仕事だ。
抱きたくもない女を抱く。性奴隷としての剣闘士の役目。虫唾が走る。
今夜はこの女で三人目だった。
『……本当に最高ね、あなたの身体』
絶頂を迎えたばかりの女の指先が、バルカの浅黒い筋肉の上を這う。
『旦那さえいなければ、あなたを私のお屋敷で飼いたいのに……』
名残惜しそうに腕を絡めてくる女を引き剥がし、バルカは館の小部屋を出た。
ここは養成所の主人が所有する別邸だ。試合後の夜は、いつもここで夜宴が開かれていた。多くの貴族が招かれ、豪華な馳走や酒が振舞われる中、剣闘士たちは客の相手をしなければならなかった。
大広間では、仮面で目元を隠した紳士淑女が宴を愉しんでいる。ほとんどが一糸纏わぬ姿を晒し、夜の相手を探している。
バルカが広間に足を踏み入れると、すぐに数人の女が集まってきた。
『バルカ、次は私としましょ?』
『いいえ、私とよ』
『少し休ませてくれ。腹が減った』
女たちの誘いを受け流し、バルカは部屋の隅へと逃げた。
テーブルの上に盛り付けられた馳走に手を伸ばした、そのときだった。
『――バルカ』
不意に、名前を呼ばれた。
声は高いが、女ではなかった。仮面をしているので顔はわからないが、若い男のようだ。長い金髪をひとつに結んでいる。皆が露出の多い、開放的な格好をしている中、その男はきっちりと服を着込んでいた。地味で、野暮ったい男だな、とバルカは思った。どこかの田舎から出てきた貴族の端くれだろう。遊び慣れていない雰囲気がある。
男は震える唇で告げた。
『その……よかったら、僕と一緒に――』
『悪いな』
彼の言葉を遮り、バルカは一蹴した。
『俺、男相手じゃ勃たねえんだ』
バルカが相手をするのは決まって女だけだった。同性の誘いはすべて断っている。その気にならないからだ。
『レオとか、その辺の奴に相手してもらえよ。男の相手が上手いって評判だぜ』
仮面のせいで表情は見えないが、その青年はあからさまに落胆していた。そうか、と暗い声色で呟くと、バルカの前から消えた。
林檎を齧りながら、バルカは辺りを見回した。
乱れ切った世界だ。部屋の至る所で人々が抱き合っている。男女だけではない。中には女同士、男同士、複数人で絡み合っている者もいる。
繁殖のためではない。ただ、快楽のためだけの、意味のない情事。
人間とは醜い生き物だな、と思う。
こんなにも醜く、欲深く、愚かだ。
あちこちで喘ぎ声が響き渡るその部屋で、
『――嫌だと言っているでしょう!』
この場にそぐわない、嫌悪感を剥き出しにした声が、不意にバルカの耳に届いた。
視線を向けると、そこには先刻バルカに声を掛けてきた青年がいた。
『独りで寂しそうじゃないか。私が相手をしてやろう』
腹の出た中年の男が、その青年の腕を掴んでいる。上に乗り掛かり、服を脱がそうとしている。強引に事に及ぼうとしているようだ。
『やめて、放して!』
『いいから、おとなしくしなさい、よくしてあげるから』
『嫌だ……っ!』
『――おい、ジジイ』
舌打ちし、バルカはその男に声を掛けた。
『嫌がってる相手を無理やり抱くのは、この館の決まりに反するぜ。追い出されてもいいのか?』
バルカの忠告に気を悪くしたようで、中年の男は声を荒らげた。
『奴隷風情が、口の利き方に気を付けろ! 私を誰だと思っている!』
『誰なんだ? 教えてくれよ』
バルカはにやりと笑った。
『なっ――』
『言えるわけねえよなぁ? 素っ裸で、だらしねえ体とお粗末なナニを晒してる、今の状況じゃ』
顔と身分を知られないために、彼らはこうして仮面を付けているのだ。こんな場所で堂々と名乗ることは、夜宴に足を運ぶほどの色狂いだと触れ回るようなものである。
周囲の視線がバルカたちに集まる。くすくすと中年男を嘲笑う声がする。
男は悔しげに口を歪め、踵を返した。
『……ありがとう、バルカ』
乱れた服を整えながら、青年が礼を述べた。
襲われかけた恐怖のせいか、声が少し震えている。
『別にあんたを助けたわけじゃない』
バルカは鼻で嗤った。
傲慢な貴族の鼻を明かしてやりたかった。ただそれだけのことだ。
『それでも、嬉しかった』
彼は微笑んだ。口元が柔らかく弧を描く。
それから、バルカの手を掴み、遠慮がちに指を絡めてきた。
『好きなんだ、君のことが。ずっと憧れてた。……だからせめて、思い出をくれないか? 一度だけ、接吻だけでいいから――』
