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第5話
「本当に、申し訳ありませんでした!」
床に正座した朝比奈は、そう叫んで土下座した。勢いがつきすぎたのか、額を床にぶつけ、ゴツッと鈍い音がした。
「ひでぇなあ、兄ちゃん。危うく誤認逮捕されるところだったじゃん。この俺が地上げ屋にでも見えたわけ?」
稲尾はカウンター席に座り直し、朝比奈を見下ろす。眉をしかめているが、口元が明らかに笑っていた。
落ち着いた朝比奈から話を聞いてみると、彼は明らかにカタギではない貫禄の稲尾を見て、近頃出没している連続恐喝犯と勘違いしてしまったという。そそっかしい朝比奈も悪いが、警戒中にこんな紛らわしい格好の男がいたら、無理もないかと卯崎は苦笑する。
「あ、あの、」
朝比奈は、恐る恐る頭を上げて稲尾の顔を見た。さっきまでの勇ましさはどこへやら、すっかり萎縮している。
「もし自分への苦情や被害届を出すようであれば、交番で受理します。よければ一緒に来ていただけますか?」
「……ぶははははっ! おい、マジで言ってるのか」
稲尾はひとしきり爆笑した後、「この子、面白いね」と朝比奈を指さしながら卯崎に同意を求めた。
「はぁ、稲尾さん、もうそのへんにしてあげてください」
卯崎は「あっくん、もういいから」と朝比奈を立ち上がらせ、テーブル席に座らせた。いつも大きなその身体が、今は小さく見える。朝比奈のそのしょぼくれた犬のような横顔に、卯崎の胸がつきりと痛んだ。
「稲尾さん、俺からもお詫びします。俺を助けたかっただけで、悪気はなかったんです」
「わーってるよ。別に怒ってねえよ」
くっくっくと肩を揺らしながら、稲尾は目尻を拭った。
「にしても、いい男捕まえたな、優」
「何のことです?」
卯崎はとぼけて見せたが、稲尾はニヤニヤと笑っている。まったく、何を勘違いしているのか。
「まあいいや。今日のところは帰るよ」
よっこらせ、と稲尾は腰を上げた。
「さっきの話、前向きに考えてくれよ」
そう言って稲尾は卯崎の肩を叩くと、大股で店から出て行った。去り際のその背中に、朝比奈は立ち上がって「すみませんでした」とまた頭を下げた。
稲尾が去ったとたん、店内がしんと静まり返った。すると、
「はあ――」
と、その静寂を破るように、大きな溜息が一つ、落とされた。
卯崎がそちらを振り返ると、朝比奈がテーブル席の椅子に座り込んで、がっくりとうなだれていた。
「あっくん、大丈夫だよ。稲尾さんもゆるしてくれたでしょ?」
「そうですけど……」
その声にはまったく力がない。きっと朝比奈は生真面目な分、落ち込む時はとことん落ち込む性質なのだろう。しかし、失敗はしたが、運良く大事には至らなかったのだ。ほっと胸をなで下ろしてもいいくらいだろう。朝比奈のその落ち込みようが、卯崎には不可解に思えた。
はあ、と朝比奈はもう一つ溜息をついた。
「何もしてない人を逮捕するところでした。あってはいけないことです」
「まあまあ、今回は間が悪かったよ」
卯崎は朝比奈の向かいに座り、微笑みかける。
「ほら、あの人って見るからに悪そうな感じでしょ? よく職質も受けるって言ってたし、ああいうのは慣れてるって。だから――」
「そんなの、言い訳になりません」
そう強く遮られ、卯崎は思わず口をつぐむ。彼がこんなに厳しい声を出すのは、初めてだ。
「見た目で判断して、犯罪者と決めつけていい訳ないんですから……俺は、警察官失格です」
そう言って唇を噛む朝比奈を、卯崎はじっと見つめた。
自分に厳しい――と言えば聞こえはいいが、彼はちょっと厳しすぎる気がする。
朝比奈は自分を傷つけ、わざと袋小路に迷い込もうとしているかのようだ。このまま彼を迷子にしてしまうのは、何だかひどく忍びなかった。
「……ねえ、」
卯崎は朝比奈の方に身を乗り出した。
「聞いていいかな?」
「……はい」
「前から気になってんだけど、きみ、よく『自分なんて』て言うじゃない。どうして?」
朝比奈は、はっとしたように顔を上げた。見開いた目が、かすかに水気を含んでいた。
「あっくんて、『自分なんて』とか言って、今みたいに自分で自分のこと悪く言うじゃない。なんでそんなふうに言うのか、ちょっと気になってたんだ」
