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プロローグ

 男性体のΩとしてこの世に生を受けたわりに、俺の人生は大変に恵まれたものだった。  まず産まれた家が良かった。父は一部上場企業の社長をしており、地元で一番の名士として有名で人格も素晴らしく、ふくよかな身体に朗らかな笑顔でαの兄達と俺を平等に扱ってくれた。母は総合病院に勤務する外科医で超優秀且つ超厳格な麗人だが、その教育のお陰で俺は夢の体育教師にまでなれたうえ家事の腕前も抜群。生涯独り身を貫いたって立派な独身貴族になれただろうし……既婚者となった今も幸せだ。  二十八歳の今、俺には素晴らしい夫がいる。  尾崎(おざき)瀬津(せつ)という。大手法律事務所で弁護士をしている、ちょこっとプライド高めの男性αだ。怠慢と言い訳を嫌い鍛錬と努力を欠かさない上昇志向の塊で、趣味は勉強と週一のジム通い……と小型ラジオを聞きながらアイスを食べること。当然αらしくツラが良い。さらさらの黒髪を横分けにして、凛々しい眉のすぐ下に二重瞼、鋭いヘーゼルアイが長い睫毛に縁取られ鼻梁も高い。少し気取った感じはする、神経質な感じもある、でも眼を見張るような美丈夫だ。  一方でαらしくβやΩを見下しはしない。俺の時もそうだった。ファーストコンタクトは大学一年の第二外国語の講義で、ミュラー先生に発音をべた褒めされたΩの俺のところへわざわざ教えを請いに来たのだ。以来勉強の話で二人きりになることが増えて、そのうち互いの家に上がるようになって、何だかんだで付き合い初めて、キスして、セックスして……。  親友兼ライバル兼愛しい人。そんな関係の瀬津とだからこそ、俺は幸せな結婚生活を送れている。    そう、未だ「Ωは庇護されるべき性」との観念が根強い現代社会にあって俺─⁠─⁠尾崎久人(ひさと)の二十八年間は大したもんだった。恵まれた家庭環境、恵まれた人間関係、恵まれたこれから。  押しも押されもせぬ幸運の中で生きてきた。  これからもそうであってほしいなと薄っすら願ってもいた。  しかして人生、そんなに甘くはないわけで。  まさに二十八歳の今、賑わいを見せる居酒屋にて、俺は思ってもみなかった方向性の試練に見舞われている。 「おお、やっぱ尾崎の乳良いわ。むちむち」 「はあ……あれ、瀬津先輩なんか乳輪膨らんでないですか?」  休日出勤終わりに飲みに出かけた夫から『迎えに来てくれ』と連絡を貰い、店内最奥に設けられた個室を覗いた瞬間、その夫が男達に乳を揉みしだかれているのが見えた。それも後ろから抱きかかえられ、ゴリラじみたイケメンのあぐらに座らされた、背面座位みたいな体勢で。  一応どっちも服は着てるし揉まれてるって言ってもワイシャツ越しではあるものの、丸太みたいな腕ががっしりと瀬津の腹に回って密着度が凄まじい。胸を揉む手つきも愛撫の類に足を突っ込んでいる。   「お、お前もそう思う? いやあそんな気はしてたんだよなあ。俺めっちゃ好きなんだよパフィーニップル。決めた、セフレにしちまおう」 「ええ、良いんですか?」 「良いわけあるかっ!」  明らかにセクハラである。俺は慌てて障子を開けて男共二人─⁠─⁠恐らく夫の同僚だろう─⁠─⁠の腕の中から夫を奪い返そうとした。が、死角に潜んでいたらしい三人目に立ちはだかられ、 「これはこれは久人さん、こんばんは」 「『こんばんは』じゃない! あんた達セクハラだぞ!」 「まあまあ落ち着いてくださいよ、これは合意ですから。ねっ、せっちゃん」  何が合意だせっちゃんって何だお前ら許さねえぞ、と吠えるより先に瀬津を抱えている男ががっしりした五指で瀬津の胸を掬い上げてぶるんと揺らし、 「ん……ひさと、きたのか……」 「瀬津!」  触るなその指トばすぞと怒鳴るより早く瀬津が俺を呼ぶ。耳まで赤い赤ら顔、一体何杯飲まされたのやら、いつもならきりりと引き締まった眼差しが今はとろんと蕩けている。 「わるいが……まっててくれ。かちにげはさせたくないんだ」 「は、」  呂律も回っていないくせして何が勝ち逃げだ。負けず嫌いは結構だがこんな時まで勘弁してくれ。唖然とする俺に構わず彼が同僚の逞しい膝に座り直すと、俺の前を塞いでいた三人目はくるりと背を向け、テーブルの上の割り箸を四本掴んだ。 「んじゃっ、せっちゃんの奥さんも来たところで最後の一勝負と行きますか!」 「王様だーれだっ!」  馬鹿みたいな掛け声が弾け、各々箸の下を確認する。 「あ、瀬津先輩が王様だ」 「おお。流石は尾崎、有言実行だな」 「よし、せっちゃん行け行け」  赤い印の付いた割り箸を選んだらしい瀬津が、へにゃりと締まりの無い顔で笑った。 「おうさまにきすすること」  その視線は確かに俺だけに向けられていたが、先んじて動いたのはゴリラだった。獰猛な顔で瀬津の首筋に吸い付きリップ音を鳴らす。次いでふわふわ天然パーマの後輩が恥じらいながら瀬津の頬に軽くキスする。 「ちょっと、奥さんに申し訳ないよ」  三人目─⁠─⁠如何にも正統派王子様といった風なイケメンだけは彼らの向かいに腰を下ろしたままだったが、余裕そうに笑う瞳の奥には隠しようもない瀬津への欲望と、俺への嘲笑が滲み出ていた。  いや、欲望なら三人全員にあった。  三人共、瀬津を我が物にせんという野望に満ちていた。  瀬津だけだ。 「ひさと、きす……♡」  彼だけが何も分かっていない。  既婚のαのくせして貞操を狙われているという事実に、恐るべきこの事態にまったくの無頓着、のぼせ上がった顔で俺を見つめている。  もう頭が痛い。

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