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第19話 Vanilla Sky
男は苛立っていた。
確かにやり遂げたのに、まったく充実感がない。
最初は偶然だった。たまたま入ったバーはさほど混んでおらず、まだ慣れない様子のバーテンダーが一人でカウンターの中、一生懸命にカクテルを作っている。余裕がないのか、男が薔薇の花束を席に置いて一人で飲んでいても、何も話しかけてこない。
小一時間ほど気持ちよく飲み、店を出て久しぶりに来た道を歩く。一年ぶりに来た街並みは、ずいぶんと店が入れ替わり、先ほどのバーも前回来た時にはなかったはずだ。
車もほとんど通らない夜道を歩いていると、アパートの二階から慌てたように出ていく男の姿が街灯に照らされた。辺りをキョロキョロ伺いながら走っていく。その男が出てきたアパートの部屋を見上げると、電気が消えたまま特に何の動きもない。物盗りだろうか?
静かに階段を昇り、部屋の前に立つ。泥棒だとしたら巻き込まれたら厄介だな。そう思った男は、ハンカチを取り出してドアノブを掴んだ。予想通り、そのままドアが開く。
そっと中を覗くと、窓から差し込む街灯の光で、誰かがベッドの上に横たわっているのが見えた。男はスマホの明かりをつけると、辺りを照らして様子を伺った。ベッドの上にいたのは、太腿のあたりから血を流して倒れている女性だった。
近づいて顔を覗き込むと、微かに息をしていた。救急車を呼ぼうとスマホの画面を出した男は、ふとその手を止めた。苦痛に顔を歪めた女の表情をじっと見つめる。
――もう無理なの
そう言って、苦しそうな表情で自分を見つめる顔。
――あなたとは一緒に暮らせない
彼女は心の病気だったのだ。だから、自分が何を言っているのか、何をしようとしているのか、判断がついていなかったのだ。
――これ以上、近づかないで
だから自分が止めてあげなければいけなかった。
――それ以上近づいたら、自分でこの椅子を蹴って死ぬから
男は縄が吊るされている梁を見上げる。
アンティークな造りが気に入ってこのコンドミニアムを借りたのはおまえなのに、その梁がこんな風に使われるとは思ってもいなかったな。
男はゆっくりと近づく。
――私は本気だから!本当に死んでやる
もう一歩近づく。
――お願い、もう私を解放して
涙を流して懇願する彼女の顔を、男は悲しそうに見つめた。
わかった。そんなに言うなら、俺が解放してやる。
――それ以上近づか……
女が立っていた椅子を、男は片足で蹴り飛ばした。
あの時の、目を見開いてじたばたする女の苦しそうな表情と目の前の女の表情がリンクする。
おまえも、解放してほしいのか。
女が微かなうめき声をあげた。男は手に持っていたハンカチを口の中に詰め込む。そしてクローゼットを開け、かかっていたスカーフを手に取る。そのスカーフで女の両手を縛ると、洗濯物に干してあったストッキングを取り、今度は両足を縛り上げた。縛り終えた男は、その爪のマニキュアがところどころ剥がれているのに気づいた。
あの時、彼女は赤いマニキュアを塗っていた。あなたのせいで心を病んだと叫ぶ女の爪に塗られた赤いマニキュアと白いロープの対比がすごく鮮やかだと男はぼんやり思っていた。
スマホの光をベッドサイドに向けると、ドレッサーに色とりどりのマニキュアの瓶が並べてあった。その中から赤いマニキュアを手に取り、手と足に塗り始める。
徐々に意識を取り戻したのか、女がうめき声をあげながら体をよじる。男は唇に人差し指を当て、静かにするよう言い、マニキュアの瓶をポケットに入れた。
「大動脈が切られている。動くと出血し、命に関わってくるからじっとしていた方がいい。痛みで動くと出血するから縛っただけだ。気にするな。ああ、口は痛みで舌を噛んだら困るから詰めているんだ。救急車が来るまで、動かない方がいい」
部屋の中を見回すと、サイドテーブルに花が飾ってあった。男はその花をすべて抜き取ると、自分が持っていた花束から赤い薔薇を一本取り出し、その花瓶に挿した。
おまえは薔薇が好きだっただろう? だから俺はこうしておまえが去っていった日に、薔薇の花束を買ってくるんだ。この女もおまえと同じだ。懇願するようなあの表情、おまえとそっくりだ。
だから一本、この薔薇をあげていくよ。
男は壁にもたれるように床に腰を下ろした。ベッドの上の女が、痛みに耐えきれず声をあげる。
無駄だよ。どのみち、その傷じゃ助からない。
暗闇の中、女が息絶えるまで男は黙って床に座っていた。
あの日、男の中に封印していたさまざまな記憶が蘇り、それと同時に奥底にしまっていた冷酷な血が目を覚ました。
結果的に、自分はあの女を殺したことになった。次にやるべきことは、自分の足跡を消すことだ。
あの部屋に行く前に寄った若いバーテンダー。
男は標的を定める。
彼を殺した時、男は今まで感じたことのない高揚感に支配されていた。革の手袋越しに自分に扱かれて恍惚の表情を浮かべている美しい少年。彼の懇願は女たちとは違っていた。そして首を絞めたあの感触。
男は自分の家に戻ってきた後、あの感触と少年の表情を思い浮かべながらオナニーをした。あの興奮は今まで感じたことがなかった。
あの高揚感をもう一度感じたかった。しかしそれは危険でもあった。だがどうしてももう一度味わいたい。それには正当な理由が必要だ。自分が見られた人間は他にいなかったか?
赤い薔薇の花束は、自分の部屋に飾っておくために買った。結果的に一本は別の部屋に置いてくることになったが、あの時は店に一人しか店員はいなかった。次の日は慎重に、その店員しかいない時を見計らって訪れ、少年に捧げるためだけにピンクの薔薇を買った。
彼女だ。彼女は自分が薔薇の花束を買うところを見ている。
花屋の店員は誰に対してもにこやかだった。店が閉まり、偶然を装って近づいた自分にもにこやかで、何の疑いも抱かない。
男は言葉巧みに女を誘った。薔薇の花束を買うエピソードに悲しみのエッセンスをプラスして話すと女はひどく同情し、食事の誘いにも、その後の女の部屋で映画を見たいという誘いにもすんなりと乗ってきた。
女の部屋に入った時、彼女はその後に起こるのは甘い官能的な時間だと思っていたはずだ。しかし、残念ながらその時間はこなかった。逆に男は、自分にとっての刺激的な時間になると予想していた。だが、それも裏切られた。
なぜだろう。あの少年の首を絞めた時のような、興奮する感覚がまるでない。女が抵抗したからだろうか。だが、顔を思い切り引っぱたいた後に手足を縛っても、あの時のような高揚感は得られなかった。
あの時、あの少年が女物の下着を身につけながら次第に膨らんでいく股間を見て、男はそれを美しいと思った。ベッドに横たわり、自分にしごかれながら恍惚の表情を浮かべる少年は、本当に美しかった。
息絶えた女の爪にオレンジ色のマニキュアを塗るのも、どこか面倒に思えた。オレンジの薔薇を三本花瓶に挿し、部屋に自分の痕跡が残されていないことを確認し、男は部屋を後にした。
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