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5章 旅

「バルカ、お前は本当に強いなぁ」 「あんたの腕もなかなか悪くないぜ、ロイ」  ロイとの手合わせはバルカの楽しみのひとつだった。あのニコラスが認めるだけあって、彼は訓練の相手として申し分なかった。  訓練所でしばらく汗を流した後、二人は宿舎の食堂で昼食を取った。物思いに耽りながらパンを齧っていたところ、向かい側に座るロイが首を傾げた。 「どうした、そんな険しい顔して。不味いのか?」 「いや、ちょっと気になることがあって……」  ここ最近、一つの疑問がバルカの心に引っ掛かっている。「言ってみろ」とロイに促され、バルカは彼に意見を仰ぐことにした。 「あの王子は、なんでオルグの俺を近衛騎士にしたと思う?」 「そりゃあ、お前は人間よりも強いし、頼りになるからだろ。護衛としてこれ以上の適役はないさ」  ロイの答えは納得のいくものではなかった。  ニコラスの外出に同行する機会は多々あったが、命を狙われるような危険に遭遇したことは一度もない。国民は皆、彼を慕っている。自分の仕事はただ彼の隣を暢気に歩くだけだった。  それに、仮に何者かが襲い掛かってきたところで、あの魔術師は敵を自ら返り討ちにできるだけの力を持っている。 「そもそも護衛なんか必要ない。本人も言ってたぜ、自分の身は自分で守れるって」 「じゃあ、他にどんな理由がある? ギデオンの言う通り、傍に置いて夜の相手をさせるためか?」 「俺も最初はそうだと思ってた」  だが、ニコラスに伽を命じられたのは、最初の一夜だけだ。 「……あの夜以来、誘ってこねえんだよ、あいつ」 「なんで」 「知るか」 「それって……お前の技量に不満があるんじゃないか?」 「おい、待て。俺が下手くそだって言いてえのか」  ロイの言葉に眉を顰めながら、いやそんなことはないだろうと心の中で否定する。たしかにあの日は乱暴な抱き方をしてしまったが、相手だって満更ではなかったはずだ。寝台の上であれだけ甘い声で善がっていたんだから。  釈然としない気持ちを抱えるバルカに対し、からかうようにロイが言う。 「なんだよ、お前、もしかして王子と寝たいのか?」 「はあ? 違えよ、馬鹿。そういう意味じゃない」 「気持ちはわかるぞ、バルカ。俺も憧れのダリアス王子に呼ばれたら、大喜びで服を脱ぐぜ」 「違うって言ってんだろ」  バルカは強い口調で否定した。 「とにかく、目的が分からないから、気味が悪いって話だよ」  護衛でも、伽でもない。だったら、何なんだ。  戦争捕虜なのだから、牢の中に閉じ込めておけばいいものを。こうして外に出して放し飼いする理由がわからない。  あの男はいったいなにを考えているのか。さっぱり読めず、バルカは頭を悩ませるばかりだった。 「――そういえば」  と、ロイが何やら思い出した。 「前に、酒場で会った魔術師の男が言ってたぜ。魔術師にとって、オルグの体液は薬みたいなもんだって」 「薬?」 「ああ。オルグの先祖は魔物だろ? だから、体液に魔力が混じってるらしい」  オルグ族の血や唾液、精液を体に撮り込めば、その分だけ魔力が回復するという。特にオルグとの性交はかなりの力を補給できるそうだ。 「その魔術師は、奴隷市場でオルグを買って、毎朝そいつの精液を飲んでるって言ってた。山羊のミルクの代わりに」 「げっ、マジかよ……」 「要するにお前は、ニコラス様の薬なんだろ。魔力が切れたときのための備えってことだ」  眉間に皺を寄せるバルカの肩を、ロイが励ますように叩く。 「そんなに心配しなくても、そのうちお誘いがあるって」 「別に心配してねえし、誘いがほしいわけじゃねえよ」  頓珍漢な返しをするロイに眉を顰め、バルカはため息をついた。     ■ ■ ■  ニコラスがバルカの自室に現れたのは、その日の夜のことだった。  