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第18話 Vanilla Sky
現場に到着した陽大 は、その光景に思わず目を伏せた。
小さなアパートの一室で、女性がベッドの上に仰向けのまま手足を縛られている。前の二件と同じ、両手は頭の上でまとめて縛られ、足は閉じたままだ。今回はキャミソールではなく、ブラジャーとショーツを着けている状態で、手足の爪に塗られたオレンジ色のマニキュアと、テーブルの上に置かれた花瓶に入った三本のオレンジの薔薇が、これまでの事件現場をフラッシュバックのように思い出させる。
第一発見者の姉が通報した後、駆けつけた警官に状況を説明している途中でショックのあまり倒れてしまい、現場に到着した救急車で病院に運ばれていった。
陽大が着いてから約10分後、険しい表情をした壮介がやってきた。
「瀬那ちゃんを送ってきたか」
「ああ」
鑑識の邪魔にならないよう注意しながら遺体の近くに行く。首に残るどす黒い痕から、今回も扼殺のようだった。被害者の顔を見た陽大は、ふと見覚えがあるような感じがして首を傾げた。
「被害者の身元は?」
「名前は杉浦紬 、23歳女性。Fleur という花屋に勤めていて、この部屋は基本的に一人で暮らしており、姉が時々尋ねてきていたようです。今日はたまたま近くまで来たので寄ってみたところ、応答もなく鍵がかかっていなかったのを不審に思って中に入ったら遺体を発見したということです。姉はスペアキーを持っていました」
「姉の状態は?」
「通報した時もかなり取り乱していましたが、我々が到着して話を聞いていた時にだんだんとパニック状態になり、過呼吸を起こしたので救急車を呼びました」
無理もない。これまでの事件はニュースでもやっているし、ネットでも広まっている。まさか自分の妹がその被害者になってしまうとは思ってもいなかっただろう。
「陽大」
「どうした?」
「フルールって、もしかして蒼空 くんのカフェの向かいの花屋か?」
「えっ?」
そう言われて思い出した。確かにVanilla Skyの向かいの店の名前だ。日常で花を買うことがないため店に入ったことはなかったが、店の前はしょっちゅう通っている。そうだ、彼女だ。たまに店の外に置いてある鉢植えに水をやっていた店員だ。
陽大はこの事件が起きてから初めて、背筋が凍るような感覚を覚えた。
蒼空が身近に接していたであろう人物が殺されたのだ。それは壮介も同様に感じたようだった。
犯人は近くにいる。
陽大は慌てて蒼空に電話をかけた。ちらりと横を見ると、壮介も同じく電話をかけている。
三回のコールの後に蒼空が出た。
「もしもし、蒼空?」
「陽大、どうしたの? もう終わった?」
「いや、まだ……おまえは大丈夫か?」
「え? 俺? 別に大丈夫だけど……何かあった?」
その口調から察するにまだ何も知らないようだった。陽大は一瞬、話すかどうかを躊躇う。自分の店の向かいで働く女性が殺されたのだ。ショックを受けるのは間違いない。
しかし、遅かれ早かれニュースで知ることになる。
「……殺されたのはVanilla Skyの向かいにある花屋の店員だった」
電話の向こうで息を呑む音がした。
「嘘だろ!? 店員って……店長? 店員?」
「店員の方だ」
「嘘だ……」
「蒼空、俺は現場検証が終わったらいったん署に戻るけど、その後おまえんとこに帰るから。いいか、戸締りしっかりして、外には出るな」
「……わかった」
「何かあったら、すぐに電話しろ」
「うん」
「詳しいことは俺が行ってから話す。だからその前に自分で何か調べに行ったりとか、そういうことは絶対にしないでくれ」
「わかってる」
「遅くならないようにするから」
「うん。待ってる」
電話を切り、陽大は大きく息を吐いた。
「何が何でも捕まえてやる」
隣に立った壮介が低い声で呟いた。怒りを押し殺した声だ。
「ああ」
なぜ花屋の店員が殺されたのか。答えは明白だった。
犯人が薔薇を買った店が、被害者が勤めていた花屋だったからだ。防犯カメラの映像には怪しい人物を見つけることはできなかったが、確実に犯人はこの被害者と接触したはずだ。映像には映っていなくても、実際に見た人物がいたのだ。
だとすると、雅人もただの行きずりの相手ではなく、犯人を目撃したから殺されたという仮説も間違いではないかもしれない。
「この店の映像確認は秦 だったよな」
「ああ。もしかしたら、秦がクロとは思わなかったけれど、限りなくクロに近いグレーの人物がいたのかもしれない」
