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第3話
瞬く間に夏が過ぎ、気づけば十一月になろうとしていた。今年の秋は記録的な長雨が続き、しくしくと泣くような雨が降り続いている。
そんな鬱陶しい空気を振り払うように、カラン、とドアベルが鳴った。大きな身体が、軽やかに滑り込んでくる。
「こんにちは、卯崎さん」
キッチンで作業をしていた卯崎が振り返ると、朝比奈は制帽を脱ぎ、会釈した。
「いらっしゃい、あっくん。今日も寒いね」
「ええ。でも雨が弱まっただけ、マシですよ」
やれやれと言うように、朝比奈は帽子で潰れた髪を整えた。ワイシャツが夏服の青から白に切り替わって久しいが、こちらもよく似合っている。
カメを預かってから四ヶ月、朝比奈はカメの餌やりついでに、ランチを食べていくようになっていた。
例の「あっくん」呼びがよかったのか、近頃の朝比奈は緊張が解けてきたようだ。卯崎が「あっくん」と呼ぶと朝比奈は一瞬はっとして、すぐにはにかんで笑う。その仕草がまるで飼い主に呼ばれた大型犬種の子犬のようで、かわいらしい。
「今日、オムライスだけどいい?」
フライパンを火にかけつつ、卯崎はカメに餌をやる朝比奈に呼びかけた。カメは朝比奈の手に首を伸ばし、夢中でペレットを頬張っている。
「はい、もちろんです。オムライスは好物です」
爽やかな朝比奈の笑みが、薄暗い店内を明るく照らした。朝比奈が喜んでくれると思うと、慣れきったオムライス作りにも力が入る。
「いただきます」
カウンター席に座った朝比奈の前に、卯崎がオムライスとサラダを並べると、彼は律儀に手を合わせた。
挨拶する時は帽子を取るし、食べ終えた食器はカウンターの流しに近いところに置いてくれる。朝比奈は普段から礼儀正しいが、言葉だけでなく、何気ない仕草からも気遣いが表れている。今では外見だけでなく、朝比奈のその表裏のなさも卯崎は気に入っていた。
ふと、卯崎は朝比奈のうなじに目をとめた。
「あれ、あっくん髪切った?」
朝比奈の襟足はすっきりと切りそろえられ、男らしい首のラインが露わになっている。日焼けした肌には、しみなんて一つもなかった。
「ええ、昨日休みだったんで切ってきました。よく分かりましたね」
「まあね。うん、よく似合ってるよ」
朝比奈は「ありがとうございます」とはにかんだ。散髪してより露わになった耳が、かすかに赤らんでいた。
きりっとして勤務する姿や、爽やかな笑顔もいいが、やっぱり照れている顔が一番可愛い。もっともっと、そんな顔をさせたくなる。
卯崎の中で意地の悪い気持ちが、むくりと頭をもたげた。
「ねえ、襟足触ってもいい?」
オムライスをすくう朝比奈の手がピタリと止まった。
「え、襟足ですか?」
「うん。切ったばっかりの襟足って、しょりしょりして気持ちいいじゃん。ちょっと触らせてよ」
「え、いや……」
「だめ?」
卯崎が流し目を向けてやると、朝比奈の顔がみるみる赤みを帯びていった。
「あ、……じゃ、どうぞ」
ためらった末に、朝比奈は観念して頭をうつむけた。卯崎がキッチンからカウンター席に移動し、差し出された首筋を撫でると、ひくっと朝比奈の肩が跳ねた。
丁寧に刈り上げられたその襟足は、芝を撫でているようで気持ちが良い。だがそれ以上に良いのは、朝比奈の反応だ。
「あっくん、髪硬いね。ちくちくする」
「え、あ、ああ、はぃ……」
朝比奈の汗ばんだ肌が、ぐんぐん熱くなっていく。きっと羞恥と緊張で、彼の頭は沸騰していることだろうと卯崎はほくそ笑む。
自分に気があると分かってからは、こうして朝比奈をからかうのが卯崎にとって日々の楽しみになっていた。
朝比奈にボディタッチをしたり意味ありげに視線をやったりすると、彼は面白いほど動揺してくれる。遊び慣れた卯崎にとって、その初々しい反応はむしろ新鮮だった。朝比奈の跳ね上がる心音が伝播して、卯崎まで胸が高鳴るようだった。
卯崎がしばし襟足と朝比奈の反応を楽しんでいると、店のドアベルが鳴った。入ってきたのは、常連客の老人、水野だった。
「いつもの」
水野はそれだけ言うと、お気に入りのテーブル席で新聞を広げた。
せっかく良いところだったのに――そんな不満はおくびにも出さず、卯崎は「はいはい、ただいま」と水野に笑顔を見せつつ、冷蔵庫の前に向かった。
