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第4話

 振り返ったとたん、卯崎は息を飲んだ。  店内に入ってきたのは、朝比奈と背が並びそうなほどの大男だった。頭を丸刈りにして、黒地に金の鱗模様が入ったダブルスーツで身を固めている。のどかな喫茶店には、不釣り合いな出で立ちだ。 「よぉ」  男は軽く手を上げ、卯崎に向かってにっと笑った。 「……稲尾さん? え、なんでここに?」  稲尾の厳つい風貌に懐かしさを感じ、卯崎は相好を崩した。 「ヤーさんでも来たのかと思いましたよ」と卯崎が軽口を叩くと、「何言ってんだよ」と稲尾は笑って、卯崎の前で両腕を広げた。卯崎は稲尾から求められたハグをやんわりかわし、彼をカウンター席に座るよう促した。  稲尾は都内でいくも飲食店を経営しており、かつて卯崎が勤めていたゲイバーも彼が経営する店のひとつだった。こうして稲尾と顔を合わせるのは卯崎が退職して以来で、実に五年ぶりだ。 「よくここが分かりましたね」  卯崎は水とおしぼり、そして灰皿を稲尾の前に出した。駅から店までだいぶ歩いただろうから、ヤニが恋しくなっているはずだ。 「あちこちで聞いて回って、教えてもらったんだよ。いやー、だいぶ迷った」  やれやれ、と稲尾は首を回し、煙草に火を付けた。その姿をカウンター越しに眺めながら、卯崎は相変わらずだな、と苦笑する。  ダブルスーツに、紫色の柄シャツ、開いた胸元で輝く金のネックレス。この派手なファッションとごつい体つきのせいで、しばしば裏社会の人間と間違えられているらしい。本人はそれを面白がり、「今週もう四回職質かけられてさ」などと話のネタにしていた。 「なかなか、いい店じゃないか」  稲尾は周囲を見回し、かすかに唇をつり上げた。 「こういう茶店、昭和レトロとかいって流行ってんだろ?」 「いや、うちが流行ってるように見えます? 嫌味ですか」  卯崎が軽くねめつけると、「冗談だよ」と稲尾は目じりを下げた。  稲尾の目にさらされていると、卯崎はなんとなく落ち着かない気分になった。ギラギラとした夜の雰囲気をまとった稲尾に比べ、くたびれたエプロンをつけた卯崎は、あまりにも所帯じみていた。 「聞いたよ。親父さん、亡くなったって?」  コーヒーを淹れようとサイフォンの準備をしていた卯崎に、稲尾が切り出した。 「ええ、去年の冬に。脳卒中が再発して、あっという間でしたよ」  卯崎はトントンとこめかみを叩き、肩をすくめた。稲尾の目に、同情と労りの色が浮かぶ。  父が倒れてから五年間、卯崎は懸命に介護をしながらどうにか『うさ』を切り盛りしてきた。だが、そんな努力の甲斐もなく、父の死はあっけなかった。いつかはその時が来ると覚悟していたが、いざ現実になると虚しさが押し寄せた。  その時からだろうか。卯崎がこの『うさ』で過ごす日々を退屈で味気ないものだと感じるようになったのは。  それまでは父の存在でかろうじて維持されていた気力が、ふっと消えてしまったような気がしたのだ。 「……まあ、今はこうしてのんびりさせてもらってます。もともとコーヒーを淹れるのは好きだし、客とは気心が知れてるし、気楽ですよ」  二人分のコーヒーを並べ、卯崎は稲尾の隣に腰を下ろした。曇りそうな表情を引き締め、稲尾の前で笑顔を取り繕う。 「のんびりもいいだろうが……本当に、それでいいのか?」  稲尾は頬杖をつき、目をすがめた。こちらの心を見透かそうとするような稲尾の目つきに、卯崎はかすかに身構える。 「いいって、何が?」 「……お前、また前みたいに店をやりたくないか?」  え、と卯崎は口を開いた。 「今度、錦糸町にダイニングバーを開く予定なんだ。だが、なかなか任せられる奴がいなくてな。お前ならどうかと思ったんだが……」  思いがけない提案に卯崎が言葉も出せずにいると、稲尾は我が意を得たりとばかりに笑って見せた。  その店というのは、ビジネスマンやカップルをターゲットにした、高級ダイニングバーだった。これまで卯崎が勤めていたバーとは異なるコンセプトだが、今の卯崎には魅力的に思えた。 「価格を高く設定する分、接客の質も追求したいだろう? その点、お前なら安心して任せられると思ってな」  いつの間にか卯崎は身を乗り出し、稲尾の話に聞き入っていた。  稲尾の申し出は卯崎にとって、願ってもないことだった。古ぼけていて、いい加減飽き飽きしていたこの喫茶店での日常から、またあの刺激的な夜に戻れる。ずいぶん前に失われたはずの気力が、身体の中から湧き上がってくるようだった。 「どうだ、優。面白そうだろ?」 