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第6話
卯崎が七月にカメを預かってから、そろそろ四ヶ月が経とうとしていた。卯崎も朝比奈も町の住人から情報を集めているのだが、いまだに手がかりさえなかった。
「やれやれ、お前の飼い主はいつ迎えに来てくれるんだ?」
卯崎はカウンターに頬杖をつき、目の前をのそのそと歩くカメに話しかけた。今日は気温が低いせいか、カメはいつにも増して動きが鈍い。
「早く来てくれないと、お前も寂しいよな」
よしよし、と慰めるように卯崎は甲羅を撫でたが、カメは素っ気なく頭を引っ込めた。卯崎はその態度に少し鼻白み、カメを水槽に戻してから買い出しに出た。
「あら、優ちゃん」
買い出しからの帰り道、卯崎はダミ声に呼ばれて足を止めた。公園で松井が手招きし、その隣りで朝比奈が卯崎に向かって頭を下げた。
卯崎は松井の招きに応じ、公園の木陰に入った。いつの間にか日の落ちる時間が早まり、三人の足下に長い影が横たわっている。
「今日は寒いわね」
ベンチに座った松井は両手をすりあわせた。彼女も買い物帰りらしく、孫娘の真愛は少し離れたところでブランコをこいでいる。
「お疲れ様です。お買い物ですか?」
朝比奈の問いに、卯崎は「まあね」とうなずいた。松井が座るベンチに、よっこらせと買い物袋を置く。
「あっくんは? サボり?」
「いやだな、休憩中ですよ」
朝比奈は眉を寄せて笑った。
聞くところによると、朝比奈は今日は急な出動が重なり、昼間に休みが取れなかったという。疲れているだろうが、朝比奈の爽やかな笑顔はそんなことを微塵も感じさせなかった。
「大変だねえ。疲れてない?」
「いいえ、このくらい」
朝比奈は、きりっと顔を引き締める。
「体力は自分の取り柄ですから、まだまだ頑張ります」
その言葉に、松井は「頼りになるわあ」と目をうっとりさせた。
あれから、朝比奈は元気を取り戻したようだ。あいかわらず忙しく町を飛び回り、『うさ』にも足繁く通っている。
――昨日はご心配おかけしました。
翌日『うさ』に来るなり、朝比奈は卯崎に向かって敬礼して見せた。
――ちょっと力みすぎていたみたいです。卯崎さんに言われたとおり、自分の良いところも見るようにしてみます。
卯崎の言葉を素直に受け取り、張り切る朝比奈は微笑ましかった。その時の彼の顔を思いだし、卯崎は声をひそめて笑った。
「あっくん、俺も頼りにしてるよ」
松井に倣って卯崎が言うと、朝比奈は「ありがとうございます」と照れくさそうに首筋を撫でた。
そうして三人で立ち話をしていると、「あっくーん」と呼ぶ声が聞こえてきた。見れば、真愛がブランコから飛び降り、こちらへ駆けてくる。
朝比奈は真愛の目線の高さに合わせてしゃがみ、「なに?」と微笑みかける。
「ねー、あれやって」
「うん、いいよ」
すると、朝比奈は真愛を背後から抱き上げるなり、
「まりちゃんロケット発射!」
と叫んで走り出した。
朝比奈の両腕に支えられて、真愛はキャッキャと笑い声を上げる。朝比奈は彼女を抱えたまま遊具の下を潜り、彼女をきりもみさせて、まるで本当に少女を星間飛行させているようだった。
「あっくん、本当にすごい体力だ」
卯崎が感心してつぶやくと、松井は「ええ」と頷いた。
「まりちゃんに会うと、いつもやってくれるの。あの子も男親がいないから、ああして遊んでもらえるのが嬉しいみたい」
しみじみとした松井の言葉に、卯崎ははっとした。
もし朝比奈に子供がいたら、きっとああやって遊んでやるのだろう。
そんな考えが頭をよぎる。とたんに、腹の底がざわざわと騒ぎ出した。
真愛がロケットごっこに満足したのを見計らい、松井は彼女を連れて帰っていった。朝比奈は少し息を弾ませ、彼女らが見えなくなるまで手を振った。
「お疲れ、あっくん」
二人が見えなくなってから、卯崎は朝比奈に声をかける。彼は「いえ、俺も楽しいですし」と満足げに微笑んだ。
「ああいうの、慣れてんの?」
「ええ。地元に甥と姪がいて、よく一緒に遊んでました。あれやると、すごく喜ぶんですよ」
そう、と答えた自分の声が、沈んでいるのを卯崎は感じた。
「あっくん、子供好き?」
「はい。子供はみんな可愛いです」
「そう。……あっくんなら、良いパパになれるんじゃない?」
「そうですか?」
朝比奈は、嬉しそうに歯を見せて笑った。
「あまり、自信はありませんけど……でも、そうなれたら良いと思います」
屈託のない朝比奈の笑顔を見上げながら、卯崎はモヤモヤとしたものが胸に広がっていくのを感じた。
朝比奈は、自分とどうなりたいのだろう。
今更ながら、卯崎はそんな疑問を抱いた。
もし、自分と付き合いたいと思っているのなら、将来子供は絶対に望めない。結婚もできないし、家族も理解はしないだろう。きっと、彼は色々なことを諦めることになる。
朝比奈が今の関係のままでいることを望んでいるのなら、それでいい。卯崎もこの関係を心地よいと思っているから。
だが、朝比奈がその先を望んでいるのなら――彼がどうしたいのか、卯崎は確かめたくなった。