昼間にあのような話をしたばかりだったので、扉を叩く音を聞いたバルカの心には微かに緊張が走った。ロイの言葉が頭を過り、とうとう魔力切れになったニコラスが自分の体液を求めにきたのではないかと、そんなことを考えてしまった。  だが、部屋に入ってきたニコラスの格好を見て、バルカは首を傾げた。  彼はいつもの貴族然とした服装でも、寝巻姿でもなかった。地味な色のシャツにベスト、上にローブを纏った、そこらの庶民とそう変わらない格好をしている。 「なんだ、その格好」 「出掛けるぞ。お前も着替えろ」  と、ニコラスはバルカの分の服を押し付けてきた。 「出掛ける? どこに?」 「シャロルの森だ」 「シャロルって……ものすごく遠くねえか?」  たしか、この国の領地内ではないはずだ。 「レンハイム領にある。薬の材料が切れたと城の薬師がうるさくてな。その森に生えている薬草が必要なんだ」 「馬を飛ばしても三日はかかるぞ」  外は暗い。陽が落ちたばかりだ。こんな時間に出発するより、日を改めた方がいいのではなかろうか。  訝しげに思いながらも、バルカは旅装束に袖を通した。 「問題ない。レンハイムの都までは移動魔法を使う。一瞬で到着する」  ニコラスが得意げに答えた。  魔法ってのはそんなこともできるのか、とバルカは目を丸くした。 「そいつは便利だな」 「ただし、移動魔法は魔力の消費が大きい。回復するまでは都の宿で過ごす。森への出発は明日の昼頃になるだろう」  着替えを終え、腰の革帯に二本の剣を差し込む。  支度を済ませたバルカに、 「私に掴まれ」  と、ニコラスが命令した。 「は?」 「早くしろ」  掴まれと言われても。  どうしていいのかわからず、 「……こうか?」  と、バルカは遠慮気味にニコラスに触れた。彼のローブの袖を摘まむように持ってみる。 「違う、こうだ」  ニコラスはバルカの腰に手を回した。  抱き合うような体勢になってしまい、妙な緊張感を覚える。  距離が近い。すぐ真下に、ニコラスの顔がある。なんとなく気まずい気分だった。目が合いそうになり、バルカは慌てて顔を逸らした。 「しっかり掴まっていろよ」 「お、おう」 「行くぞ」  ニコラスが指を鳴らした。  次の瞬間、視界がぐらりと大きく揺れた。  奴隷船に乗せられたときの百倍ほど激しい揺れがバルカを襲う。次いで、高い塔から落下したかのような衝撃が体に走った。 「――着いたぞ」 「うえっ……おえ、吐くかと思った」  噎せながら、バルカはその場に倒れ込んだ。 「慣れるまでは辛いだろうが、我慢しろ」  一方、ニコラスは平然としている。 「ここは……」  足元は絨毯ではなく石畳だ。ついさっきまで城の中にいたはずなのに。周囲には見たこともないような街並みが広がっている。星空の下、白い壁に青い三角屋根の家々が並んでいた。 「ここがレンハイム公国の都だ」  馬で三日はかかる距離が、本当に一瞬だった。  魔法というものの便利さを思い知ったが、体への負担を考えると好ましいものではない。まだ悪酔いが続いている。 「……まさか、帰りもコレ?」 「お前だけ馬で帰るか?」  バルカは真顔で首を振った。 「行くぞ」  通りを歩きながら、バルカは辺りをきょろきょろと見回した。ベルシュタットの城下街とは、人の雰囲気も、建物の外観も違う。異国に来たことを実感し、少しばかり気分が高揚した。  通りにはたくさんの街灯が並んでいる。建物に吊るされたランタンにも煌々と明かりが灯っており、昼間と見紛うほどの明るさだ。  ニコラスの話によると、これらの光も魔法によって作られたものであり、それ故にここは「眠らない街」と呼ばれていてるそうだ。夜市が開かれていたり、夜にしか開かない店もあったりするため、日が沈んでから出歩く者も多いという。たしかにこの道も人通りが多かった。 「私からはぐれるなよ、バルカ」 「ガキじゃねえんだから」 「この国は魔法研究が盛んだ。