「ええ、それは――」  ぜひ――と卯崎が口にしかけた瞬間、ガタン! と甲高い音が店内に響いた。  音のした方へ目をやると、水槽の中でカメがひっくり返っていた。首や足をばたつかせ、起き上がろうともがいている。  その必死な姿が、ふいに朝比奈と重なった。  稲尾の店に行くことを選べば、当然『うさ』は閉めなければならない。幼い頃から親しんできた店がなくなるだけでなく、朝比奈と会えなくなる。ちりっと、寂しさが卯崎の胸をよぎった。 「あの……」  卯崎は顔を背け、前髪をかき上げた。 「少し、考えされてもらえませんか?」 「え?」  稲尾は大きく目を見張った。 「何だ、興味ないか?」 「いや、そういうわけじゃ……」  卯崎は何かを誤魔化すように頭をかいた。  確かに、朝比奈は男として魅力的だが、卯崎はただ彼をからかって楽しんでいるだけだ。一途に懐いてくる犬を、気まぐれにあやすのと同じこと。  それなのに、どうして朝比奈と会えなくなることが、こんなにも引っかかるのだろう。 「俺、五年も離れてましたし、年齢的にきついのかなって……」 「はあぁ?」  稲尾の唖然とした声が、店内に響き渡った。 「年齢って、まだ三十代だろ? 気にすることか?」 「まあ、そうなんですけど……」 「じゃあ、何で?」  そう稲尾から訊ねられても、言葉が出てこない。自分でも理由がよく分かっていないのだから、当然だ。 「……コーヒー、冷めちゃいましたね。淹れ直します」  稲尾の視線に耐えかね、卯崎は席を立った。カウンターに置かれた稲尾のカップを取ろうとした瞬間、ふいにその手首を掴まれる。 「なあ、優。この話、前向きに考えてくれないか? またお前に、俺の元で仕事をして欲しいんだ」  卯崎の手首を掴んだまま、稲尾は椅子から立ち上がった。頭一つ分背の高い稲尾から見下ろされると、卯崎は叱られている子供のような心地になる。 「親父さんの店を守りたいって気持ちは、よく分かる。だがお前は本当に、今のままでいいのか?」 「…………」  卯崎は、とっさに答えられず、稲尾から視線をそらした。煮え切らない態度を取っていることは、卯崎自身が一番よく分かっていた。 「こう言っちゃ悪いが、お前の才能を活かすには、この店じゃ不十分だ。俺はお前に、才能を無駄にして欲しくないんだよ」  稲尾がそう訴えかけると、卯崎の手首を握る指に力がこもった。  ――お前には人を誑かす才能がある。  稲尾のバーで働きはじめたばかりの頃、卯崎はこの男にそう言われたことがあった。最初こそひどい言いようだと思ったが、やがて稲尾が本気で自分の能力を買っているのだと理解してからは、夜の生業こそ自分の天職なのだと卯崎は思うようになった。  自分を見いだしてくれたこの人が、今でも期待をかけてくれている。それなら、俺は応えるべきじゃ――。  と、その時『うさ』のドアベルが勢いよく鳴り響いた。 「す、すみません!」  店内に飛び込んできたのは、朝比奈だった。走ってきたのか、ぜいぜいと息を切らせている。 「俺、スマホを忘れたみたいで、この辺にありませ――」  そこまで言いかけて、朝比奈はぴたりと固まった。  朝比奈の目が、卯崎の手首を掴む稲尾の手に釘付けになる。卯崎の姿は、まるで稲尾から威圧されているかのようだった。 「あ、あっくん――」  卯崎は朝比奈に声をかけようとした。すると、 「その人の手を離せ!」  と、朝比奈の鋭い声が店内に響いた。稲尾が驚いて手を離した途端に、卯崎の視界がぐるりと回転した。  声を上げる間もなく、卯崎は朝比奈の腕の中にすっぽりと包み込まれていた。強い力で引き寄せられたために、危うく朝比奈の厚い胸板に鼻先をぶつけそうになる。  朝比奈は「そこを動かないでください」と稲尾を牽制し、その大きな身体で卯崎を庇うようにした。さながら毛を逆立てる大型犬のような朝比奈に、卯崎も稲尾も思わずぽかんと口を開いた。 「大丈夫ですか? 何かされませんでしたか?」  朝比奈は稲尾を壁際に追いやると、卯崎の全身を見回した。卯崎が怪我をしたとでも思ったのか、朝比奈はすっかり青ざめていた。  どうやら、朝比奈は何か勘違いしているらしい。何のつもりかと卯崎が朝比奈に問いかけようとすると、 「恐喝犯を確保。至急、応援願います。場所は――」  と、朝比奈が無線で連絡し始め、卯崎はぎょっとした。 「あっくん、ちょっと待って!」  卯崎が無線を遮ると、朝比奈は眉を寄せた。 「どうしました? 早く、応援を呼ばないと――」 「いやこの人、俺の元雇い主なんだけど……」 「へ?」と、朝比奈は顔を強ばらせた。

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