「卯崎さん」
朝比奈に呼ばれ、卯崎は顔を上げた。夕日を受けて輝く笑顔が、眩しかった。
「今から、カメに餌やりにいってもいいですか? 昼にお伺いできなかったんで」
「……うん、いいよ」
卯崎は朝比奈と連れだって、『うさ』に戻った。表のヒイラギが窓に影を落とし、店内は薄暗かった。
朝比奈は水槽の中のカメを見下ろし、「今日は全然食べないな……」と首をひねっている。その後ろ姿に、「コーヒー淹れるね」と卯崎は声をかける。
コーヒーが入ると、卯崎はカウンター席に座る朝比奈のそばに立ち、彼の目の前にカップを置いた。
「ありがとうございます、卯崎さん。いただきます」
朝比奈はいつものように手を合わせた。そしてカップに手を伸ばそうとしたところで、「あっくん」と卯崎は呼びかけた。
「はい、何でしょう?」
「あっくんはさ、俺のことどう思ってる?」
「はい?」と朝比奈は顔を上げた。卯崎は、自分の顔が能面のように強ばっているのを感じた。
「教えてよ。俺のこと、どう思ってる?」
「どうって……」
朝比奈は視線をさまよわせた。いきなり核心を突く質問をされたら、誰だって困惑する。彼がはぐらかしたりできる性格じゃないのを知っているだけに、卯崎は気が咎めた。
「……優しくて、気配りのできる素敵な人だと思います。本当に」
声は小さいが、朝比奈は真摯に答えてくれた。きっと、本心から卯崎を善良な男だと信じているのだろう。その純粋さが、胸の痛みを深くした。
「……それだけ?」
卯崎は朝比奈の心をのぞきこむように、両目を細める。朝比奈の喉仏が、ごくりと鳴った。
「それだけって?」
「他に、言うことがあるんじゃないの?」
卯崎が何を言わせたいのか、朝比奈にはもう分かっているはずだ。それなのに、彼は視線をそらすばかりで、いっこうに埒があかない。子犬のような怯えた態度に、チリッと苛立ちがよぎった。
「……じゃあ、こうしたら言える?」
「え?」と言いかけた朝比奈の顎を手ですくい、卯崎は彼に唇をあわせた。
驚く朝比奈の唇に、卯崎はすかさず舌を滑り込ませる。戸惑うように奥で縮こまっている舌を、卯崎は誘うようにくすぐってやった。
すると、朝比奈は急に椅子から立ち上がり、強い力で卯崎を抱き寄せた。驚く卯崎は、縋り付くような力で締め付けられ、息を詰まらせる。
「――つっ!」
卯崎がか細い声を上げた瞬間、朝比奈は弾かれたように身を引いた。その時、彼の身体がカウンターに当たり、コーヒーカップがカチャンと音を立てた。
朝比奈の目が、我に返ったように見開いている。顔が耳まで赤く染まり、彼の混乱が嫌と言うほど伝わってきた。
「す、すみません、卯崎さん。俺――」
「いいよ、分かってる」
何か言いかけた朝比奈を、卯崎は遮る。
「きみがどう思ってるか、俺は知ってる」
卯崎は真顔のまま、断罪するようにそう言った。朝比奈の顔が、さっと青ざめた。
「知ってるって……」
「きみ、俺のことが好きだろう。出会った時から、ずっと」
決定的な言葉をぶつけてやると、朝比奈は小さく喉を震わせた。
「き、気付いてたんですか?」
「うん」
「そっか……」
朝比奈は目をそらし、「困ったな」と堪えきれずに笑みを滲ませた。もう笑う以外、どうしたらいいのか分からないのだろう。
ああ、やっぱりそうか、と卯崎は思う。彼に強く抱き締められた背中には、まだ食い込んだ指の感触が残っている。
朝比奈に抱き締められた瞬間、狂おしいほどの思慕の気持ちと、卯崎を手に入れたいという欲求を感じた。卯崎はそれを嬉しいと思うのと同時に、ひどく落胆していた。
「――卯崎さん!」
ふいに、朝比奈が声を上げた。
朝比奈は表情を引き締め、卯崎に向き合った。大きな肩が、呼吸に合わせて上下している。
まっすぐ見据えた両目が、かすかに潤んでいる。美しい目だ。彼のその目に、卯崎は一瞬引き込まれそうになった。
「き、気付かれたなら、もう言ってしまいます。俺、あなたのことが――」
「待って」
朝比奈の言葉を卯崎は遮った。
「俺は、そんなつもりないよ。悪いけど」
自分でもゾッとするくらい、声が冷え冷えとしていた。それでも構わず、卯崎は続ける。
「今のは、きみがあんまり必死だから、からかっただけ。本気にした?」
卯崎は、片側の頬だけ歪めた。きっと朝比奈には、ひどく意地の悪い笑みに映っているだろう。その証拠に、朝比奈の顔が凍り付いた。
「俺は、きみのような子供に興味ないよ。ただ、この間のことで、稲尾さんにきみとの仲を疑われてさ。ちょっと困ってるんだよね」
「あの人、結構嫉妬深いから」と付け加え、卯崎は苦笑して見せる。でまかせで稲尾と付き合っていることにしてしまったが、仕方がない。
「だから、もう必要以上に関わらないでほしいんだよね。いいかな?」
「……分かりました」
朝比奈はそれだけ言い残し、足早に『うさ』を出て行った。
大きく揺れたドアベルの音が、虚しく響いた。
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