卯崎が横目でチラリと朝比奈の方を見ると、ちょうど彼が忘れていた呼吸を思い出して大きく息を吐き出す瞬間だった。その様子に卯崎は噴きだしそうになるのをこらえ、冷蔵庫を開けた。
「あちゃー、ごめんなさい」
卯崎は冷蔵庫を閉め、老人に向かって手を合わせた。
「今日はあずき切らしてたわ。ごめん」
「はあ?」
水野は新聞紙から顔を出し、盛大に眉をしかめる。ブラックのホットコーヒーと小倉トーストが、彼のお気に入りのメニューなのだ。
「おめー、この間も切らしてたじゃねえか。どうなってんだよ」
「ほんとごめんって。なんか別のにしてよ」
「ちっ、だったらコーヒーだけでいいよ」
ぶつぶつと文句を垂れる水野を平謝りでなだめ、卯崎は手早くコーヒーを淹れた。朝比奈は二人のやりとりを見ながら、不思議そうな顔をしていた。
水野はコーヒーを一杯飲むと、煙草を二、三本吸い、ほどなくして帰って行った。食後のアイスコーヒーを出したタイミングで、朝比奈が「あの、」と遠慮がちに口を開いた。
「さっき、冷蔵庫の中が見えたんですけど、あれ、あずきの缶じゃありませんでした?」
朝比奈は冷蔵庫のほうを見やった。
「見えた?」
「ええ」
「いや実はあのじいさん、最近血糖値が高くなってるんだって。それなのに、甘い物を控えないから困るって、あの人の奥さんが言っててさ」
水野の妻も『うさ』の常連だ。彼女はここへ来るたび、卯崎に健康を顧みない夫が心配だと訴えるのだ。
「だから血糖値が戻るまで、あずきはお預けにしてんの。じいさんには悪いけど」
「……すごい」
朝比奈は、感じ入ったようにそうつぶやいた。
「卯崎さんは、優しい嘘がつける人なんですね」
え、と卯崎は目を見開いた。朝比奈は尊敬できらめく目を、まっすぐ向けてくる。
「優しい?」
「ええ。あのおじいさんにストレートに注意しても聞いてくれないから、わざわざ嘘をついたんでしょ?」
「まあ……」と卯崎は曖昧に頷いた。水野は頭が固く、真正面から注意しても従うわけがない。穏便に糖質制限するには、嘘をつくしかなかったのだ。
「優しいなんて、そんなたいそうなもんじゃないよ。揉めるのが嫌なだけ」
「そういうのを上手く回避できるのが、すごいんです。大人だなって、思います」
大人というか、歳食ってるだけなんだけど――卯崎はそう返そうかとも思ったが、朝比奈があまりにもピュアな目で見つめてくるので、やめた。朝比奈を欺しているような、褒めちぎられて照れくさいような、妙な気分だ。
接客業が長く、夜の店にも勤めていた卯崎にとって、ちょっとした嘘をついたり誤魔化したりするのは、ごく当たり前のことだ。特に、互いのプライベートにも触れやすい水商売ともなると、そういった駆け引きは必須になる。それは悪いことではないし、褒められるようなことでもない。
それがあっくんからすると、「すごい」で「優しい」なのか――
「……ありがとね、あっくん」
卯崎がかすかに口元をほころばせて言うと、朝比奈は「え、何がですか?」と目をきょとんとさせた。
その後、ランチを終えた朝比奈の会計をしていると、「あ、そうだ」と朝比奈は思い出したように言い出した。
「最近、市内で暴力団関係者を名乗る男が、飲食店からお金を脅し取る事件が起きてるそうです。昨日は、隣町の商店に来たらしくて……」
「へえ、それは怖いね」
卯崎はお釣りの小銭を取り出し、ガチャンとレジの引き出しを仕舞いながら眉を寄せた。
「このあたりにも来るかもしれないから、注意してくださいね」
「分かったよ。でももし、俺が襲われたら、あっくんが助けてくれる?」
卯崎はお釣りを朝比奈に渡し、彼のその手をぎゅっと握った。すると、朝比奈は顔を赤くしながら、「もちろんです!」と力強く頷いた。張り切る様も子供のように可愛らしい。卯崎は笑顔で朝比奈を見送った。
「もっしもっしかめよー、かめさんよー」
カウンターやテーブルを片付けている間、卯崎は無意識に鼻歌を歌っていた。朝比奈が店に来るようになって、単調だった卯崎の日々は確実に色づいていた。
機嫌良く食器を洗っていると、再びドアベルが鳴った。
「いらっしゃい――」
振り返ったとたん、卯崎は息を飲んだ。
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