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第5話 Vanilla Sky
署に戻り、本格的に伊東の事情聴取が始まったが、すぐに膠着状態となった。
チャイムから指紋が採取されなかったことが効いたのか、伊東は少しずつ供述を始めた。しかしそれは被害者と不倫関係にあったことを認めただけで、殺害したことは頑なに認めなかった。
昨夜、閉店後の9時過ぎに被害者の部屋を訪れてそのままセックスをした後、10時過ぎには部屋を後にして、妻の証言通り11時過ぎには家に戻ったという。妻の証言が不確かではあるが、伊東は家に着いた時に隣家の犬に吠えられたということを述べており、それは裏が取れている。現場での死亡推定時刻の午前3時前後はおそらく検死結果と大差ないと思われ、さすがに4時間近くの時間の食い違いが説明できない。
しかし合鍵は持っていないと言い張っており、そうなるとチャイムから指紋が検出されなかった以上、部屋に鍵がかかっていないことを知っていたことになる。前日に部屋を出る時は特に変わった様子がなかったというのが嘘でなければ、女性の一人暮らしで鍵をかけずに寝るとは考えにくい。
とはいえ、従業員に言われて部屋を訪れ、実際に遺体を発見して通報したのは伊東自身だ。犯人が自ら通報する例もないわけではないが、電話を受けたオペレーターの話によると、本当に驚いているような口調だったという。
さらに、肝心の凶器の発見ができていないことも逮捕に至らない要因だった。傷の状態からナイフのような刃物で刺したと思われるが、部屋中どこを探しても出てこない。任意で伊東の家も捜索中だが、今のところ凶器につながるものが何も出てきていない。
辻褄が合わないことが次々と出てきて、お手上げ状態だった。
ひとまず伊東は留置所に身柄を確保されることとなり、陽大 と壮介はようやく一息ついた。
「Vanilla Skyのコーヒーじゃないのか?」
「もう閉まってた」
「そうか」
本当は電話に出てくれなかったからだったが。
「おまえら、喧嘩でもした?」
「別に」
「だって最近、朝食も断られてるんだろ?」
「たまたま明日はダメだっただけだ」
「いつから蒼空 くんはご機嫌斜めなんだ?」
「別にそんなわけじゃないけど……」
考えてみると、壮介とのダブルデートが発端のような気がする。そのための服を買いに行くから付き合ってくれと言ったあたりからだ、蒼空が少し怒っているような素振りを見せるようになったのは。
「おまえのせいじゃねーか」
「あ?」
「おまえが蒼空に服を選んでもらえとか言うから」
「え、それが蒼空くんが拗ねてる原因なの?」
「いや、拗ねてるかどうかは知らないけど。何となく機嫌が悪くなったのはその辺からだ」
「なんだ、やきもち焼いてるだけか」
「は?」
「ダブルデートって言ったから、俺に嫉妬してるんだろ。可愛いじゃないか」
「どういう意味だよ。友達を取られると思ったってことか?」
「……一生悩んでろ」
「おい、どういう意味だ? 待て、壮介」
やれやれという感じで壮介は仮眠室に向かっていった。
嫉妬……? やきもちって……別にダブルデートしたからって友達関係が壊れるわけなんかないのに。
高校時代、蒼空と同級生の女子二人と四人でダブルデートをしたことだってある。大学時代は合コンだって経験している。今さら何に嫉妬するって言うんだ……?
