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第2話
ドンドンドン! ――『うさ』の店内に、けたたましいノック音が響き渡る。朝の静寂が、たちまち霧散していく。
洗面所で髭を剃っていた卯崎は手を止め、顔を上げた。壁掛け時計の時刻は十時三十二分。少しのんびりしすぎたか。
「ちょっとー、優ちゃーん? まだ寝てんの?」
今度は大ボリュームのダミ声が洗面所を直撃した。寝起きの卯崎の頭に、彼女の声はビリビリ響いた。
卯崎は急ぎ身支度を調え、「はいはい、ただ今」と店の扉を開けた。すると、松井が小さな身体を押し込むようにして、店の中へと入ってきた。真夏の蒸れた空気と古びた香水の匂いが、ふわりと舞い上がる。
「大声出さないでよ。近所迷惑でしょ?」
卯崎があくび混じりに言うと、松井は「何言ってんの」と声を尖らせる。
「あたしが近所迷惑なら、あんたは客迷惑だよ。いったい、いつまで寝てる気?」
「ちょっと遅れただけでしょ」
「ちょっと? もう開店時間を三〇分も過ぎてるじゃないの」
「しっかりしなさいよ!」という檄とともに、強烈な平手打ちが卯崎の尻を襲った。卯崎は「痛って!」と悲鳴を上げ、よろめいた。
松井は『うさ』の常連で、子供の頃からの付き合いだ。スナック経営のかたわら、女手一つで子供を育ててきたせいか、とにかく言動が粗い。
彼女を相手にする時は、大人しく従うに限る。卯崎は尻をさすり、ケトルをコンロにかけた。
しゅんしゅんとお湯が沸く音とともに、曇りガラスを通して光が満ちていく。卯崎よりも年配のカウンターやコーヒーカップたちが、寝ぼけ眼の卯崎とともに目を覚ましていく。
今ではペーパードリップでコーヒーを淹れるカフェが多いが、『うさ』は今でも古き良きサイフォン式だ。お湯を注いだフラスコを火にかけ、その間、ロートにコーヒー粉を入れる。もう目をつぶったってできるほど、手慣れた作業だ。
カウンター席に座った松井が、ライターを擦った。コーヒーの香りの中に、たちまち紫煙の匂いが混じった。
「まったく、あんたのお父さんも朝弱かったけど、店はちゃんと開けてたよ。ここ続けるって決めたなら、ちゃんとしな」
「そう言われてもねえ、俺朝は弱いし、夜職長かったし」
「もう何年前の話よ。やる気がないだけでしょ」
ぱはーと吐き出された紫煙と悪態を、卯崎は「はいはい」と軽く受け流した。フラスコの中にコーヒーが落ちきったところで、卯崎はロートを外し、コーヒーをカップに注いだ。古木をいぶしたような深い香りが、立ち上っていく。
『うさ』は卯崎が物心着いた頃、父親が始めた純喫茶だ。
カウンター五席に二人がけのテーブル席が二つ。商店街のアーケードから外れているので立地はとても良いとは言えない。常連は近隣住人ばかりだ。
「はい、お待たせ」
卯崎は焼き上がった厚切りトーストにバターとスクランブルエッグを添え、松井の前に置いた。これが彼女の定番メニューだ。わざわざ注文をとるまでもない。
松井に気づかれないよう、卯崎はそっと溜息をついた。
古びたカウンター、黄ばんだ壁紙、見飽きた常連客。
そしてその中で、ゆっくりと老いていく、卯崎自身。
亡き父から『うさ』を継ぐ前まで、卯崎は都内のゲイバーで雇われ店長をしていた。
バーには夜ごとに様々な客が訪れ、きわどい会話や視線を交わし、毎日が刺激に満ちていた。人あしらいが得意な卯崎にとって、夜の店は肌にあっていた。
だが、それももう五年も前のことだ。脳卒中で倒れた父を介護するため、卯崎は店を辞めざるを得なかった。昨年父が他界した後も、卯崎はバーに戻ることなく父の店である『うさ』に留まり続けている。
夜の仕事に戻りたい。『うさ』の生活は、退屈だ。
だが、卯崎にとって五年という月日は長すぎたのだ。四十路に片足を突っ込んだ今では体力的にきついし、ブランクのあるくすんだ男を誰が雇ってくれるだろう。
俺はこのまま、『うさ』といっしょに朽ちていくのだろうか――。
鬱々としたものが、卯崎の胸に広がった。
「ねえ、ちょっと、」
ふいに松井から声をかけられ、卯崎は我に返った。彼女の視線につられて見ると、水槽があった。
「その水槽、こないだまで無かったわよね。何飼ってるの?」
「ああ、見る?」
卯崎は水槽からひょいとカメを掴みだし、カウンターに置いた。眠っていたのか、カメは甲羅から迷惑そうに顔を覗かせた。
「やだぁ、カメじゃない。どしたの?」
松井は、カメを避けるように身を引いた。
「ちょっと預かることになってね」
卯崎がカメとの同居の経緯を話すと、松井はふうんとうなずいた。彼女が二本目に火を付けたのに合わせて、卯崎も煙草を取り出した。