その望みを聞いてやったのは、単なるバルカの気まぐれだった。彼があまりに必死だったから、情けをかけてやることにした。深い意味はなかった。
一度だけだ。接吻をするだけ。抱くわけじゃない。
相手の顎を掴み、バルカは彼の唇を塞いだ。
何も感じなかった。興奮も、欲情も。
背中を這う男の手の感触に、小さな嫌悪感を覚える程度で。
唇を離し、
『……これで満足か?』
バルカは彼の体を突き飛ばし、その場を後にした。
■ ■ ■
あのときは、何も感じなかったというのに。
同性と口付けを交わしても、何の欲も沸いてこなかったというのに。
だが、今は違う。
ニコラスの喉がごくりと鳴る。彼が自分の唾液を飲み込む度に、どうしようもなく気持ちが昂っていく。
目的などすぐに忘れてしまった。差し込んだ舌で上顎を擽ると、ニコラスの体が小さく跳ねた。
「んっ……ふ、あっ」
ニコラスは抵抗しなかった。それどころか、バルカの背中に手を回してきた。くぐもった声を漏らしながら、口付けを受け止めている。
その反応に気分がよくなり、バルカは彼の体を抱き寄せた。逃げる舌を追いかけ、撫で上げ、舌先を絡ませる。
貪るように彼の唇を食んでいると、
「……っ、もう十分だ」
と、ニコラスがバルカの体を押し返した。
濡れた唇を手の甲で拭きながら、顔を逸らす。
「助かった。礼を言う」
「あ、ああ」
部屋に入るニコラスを見届けてから、バルカは自室に駆け込んだ。
乱れた息を整えながら、呟く。
「……なにが、男相手じゃ勃たない、だよ」
興奮した。
認めざるを得なかった。
あの男に、この国の王子に、劣情を抱いてしまったと。
ニコラスの両腕が自分の背中に回った瞬間、どうしようもないほどの陶酔を覚えた。
体を求められたことに、愛撫を受け入れられたことに、これ以上ないほどの愉悦を感じてしまった。
「……っ、」
股の間に集まる熱はおさまりそうにない。
バルカは服の中に手を差し込み、その昂りを握った。
反り上がった一物を取り出し、ゆっくりと掌を上下に動かす。
「っ、……はぁ、っ」
狂暴な感情が沸き上がってくる。
あの夜みたいに、この昂りを彼の中に注ぎ込みたい。
あの男の身体の奥深くを穿ち、征服したい。
刺激によって快感が高められ、欲がさらに膨らんでいく。
バルカは目を閉じた。
頭の中で、想像する。あの男の服を剥ぎ、寝台の上に押し倒すところを。
激しく犯され、醜態を晒すあの男の姿を。
泣いて許しを乞う顔を。
『許してくれ、バルカ……もう、無理だ、許して』
――いや、違う。
見たいのは、そんな姿じゃない。
『バルカぁ……ああ、いいっ、もっと、っ』
頭を振り、想像する。
自分を求めて喘ぎ、善がり狂う、淫らな姿を。
あの美しい顔が、快楽に溺れ、恍惚となる様を。
自分の名前を呼ぶ甘い声を。
『んっ、あぁ……バルカ、もっと、きて……バルカ、バルカぁ――』
「っ、くっ……ニコ、ラス……っ!」
快感がせり上がってくる。
興奮が最高潮に達し、バルカの一物は精を吐き出した。
「……クソ、何でだよ」
抜いてしまった。あの男で。
掌を濡らす白い塊を見つめながら、バルカは呆然と立ち尽くした。
■ ■ ■
「――バルカ? 聞いているのか?」
「……え? あ? 何だ?」
不意に声を掛けられ、バルカははっと我に返った。
執務室の中で棒立ちになっているバルカを、ニコラスが訝しげに見つめている。
「今日の公爵の謁見は中止になった。午後は好きに過ごすといい」
「あ、ああ。そうか。わかった」
ぼんやりしていたせいで話を聞き逃してしまった。
慌てて頷くバルカに、ニコラスが眉を顰める。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「いや、別に」
短く返し、バルカは目を逸らした。
あの夜からだ。この男の顔が直視できずにいる。
彼の唇を強引に奪ったことへの後悔か、彼の痴態を想像して自慰に励んだことへの罪悪感か。
どうしてあんなことをしてしまったのだろう。自分はただ、純然たる厚意で、レンハイムでの借りを返すだけのつもりで、自身の体液を分け与えたはずだった。
それなのに。まさか、あんなことまでしてしまうとは。頭を抱えたい気分だ。
「んじゃ、街に行って酒でも飲んでこようかな」
今の自分には気晴らしが必要だ。酒の力を借りて、あの夜の愚行をすべて忘れてしまいたかった。
「飲み過ぎるなよ」
「その言葉、そっくりそのまま返すぜ」
バルカがそう言うと、ニコラスはくすりと笑った。
背を向けたところで、
