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プロローグ2
「まあ正直な話、現代文においては読み方さえ誤らなければ、受験もそれほど苦戦しないとは思うんだよな。もちろん誤った解釈をすれば苦戦は必至だろうが」
「先生、読み方を間違えないって具体的にどういうことー?」
前列に座っている女子生徒が声を上げる。普段は授業中質問などしない生徒だったが、錦の授業では別だった。
「それはいつも言っているだろ。情報の読み取り方を間違えるなってことだよ。書かれている文章から正確に情報を読み取る。それだけの話だ。簡単だろ?」
「えー、難しいかも」
「答えは文中にあるんだから簡単さ。これが現代文から離れると途端に難しくなるんだけどな。見えている情報が本当に正しいのかは分からない。だから社会に出るまでの学生生活でその辺を鍛えておけってことなんだけど……」
錦はぐるりと教室を見回して含みのある笑みを浮かべる。
「ま、お前らには難しいかもな」
授業を終えるチャイムがなると、教室の張り詰めた空気が途端に緩む。それが分かっているからか、錦は授業が途中でもすぐに切り上げていた。特に昼休み前の授業ともなると、食欲旺盛な学生の腹の虫には、どんな面白い授業でも勝てはしない。
授業が終わってすぐ、錦は女生徒に囲まれていた。先ほど錦に質問を投げかけていた生徒もそこに含まれている。
「生徒からの質問に答えるのは教師の仕事だけどな、授業のことで質問に来いっていつも言っているだろ」
「いいじゃん、減るもんじゃないしさー。先生彼女出来た?」
「その質問何回目だよ。出来ていないって。お前らで手一杯でそんな余裕なんてないよ」
「それって生徒が恋人ってこと?」
「お前らは妹、弟みたいなもんだよ」
恋人ではなく妹と言われて、女子生徒からブーイングが起こる。だがどこか嬉しそうにも見えた。好意を持つ年上に妹扱いされるのも、親しみを感じさせるのだろう。
女子生徒に囲まれていた錦とふと目が合う。
「ちょうど良かった。速水、少し話がある」
錦が省吾の名前を呼んだ瞬間、賑やかだった教室が一瞬水を打ったように静まり返った。錦の側にいた生徒たちも、蜘蛛の子を散らすようにその場から離れていく。
こんなことはよくある。特段気にする必要もないと、省吾は渋々といった足取りで錦も元へ向かう。錦自体に興味はあるものの、人目を引く錦の側は、省吾にとって居心地の良い場所ではなかった。
「……なんか用すか」
「そんな嫌そうな顔するなって。授業の後でもない限りお前すぐにいなくなるだろ。お前の担任二年もやっているのにお前の居場所が未だに掴めない。他の連中に聞いても知らないって言うしな。授業中以外はどこにいるんだ?」
「……話ってそれですか?」
省吾は面倒くさそうに溜息を吐く。教室の隅で錦への態度にこそこそ何かを言っている生徒もいたが、省吾がちらりと目線を送ると、逃げるように教室から出て行ってしまった。
「あんまりクラスメイトをびびらせるなよ?」
錦がそう苦笑する。
「周りが勝手にびびっているだけですよ」
「まあ確かに。初めてお前の噂を聞いたときはどうなることかと思ったけど、特に何の問題も起こしていないしな。担任としては助かるよ」
噂、問題。その単語が省吾の心に重く沈む。それらは全て過去の自分の行いのせいだが、言葉にされると居心地が悪い。
「話が済んだなら俺、もう行きますけど」
「ああ、いや。本題はまだだよ。今度の面談の日程、決まっていないのお前だけなんだよ。今回は親御さんを含めた面談になるから……」
「ガキじゃあるまいし、親いらないでしょ」
「卒業後の進路についての面談なんだ。親御さんの意見も大切だろ。進学するとなると金銭も絡んでくるし、お前一人で決められることじゃない」
「俺んち母子家庭なんで。そもそも進学する金なんてないですよ」
「奨学金だってある。お前も過去のことは横に置いて、今後のことを真面目に考えろ。色んな選択肢があるだろ」
「……そういうのマジでうざいんで」
省吾の声が低くなる。ただでさえ悪かった教室内の空気が一段と冷えたように感じた。だが錦はそんな省吾の態度にもまるで怯んだ気配を見せない。
これが大人の余裕というものなのだろうか。省吾は少し苛立ちながら、錦に背を向ける。錦はいつもの調子のまま、省吾の背中へ向かって「親御さんの日程、確認しておけよ」と声をかけた。
振り向くこともなく、省吾はそのまま教室を後にする。背後で女子生徒が錦を気遣うような言葉をかけているが聞こえた。
いつも自分は場の空気を悪くする。
人付き合いは苦手だった。他人とどう接していいのか、分からなかった。大人にとってみれば省吾は面倒な生徒で、同世代にとっては恐怖の対象だ。そのことを理解している省吾は、教室にいることが少なかった。せめて人目のつかない場所へ行くことが、不器用な省吾ができる唯一の気遣いだ。
どうすれば周りのような普通の学生に、錦のような誰からも頼りにされる大人になれるのだろう。
省吾は廊下を歩きながら、窓の外に広がる空へ、そう問いかける。だが当然ながら応えてくれることは決してなかった。
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