「秦は来てるか?」
「さっき姉に付き添って病院に行ったよ」
「署に戻ってきたら、確認しよう。俺たちもその映像を見ないと」
「そうだな」
陽大は遺体の状態を調べている鑑識のそばへ行った。
「被害者に暴行された痕は?」
「鼻血の痕があるので、顔を殴られたようですね」
「その……レイプされた痕は?」
「しっかり調べないとわかりませんが、今見た限りでは性的暴行の痕は見られません」
その言葉に、陽大は少しだけほっとした。
署に戻って秦と一緒に映像を確認したが、陽大の目にも怪しいと思われる人物はいなかった。
「被害者と話をしたか?」
「しました。でも特に変わった様子はなかったです」
「わかった。サンキュ」
明日直接フルールに行って店長から話を聞くことにし、陽大と壮介は帰ることにした。
「瀬那ちゃんのとこに行くのか?」
「いや……まだそこまでの仲じゃないし。とりあえず、さっきも電話して大丈夫そうだったから、今日はおとなしく家に帰るよ。おまえは? 蒼空くんのとこか?」
「ああ。戻るよ」
「彼がまた何かひらめいたら教えてくれ」
「わかった」
時計を見ると、もうすぐ日付が変わろうとしていた。陽大は急いで蒼空が待つ部屋へと向かった。
蒼空がドアを開けたのと同時に陽大はその腕を掴んで引き寄せ、きつく抱きしめた。陽大の後ろで閉まったドアのオートロックの音が響く。
「大丈夫か?」
蒼空は小さく頷き、陽大の肩にそっと頭をのせた。その髪を陽大が優しく撫でる。心なしか、蒼空の体が震えているような気がした。
「俺がそばにいるから」
「……初めてわかった」
「何が?」
「今まで、陽大の話を聞いて二人でいろんなこと話し合いながら推理して、それが犯人逮捕の役に立てたら嬉しかった。でも、今日初めてわかった。これは映画の中のできごとでも、小説の中の話でもない。実際に苦しくつらい思いをして殺された人がいる。映画ならエンドロールで小さく名前が出てくる脇役かもしれないけど、現実にはその人にも家族がいて友達がいて、自分が主役の人生を送って生きていた人なんだってこと……情けないけど、やっとわかった」
陽大の肩に温かい感触が広がる。背中に回していた蒼空の腕を優しくほどくと、陽大は白い頬に残る涙の跡に口づけた。蒼空は泣き笑いのような表情で陽大を見つめ、彼の額にキスを返した。
清潔なブルーのシーツが敷かれた広いダブルベッドに目を閉じて横たわる蒼空を、陽大はじっと見つめていた。そっと手を伸ばし、指先で長い睫毛に触れる。そのまま手の甲で滑らかな頬を撫でていく。
「……だいぶ前に、何で一人暮らしなのにダブルベッドを買ったのか聞いたことあったよな」
「うん」
目を閉じたまま蒼空が答える。
「あの時、おまえは誰か来て泊まる時のために、わざわざゲスト用のベッドを買うのが面倒だからって言ってた」
「うん」
「ここに、他の誰かが寝たことはあるのか?」
「……」
「俺はおまえのとこに遊びに来てここに寝るたび、おまえの隣に誰が寝たんだろうって考えてた」
「……どうして」
「わからない。ただ何となく、気になったんだと思う」
「今も気になる?」
「……ああ。過去に嫉妬しても仕方ないけど、やっぱり妬ける」
目を閉じたまま、蒼空は小さく微笑んだ。
「……いないよ」
「え?」
「ここに寝た人は、陽大しかいない」
「じゃ、他の友達が来た時は?」
「泊めたことないから」
「……ないのか?」
「うん」
「どうして」
「陽大以外の人と一緒に寝たくなかったから」
蒼空はゆっくり目を開けた。
まるで天使のように美しい。
陽大は本気でそう思った。ゆっくりと腕を伸ばして蒼空を抱き寄せる。腕の中にすっぽりおさめるようにして抱きしめ、柔らかな髪にキスをした。
「変なこと考えてる?」
「おまえに会うたび、いつだって考えてるよ」
「でもしないんだね」
「今日はもう遅いし、俺は明日早いからな」
「今度はいつ泊まりに来る?」
「明日」
「明日?」
「明後日も」
「明後日も?」
「その次の日も」
「毎日ってこと?」
「事件が片付くまで、おまえのとこから通う。毎日顔見ないと、心配だからな」
「過保護すぎ」
「文句言うな」
陽大にはわかっている。抱きしめられた腕の中で、蒼空が嬉しそうに微笑んでいることを。
陽大はもう一度、蒼空の髪にキスをした。
おまえをずっと、こうやって抱きしめていたい。
明日も明後日もその先もずっと……俺はおまえを抱きしめて眠りたい。
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