時計を見ると、すでに夜中の1時を回っていた。急に眠気が襲ってきた陽大は、壮介の後を追って仮眠室へと歩いていった。
翌日も朝から聞き込みや現場検証で走り回っていた陽大と壮介だったが、結局目ぼしい新情報は得られず、相変わらず伊東は殺害を否認していた。限りなく疑わしい状況ではあるが、確証となる証拠がない。このまま伊東を拘束するのは難しく、班長の相原は頭を悩ませていた。
「班長、解剖結果の報告があがってきました」
陽大が封筒を掴んで相原のもとへ駆けてきた。
「どうだった」
「直接の死因は大腿部刺創により動脈損傷の失血によるショック死で、死亡推定時刻は6月19日午前3時20分頃。頬に殴られた痕跡がありましたが、目立った外傷はその二つのみです。凶器と推定されるのは刃先が尖ったいわゆる包丁のような形のもので、傷の深さは約1cm、かなりの出血量でしたので、刺した方も相当返り血を浴びたと思われます」
「北山、現場の方は」
「はい、壁に微量の血液反応が見られ、DNA鑑定の結果、刃物を抜いた時に飛び散った被害者の血が付着したものと思われます。現場には伊東の指紋があちこちにあり、何の目的で触れたかを特定するのは困難です。被害者を縛っていたスカーフはおそらく部屋にあったものでしょう。携帯電話には同僚女性の証言通り、19日午前10時過ぎと12時、18時にその女性からのメッセージと電話の着信がありました。また、18日午後9時に、伊東から、今から部屋に行くというメッセージが入っていましたが、それ以外は特にどこからも連絡は入っていませんでした」
「花瓶の指紋は?」
報告を聞いていた陽大が壮介に尋ねた。
「花瓶?」
「ああ、薔薇が一本挿してあっただろ。あの花瓶から指紋は取れたか?」
「サイドテーブルの花瓶か。いや、被害者の指紋しかなかった」
「そうか」
「何か手がかりでも?」
相原が聞いた。
「いえ、何となく気になっただけです」
「そうか」
「あ、班長、鑑識結果で一つだけ不審な点がありました」
「何だ」
「被害者の口が開いていたのは、どうやら口に何かを詰められた状態のまま死亡し、死後硬直により開いたままだったようです。口の中から微量ですが繊維が見つかり、布のようなものを詰められていた可能性があります」
「叫ばないように口を塞がれていたわけか」
「ただ、その布が見つかっていません」
「どういうことだ」
「我々が現場についた時、被害者の口には何も入っていませんでした」
「確かに……昨日、一報が入った時に俺と秦 で駆けつけたんだが、何もなかったな」
「伊東が被害者の部屋を訪れたのが18日午後10時ころ。そこで性行為に及んだ後、何らかのトラブルで被害者を刺してしまったとして、部屋から出たのが午後10時半から11時過ぎ。家に着いたのが11時半ころですが、死亡推定時刻は19日午前3時20分ころ。伊東本人は刺したのも手足を縛ったのも否認しています。口に何か詰めたかはまだ確認していませんが、手足が縛られていなければ口に何か入れられたとしたら、自分で取り除くでしょう。つまり、口にものを詰められたのは、手足を縛られた後ということになり、さらに口が開いていたことから死亡した後にその詰めたものを取り除いたことになります」
「……共犯者がいたということか」
「それか、第三の人物がいたか」
「待て待て、事件をややこしくするなよ」
隣で壮介が頭を抱えた。
「今の段階では考えにくいが、可能性がゼロというわけでもない。よし、もう一度聞き込みに行ってくれ」
「わかりました。行くぞ、壮介」
「わかった、行くからその前にちょっとでいいから飯を食おう」
それなら蒼空のカフェに行こう、と陽大が言おうとするのを遮り、
「Corkに行こうぜ」
と壮介が言った。
「Cork? おまえ、何だかんだ言いながら、結局彼女を諦めてないのか」
「そういうわけじゃないけど」
「……わかった」
「あ、それともVanilla Skyに行きたかった?」
「別にそんなこと言ってないだろ」
見透かされたような言い方に、陽大は思わずムキになって言い返す。
「んじゃ、後でコーヒー飲みに寄ろう」
「だから別にいいって。ほら、行くぞ」
すたすたと歩いていく陽大を壮介は苦笑しながら追いかけていった。
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