「あ、……すみません。鬱陶しいですよね」
「ううん、そんなことないよ」
卯崎は苦笑し、首を振った。
「ただ、どうしてそんなふうに言うのか……嫌じゃなかったら、教えて欲しいな」
朝比奈は、しばし逡巡するようにテーブルの木目を見つめていたが、やがて口を開いた。
「……俺が子供の頃、ちょっとした、いじめみたいなのがありまして」
言葉を探すように、朝比奈は何度も唇を舐めた。緊張のせいか、かすかに目元が赤らんでいる。
「昔は身体が小さくて、気が弱かったので……いじめられても負けないように、父に柔道を習うように勧められました。それで鍛えるようになってからは、いじめられることはなくなったんですけど」
「へえ、すごいじゃん。強くなったんだね」
卯崎は感心したが、「いえ、単に成長して、身体が大きくなったからです」と朝比奈は苦笑した。
「それでも、気が弱い性格は、治りませんでした。いつも人の目を気にして、強く出られなくて……父や柔道部の顧問には、『男のくせに、気が弱すぎる』て、しょっちゅう怒られていましたね」
朝比奈は自嘲し、頭をかいた。
なるほど、それで「自分なんて」か。卯崎はようやく合点がいった。柔道の世界には明るくないが、これまで彼はずっと周囲から強さや男らしさを求められ続けてきたのだろう。
「……俺、本当のことを言うと、強くなりたくて警察官になったんです」
「そうなの?」
「柔道部に、警察OBの方が指導に来られてて、よく『お前は警察官に向いてる』と言われました。最初は俺なんかって思ったんですけど、せめて自分の大きな身体で人の役に立つお巡りさんになったら、自分に自信が持てるんじゃないかと思って――」
ふ、と朝比奈は力なく口元を緩めた。
「でも、いくら鍛えて警察官になったって、人に濡れ衣を着せてしまうようじゃ、本末転倒です。そもそも、『強くなりたい』なんて自分本位な理由で、警察官になったのが間違いだったんです……俺に、警察官を名乗る資格はありません」
はあ、と特大の溜息をこぼし、朝比奈は顔をうつむけた。
男のくせに、気が弱い――周囲の大人たちからそんな言葉をかけられ続け、追い詰められた彼は、いつしか「自分は駄目な奴だ」と思い込むようになったのだろう。うなだれる朝比奈の姿から、自信なさげにうつむく少年の面影を見て、卯崎は胸が締め付けられるようだった。
「すみません、卯崎さん」
いきなり頭を下げられ、卯崎は両目を瞬かせる。
「何が?」
「こんな情けない話を聞かせてしまって。お時間をとらせました」
「何言ってんだよ。聞きたいって言ったのは俺だよ?」
卯崎は苦笑した。
「むしろ、俺は嬉しかったかな。きみが、情けない話を俺に打ち明けてくれて」
卯崎がそう言うと、朝比奈は「え?」と負荷かそうな顔をした。その顔がおかしくて、卯崎はつい笑い出しそうになる。
「だってきみ、これまでそういう話、誰にもしたことなかったんじゃないの? きみにとって、きっと勇気のいることでしょ。だから話してくれて、嬉しかった」
人前で取り繕う事より、誰かに自分の弱いところ、隠したいところをさらけ出す方が、よほど難しい。それを卯崎は、よく知っている。
「きみは弱いままだって言うけどさ、自分を変えようと行動すること自体、すごいよ。お巡りさんになった時点で、もう強くなれたんじゃない?」
「いや、そんなことは……」
「それに、強いとか弱いとか抜きにしても、あっくんは今のままでも、良いところがいっぱいあるよ」
「俺の、良いところですか……?」
まさか、とでも言いたげに、朝比奈は眉を寄せる
「そう。優しいところとか、一生懸命なところとか――きみのそういうところ、俺は好きだよ」
「すっ……!」
朝比奈の顔が、一瞬で茹でだこになった。その可愛らしい反応に、卯崎はこぼれそうになった笑みをかみ殺す。
「あ、ありがとうございます……そう言ってもらえて、嬉しいです」
朝比奈は顔を赤くしたまま、頭を下げた。彼が少し元気を取り戻せたようで、卯崎は胸をなで下ろした。
「まだ少し、時間ある?」
「ええ、少しなら」
「じゃあちょっと待って」と卯崎は席を立ち、コーヒーを淹れた。
落ち込んだ時は、コーヒーを飲むに限る。卯崎は食器棚からカラフルな模様のカップとソーサーを選び、コーヒーを注いだ。