彼らにとってオルグは貴重な研究材料だからな、捕まったら最後、体中の体液を絞り取られるぞ」 「え――」  青ざめ、上着のフードを深く被るバルカを、ニコラスは鼻で嗤った。 「冗談だ」 「……ふざけんなよ、お前」 「大昔はオルグを捕まえて魔術の実験に使ったり、一滴残らず血を絞り取って葡萄酒の代わりに飲んだりしていたが、今はそんな人道に反することはしてはいない」  おっかない話だ。今の時代のオルグの扱いも喜ばしいものではないが、その時代よりかはマシかもしれない。  ニコラスは大通りをさらに進んでいく。 「宿探すのか?」 「その前に、寄るところがある」  と、彼は一軒の店の前で足を止めた。  中に入ると、初老の男が店番をしていた。古い書物から顔を上げ、こちらを見るや否や、喜色を浮かべた。 「おお、ニコラスじゃないか」 「お変わりないようで、先生」  どうやら二人は顔見知りらしい。親しげに言葉を交わしている。  先生と呼ばれたその男は、都の町医者であり、この診療所の主だそうだ。ニコラスが留学していた頃に世話になったこともあるという。 「まさか、ここまで移動魔法で?」 「ええ」 「そのオルグと一緒に? 驚いたな。二人同時に移動するなんて、かなりの魔力を消費しただろう」  昔馴染みと世間話をするためだけに此処に立ち寄ったわけではないらしい。目的は買い物のようで、ニコラスは町医者からいくつかの薬を購入していた。  用が済み、二人は店を出た。酒場に寄り道しようとするニコラスを引き止めながら、宿を探す。 「今夜はここに泊まる」  大通りには三軒の宿屋があった。ニコラスは最も中心部に近い店を選んだ。  空いている二人部屋に入ったところで、 「……くそ、まだ頭がふらついてるぜ」  バルカは寝台に腰を下ろし、頭を抱えた。  移動魔法が体に合わなかったらしい。未だに気分の悪さが拭えない。  そんなバルカに、 「これを飲め」  と、ニコラスが小瓶を差し出してきた。  中には紫色の液体が入っている。先刻、あの医者から購入した薬のひとつだ。 「なんだ、これ」 「酔い止めだ。魔法酔いがマシになる」  毒々しい色の薬品に眉を顰めながらも、バルカはそれを一気に飲んだ。味は最悪だが、たしかに心なしか気持ちの悪さがおさまったような気がする。  ふと見れば、ニコラスも小瓶を呷っていた。バルカが飲んだ物とは違い、中には白い液体のようなものが入っている。 「それも薬か?」 「オルグの精液だ」 「は!?」 「そんなに驚くことじゃない。この国では、どこの店でも売っている」  ニコラスが肩を竦めて説明する。 「魔術を使う者が多いから、オルグの体液の需要が高いんだ。この国のオルグには、自身の血液や精液を売って生計を立てている者もいる」  食い扶持があるだけマシだと思うべきだろうか。  学のないオルグには、肉体労働か犯罪行為か、はたまたそのように身を切り売りすることくらいでしか、金を稼ぐ手段がない。 「これを飲めば、明日には魔力が戻るだろう」  と、ニコラスは小瓶の中身を飲み干した。 「それ、いくらすんだ」 「五千デール」 「たっか!」  思わず叫んでしまった。  これだから王族は。無駄遣いしやがって。 「タダで採れるんだから、金出して買うなよ」  バルカの一言に、ニコラスは目を丸くしている。  こちらを見つめたまま、唖然と固まっていた。 「……おい、なんか言えって」 「いや、お前がそんなことを言うとは……意外だった」  ばつの悪そうな顔で答えたニコラスに、確かに今のは失言だったか、とバルカは気恥ずかしさを覚えた。無駄なことに金を使うなという意味だったのだが、これでは間接的に「自分の一物から出したものを飲め」と言っているようなものだ。 「あー……いや、違う、別に深い意味はなくて……」  しどろもどろになりながら弁解する。 「ただ、俺が言いたかったのは……つーか、あんただって、そういう目的で俺を雇ったんだろ?」 「違う」  ニコラスは語気を強めて否定した。 