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第4話 Vanilla Sky

 現場は住宅街の中にある古いアパートの一室だった。二人の到着後ほどなくして鑑識班がやってきて、手早く準備を始めていく。シューズカバーと渡された手袋をはめると、陽大(はると)と壮介も中へと足を踏み入れた。  さほど広くないワンルームの部屋の窓際に置かれたベッドの上に、女性が仰向けになって横たわっていた。両手足はスカーフのようなもので縛られ、頬と唇の周りには殴られたような痕がある。口元は大きく開いたままで、頬には涙の痕が見えた。  「死因は何だ?」  現場の状況に眉をひそめながら、がっしりとした体格の大柄な男が聞いた。班長の相原知也だ。  「解剖してみないとはっきりとは言えませんが、おそらくこの大腿部からの出血が原因の、失血死と思われます」  鑑識のチーム長、澤田が答える。  女性は薄いキャミソール一枚だけの姿で、陽大が太腿の近くをそっとめくってみると、右足の鼠蹊部から10cmほどの位置に刃物で刺したような傷が入っており、血が流れ出た形跡があった。体を少しずらすとベッドに血が大量に染み込んでいる。殺害現場はこの部屋と見てよさそうだった。  陽大は慎重に辺りを見回し、手がかりがないか目を凝らした。ハンガーパイプに吊るされた服、ドレッサーに置かれた化粧品や色とりどりのマニキュアのボトル、小さなサイドテーブルの上に置かれた一輪の赤い薔薇が挿されている花瓶、その横に置かれたマグカップ……。  ふと被害女性の足元を見ると赤いマニキュアが塗られていたが、親指と小指が半分はがれかかっていた。解かれた手の指を見ると、こちらも同じ色のマニキュアが塗られており、やはりところどころ剥がれている。  「何か見つけたか?」  じっと考え込んでいる陽大に相原が声をかけた。  「班長」  「何か引っかかる点でも?」  「いえ、どこがとは言えないんですが、ただ何となくすっきりしない感じがして」  「どの辺がすっきりしないんだ?」  「それがわからないんですが、何か違和感があるんです」  もっと言えば、この部屋の雰囲気に違和感を感じるのだ。この違和感は一体どこからくるのか。  花瓶に花が挿してあるのは何もおかしいことはない。薔薇が一本しか挿してないとしても、女性の部屋ならばインテリアとして一輪だけ花を飾るということもありかもしれない。マニキュアが剥がれているのは塗ったばかりのところを襲われたからか。腿の刺し傷、顔を殴られた痕、スカーフで縛られた手足、大きく開いた口……。  「被害者の身元と第一発見者の身元がわかりました」  先に到着していた刑事が相原に報告に来た。  「被害者はここから10kmほど南にあるアメリカンダイナーで働いている二十三歳の女性。昨日は休みの日で、今朝は10時からのシフト割り当てだったのが時間を過ぎても出勤せず、同僚女性が何度か携帯電話に連絡を入れたが応答なし、午後もずっと連絡が取れないままだったため、店長に様子を見に行くよう頼んだんだそうです。店長がこのアパートを訪れると部屋に鍵がかかっておらず、不審に思って中を覗くと死んでいたということです」  「鍵がかかっていなかった?」  「はい、ドアは閉まっていましたが、鍵はかかっていなかったと」  「発見したのは何時頃だ」  「店長の供述によると、19時半ころだったそうです。店からここまで車で約15分、混んでいたので30分近くかかったようです」  「死亡推定時刻は?」  遺体の様子を調べていた鑑識班に声をかける。  「流れ出た血液量、体温、硬直状態から推測すると、おそらく死後17〜18時間ほど経過していると思われます」  「午前3時ころか。目撃者は?」  「この辺りの聞き込みをしていますが、何か見たり聞いたりしたという者は今のところいません」  「そうか……北山、発見者のアリバイを調べに行ってくれ」  「わかりました」  「都築(つづき)は発見者の聞き取りだ」  「了解」  第一発見者とされる男は伊東という三十六歳の男性で、入り口近くで震えるようにして座り込んでいた。口元の髭にはうっすら汗が浮かんでおり、目線はきょろきょろと落ち着かない様子で、陽大が近づくと慌てて立ち上がった。、  「伊東さん、少しお話を伺います」  「は、はい」  「被害者とはどういうご関係ですか?」  「え? か、関係って…」  「一般的な質問ですよ。あなたは店長ですよね?」  「ああ、はい、そうです、彼女は私の店で働いていて、私が雇用主です」  「そうですか。で、彼女は昨日はお休みで今日は出勤日だったが、時間になっても来なかった」  「はい」  「なぜその時すぐに連絡しなかったんですか?」  「なぜって……ただの遅刻かなと思ったので」  「でも同僚の女性はすぐ連絡したんですよね」  「その子が連絡したので、任せました」  「従業員が時間通りに来なくても気にしないんですか?」  「だから、他の従業員が連絡してたので任せていたんです」  「けれど、結局はあなた自身が確かめに来ていますね」  「確認してくれと頼まれたんです」  「でも、お店はまだ営業中ですよね? 今もそうじゃないですか?」  「店番は頼んできました」  「店長がいなくても大丈夫なんですか?」  「料理人とホールスタッフがいれば店は大丈夫ですから」  「そうですか」  聞き取りをしていた陽大のところへ鑑識班が来て、何かを耳打ちした。