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第1話

 梅雨明けと同時に、季節が一気に夏めいてきた。むせかえるような熱気と日差しに、身体がついてこない。若い頃は毎年夏が来ると浮かれていたのに、今はただただ暑さが億劫だった。 「すんませーん」  首元の汗を拭い、卯崎優(うざき すぐる)は交番の戸口から声をかけた。ややあって、奥から「はい、ただいまお伺いします」と返ってきた。  卯崎はくたびれた段ボール箱を片手に持ち、中を見回した。  交番の前はよく通るが、中に入るのは初めてだ。古びたカウンターや事務机があるだけで、ひなびた不動産屋のような風情だ。  ほどなくして、若い警察官が出てきた。  見上げるほど背の高い男だ。胸と肩幅が広く、そのボリュームに圧倒される。筋肉質な身体のフォルムに、カチッとした制服がよく似合っていた。 「お待たせしまし――あ、」  顔を合わせるなり、男ははっとしたように目を見開いた。卯崎は「よっ」と軽く手を上げる。 「久しぶり。元気だった?」 「はい。その節は、大変お世話になりました」  男は大きな身体を折り曲げ、深々と頭を下げた。卯崎は「いいよ、そんな」と手を振った。 「たいしたことはしてないから。ええと――」 「朝比奈雄一(あさひな ゆういち)といいます。よろしくお願いします」  朝比奈は再び頭を下げた。姿勢が良いので、お辞儀をする仕草が様になっている。少し堅苦しいが、朝比奈の礼儀正しさに卯崎は好感を抱いた。  朝比奈に促され、卯崎はカウンター前のパイプ椅子に腰を下ろした。 「あれからどうしてるか、気になってたんだ。立派にお巡りさんやってるみたいじゃない」 「いえ、自分なんか、まだまだです。もっと精進しないと」  朝比奈はそう言って首を振った。自戒の言葉を口にしているが、口元にはかすかに誇らしげな笑みが浮かんでいる。笑うと頬にえくぼができて、大型犬のような愛嬌があった。  朝比奈と初めて顔を合わせたのは三ヶ月前、まだ桜が咲いていた時期のことだ。  その頃、朝比奈は警察学校を卒業し、この町の交番に着任したばかりだった。朝比奈は巡回中に徘徊していた老人を保護したが、自宅の住所を聞き出せず途方に暮れていた。  そこへ両親の墓参りに向かっていた卯崎が通りがかった。卯崎は老人と顔見知りで、状況を知って老人の家まで案内したという次第だった。あの時の朝比奈はずいぶん頼りなさげに見えたが、交番勤務にも慣れてきたのだろう、今日は幾分か落ち着いて見える。 「それで、今日はどうされましたか?」  朝比奈は表情を引き締め、居住まいを正した。 「それがさ、動物拾っちゃってね」  そう言うなり、卯崎は持ってきた段ボール箱をカウンターに置いた。 「ああ、猫か犬ですか?」 「ううん、これなんだけど……」  卯崎は段ボール箱から出したそれをカウンターに乗せた。コツン、という無機質な音がした。 「……カメ?」  朝比奈はそうつぶやき、カメを凝視した。  カメは卯崎の片手に収まるほどの大きさで、こんもりとした甲羅は黒と黄色のまだら模様。カメは甲羅から頭を出すと、のそのそと歩き出した。 「さっき開店準備してたんだけどね、店の前をノコノコ歩いててさ」  ふあ、と卯崎はあくびをかみ殺した。時刻は正午になろうとしていたが、起きたばかりでまだ眠気がまとわりついていた。 「このカメ、野生じゃないんですか?」 「どうかなあ。クサガメとかアカミミガメとか、その辺の川に住んでるようなタイプじゃないと思うんだけど」  卯崎はあまりカメには詳しくないが、形状から察するにリグカメのようだ。難しい顔をつきあわせる人間たちをよそに、カメはカウンターの上を物珍しそうに歩き回っている。 「ペットとして飼われてたのが逃げたのかと思って、届けに来たんだけど――カメは落とし物の対象外だった?」 