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第7話

「……はあ」  卯崎は小さく溜息をついた。  去り際、一瞬見えた朝比奈の横顔が、脳裏に強くこびりついていた。巨大な失望と悲しみを、無理矢理飲み込んだような、そんな顔をを彼にさせてしまったことが、申し訳なくてならない。  けれど、きっとこれが朝比奈のためなのだろう。彼が家族や子供を持つことを望んでいるのなら、卯崎と一緒になろうなんて思わないほうがいい。多少傷つけてでも、彼を遠ざけるべきなのだ。  そうだ、これでよかった。卯崎はそう自分に言い聞かせた。 「……さて、どうするかな」  卯崎はそうつぶやき、カウンターに視線を移した。さきほど朝比奈がカウンターにぶつかった時にこぼれたのだろう、カップやソーサーが薄茶色く濡れていた。  また町内で朝比奈と顔を合わせるのは、さすがに気まずい。いっそのこと、稲尾の話を受けてみようか。以前から、『うさ』での生活にも飽きていたのだし。  そうだ、これも良い機会じゃないか――卯崎はそう思い、スマホを取り出した。稲尾を呼び出していると、ふと、カメの水槽が目に入った。  しまった。こいつをどうするか、すっかり忘れていた。  途方にくれて水槽の中をのぞき込むと、カメは隅の方でうずくまっていた。短い足を投げ出したまま、ぴくりとも動かない。 「……おい、どうした?」  卯崎は眉をひそめ、カメを持ち上げた。カメは首をぐったりさせ、小さな目を固く閉じている。甲羅をつつくと弱々しく瞼を動かし、かろうじて生きていると分かった。 「くそっ、マジかよ……」  卯崎は稲尾の呼び出しを切り、近所の動物病院の番号にかけた。呼び出し音が続くばかりで誰も出ない。今日は休診だったことを思い出し、舌打ちした。  カメが死んでしまったら、きっと朝比奈はひどく悲しむ。もしかしたら、また「警察官失格だ」と自分を責めるかもしれない。あの時の落ち込む彼の姿を思い出し、胸が苦しくなってくる。  焦りが汗となって手のひらに滲んだ。早く別の病院を探さなければいけないのに、指が滑ってスマホを操作できない。  俺が、なんとかしないと――焦りが募っていく中、カラン、とドアベルが鳴った。  戸口に立つその姿に、卯崎は目を疑った。 「――あっくん?」  唖然とする卯崎に、朝比奈もまた驚いたように目を瞬かせた。 「卯崎さん、大丈夫ですか? 何かあったんですか?」  朝比奈にそう訊かれて、卯崎は慌てて顔を背けた。 「いや、なんでもないよ」 「嘘だ」  はっきりとした声が、卯崎の耳を打った。思わず振り向くと、朝比奈の真剣な目に圧倒され、何も言えなくなる。 「何かあったんでしょう? どうしたんですか?」  不安げに眉を寄せる朝比奈の言葉が、何故だかひどく卯崎に堪えた。とうとう押し殺していた感情があふれ出し、卯崎は「ごめん、あっくん」と手の中のカメを朝比奈に見せる。 「こいつ、さっきから全然動かないんだ。死にかけてるかもしれない。ごめん、俺が預かってたのに……」  側にいながら、カメの異変に気づかなかった。この数ヶ月、熱心にカメを世話する朝比奈の姿がよみがえり、卯崎は申し訳なさでいっぱいになった。 「ごめん、……本当に、ごめん」 「――卯崎さん、」  顔を上げたその瞬間、朝比奈に引き寄せられた。先ほどの狂おしいような抱きしめ方とは違う、優しく包み込むような抱擁に、一瞬、卯崎は息を止めた。 「大丈夫ですよ、卯崎さん」  朝比奈の声に、卯崎はかすかに緊張を感じ取った。けれど、肩を抱く彼の手は力強く、卯崎を守ろうとする意思を感じる。 「俺が、なんとかします。絶対に死なせたりしません」  朝比奈は卯崎の身体を少し離し、顔をのぞき込むようにして微笑んだ。その笑みを見上げていると、不思議と強ばっていた卯崎の神経が緩み、焦りが遠のいていった。 「四丁目のところに、爬虫類も診てくれる病院があるんです。そこに連れて行きます」  卯崎が落ち着いたのを見計らい、朝比奈がそう言った。彼は卯崎からタオルを借りて、それでカメを包み込む。 「それじゃあ、行ってきます」  去り際、朝比奈は一瞬振り返り、にこりと微笑んだ。  ドアベルを軽快に鳴らし、朝比奈は出て行った。彼の足音が遠のいていくのを聞きながら、卯崎はほっと息をつく。  彼が残した温かな微笑と、逞しい後ろ姿――束の間、卯崎は我も忘れて魅入っていた。

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