「お前の体はお前のものだ。他人に搾取されてよいものではない。そう安売りするな」  彼の言葉は尤もなのだが、まるで叱責するかのようなその厳しい口調に、なんだか釈然としない気分だった。  ただ、良かれと思って言ったことなのに。 「……なんで俺が説教されてんだ?」  首を捻ると、ニコラスはさらに気まずそうな顔になった。 「たしかに、お前は悪くないな。すべて私のせいだ」  そう言つて、彼は深々と頭を下げた。 「あの夜は悪かった。お前の意に反したことを強要してしまった。もう二度としない」  ニコラスの取った行動に驚き、バルカは目を見開いた。  オルグに頭を下げる王族なんて、聞いたことがない。 「……別に、気にしてねえよ」  謝ってほしかったわけじゃない。  だったら、どうしてほしかったのか。それは自分でもわからなかった。 「……」 「……」  沈黙が続く。  なんだか妙な空気になってしまった。  軽く咳払いをしてから、 「――そういや、あんた、この国に留学してたんだって?」  と、バルカは話題を変えた。 「ああ。この国の西にある研究所で、魔術を学んだ」 「王族が魔法の修行なんて珍しいよな。どうしてまた、そんなことを」  純粋な疑問をぶつけると、 「憧れの人に近付きたかったんだ」  と、ニコラスからは意外な答えが返ってきた。 「憧れの人?」 「そうだ」  遠くを見つめるような眼差しで、ニコラスが語る。  普段の彼からは想像できないほど、柔らかい声色で、優しい表情で。 「当時の私は、何の力も持たない、弱い人間だった。そんな私とは違い、彼は強く、気高くて……だから私も、自分を磨きたかった。少しでも彼に近付けるように。いざというとき、彼の力になれるように」  まるで、うら若き乙女のような顔で。  その男のことを語るときの彼は、別人のようだった。 「……あんたのそんな顔、初めて見た。よっぽどそいつに惚れ込んでんだな」  バルカの言葉に頷き、ニコラスは微笑んだ。 「彼は、私のすべてなんだ」  その顔を見ればわかる。  彼がどれだけ、その男を愛しているのか。  彼にとって、その男がどれほど大事な存在なのか。 「……つまらない話をしてしまったな」  咳払いとともに、ニコラスの顔から笑みが消えた。 「そろそろ寝るとしようか」 「そうだな」  蝋燭の灯りを消し、寝台に潜り込む。明日に備えてしっかり休まなければ。バルカは目を閉じた。  だが、すぐには眠れなかった。  余計なことを考えてしまう。  ――この男に、あんな顔をさせる男がいるなんて。  いったいどんな奴なのだろうか。興味が湧いた。  それと同時に、苛立ちのようなものを感じていた。  あの夜、あんな風に、俺に抱かれておいて。俺を散々求めておいて、頭の中では他の男のことを考えていたというのだろうか。  だとしたら、なんだか面白くない気分だった。     ■ ■ ■ 「――騎士の仕事の範疇超えてんだろ、こんなの!」  双剣を振り回し、次から次へと現れる魔物を切り捨てながら、バルカは声を荒らげた。 「文句を言うな。ちゃんとこの分の報酬は払う」 「何なんだよ、この気色悪ぃ虫は!」  目の前で、芋虫のような形の生き物が這いずり回っている。  その大きさは様々だ。鼠ほどのものもいれば、犬ほどのものもいる。目はなく、大きな口があるだけ。牙を剥き出してこちらに飛び掛かってくる、珍妙な魔物だった。 「マギアワームだ」  と、ニコラスが説明する。 「昔、此の国は虫を巨大化させる魔術を研究していた」 「なんのために?」 「人間を巨大化して、戦争の兵器として使うつもりだったんだ。そのための生物実験に虫を使っていたんだが、成功例が数匹、研究所から脱走してしまった。そしてそれらはこの森で繁殖し、独自の進化を遂げ、今に至るというわけだ」 「なるほど、こいつらは人間の傲慢が作り出したバケモンってことか」 「シャロルの森には、マギアワームが大量に棲み付いているからな。