「水槽にライトまで付けてあるじゃない。ちょっと預かるにしてはずいぶん本格的に道具をそろえたのねえ」
まあねえ、と卯崎は苦笑をこぼした。水槽の側には紫外線ライトが置かれ、専用のペレットまで用意されている。
水槽は卯崎の持ち物だが、それ以外の飼育グッズはすべて朝比奈が持ち込んだものだった。カメを交番に届けたその日の夜、朝比奈がこれらの飼育グッズを抱えて店にやってきたときは驚いた。繊細で飼育が難しいであろうヘビやカメレオンならともかく、頑丈な甲羅に覆われ、いかにも図太そうに見えるこのカメのために、ここまでする必要があるのだろうか。
――誰かの大切な家族ですから、責任を持ってお預かりしないと。
朝比奈はそう言って、日に一度はカメの世話をしに『うさ』を訪れた。少し過保護すぎる気もするが、彼の責任感の強さに卯崎は感心した。
ほう、と紫煙を天井に向かって吐き、卯崎は松井に視線を向ける。
「たぶん、この辺の家で飼われてるカメだと思うんだよね。探している人がいないか、婦人会とかで聞いてみてよ」
「いいけど、誰かがカメ飼ってるなんて話、聞いたことないわよ」
松井は眉をしかめ、しっしと寄ってくるカメを遠ざけた。どうやら、爬虫類は苦手なようだ。
そうして卯崎が松井とともにコーヒーと煙草をお供に雑談を交わしていると、ドアベルがカランと軽やかな音を立てた。
そろそろだろうと思っていたら、当たりだ。朝比奈が「おはようございます」と爽やかな笑顔とともに店内に入ってきた。
「やあ、いらっしゃい」
卯崎は微笑みかけ、灰皿の中で煙草を揉み消した。
「やだー、あっくんじゃない。どうしたの?」
朝比奈の顔を見るなり松井は目を輝かせた。酒焼け声が数オクターブ跳ね上がり、卯崎はぎょっとした。
「おはようございます、松井さん。お孫さんはお元気ですか?」
「もー、元気よ元気。さっきだって保育園行きたくないって、大暴れだったんだから」
さっきまでの不機嫌な態度はどこへやら、松井は快活に笑って朝比奈の腕を叩いた。
「あら、私服? 今日お休み?」
松井が言うように、今日の朝比奈はスポーツブランドのTシャツに、デニムパンツをあわせていた。普段より若々しさが際立ち、大学生のように見える。
「今日は非番なんです。だからカメの水槽を掃除しようと思って」
え、と卯崎は眉を寄せた。
「それでわざわざ来たの? せっかくの休みなのに?」
「はい。こういう機会でもないと、しっかり掃除してあげられないんで。表の蛇口、お借りしてもいいですか?」
卯崎が承諾すると、朝比奈は水槽を抱えて出て行った。その大きな背中を見送りながら、松井は深々と溜息をついた。
「もー、ほんと真面目な子よね。今時あんないい子いないわよ」
「ちょっと真面目すぎる気もするけどねえ」と返し、卯崎は使い終えたロートやフラスコをゆすいだ。店の表からも、ばしゃばしゃと水音が聞こえてくる。
「礼儀正しいし、いっつも町の人に気配ってんのよ。この間なんてね、まりちゃん自転車に乗せて買い物に行ったんだけど」
まりちゃんとは、孫娘の真愛 のことだ。五歳のやんちゃ盛りで、シングルマザーの母親に代わって松井が面倒を見ている。
「まりちゃんが靴を落としたらしくて、走って届けてくれたのよ。よく見てくれるお巡りさんがいると、私たちは安心よね」
幼女の靴を手に、全力疾走する朝比奈――その姿を想像し、卯崎はくすりと笑った。新人警官ながら、地域に貢献しようと頑張っているようだ。松井が朝比奈を手放しで褒めているのが、卯崎はなんとなく嬉しかった。
帰宅した松井と入れ替わりに、朝比奈が戻ってきた。今日も外はカンカン照りなのだろう、朝比奈の額には汗が浮かんでいる。
「お疲れ。これ、サービス」
卯崎が用意していたアイスコーヒーを出すと、朝比奈は恐縮して首を振った。
「ダメですよ、ちゃんとお支払いします」
「そう言わないでよ。仕事頑張ってるし、ご褒美」
朝比奈を見上げるようにして、卯崎はにこりと微笑んでみせた。すると、朝比奈は一瞬息を飲み、
「あ、……じゃあ、いただきます」
と、ぎくしゃくとカウンター席に腰を下ろした。彼の頬や顎はこわばり、角張った肩には力が入っている。
朝比奈はもう何度も『うさ』へ来ているのに、いつまで経っても緊張が解けなかった。そろそろここらでリラックスしてくれてもいいのに、と卯崎は思うのだが、今も卯崎と視線が合うのを恐れるように、朝比奈はカウンターの木目ばかり見つめている。