湯気の立つコーヒーカップを朝比奈の前に置き、卯崎はまた彼の向かいに腰を下ろした。
朝比奈は「ありがとうございます」と会釈したものの、すぐに口をつけず、じっとカップを見下ろす。
「どうしたの?」
「いえ……前にも、同じことをしてもらったな、と思って」
え、と卯崎が目を見開くと、彼は頬を緩めた。
「春に初めて会った時、俺にコーヒーを飲ませてくれたでしょ? 『これ飲んでリラックスして』て」
「……ああ、」
そういえば、そんなことをしたっけ。
徘徊していた老人を二人で送り届けた時、朝比奈は自力で対処出来なかったことをひどく気落ちしていた。卯崎はその様子を見かねて、ボトルに入れて持ち歩いていたコーヒーをご馳走したのだ。その時卯崎は墓参りに向かう途中で、コーヒーは墓前に供えるためのものだった。
「あの頃はまだ仕事にも慣れてなかったので、すごく心強かったです。卯崎さんに助けてもらったおかげで、今の俺があるようなものです」
「大げさだよ、コーヒー一杯で」
卯崎が笑うと、「いいえ、全然大げさじゃないです」と、朝比奈は力んだ。
「卯崎さんのコーヒーには、それだけの力があります。俺は本当に……救われたんです」
朝比奈がそう力説するのを聞き、卯崎は不思議と懐かしさを覚えた。
卯崎は朝比奈から、目の前のコーヒーに視線を移す。深みのある焦げ茶色の水面を覗いていると、ふっと、笑みがこぼれ落ちた。
「どうしました?」
「いや、なんていうか……ちょっと昔のことを思い出してね」
朝比奈の打ち明け話に触発されたのだろうか。卯崎の中で埋もれていた思い出が、ふいによみがえってきた。
「俺も昔、よく親父にコーヒー淹れてもらったよ。特に、何かあって落ち込んでる時とか」
卯崎と父の間には、いつもコーヒーがあった。父が淹れるコーヒーは素朴な味わいで、香りはどこまでも深い。一口含むと心地よい苦みが広がり、神経をほぐしてくれた。
「コーヒーを飲みながら、親父と色んなことを話したよ。本当に……色々」
――俺はゲイなんだ。
卯崎がそう父に打ち明けたのは、十七歳の時だった。
当時の卯崎は自分が男を好きになる性質なのだと気づき、そのことに戸惑っていた。そして時期を同じくして、母を交通事故で亡くした。
今思えば、その頃の自分は母を突然亡くし、誰かとの強い繋がりが欲しくて堪らなかったのだろう。悲しみのあまり、衝動的に父に打ち明けた瞬間、なんてことをしてしまったのだと後悔した。だが、
――ありがとうな、話してくれて。
とだけ言って、父は優しく微笑んでくれた。きっと、内心では息子の唐突な告白に驚いただろうが、そんなことはおくびにも出さなかった。
父が鷹揚に受け入れてくれたからこそ、卯崎もまた自分を受け入れ、夜の世界で自由に生きられたのだ。打ち明けた時に父がかけてくれた言葉と、淹れてくれたコーヒーの香りは、今でもお守りのように卯崎に寄り添っている。
しばし思い出に浸っていた卯崎に、「素敵なお父さんですね」と朝比奈が声をかけた。
「うん。俺にはもったいない人だよ」
「そんなことないですよ。卯崎さんのお父さんらしい人です」
その言葉に、卯崎は思わず顔を上げて朝比奈を見た。目が合うと、彼はにこりと微笑んだ。
ふいに、卯崎は胸がトクンと高鳴るのを感じた。その感覚に、卯崎は戸惑いを覚え、「冷めるから飲みなよ」と朝比奈を促した。
「いただきます」
コーヒーにすら手を合わせる朝比奈に、卯崎は唇を緩めた。
「美味しい」
コーヒーを一口含んで、朝比奈はほっと息をついた。
「やっぱり卯崎さんのコーヒーが、一番美味しいです」
「……そう、」
ありがとう、と返すと、朝比奈は眩しそうに目を細めた。小さなえくぼが、精悍な口元を飾っている。なんとも言えない、温かな気持ちが卯崎の胸に溢れた。
今感じている温もりは、父がくれたものだ。
父とともに亡くしたと思っていたのに、確かにここにあった。
彼と、自分の真ん中に。
「ごちそうさまです」
空になったカップが、コツンとソーサーの上で音を立てた。その音に驚いたのか、水槽の中でカメが身じろぎした。
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