薬草を採取するにも、一人ではいつも苦労していた」  つまり、自分に虫除けになれ、ということだ。  バルカは魔物と戦い続けた。その間、ニコラスは森の中を散策しながら、暢気な様子で採集に励んでいる。 「うわっ! コイツ、なんか糸吐きやがった! ベタベタする!」 「お、リンドール草じゃないか。この季節には珍しいな」 「なんだこれ!? げっ、虫の卵だ! 気色悪っ!」 「糞が落ちてる。近くに動物の巣がありそうだ」 「どっから沸いて出てんだよ、こいつら! キリがねえ!」 「バルカ、こっちにシャロルベリーが生えてるぞ。食べるか?」 「今それどころじゃねえって! 見りゃわかんだろ!」  少し進むと、森の中に開けた場所があった。野営の跡が残っている。周囲に魔物の気配もないようなので、ここで暫く休むことにした。  あまり光が届かないせいか、森の中は冷える。バルカはその辺の小枝をかき集めた。ニコラスが指を鳴らすだけで、その枝に火が灯った。 「本当に便利な力だな」  思わず感心する。  これだけの力を習得するのに、いったいどれほど努力を重ねたのだろうか。並大抵の苦労ではなかっただろう。  愛する男のために、そこまでするなんて。  こいつにそこまでさせる男の顔が見てみたいな、とバルカは思った。いったいどんな奴なのか。王族か、貴族か。それとも同じ魔術師か。 「それで、目当ての物は手に入ったのか?」  焚火を囲んで暖を取りながら、バルカはニコラスに声を掛けた。 「ああ。お前が魔物を退けてくれたおかげで、作業が捗った」  ニコラスが麻袋の中身を確認しながら答えた。溢れんばかりの薬草が詰まっている。 「これだけあれば、半年は困らないだろう」  この薬草を元に薬が作られ、それらはベルシュタットの人々にも与えられる。誰かが怪我をしたり病気になったりしたときに役立てられるのだ。  魔物の相手は疲れたが、悪くない気分だった。自分の働きが、町の人間のためになっている。その事実に、バルカは達成感や充実感のようなものを感じていた。  労働をして、社会の役に立ち、それの対価として報酬をもらう。  これこそが、自分が求めていた生き方だった。 「次ここに来るのは半年後か……」  小声で呟き、はっと気付く。  半年後は、バルカはもう近衛騎士ではない。ここに来ることもない。そのことをすっかり忘れていた。 「なにか言ったか?」 「いや、なにも」  バルカが言葉を濁した、そのときだった。  どこからともなく矢が飛んできた。  バルカは即座に立ち上がり、剣を抜いた。  人影が視界に入った。目視できるだけでも三人。「くそ、賊か」と舌打ちを零す。 「囲まれたようだな。バルカ、時間を稼いでくれ」  ニコラスが地面に片膝と両手をつき、呪文のようなものを呟きはじめた。オルグの反乱軍を撃退した時と同様の術を使うつもりらしい。  準備が整うまでの間、バルカは四方から飛んでくる矢を二本の剣で叩き落とし、ニコラスの体を守り続けた。  やがて、地面に特大の魔法陣が浮かび上がった。ニコラスが指を鳴らした瞬間、人の呻き声が響き渡った。同時に弓矢による攻撃も止まった。 「……相変わらず、凄い力だぜ」  敵ならば小賢しい術だが、味方だと心強い。  感嘆を漏らすバルカに、ニコラスが鋭く声を返す。 「今のうちに逃げるぞ」  踵を返した、そのときだった。  背後で音がした。 「……他にも仲間がいたか」  退路の先にもう一人いる。 「木の上だ」  弓を構えるその男に向かって、バルカは片方の剣を投じた。  それは狙い通り、男の脚に命中した。  男の体が木から滑り落ち、草むらの中にどさりと沈む。  音のした方向へとバルカは走った。  男が逃げる。血を流した足を引きずりながら。  バルカは男を追い詰めた。その背中に手を伸ばす。服を掴み、体を引き倒した。男が地面に転がる。  バルカは剣を振り上げた。  男のフードが脱げ、顔が露になる。  灰色の肌に、銀色の髪の毛。  ――オルグだ。  見たことのない顔だが、自分と同じ種族であることは間違いなかった。  おそらく、主人の元を逃げ出したオルグが徒党を組み、賊となった連中だろう。こうして森の中に潜み、人間を襲って食い扶持にしているようだ。よくある話だった。  とはいえ、腐っても同胞だ。  バルカの中に一瞬、戸惑いが生じてしまった。  だから、止めを刺せなかった。 「バルカ!」  ニコラスの叫び声が聞こえた。  その瞬間、肩口に衝撃が走った。  見れば、そこに一本の矢が突き刺さっていた。  敵の援軍が現れたようだ。次から次へと矢が飛んでくる。  これ以上は不利だ。バルカは退いた。ニコラスの元へと走る。 「……くそ、油断した」  大木の後ろに身を隠し、舌打ちする。 「同胞相手に情けをかけたな。傷口を見せてみろ」  ニコラスがバルカの肩に手を添えた。  バルカは顔を歪めた。傷は浅いはずだが、呼吸が苦しくなってきた。汗も止まらない。 「毒矢か」  ニコラスが呟いた。 「俺のことはいい」  右手が痺れてきた。  剣を左手に握り替え、バルカは囁いた。 「お前だけでも、逃げろ」  さっきより足音が多い。敵の人数が増えている。完全に囲まれている。 「後は、俺に任せて――」  相手はオルグだ。同族の自分なら恩赦を与えてもらえるかもしれない。  だが、人間のニコラスは違う。八つ裂きにされ、身ぐるみを剥がされてしまうだろう。  こいつを逃がさなければ。  そのために、ここは自分が時間を稼ぐしかない。 「早く、行け」  立ち上がらなければ、と自身を奮い立たせるも、腕にも足にも力が入らない。全身に毒が回ってきたようだ。  ちくしょう、と牙を剥き出し、唸る。  そのとき、 「大丈夫だ、バルカ」  バルカの体を、ニコラスが強く抱き締めた。  次の瞬間、指を鳴らす音が聞こえた。  視界が大きく揺れる。  ――移動魔法か。  毒と酔いで意識が朦朧とする中、バルカの頭に懐かしい光景が浮かんできた。     ■ ■ ■  夢を見ていた。  昔の夢だ。  セスという名のそのオルグは、海の向こうにある大陸の生まれだった。  セスは、バルカよりもふた月ほど後にこの養成所にやってきた。オルグの剣闘士にしては小柄で、線の細い男だった。  彼とは独房が隣同士だったこともあり、鉄格子越しに多くを語り合った。特に彼の生まれ故郷の話は、まるで異国の御伽噺を聞いているかのようで、バルカの心は躍った。  セスは賢く、教養のある男だった。夢はオルグ族の学び舎を作ることで、独学で読み書きを勉強したという。本を読むのが好きで、独房の中にいるときは、いつも一冊の古い本を読んでいた。 『今は耐えるんだ、バルカ』  バルカが怒りを抱き、養成所の主人に盾突きそうになる度に、セスはそう言って窘めた。 『生きていれば必ず……必ず、いつか、報われる日がくる。だから、耐えるんだ』  そんなセスの様子がおかしくなったのは、バルカが二十歳になった夏の日だった。  見るからに体調が悪そうで、セスは房の隅でぐったりと横たわっていた。どうやら夜宴の際に相手をした貴婦人から流行り病をもらってしまったらしく、とてもじゃないが試合に出て戦える状態ではなかった。 『……こりゃ、もう駄目だな』  独房の中で微動だにしないセスを見下ろし、養成所の主人がため息をついた。そして、吐き捨てるような口調で使用人に命じた。 『川に捨てておけ』  まるで動物の死骸を処分するかのように、セスの体は乱雑に麻布に巻かれ、外へと運び出されていく。  その光景に、バルカは愕然となった。 『待てよ! ふざけんなよ、テメェ!』  声を張り上げ、訴える。 『まだ生きてるだろ! すぐに治療すれば――』  鉄格子を激しく叩きながら、バルカは叫び続けた。  だが、誰も聞く耳をもたなかった。 『頼むから、医者に診せてやってくれ! 頼むよ!』  涙声で訴えるバルカを、養成所の主が冷ややかな視線で睨みつける。 