そうかと思えば、卯崎が目をそらしている間に、朝比奈の視線を感じることがあった。あえて気づかないふりをしていたが、朝比奈は卯崎を見つめるばかりで具体的なアクションを起こしてこない。頑なな態度と裏腹な朝比奈の視線に、卯崎はずっと引っかかるものを感じていた。
そうだ――卯崎はふと思い立ち、朝比奈の隣に座ると、頬杖をついて目を細めた。
「ねえ、あっくん」
卯崎がふい打ちで朝比奈のあだ名を呼ぶと、彼は「えっ」と目を丸くした。
「そう呼ばれてんでしょ? 俺も呼んでいい?」
「え、ええ。好きに呼んでください」
朝比奈は大きな身体を縮こめて、ストローからアイスコーヒーをすすった。卯崎が目で誘っているのに、朝比奈は絶対に視線を合わせようとしない。
「松井のおばさん、あっくんのことベタ褒めしてたよ」
「え、どうしてですか?」
「きみのこと、すごく仕事熱心だって。もうすっかり町のお巡りさんだね」
「いえ、そんなことはないです」
強く否定され、卯崎は少し驚いた。朝比奈は決まりが悪そうに咳払いする。
「……自分なんて、まだまだです。至らないところもたくさんあるし、もっと精進しないと」
「え、そうかな?」
卯崎は眉を寄せ、首を傾げる。
朝比奈は時折、自身を卑下することがある。卯崎がどんなに褒めても、自分なんてと否定する。朝比奈は体格に恵まれ、地域を守るお巡りさんとして住人たちに好かれ、熱心に職務をこなしているというのに、何をそんなに卑屈になることがあるのだろう。
「……頑張ってるのは偉いと思うけど、あっくんは少し力を抜いたほうがいいんじゃない? 今日だってせっかくの休みなのに、誰かとデートとかしないの?」
「いや、する相手がいないので」
朝比奈は苦笑した。
「昔から、そういうことには縁がないんです。休みの日も、筋トレばかりしてます」
「そうなの? 寂しくない?」
「そうでもないですよ。身体を動かすのは好きですから」
ふうん、と卯崎は目をすがめた。
「……寂しかったら、俺が遊んであげようと思ったのに」
唇に薄く笑みを乗せ、卯崎は朝比奈に流し目を向けた。
卯崎は昔から「その目で見られるとゾクゾクする」と男たちに言われ、よくその流し目で一夜の相手を引っかけていたのだ。バーを辞めてから長らく使う機会はなかった。
卯崎の考える通りなら、朝比奈は本心を見せてくるかもしれない――卯崎はそう期待したが、
「いえ、そんな、卯崎さんの手を煩わせるわけにはいきませんよ」
と、朝比奈は恐縮したように苦笑を浮かべた。その様子から、本当に遠慮しているように見えた。
朝比奈は視線の意味に気づかなかったのだろうか。もしくは、彼に見られていると思ったのは、卯崎の勘違いだったのかもしれない。朝比奈から思ったような反応が得られず、卯崎は少し興ざめした。
現役を離れて長くなるし、俺も焼きが回ったかな――卯崎がそう思ったのも束の間、目の前をのそのそと歩いていたカメが、カウンターから滑り落ちそうになった。
「おっと、」
「あっ――」
卯崎がカメを受け止めようとしたのと、朝比奈が手を伸ばしたのは、同時だった。
カメを掴んだ卯崎の手に、朝比奈が触れた。
「っ、」
かすかに、息を詰める気配がした。
見れば、朝比奈が硬直していた。
顔を耳まで真っ赤にして。
両目は限界まで見開かれ、重なった二人の手を凝視している。瞬きすらしない。呼吸も止まっているようだ。
その朝比奈の反応に、卯崎は確信した。
――やっぱりこの子、俺に惚れてる。
先日、朝比奈と交番で会った時から、卯崎にはずっとそんな予感がしていた。朝比奈から視線を感じるのに、妙によそよそしかったのは、卯崎のことが気になるが、どうしていいのか分からなかったせいだろう。
卯崎は、無意識に唇をゆるめた。
「あっくん」
数秒遅れて、「は、はい!」と朝比奈は我に返った。
「触ったね」
「え、……あっ!」
卯崎の手を握りっぱなしだったことにようやく気づき、朝比奈はぱっと手を離した。
「すみません! 俺、そんなつもりじゃ――」
「カメ」
卯崎は、手のひらのカメを朝比奈の視線の高さに持ち上げた。
「少し触ってたよ。ほら、」
卯崎はそう言うと朝比奈の手を取り、その大きな手の平にそっとカメを乗せてやった。仰向けになったカメは、じたばたと足で空をかいた。
「ね、大丈夫でしょ?」
「……はい、」
朝比奈は、蚊の鳴くような声を出して頷いた。額に汗を滲ませ、今にも湯気を噴きそうだ。卯崎は必死で笑いをかみ殺した。
こんなに若い男が、今、自分に夢中になっている――。
言いようのない喜びが、卯崎の身体の底からわき上がってきた。
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