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vsゴリラ その1
「Ωとαの違いというのは、一体何だろうな」
向かいの尾崎が不意に呟いて、俺は独和辞典から顔を上げた。いきなりどうしたのだと思えば、どうやら和訳に取り掛かっている文章がバース性関連の内容らしい。反対方向からテキストにさっと目を通したところでは、「αとΩの友情は成り立つか?」といった具合か。結構俗だ。
俺はミルクティーを一口、応えた。
「……そりゃああれだろ、内臓の数。例えばどちらも男性体の場合、αには陰茎と精巣しかないけど、Ωにはその二つに加えて子宮と卵巣、あと産道がある」
そしてその入口は前立腺の上にあり、普段はきゅっと閉ざされている。だがみ月にいっぺんのヒート期だけは緩み、αのペニスを最奥の子宮まで受け入れられるようになるのだ。
俺はもう一口飲んで続ける。
「それから、Ωはαに比べて小柄で脂肪が付きやすく、筋肉が付きにくい傾向にある」
「久我 はそうでもないな」
「まああくまで傾向だよ」
彼の言う通り、俺の身長は男性Ωの平均を十センチ上回った一七八で、肩幅やらもかなりある方だ。一八〇センチの尾崎と並んでようやくΩっぽいかも? ってとこ。何なら身体の厚みなんて、俺の方があるくらい。
「そうだな、傾向だ。あくまでも個人による。俺がαだからといって努力を怠っては落ちぶれるし、Ωだからと久我が大成しない筈もない」
「んだよ、いきなり」
途端に吹っ切れたような爽やかな顔で言葉を並べる尾崎に、俺は少し不気味なものを感じる。何たってその眼差しが獲物を狙う猛禽の目つきというか、腹にのっぴきならない想いを抱えていそうに見えるのだ。
「……うん。Ωだからじゃないな。久我だからだ」
笑顔さえも恐ろしい。
何が「久我だから」なのか。訊ねたい気もするが、藪をつついて蛇を出すようなこともしたくなくて、結局口を噤んだ。
今なら分かる、あの時の瀬津の胸中を翻訳すると「久我だから一緒にいたくなるんだαとしてΩを求める本能なんかではなく」だ。
尾崎瀬津君十九歳、大学構内昼前食堂での一幕。
尾崎瀬津君二十八歳を隣に、懐古的な夢から覚めた俺は開口一番呟いた。
「若かったなあ……」
同時に、今となっては羨ましい。まだ二十歳にもなっていなかった俺は夢を追うのに必死で、隣のαが同年や先輩に熱烈なアプローチを仕掛けられるのも他人事で、何なら「あの子性格良いって聞いたぜ」とか「良いじゃん付き合っちまえよ」とか呑気に囃し立てていた。
「……今は絶対無理だな」
もうすぐ三十路の俺には想像するだに頭痛がする。
眠る瀬津を見る。
日曜早朝の光が僅かに差し込むだけの薄暗い部屋の中で、彼は春用の掛け布団二人分を腕いっぱいに抱えていた。これは俺の仕業である、キス魔人と化した彼をベッドに放り込んだまでは良かったものの、あんまり俺に抱きついてこようとするもんだから抱き枕を急造したのだ。お陰で彼はぐっすり。俺の名前を呼びながら嬉しそうに頬擦りする様を見られてこっちも満足。
が、
「んん゛……」
瞼が震え、僅かに瞳が覗き、その刹那に飛び出た地鳴り並の呻きに関しては俺のせいじゃない。大して酒に強くもないのにがぶがふ飲むからいけないのだ。
「久人……」
「おはよう、気分はどうだ」
「頭が痛い……」
「やっぱり。二日酔いだよ、紅茶淹れてやるから待ってろ」
「すまん……」
一先ずカモミールティーを用意してやる。上体を起こすのを手伝い、一息。
飲み干すのを見計らって切り出す。
「で、昨日のあれは何だ?」
尾崎瀬津という人間の脳味噌は非常に高性能だから、どんなに泥酔したところで最中の記憶を忘れることはない。昨晩の乱痴気に関してもばっちり覚えている筈だ。
