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プロローグ

 速水(はやみ)省吾(しょうご)のこれまでの人生において、年上の頼れる人間というのは、縁の遠い存在だった。とりわけ年上の男性とは縁がなく、省吾が生まれたときには父親という存在すらなかった。唯一頼れる年上というのは母だけで、生まれて十八年、紆余曲折ありながら、なんとか母と二人、肩身を寄せ合って生きている。  幼い頃、どうして自分には父親がいないのかと聞いたことがあった。今思えば、子供とはいえ残酷なことを尋ねたと思っている。世界で一番良い男だったから神様が連れて行っちゃったと、まるで泣いているような笑顔を浮かべた母を、省吾は今も忘れられない。  縁が無ければ無いほど、焦がれるのは人間の性(さが)なのか、省吾は子供時代から大人の男にある種の憧れをずっと抱いていた。女である母とは違う丸みのない身体。低い声と、重い物でも悠々持ち上げる力強さはどこから来るのかと興味津々だった。それは省吾が十八になり、成人男性と変わらなくなった今でも続いている。  だが当然ながら、同性に興味があることなどおくびにも出さないでいた。省吾自身は彼女がいた過去もあったし同性が恋愛対象になったことはないが、同性に興味を持つことが一般的に奇異されているのを理解していたからだ。  ただひっそりと、大人の男という存在がどういうものか知りたい。あわよくばそれが自分の指標になればいいと思っているだけだった。  高校生の省吾にとって一番身近な大人は、母を除くと教師だろう。これまでの人生において、尊敬できる師というものには出会えていないが、高校生になりようやく興味を引かれる教師に出会った。それが錦(にしき)公(こう)太郎(たろう)という男だ。  「つまり、この問題の場合、文中に当てはめるのは……」  静かな教室に、錦の低い声音が響く。真面目に授業を受けている生徒もいるだろうが、ここにいる半分は、錦の色気すら感じる甘い声に聞き惚れているだけに違いない。女子生徒に至っては顔をほのかに紅潮させている者もいた。だがそれも仕方がないと、省吾は思う。  錦公太郎という男は、同じ男でも羨んでしまうほど、ある意味完璧な男だった。  日本男性の平均を遥かに超えた、百九十近くはある上背。広い肩幅と厚い胸板はほれぼれするほど男としての魅力に溢れている。腰回りから下半身にかけてはきゅっと引き締まっており、とりわけ足が長く見えた。彫刻像のようなスタイルだけでも人目を引くというのに、その広い肩の上に乗っている顔まで、見惚れるほど整っている。彫りの深い精悍な顔立ちだが、どこか親しみやすさを与えているのはアーモンド型の目だろうか。栗色の癖の強い髪は見るからにふわふわと手触りが良さそうで、大人の男の中にどこか少年のようなあどけなさも感じさせている。  ここまでくれば同性に敵も多そうなのだが、錦に至っては同性すら味方につけてしまうのがすごい所だ。気さくな性格で相手との距離感も誤らない錦は、年齢も十数しか離れていないのもあって、生徒たちにとって教師というより兄のような存在だった。他の教師には話せないことも、錦が相手なら話せるという生徒も多い。当然のように女子生徒からの人気も抜群だが、あくまで嫌味なく、軽やかに好意を躱すところは流石と言わざるを得なかった。  誰もが憧れ、慕い、頼りにする大人の男。省吾にとって錦はそんな完璧とも言える男だった。

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