「いえ、どなたかのペットかもしれませんし、しっかりお預かりします」  朝比奈ははきはきと答え、手続きのために書類を準備し始めた。席を立って壁際のキャビネットに向かい、卯崎に背を向ける。  朝比奈の広い背中と引き締まった小ぶりな尻を、卯崎はさりげなく目で追った。制服の袖から伸びる腕のラインが逞しい。  春に会った時から思っていたが、朝比奈は卯崎の好みのタイプだ。  卯崎は若い頃から筋肉質で逞しい男に目がなかった。朝比奈の体格は文句のつけようがないし、はにかんだ笑顔も好みだ。 「朝比奈くん、今いくつ?」  目当ての書類を探す朝比奈の背中に、卯崎は問いかけた。 「今年で二十五になります」 「二十五かあ。いいなあ、人生これからでしょ」 「卯崎さんだって、まだお若いじゃないですか」 「そんなことないよ。四捨五入したら四十だもん」 「え、本当に?」  朝比奈は振り返り、目を見張った。 「全然見えないです」 「へぇ、意外だな。そういう気遣いもできるタイプなんだ?」  そう言ってからかう卯崎に、「いや、そんなつもりじゃ……」と朝比奈は狼狽する。kの世慣れしてない感じが、また微笑ましかった。  朝比奈はそうは見えないと言ってくれたが、卯崎自身は精神と肉体の衰えを嫌になるほど実感していた。  若さに任せて好き放題やっていた頃は、同じ指向の男たちに「きれいだ」「色っぽい」ともてはやされたものだったが、今や肌や髪は艶を失い、夜通し遊び回れるような体力もなくなった。何より、気力の衰えがひどい。  もしも自分が若い頃に朝比奈のような男と、例えばゲイバーで出会っていたら……しかしこの歳で、そんな気力も体力も要求されること、とてもできる気がしない。こうして若い男を眺めているだけで十分だ。 「それではお手数ですが、こちらに記入をお願いします」  朝比奈は届出書を差し出した。  名前や住所を書き込んでいると、ふと、卯崎は頬に熱を感じた。日差しにチリチリと焼かれているような、そんな感覚。 「――何?」  卯崎が顔を上げると、朝比奈は「あ、いえ」と言って目をそらした。 「卯崎さんの字が、綺麗だと思いまして」 「そう?」  朝比奈の思いがけない言葉に、卯崎は書類の文字を見返す。 「自分では、そう思ったことないなあ。癖のある字じゃない?」 「いえ、そんなことは――ああっ、ちょっ!」  朝比奈が唐突に悲鳴を上げた。卯崎が手元に視線を戻すと、いつの間にかカメが書類にかじりつこうとしていた。  朝比奈はカメから慌てて書類を取り上げるが、カメは腹でも空かせているのか、必死に追いすがってくる。 「やっぱ人慣れしてんね。箱に戻したら?」 「そ、そうですね」  朝比奈はカメを掴もうとしたが、はっとしたように手を止める。そして何を思ったか、事務机からクリップボードを取り出してきた。 「ほら、こっちにおいで」  朝比奈はそう言うと、カメを誘導し始めた。どうやらボードに載せて、箱に入れるつもりらしい。何ともまどろっこしいやり方だ。 「朝比奈くん、もしかしてカメ苦手?」 「いえ、そうじゃないんですけど……」 「直接手で掴んだほうが早くない?」  すると、朝比奈は気まずそうに視線をそらした。 「いや、自分が掴んだら、……割りそうな気がして」 「割るって? こいつを?」  ええ、と朝比奈は苦笑した。 「だってカメの甲羅って、瀬戸物みたいじゃないですか。自分は不器用なので、落として割ってしまいそうで……」  落としてもそう簡単に割れはしないと思うのだが……どうやら朝比奈は大きな身体に似合わず、かなり心配性らしい。確かに朝比奈の手は大きくゴツゴツとしていて、あまり器用そうには見えなかった。  動き回るカメに苦戦する朝比奈を見かね、卯崎はひょいとカメを掴んだ。「あっ」と呆気にとられた声を上げる朝比奈をよそに、卯崎はそのままカメを段ボール箱に戻してやる。 