『医者なんて呼んだら、いくらかかると思ってんだ。奴隷一匹の値段より、薬代の方が高いんだぞ』  バルカはその場に頽れた。  ――生きれいれば、必ず、いつの日か。  セスの声が頭の中を反芻する。 「セス……っ! ちくしょう……!」  静まり返った牢獄に、バルカの嗚咽が響き渡る。  痛いほど思い知った。何も報われないのだと。  どんなに耐えても、生き抜いても、その先に待っているのは――地獄だ。    ■ ■ ■ 「――目が覚めたか」  気が付いたときには、バルカは森の中ではなく、寝台の上にいた。  見覚えのある部屋だった。レンハイムの宿屋だ。ニコラスの移動魔法で街まで戻ってきたようだ。  バルカに声を掛けたのは、初老の男だった。彼にも見覚えがある。 「あんた、たしか……」  昨夜会った町医者だ。ニコラスの知り合いの。 「ニコ、ラスは……?」  声が掠れた。  上手く喋れない。毒のせいか、口が回らない。 「ここだ」  と、町医者は足元を指差した。  寝返りをうつように体をゆっくりと動かし、床に視線を向ける。  ニコラスが倒れていた。床の上に。体を小さく丸めるような体勢で。  バルカは一瞬ぎょっとしたが、ニコラスはただ眠っているだけのようだ。 「寝かせてやれ。一晩中付きっきりでお前を看病してたんだ」 「え……?」 「大事にされてるんだな。幸運なオルグだ。主人に恵まれてる」  ありえないことだ。バルカは心の中で否定した。  所詮オルグは使い捨てだ。大事にされることなんてない。その辺の虫けらと同じ扱いを受けるものだ。  ――セスがそうだったように。 「どうした? どこか痛いのか」  顔をしかめたバルカに、医者が心配そうに声を掛けてきた。  いや、と首を振る。 「……夢を見た……死んだ、親友の」 「夢見が悪かったんだろう、かなり強力な毒だったからな。人間だったら死んでたぞ。よかったな、オルグで」  医者はバルカに解毒剤を飲ませた。この男が調合したものらしい。 「これで明日には体の痺れが取れるだろう。私は帰るから、ゆっくり休みなさい」  医者が立ち去ったところで、強い眠気が襲ってきた。  バルカが目を閉じようとした、そのときだった。  ニコラスが目を覚ました。  ゆっくりと起き上がり、バルカを見るや否や、彼は安堵の表情を浮かべた。 「気がついたか、バルカ。具合はどうだ?」  答えようとしたが、口が動かない。眠気のせいか、毒のせいか。はたまた薬が効いてきたのか。体が言うことを聞かなかった。  答える代わりに無言で頷くと、ニコラスの表情が和らいだ。 「無事でよかった」  バルカの顔に、ニコラスがそっと手を伸ばす。まるで汚いものに一切触れてこなかったような美しい指先が、バルカの汗ばんだ前髪を掬った。  その仕草に、何故か涙が溢れそうになる。  唇を噛んで堪え、声にならない声でバルカは呟いた。 「……どう、して」  オルグは使い捨てだ。壊れても直さなくていい。新しいものを買った方が安く済む。  それなのに、どうして――。  どうして、俺を見捨てないんだ。  俺が死んでも、ただ別のオルグを使えばいいだけのことなのに。  捨てられると思っていた。セスのときのように。覚悟していた。  それなのに、ほっとしている自分がいる。見捨てられなくてよかったと。  感情の整理がつかなかった。 「ニコ、ラス……」  どうして、俺に優しくするんだ。 「安心しろ、バルカ。私が付いてる」  そんな目で見られたら、勘違いしてしまいそうになるじゃないか。大事にされているのだと。  そんな手付きで頭を撫でられたら、夢を見てしまうじゃないか。人間から愛されることを。  滑稽だ。オルグの分際で。  大事にされることなど、愛されることなどない。そんなことはありえないのだと、これまで嫌と言うほど思い知らされてきたのに。

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