陽大は小さく頷き、男の方に向き直った。  「あなたがこの部屋に着いた時、鍵はかかっていなかったんですね」  「はい」  「ドアは閉まっていましたか」  「はい、閉まっていました。それはさっき別の刑事さんに言いましたよ」  「確認ですので。ところで伊東さん、チャイムは鳴らしたんですか?」  「チャイム……? それは……鳴らしたと思いますけど」  「本当ですか?」  「気が動転していて、よく覚えていません」  「でも、普通は鳴らしますよね」  「そうですね、きっと鳴らしたと思います」  「いいえ、あなたはチャイムを鳴らしませんでした」  「どうしてわかるんですか」  「先ほどから鑑識があちこちの指紋を採取しているの、わかりますか? そしてあなたも指紋を取られましたよね?」  「ええ」  「調べた結果、玄関のチャイムからあなたの指紋は検出されませんでした」  「……だから何だって言うんですか」  「チャイムも鳴らさずに、どうやって部屋に入るつもりだったんですか?」  「え……?」  いらいらしたように爪を噛んでいた男の手がぴたっと止まった。  「被害者と私的な関係があったのでは?」  「な、何を言ってるんですか」  「続きは署でお伺いしましょう」  「待ってください、私は単なる彼女の雇用主です、今お話した以上のことは知りません!」  「伊東さん」  陽大は男の左手の薬指にはめられた指輪を眺める。  「あなたは他殺と思われる遺体の第一発見者であり、チャイムも鳴らさずにこの部屋に入ろうとしていたんですよ。被害者と私的な関係があり、おそらく合鍵を持っていると考えるのが妥当でしょう」  「持ってません、そんなの持ってるわけないじゃないですか」  「そうじゃないのなら」  陽大は汗をかきながら弁明する伊東の顔を覗き込んだ。  「あなたはこの部屋に鍵がかかっていないと知っていたことになりますよ」  伊東は顔面蒼白になって、そのままへなへなと床に座り込んだ。  問い詰める前に伊東はあっさりと被害者と不倫関係にあったことを認めた。殺人犯にされるよりはマシだと思ったのだろう。妻には言わないでくれと懇願していたが、どのみち壮介がアリバイを確認しに行っている。バレるのは時間の問題だ。  「どうだ」  ひととおり聞き取りが終わった陽大に、相原が聞いてきた。  「アリバイがどうなのかにもよりますが、不利な状況ではありますね。被害者と不倫関係にあり、本人は否定していますがおそらく合鍵を持っていたでしょうし、例えば別れ話のもつれとか動機も十分にありえるでしょう。やったかどうかは別にして、やれる状況にはあったということです」  「おまえはどう思う? あの男が犯人だと思うか?」  「わかりません。何かちぐはぐな感じがするんです。状況を見れば、十分に可能だとは思うんですが……」  そう言いながら、被害者の足の爪と手の爪を確認する。  「このマニキュア、本人が塗ったんでしょうか」  「どういう意味だ」  「あまり綺麗に塗られていない感じがして……マニキュアもたくさん持ってたようですし、よく塗っていたのならもう少し上手に塗るんじゃないかと」  「それが何と関係あるんだ?」  「まだわかりません」  ドレッサーに並べられたたくさんのマニキュアのボトルをひとつひとつ眺める。すべて指紋を採取した跡があるが、ここから伊東の指紋は検出されなかったようだ。  「赤い色のマニキュアがありませんね」  被害者の足と手に塗られている色は赤色だった。  「確かにそうだ。赤いマニキュアだけがなくなっているな」  なぜ、赤い色だけないのだろう。もしかして誰かが彼女に赤いマニキュアを塗り、指紋を取られるのを恐れて持ち去ったのだろうか。  憔悴している伊東の様子を眺めていると、やはり陽大の中で違和感が湧き上がってくる。彼が被害者にマニキュアを塗ったとはなぜか考えにくいのだ。とはいえ、伊東が部屋に入ることができた人間であったことは確かだ。  電話が鳴り、見ると壮介からだった。  「アリバイはどうだった?」  「昨日は夜11時過ぎに帰ってきたらしい。ただ、奥さんもすでに寝ていて、彼が帰ってきた時にいったん目は覚ましたが、はっきりと時間を確認したわけではないそうだ」  「11時過ぎというのは?」  「自分が寝たのが10時半頃で、それから間もなくだったような気がするということと、朝聞いたら11時過ぎに帰ってきたと言っていたからそう思っているようだ」  「どう思う?」  「これだけだとわからないな。もう少し調べないと」  「わかった。これから署に戻るよ」  「今日は徹夜か」  「コーヒー買ってくか」  「頼む」  時計を見ると、9時半を回ったところだった。蒼空のカフェはもう閉まっている。  陽大はなぜか急に蒼空の顔を見たくなった。スマホを確認したが、メッセージの通知はきていない。陽大は思い切って電話をかけた。  俺はなぜ友達に電話するのに、こんなに意を決しなければいけないんだ…?  いや、顔を見るというより、コーヒーを買いたいだけだ。店は閉店時刻を過ぎているが、まだ片付けなどで残っているはずだし、友達にコーヒー二杯を淹れてくれるくらいやってくれるはずだ。  しかし、蒼空は電話に出なかった。  陽大は大きくため息をついて現場を後にした。

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