「――バルカ」
と、ニコラスが呼び止めた。
「なんだ」
「帰ったら、私の部屋に来てくれ」
「え?」
「お前に話したいことがある」
神妙な面持ちでニコラスが告げた。
急にこんなことを言い出すなんて、とバルカは戸惑った。深刻な話なのだろうか。心がざわつき、恐る恐る尋ねる。
「それは……いい話か?」
「ああ。お前にとっては、な」
それ以上は答えてはくれなかった。
ニコラスの部屋を出てから、バルカは小声で呟いた。
「……何なんだ、話って」
気になって仕方がない。
彼の言い方が少し引っ掛かった。バルカにとっては、いい話――だが、他者にとってはいい話とは言えない。そんな含蓄があるように感じられた。
ニコラスにとっては、どうなのだろうか。悪い知らせなのだろうか。自分にとって朗報であっても、彼が不利益を被るならば、手放しでは喜べない。
いずれにせよ、今の自分にできるのは酒を嗜むことくらいだった。バルカは街へと繰り出した。
■ ■ ■
魔獣の被害を最小限に食い止めたバルカの功績は、ほんの数日で街中に拡がっていた。
「よう、バルカ。こないだの戦いっぷりは見事だったよ」
通りを歩けば、見知らぬ人間たちが称賛の声を掛けてくる。
お喋りなおばさんに捉まり、長々と世間話に付き合わされたときは流石に困り果てたが、「オルグは野蛮で不吉な存在だって言われてるけど、あんたはこの街の守り神だねえ」などと言われると、悪い気はしなかった。
「スランゴルが出たんだって?」
「ああ。バルカと騎士隊が退治してくれたけどな」
「物騒だなぁ」
「あんたも商売に出るときは気をつけなよ、ザルーハ」
市場に立ち寄ったところ、そんな会話が耳に入ってきた。商人のザルーハが常連客と世間話を交わしている。
「よう、ザルーハ。帰ってきたのか」
久々に姿を見せた行商人に、バルカは声を掛けた。
「お、噂をすれば英雄の登場だ。大活躍だったらしいな、バルカ」
「たいしたことじゃねえって」
「お前がいれば、この街は安泰だ」
褒められることに慣れていないせいか、住人からの称賛には気恥ずかしさを覚える。だが、騎士の一員として頼りにされていることは純粋に誇らしく思えた。何より、こうして街の人々と話をしていると、彼らの暮らしを守ることができたことへの実感が沸いてくる。
「まあ、死人が出なくて何よりだ」
「そうだな」
「お前も街を出るときは気を付けろよ、ザルーハ」
「行商にお前を連れて行きたいところだが……ニコラス様に睨まれそうだ」
「俺はあの王子様のお気に入りだからな。護衛なら他を当たってくれ」
冗談交じりにそう言い、バルカは一笑した。
「俺の仲間には他にも腕の立つ奴がいるから、いずれあんたに紹介してやるよ」
いくつか言葉を交わしたところで、
「――そうそう、オルグといえば。こないだ、オルグの集団を見たよ」
と、ザルーハは妙なことを言い出した。
「……オルグの集団? どこで?」
「街の東にある森の辺りだ。数人のオルグが馬車の荷台に乗せられて、どこかに連れてかれてた」
「おい、いつの話だ、それ」
「仕入れのために街を出た日だったから、たしか七日くらい前かな……」
嫌な予感がした。
バルカはすぐに踵を返し、城下町の西側へと走った。
向かった先は、この街の牢獄。
立ち入りを禁止されている場所だが、この日の牢番を務めていたのは幸いロイとギデオンだった。ニコラスには内緒で中に入れてもらい、バルカは鉄格子越しに囚人の姿を確認した。
だが、中に収監されている者は、全て人間だった。
オルグ族は誰一人としていない。
どういうことだ、とバルカは眉を顰めた。
近衛騎士として仕えるようになって今日で四十日目。一日一人解放する約束だ。
となると、まだ捕虜は十人近く残っているはず。
それなのに、牢屋の中には誰もいない。
嫌な予感がさらに強まる。
まさか、と息を呑む。
荷馬車で運ばれていくオルグの集団。ザルーハのその話が事実だとすると、彼らの行く先は奴隷市場か、あるいは――。
いずれにせよ、ニコラスは約束を守らなかった。裏切ったのだ。
「くそ、あの野郎……!」
すべて嘘だったのか。
約束を守る気など、最初からなかったのだろうか。
――あの男なら、信じてもいいと思えたのに。
まるで心臓を抉られるような激しい痛みを覚え、バルカは胸元を掻き毟った。
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