「ほら、大丈夫」 「すみません、手を煩わせてしまって……」  朝比奈はそう言って、恐縮したように頭を下げる。腰の低い姿勢には感心するが、ずっとこの調子ではストレスが溜まらないだろうか。卯崎は目の前の青年の前途を案じた。 「では、カメはこちらでお預かりしますね。ご協力、感謝します」  一連の手続きを終えると、朝比奈は段ボール箱を引き寄せた。 「ところでさ、そのカメ、飼い主が見つかるまでここで世話するの?」 「ええ、そうなりますね」  ふうんと頷き、卯崎は交番内を見回した。 「飼育用のケージとかあるわけ?」 「どうでしょう、犬猫用のはあると思うんですけど……カメなら、水槽でしょうか」  ううん、と朝比奈は首をひねる。  どうやら交番にはカメを飼育できるような設備は整っていないようだ。もし仮にここで世話をするのであれば、恐らく新米の朝比奈が担当することになるだろう。だが、先程の朝比奈のおっかなびっくりな様子では……。 「ねえ、よかったらさ」  卯崎はカウンターに身を乗り出した。 「飼い主が見つかるまで、うちで預かろうか?」 「え?」 「昔、金魚飼ってた水槽があるからさ、それ使えば良いよ。俺、いつも店にいるし、餌やるくらいならできると思う」 「あ、お店を経営なさっているんですか?」 「うん。『うさ』っていう喫茶店」  純喫茶『うさ』は、この交番の近くにある商店街の一画で、ひっそりと営業していた。  地元の古馴染みしか利用しないような知る人ぞ知る店なのだが、朝比奈は卯崎の簡単な説明だけですぐに「ああ、あそこの」と頷いてみせた。出会ったばかりの頃に比べ、朝比奈はずいぶんと周辺の地理に詳しくなったようだ。 「どうかな。俺の店でカメの面倒を見てれば、ここで世話する必要は無くなると思うけど。店に来るお客さんに、カメの飼い主を知らないか聞くことも出来るし」 「いえ、――」  願ってもいないであろう卯崎の提案に、何故か朝比奈は表情を硬く引き締めた。 「預かってもらうわけにはいきません。届けていただいた上に、世話までなんて……」 「別にいいよ。カメなら散歩もいらないし、手はかからないだろうから」 「でも……」 「いいからいいから。いつも誰かと一緒にいたほうが、カメも寂しくないでしょ?」  このカメがいれば、きっと朝比奈は頻繁に『うさ』を訪れるだろう。彼の顔と腰のラインは、いい目の保養だ。  卯崎はしつこく食い下がる朝比奈をうまく説得し、カメを預かることを承諾させた。 「あの、卯崎さん」  卯崎がカメを入れた段ボール箱を抱えて立ち去ろうとすると、朝比奈に呼び止められた。朝比奈は制帽を脱いで胸に抱え、じっと卯崎を見つめてくる。 「あの時は……本当に、ありがとうございました」  そう言うなり、朝比奈はきっちりと腰を折った。卯崎が交番を訪れてから、彼はもう何回頭を下げただろう。 「最初に会った時のこと、まだ気にしてるの? たいしたことはしてないんだし、そんなに頭下げなくていいよ」 「いえ、その……」  朝比奈は、ぐっと制帽を握った。 「卯崎さんには、たいしたことじゃないかもしれませんが……自分は、本当にあなたに助けられました。ずっと、お礼が言いたかったんです」  まっすぐ向けられた朝比奈の言葉に、卯崎は呆気にとられた。制帽を握る大きな手が、かすかに震えていた。 「カメの世話は、自分もできる限りやります。絶対に、卯崎さんに任せきりにはしませんので」  朝比奈の「よろしくお願いします」の声に見送られ、卯崎は交番を後にした。箱を覗くと、カメが首を伸ばして卯崎を見つめていた。  ちらちらと刺さる朝比奈の視線、そらされた目、思い詰めた大きな手――。  卯崎は店に戻るまでの間、ずっとそれらを頭の中で反芻した。

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