「……王様ゲームだ」
「それは分かってるよ。俺が聞きたいのは何で胸揉ませたんだってこと。キスもさ」
「……胸」
覚えてるから俺の尋問に自分の胸を見下ろすんだろう。今は寝間着に包まれている、ジム通いで維持しているそこ。パフィーニップルとか騒がれてた飾りのある、そこ。思い出したら腹立ってきた。あのゴリラめ、人様の夫にセフレだ何だと好き勝手言いやがって。三人共に敵意は芽生えているが、仕出かしたことがことなだけにゴリラへの嫌悪は突出していた。
「あんなの立派なセクハラじゃねえか。な、人事に言おう」
「いや……」
「何で!」
「……なんというか、仲間内の遊びなんだ」
「は」
なかまうち、の、あそび。
ゴリラへの殺意が急速に萎びれていき、代わりに焦燥が膨らみ始める。
「それに、仮によこしまな感情での行為だったとしても男性α同士だ。セクシュアルハラスメントと見做されることはまずない」
瀬津の奴、やっぱり気付いてない。
「まあ有り得ない話だがな。俺も向こうもα。俺に気なんぞあるわけがない」
自分がα達に狙われていることに。
でも、仕方ないっちゃ仕方ない話なんだ。瀬津の言った通りα同士が恋愛することは滅多にない。男性β同士のそれよりうんと少ない。というのもαって奴らは本能的に他のαを敵視する生き物だから。遺伝子にまで競争心が染み付いているらしい。
とはいえ何事にも例外はあるのだ。彼らがその「滅多にない」α達な可能性は否定できない、というか俺の見立てでは間違いなくそう。ならば戦わないと。
「だから安心してくれ、久人。俺は浮気なんぞしていない。何なら今から王様ゲームでもするか? 乳でも何でも揉ませてやる……」
この、朝っぱらから色ボケる男を何としても守り通すべく。そうと決まればどうせこっちが揉まれまくる王様ゲームなぞしている場合ではない。二日酔いはどこへやら、怪しい微笑みで躙り寄ってくる瀬津を尻目にサイドテーブルの携帯を掴み取り、
「王様ゲームは良いから、取り敢えずこれ見せてくれ」
「……何故」
「お前のことが心配だから」
「久人の物も見せてもらうぞ」
「いいぜ、ほら」
たちまち不満たっぷりの顔になる彼のと俺のそれとを交換、早速中身──三人からのメッセージが詰まっているだろうトークアプリを起動した。
「浮気なんぞしていないからな」
「分かってるよ」
先程から寄越される妙にズレた弁明を聞き流し、手始めにゴリラとのやり取りを確認する。最新のものは一週間前の業務連絡。
過去に遡ると、職場でコーヒーを零したらしい瀬津の写真が貼り付けられていた。茶色の染みが胸の下端に染みを作り……膨らんだ乳輪を浮き彫りにさせてる。
なるほど、ゴリラはよほど瀬津の胸に執心な様子だ。
これは怪しいと彼の鼻っ面に画面を向けた。
「瀬津っ、これ……って、何見てんだ?」
なのに肝心の視線がこっちに向かない。ずっと俺の携帯を凝視してばかり。
「……本当に何見てんだよ」
覗き込んだら検索履歴だった。
「『αの夫 喜ばせ方』『αの夫 癒やすには』」
「読むなよ」
「……強いていうなら、久人が俺に嫉妬してくれたら嬉しい」
顔を上げたら至近距離で目が合う。
じっとりと熱を燻らせた眼差しだった。
俺が口を開くより先に横抱きにされて風呂場に連れてかれて一発。立ちバックで前立腺ぐうっと圧されたままゆっくり前後に擦られてめちゃくちゃ気持ち良かった。でも瀬津の身体にもこの快楽スイッチみたいなのがあるんだと思うと気が気じゃなくて、結局イッたのは二回きり。
鼻歌なんぞ歌ってご機嫌の瀬津に世話を焼かれながら、思う。
差し当たってはゴリラを重点的に警戒すべきだ。
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